チキンライス







 干からびた冬の空でも、かたく絞れば幾ばくかの水気を吐き出すのだろうか。向かいの家の屋根の上に広げた欅の枝には葉のひとつもなく、遠めにも硬質な節々が、しめつけるように押しつつんだ空の末尾。
 墓地の真ん中から生えているということで、玄関から見えるその眺めを、母はいつも厭わしげに見上げるのだが、私にはむしろ、人が木の下で死ねなくなって久しいことの方が、つらく呪わしいことのように思える。
 頼りなげな枝の一本一本を這い登るのは、魂のぬくもりなのか、退色した執念なのか。
「・・いってきます」
 玄関を閉じてからドアに向かってつぶやいて、通りに出て行く。白くかわいた空気に息をはきかけながら歩く。
 あちらこちらに、墓地の欅と同じような裸の枝が突き出ている。アンテナのように、煙突のように、町の区切りに、道の交わりに、目印のように、そびえている。狂った蜘蛛の張った巣のような、微細なきらめきは、進化の枝分かれをしめす毛細血管。春にそなえて息をひそめる肌の下には、物狂おしい水の流れが、今この瞬間にも躍動しているはずだ。
 上へ上へと。
 そして町は動いている。地面と平行に、めまぐるしく、光と色彩をばらまいて、疾走している。
 私も同じように、横へ横へ。
 特に、こんなふうに、鉛色に鈍重な思考をかかえて、学校へいそぐ朝などに、気付けばゆるゆると流れる泥の水泡となって、ただ過ぎていくだけの自分を実感する。
 だから、竿をさすように、無性に、上へ上へと、痛いほど首をねじ向けて、色素の薄い空へと。
 電柱、信号、交通標識。
 欅、ブナ、ポプラ、銀杏。
 息継ぎをする水面は、はるか雲の表にあって、今頃は平安にまどろんで、祝福されていることだろう。
 同じ制服を着た少女たちが通りの向こうに押し出されてくる。
 観念して、歩道橋を渡る。



 わかれた人を、思い出す。
 ねだって買ってもらったお人形のように、こわごわと、両手にのせて包んで、引き出しの奥から連れ出してくる。
 気持ちのかわらないうちにと、おもてに連れ出していく。黒板に向かう教師の目を盗んで、教室の扉を軋まないよう用心して開けて、廊下へ。階段を下りる。
 廊下の道ゆきに、覗き込んでいく教室の眺めは、さながら動物園のよう。数学の授業中の蓉子も、黒板に出て何か書き込んでいる江利子も、私たちには気づかない。階段で出くわしたシスターも、ちらりと首を揺すっただけ。何もない中庭に、無事にたどり着く。
 あたたかく乾いた土を選んで、腰をおろす。
 世界がたちどころに色を喪うよう、ねがいをかけながら、座った彼女のまわりに、赤いチョークで輪を描いていく。まあまあうまく引けたと思うけれど、線と線が出会う結び目がほつれて、それがいつまでもしこりのように頭に残る。
 私は甲斐甲斐しく世話をやく。服を着替えさせ、髪を梳いてあげて、たおやかにうつむく彼女のまわりに、香りをふりまいて、鼻歌まじりに、カスタネットを鳴らして、たわけたダンスをすら、してみせる。彼女の表情は見えない。覗きこむ勇気はない。きれぎれに呼びかけてくる彼女の声に、わざと聞こえない振りで大きく笑って、遠ざかり近づき、時間を忘れて興ずる。充血した肌が疲れを覚えるまで、私は一時も休まない。白いボールにチョコレートを盛って、紅茶のカップにはクローバーの葉を添える。
 わかれた人は豊かな丘のように座っている。私の不真面目さを、透き通った声であげつらう。何がおかしいのか、私は大口で笑うばかり。彼女は指を一本一本折りたたみながら、私のいたらなさをひとつひとつ挙げて、責める。白い指が折りたたまれていくたびに、世界は暗く、暖かくなっていく。私は、また結び目のほつれが気になりはじめる。苛立ちが足元に下りて、膝から下だけがつめたく、感覚を失った足の指で、私はやたらと地面をかきむしる。
 やがて、夜が赤みを帯びるころに、いつものように破綻がくる。なにもかもに満足できなくなって、思考が立ち止まる。わかれた人は人形となって、ベッド代わりのハンカチーフに横たわっている。それを窓から放り出す。足をつかんで、何度も机に叩きつける。体全体にけたたましい鳥の声が立ち込め、蟻の行列のように唇の端からしたたりはじめる。性感にも似た快楽が、刹那背骨をはしり抜け、すぐに感情全体を道づれにどこかへと消える。私は時計を見る。授業が終わるまで、あと7分。
 前の席の生徒の、背中の肉が制服の下で動いた。グラウンドから規則正しい掛け声。
 目をふせて、気持ちを閉じるとき、わかれた人の笑顔が、扉の隙間ににじんで消えた。
 ほんとうに好きな、ひとだった。
 言い訳のように思い出す。それすらも、いつものこと。



