「十七夜」




「何故だろう?君の言うことを聞いていると、僕の方には君をいまだあきらめきれない気持ちがあるにもかかわらず、なんだかひどく納得させられてしまうんだよ。母親に諭されているような、教師の説教にも似て、物事の正しいあらましを気づかされているみたいで。ひどく抵抗なく受け入れることで、パズルの最後のピースが収まるように、そう、むしろ快感なんだな、僕にとっては、君の論理に自分を従わせることが」
 饒舌だが、うまい言い草だと蓉子は思った。女から言い出した拒絶でも、男の側は女に寄せる未練をにおわせるのが礼儀だと、分かっている大人のやり方だと。
 この人は思ったより、私のことが理解できるのかもしれない。そう思いながらも、蓉子は決別するために椅子から立ち上がった。
「なら、もうお話することはありませんわね。ごきげんよう」
 最後について出た挨拶は、蓉子自身用意していなかった心の領域から飛び出してきたから、喫茶店を出たあとでも蓉子は自分の奥底を何度も見透かして、そのたび見当たらない何かに背中に回りこまれたようで、居心地のわるい思いをしたのだった。
 夕闇せまる灰色の町で、信号がかわるたび、大通りにさしかかるたび。いちいち記憶を反芻させて。まるで自らの行為を咎める追跡者の有無をたしかめるような、うしろめたい気持ちで。
 どんどん暗くなっていく街からは、蓉子に何の視線も返ってこなかった。



 男からの誘いを断ったのは、蓉子にとってはこれで3度目だった。
 高校時代の街角でのナンパまがいや、大学に入ったばかりのころにあった純粋に遊び相手を求めるモーションを含めるならば、だが。
 今回は、間に人をたてての「真剣な」お付き合いの申し込み、ということだったから、さすがに蓉子も愛想笑いで済ますわけにはいかず、きちんと話してみようと思って、呼び出しに応じたのだった。
 蓉子が勉強をかねて週に二度ほど手伝いに来ている法律事務所。そこの顧客であり所長とも個人的つきあいのある30になったばかりの企業家の、しかも所長を通じて来た申し出だったものだから、蓉子としてもむげには出来なかったのである。
 浅黒い細い体で、しかし鷹揚な男性的雰囲気を備えた彼とは、これまで第三者をまじえて何度か食事をした程度。それほど話もした覚えはなく、覚えているのは闊達な声と裏腹な遠慮深い目つきと、背広からかすかに匂った草むらのような湿度ある香りだけ。
『申し訳ありませんが』
 待ち合わせたレストランに出向いて男の前に立ったところで、蓉子は前置きもなくそう言ったのだった。
『うん。うん、まあとりあえず食事にしようじゃないか。ここは海老かいけるんだよ』
『あら、そうなんですか』
 いささかの怯えもなく蓉子の目を見てそう言った男に、なんだか負けん気を起こした蓉子は言われるまま椅子に腰を下ろしたのだった。
 デザートに出た洋梨のアイスクリームの上に、飴の細工で出来た魚の骨のような華奢な冠が乗っかっていたのを、フォークで突き崩しながら、
『藁束みたいですね』
 と呟いた蓉子を、男は奇異なものでも見たかのように、裸の目つきをはじめて向けたのだった。
 そして今、蓉子は夜の街の暗がりを、一人で歩いている。



 太い鉄骨を無理やりビス留めしたような橋のたもとから川べりにつくられた細い道に下りる。都会の重量を断ち割って泳ぐ黒い川のおもてにきらきらした光の飛沫がなびいて、蓉子はいつの間にか中空に浮かんだ月の存在に気づいた。
 2日前、江利子と会った。高校を卒業して以来だったから、半年ちょっとぶりというところ。
 蓉子にとって意外性の見本のようだった彼女。高校卒業寸前に、いきなり10も離れた男性と付き合い始めて周囲を驚かせたりした彼女が、高校時代とほとんど変わりない髪型をめんどくさそうに維持して現れたものだから、蓉子はむしろ虚をつかれた思いで江利子の顔のおもてをまじまじと見たのだった。
 蓉子の視線に照れたのか、問わず次々と語ってくれる彼女の近況の中に、卒業した学び舎のこと、可愛い後輩たち、それぞれの「妹」たちのことが出てくるものだから、蓉子が思わず尋ねると、江利子はさらに照れた様子で、
『そうよ。私ったら、入り浸っているのよ。この前の体育祭のときにも顔を出したし』
『自分でもどうか、と思っているわ』
『こういうのって。蓉子なんか特に、格好わるいって思うでしょう?』
 落ち着いて紅茶をすすった江利子の腰のあたりはゆったりしていて、蓉子に二日後にせまった男との約束について話してみようか、などど思わせたのだったが、
『それでね、聖にも会ったのよ』
 急にいたずらっぽく声をひそめた江利子のさまに、今度は蓉子が少々警戒したのだった。
 江利子はちゃんと知っているのだ。いつからなのかは分からないけれど、蓉子が何を求めて、何を得られなかったのか、ということを。