 担当区域の視聴覚室の清掃を終えてもどる道すがら、窓の外の並木道を歩くお姉さまの姿が見えた。
 せかせかと早足のお姉さまからは、いつもの女神のような雰囲気が感じられなくて、同級の生徒らしい隣の生徒に向けた笑顔も、私の見覚えに無い幼さをはらんでいて、少し臆病な気持ちで、その背中を見送る。
 鞄をもっていたから、もう帰るところなのだろう。受験シーズンに入った三年生がこの時期、学校に毎日来ることの方がめずらしい。外部の大学を受験する予定のお姉さまも例外ではないのに、考えてみれば昨日も、一昨日も、そのまた前の日も、私はお姉さまに会っている。廊下で、中庭で、ゆったり微笑みながら、声をかけてきてくれた。
「聖」
「ごきげんよう、聖」
「薔薇の館に行きましょう」
 昨日に至っては、そっと肩に触れて、
「どう?今日一日は、楽しかった?」
 悪戯っぽい目つきに、さすがに口をとがらせて見返したことを覚えている。
 だから、今日はじめて見たお姉さまの、細首の美しい瓶のような背中を見送りながら、言葉を交わせない日もあることを、当然と思う。
 私も。お姉さま、そしてあなたも、一人の女の肉体と精神に過ぎないのだから。
 丸みを帯びた瓶の底に、色つきの水をたたえた存在として、そこら中にありふれた、いびつなフラスコ。そんなカタチのものとしてひっくるめて、お姉さまという人に対する今日限りの溜飲を下げようとしてみるけれど、うまくいかない。
 ホームルームの終わった廊下には、別のカタチの瓶が二人で私を待っていた。
 いつになく気負いのない顔つきで、蓉子が近寄ってくる。私の目に目をあわせて、「ごめん」と言う。
「今日はちょっと、家に急いで戻らないといけないの」
 やや上目遣いに私を見る目の奥で、液体が波を立てている。とぽんとぽん。
「ふうん。江利子は?」
 蓉子の後ろで壁にもたれていた江利子が、物憂げに腰を起こす。
「薔薇の館でしょ。行くわよ」
 今日はお姉さまが現れないことがわかっていたから、正直行きたくなかったけれども、背中を向けた江利子に何かかけたい声があって、「じゃあ私も」と口ごもる。
「そう?ありがとう」
 蓉子は廊下の反対側に遠ざかっていく。
 中庭の薔薇の館の二階。生徒会である山百合会の本部で、日暮れまで過ごす。江利子の妹、支倉令と蓉子の妹、小笠原祥子の二人が、小さな声で相談しながら書類を埋めていくのを、見るともなく見ながら、テーブルの下に垂れたテーブルクロスの先を、指先ではさんでいじりつづける。私のお姉さま同様、生徒会長であるところの薔薇さま、江利子と蓉子のお姉さま二人も現れない。「つぼみ」としての蓉子の自覚を思い返し、なかばうんざりと、わざと鋭い目つきで、文庫本を読む江利子の顔にちらちら視線を送る。気付いた江利子がこちらを見る。
「なによ。聖」
「別に。今日一日、楽しかった?」
「なに、それ。別に楽しいことなんかないわよ」
 視界の隅で、わずかに顔をほころばせた支倉令に、性格のいい娘だなあと、思う。



 歩道橋から見おろした夜は、夢で見たように赤茶けていて、遠い地平線に向けて、建物の影を断ち割った幅のひろい道の上を、半ば溶けかかった光をひいて、車の列が連なる。
 魚の腹のような、にぶい銀色の背中を見せて、トラックの長い荷台がすぎていく。歩道橋の下り階段にさしかかり、面したマンションの、ベランダでタバコをふかす男の人と目が合う。
 まばゆい商店街を抜けて、暗がりを求めるように、細い横道にもぐりこみ、街灯を見上げながら歩く。コートの前を開け放していても、二月の夜の空気はどこか生ぬるい。
 街灯と街灯の隙間の空に、かすかに、虫食いの穴のように、星がまたたいて、すぐに見えなくなる。人影のまばらな黒い道の上で、何度も何度も、後ろを振り返って、遠ざかる町の光を見やる。気持ちが細切れになって、蟻のように微細になって、空をゆきかう不吉な予感に耳をふさいで、前のめりに進む。
 わかれた人の、安否を思う。
 現況を、はかなく空想する。手がかりのない推理のように、あてのない行為に、すぐに思考がお手上げする。
 逃げ腰の心を刺激してやろうと、沈んだ頭の片隅で、「きっとまたいつか会える」なんて文句をひねりだす。私が、彼女とわかれてから、過ぎた二ヶ月近い時間は、けれど尺度としてみるなら、永劫の別れなんてものには程遠いものではなかろうか、と。
 私がのめりこみ、求め、切り離されたもの、お姉さまや、蓉子が取り囲み、見おろし、声をかけてきたもの。それは、私たちが手を振り足踏みして演じたことで、背景に浮かび上がった影のようなものにすぎなかったのではないか、と。
 心は起き上がってこない。
 たぶん、ふた親ほどに、蓉子ほどにも知りえなかった彼女の、いったい何処と、何と、私は別れたというのか。別れを告げたものは誰で、立ち去ったのは誰なのか。気持ちの表層で、うわごとのように、問い詰める。粉々になってゆく世界の、幻のような人々の群れの中で、私も彼女も、いったいお互いの何を知りえたというのだろう。
 この特別の、冬の。あの別れの日に、いったい何が、これっぽっちも変わったというのか。どこの誰が、無造作にその証をつまみあげて、私につきつけられるというのだろう。
 意固地になって心の重心にしがみつく私は、ただ一度顔をあげて夜に顔をさらす。
 それでも、別れは現実で、その重みこそが、いとしい人の、唯一の証明。
 彼女の髪の、肌の香りが、夜の空気によみがえって、むせるほどに立ちこめた。
 
 
 