 会社帰りの手持ち無沙汰を夜風にさらす人々と行き交いながら、蓉子は川べりを下流にむけて歩いた。
 タールのような川面に、白茶けた月がついてくる。
『あの子――ったら』
 江利子はくつくつと笑いながら、高校時代には決してしなかった呼び方で親友のことを呼んだ。
『なんだかね、すっごく女の子らしかったわよ』
『髪なんて短くしてるのにね、なんだか・・・』
『ノート持つ手のね、指とか、あとブーツの足元とか。もうなんか無駄に女の子、なのよ』
『でも、やさしいとこなんてそのまんま。なにも変わってない。変わってないのになんだか色っぽくなっちゃってるからさ、そう――』
 親しい友を気軽に「やさしい」などと言ってのけた江利子に、蓉子はそのとき、茶化してみることしか思いつかなかった。
『円熟の味わい?』
『そうそう!そんな感じなのよ。ロサ・ギガンティア今ここに完成せり、みたいなね』
『今さら?』
『そうよ、今さらね』
 男でもなく女でもなく。そのどちらも、あるいはこの世にあらわれし何者にもなりたくないと、頑なに研ぎ澄まされた彼女の思い出。蓉子の中に息づくそのポートレートを、まるで書き換えてやろうとでもいうのか、江利子の目に映る色は昔と変わっていないようなのに、蓉子はその奥の意図がさっぱりつかめなかった。
 そう、何にもなりたくないという彼女。佐藤聖という友人の心に、蓉子はなりたかったのだった。そしてもし彼女に、蓉子のようになりたいと思わせることができたのなら。蓉子はずっと、そう思って過ごしてきたのだった。絶対にかなわぬことだと誰よりも知ったうえで、だからこそうっとりと、いつまでも続く夢のように。
『でも、未完成だったことが、聖という人間の最大の魅力でしょう』
 蓉子としては、やはり他人行儀の言い方でそれだけ言い返してみることしかできなかった。江利子はもの言いたげな視線を一度蓉子に投げただけで、それには答えず、付き合っている男の娘と会わなければいけない、なんて蓉子にも初耳な話題を持ち出して、テーブルの上に残っていたさまざまの印象を、いちどきに過去に押しやってしまったのであった。



 私は、たぶん間違ってはいない。今日の判断を明日になって取り消したくなるとは思わないし、仮にそう思ったとしたら、それはより正確な道筋がそちらにあったというだけのこと。そうやって決断を積み重ねてゆくことがきっと私にとって生きるということ。まとわりつく寂しさやもの悲しさは、必須のもの。自分で埋めるしかないものだし、今までもうまくやってきたつもり。
 だからたまに不安になる。もし犯している決定的なあやまちの存在に気づいてしまったら、遠い宇宙で新しく星が見つかるように、心の暗がりからひょっこり思いがけない光が届いて私を照らし出したなら。
 耐えられるのだろうか。融通のきかない私の心は、ただ一度の敗北にさえ。
 手すりに背をもたれて振り仰いだ蓉子の真上まで月は来ていた。満月をやや過ぎたいびつな丸みから放たれる光が、届くものすべてに金色の粉を振りかけているような、優しい灰色の夜が、彼方に見える水平線まで続いている。
 どこか遠くで船の汽笛が鳴った。
 大丈夫。きっとまだ、私の人生は始まっていない。
 家路に向かう地下鉄の駅の標識が川の向かいに見えた。手近にかかる橋にむけて、蓉子はパンプスの音高く歩きだした。




<了>

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