 家にたどりつくと、玄関以外の明かりは消えていて、そういえば友達とコンサートに行くとか、帰りが遅くなるようなことを母親が言っていたことを思い出す。
 制服を部屋において、シャワーを浴びて、肌寒い台所に立って、小さな明かりをひとつだけつける。
 ダイニングのテーブルにラップをかけた皿があって、触れるとほのかに暖かい。
 皿の下にはメモがある。
「聖ちゃんへ。こんなものしか用意できなくてごめんなさい。冷蔵庫にサラダも入っているから、このチキンライスをチンして食べていて。なるたけ早く帰ります。母」
 冷蔵庫をあけて、サラダというものを見つけられず、ミネラルウォーターのペットボトルだけ出して、皿のラップをはがす。顔にはねかえってくる加熱の余韻が、人肌を思わせる。スプーンを握って、口に運ぶ。
 ケチャップの酸味のしみる赤い米の束を、右で噛んで、左で噛んで、喉の奥に放り出す。誰もいないはずの、部屋の暗がりの奥から、ひそやかな視線が流れてくる気がして、前だけ向いて、間断なく、口を動かし続ける。
 夜の庭先を、風の渡る音なのか、慎重な足音のような乾いた音が過ぎていく。
 ミネラルウォーターを一口含んで、ふと思った。これは、チキンライスでいいのだろうか、今私が食べているものは。ケチャップライス、という呼び名もあったような気がする。オムライスの中身、でもいいかもしれない。炊いたご飯と具材を炒めて、ケチャップと塩と胡椒で味付けしただけのもの。母の気に入りなのか、ひょっとして小さな私の好物だったのか、比較的頻繁に食卓にのぼるこの料理の、今さら気づいた曖昧さ。名前をさしかえるたび、胃の中でまさに消化しつつある食べ物が、細かく印象と色とを変えて、体のどこかに吸い込まれていく気がする。オセロの駒のように、めまぐるしくひっくり返りながら、私の血と肉の中でくるくると回る、そんなイメージ。
 スプーンを握りなおして、残りの料理をすくい上げて、口にはこぶ。米の盛り上がりにスプーンを差し込むたび、だんだん広がっていく皿の白い面と、料理の残った部分とが、すっかり同じもののような混乱が、私の中で生じていく。遠く夜の街から、私に向かって、すべてが雪崩てくるようで、なにもかも平べったいとりとめの無さに、沈んでいく。椅子に腰掛けた私だけ、重力から解き放たれたように、世界でただ一つの出っ張りのようになって、自分の意思を無視するように、ただ黙々と、咀嚼する。細かく刻んだ鶏肉や、玉ねぎの皮の、わずかに異なる食感のものに出会うたび、口の中がいらいらする。頬の筋肉が縦に動くたび、私をろ過して濁ったものが、押し出され、あふれ出しそうになり、次のひとすくいを急いで口腔に押し込む。
 やがて、料理をすべて平らげ、コップの水を飲み干しても、理由のわからないかなしみが立ち去るまで、私は身じろぎもせず、そのまま座り続けた。樹が水を吸い上げるように、言葉と音をもとめる力が、野蛮なほど荒れ狂い、荒れ狂い・・・そして当たり前のように、着実な速さで、静まり返っていく。立ち上がって、流しのボウルに皿を浸しにいく。取り戻した心が、新たな名前をさがしに、ふらふらと出かけようとするのを、自覚する。
 自分の部屋に戻って、ベッドに寄りかかってすわって、テレビをつけて、わかったことがあった。
 物を食べる動きは、泣くときのそれに似ている。



 母が帰ってきたのを、寝たふりをしてやりすごし、私はますます言葉に飢えて、落ち着きもせず、部屋の中をうろうろとうろついては、また座り込み、音のないテレビをみつめて、夜の時間の流れを感じる。刻々と進みゆく時計の文字盤の上で、夜はますます純度を増して、細くなっていくようだ。
 夜が細る。夜が細る。まじないのようにくりかえしながら、そのときを待つ。
 時計の針が重なって、紙を折るような、かすかな音がした。
 ひととき、瞼を閉じて、自分の体の器官のたてるノイズに、耳を傾ける。
 一日が過ぎた。また日付が変わって、昨日は昨日となり、過去に積み重なる。
 目を開く。ほっと息を吐き、大きくのびをして、私は机について、頬杖をつき、曇りガラスの窓の向こうの夜に目をこらした。これで、日がまた昇るまでの数時間、穏やかな夜と、何も知らない両親とともに、私は、私だけを握りしめて、格好つけていられることだろう。
 父が帰ってきたらしい、ガレージに車の入る音が聞こえてくる。おそらく、車内で一服するであろう彼が玄関に現れる前に、それで母が起き出してくる前に、コーヒーを淹れてしまおうと、私は廊下に滑り出た。
 どこかずっと遠いところで、電話機が人を呼んで、鳴り響いている。
 



<了>



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