「なあ、ユキチさんや」
「なんだよ小林」
「小生、いささか用を思い出したでござるよ。お先に失礼してよろしいかえ」
「仲間はずれは嫌なんだろ。あきらめろよこうなったら」
 板張りの冷たい感触。祐麒も小林も靴下を脱いで、正座をしていた。磨き抜かれた床の上には、祐麒と小林の落ち着かない顔が落ちている。
 本格的な剣道場というのは、祐麒にとってもはじめての場所だった。中学の体育の授業では柔道を選択したし、花寺の剣道部が使う道場にも、ここまでの重々しい雰囲気はない。
 正面の床の間には古びた兜のようなものが台に置かれ、その上には掛け軸が掛かっていて、判読できないほど崩された漢字が天の龍のように踊っている。振り仰いだ天井の梁も、四方の柱も、煙でいぶしたように黒々として力強く太い。
 片側の戸は中庭にむけてすべて取り外されている。傾きかけた秋の日が落ちる中庭は、くすんだ色の低木がこんもりと茂っているばかり。落ち葉の落ちる音すら聞こえそうなほど、あたりは静かだった。
「なあ、なにがはじまるんだろ?」
 小林の疑問は祐麒の疑問でもあった。ここが剣道場である以上、だいだい想像はつくのだが。
(祐巳のやつ・・・)
『要するに、すっきりしたいんだよね?』
 いきなりお姉さん風を吹かしたあと、祐巳はすぐにそう続け、二人の返事を待たずに電話ボックスにとび込んだ。すぐに喜色をうかべて出てきて、ぐいぐい二人を引いて歩きだしたのだ。
 どこに行くんだ、と聞いている間もなかった。歩くこと2,3分、それこそ信号をひとつ渡って一本狭い通りに入ったくらいのところで、祐巳がにこにこと振り返り、「とうちゃくぅ〜」と言ったから。
 どうやら目的地はとても近いところにあったらしい。門柱をくぐりぬける際に見えた「支倉」の文字に、とりあえずその場所については得心がいった祐麒と小林だったのだけれど、「いらっしゃい」と奥から出てきた人物は、二人の想像していたショートカットの長身の少女ではなかった。
「令ちゃん、祐巳さんたち来たよ」
 奥に向かって声をあげた長い三つ編みの女の子は、確か島津由乃さん。ついこの前の花寺の学祭でも会ったし、祐巳の話にも何度も登場しているから、その意味では戸惑いはない。「支倉」の名字をもつリリアンの黄薔薇さまの実の従妹ということだったし、
(そういや黄薔薇の二人って家族ぐるみのつきあいとかなんとか、祐巳から聞いたような。隣に住んでるとも言ってたっけ・・・?)
 などと記憶をたどり、小林にも説明したりしているうちに、奥からは当の支倉令さんも登場して、祐巳と由乃さんも交えて何か話をしている。おそらく的を得ないのだろう、黄薔薇の二人は困惑――三つ編みの由乃さんにいたってはちょっぴり不愉快そうな表情すらうかべている。いったい何を話してるんだ、姉よ。
 よっぽど話に割って入ろうかと思った祐麒だったが、きちんと「あがれ」と言われないうちに靴を脱ぐのもためらわれて、広い玄関で小林と二人でじっとしていた。正直、昨日のこともあって、祐巳に対してうしろめたい気持ちがあったのも事実。
 そうこうするうちに、やっぱり釈然としない風の令さんが、短い髪をかきあげながらやってきて、「とりあえずあがって」と祐麒たちの前にスリッパを置いた。
「道場に案内してあげてくれるかな」
 その言葉は一瞬誰に向けられたものかわからなかったけれど、明らかに面白くない、といった顔をした由乃さんが二人を振り返って歩き出したから、祐麒と小林はあわてて靴を脱いだのだった。


 
 これは後で聞いたところだけれど、夏前からリリアンで剣道部に入部した由乃さんにとっては、令さんの家の道場というのは特別の場所で、本来門下生にしか許されないこの場所に、ろくすっぽ竹刀も握ったことのないシロウト二人が闖入している、というだけでもかなり面白くないものだったに違いない、
 まして、心臓の手術をするまで激しい運動を禁じられていた彼女にとって、リリアンの姉であり実の従妹である令さんにここで稽古をつけてもらう、というのは星にかけた願いのようにかけがえのないものだった筈で。――断片的にはその辺の事情を祐巳に聞いていた祐麒だったが、そのときは全く思いいたらず、令さんと手分けして面や防具を二人の前にもってきた由乃さんの、憮然たる表情にただひやりとして、「今日はわざわざ、すみません」などと言うのが精一杯だった。
 由乃さんはくっきりした瞳で祐麒の顔を見つめ、すぐに笑い出した。
「ごめんなさい。・・・その、申し訳なさそうな顔がね、あんまり祐巳さんそっくりだったから」
 祐麒は顔をあげて、道場には入らず廊下の柱にたたずんでいる姉の顔を睨みつけてやったけれど、祐巳は「ん?」と首を伸ばすばかり。
「ここは令ちゃんの場所で、令ちゃんの決めたことだから。気にしないで」
 由乃さんは先ほどまでの不満そうな顔とうってかわってさばさばした様子で、神妙に令さんの後ろに控えた。
 その「令ちゃん」であるが。折り目のきれいについた袴に着替えて、姿勢を真っ直ぐ伸ばした様は美しかったが、祐麒たちを見る視線には明らかに迷いがある。
「まだ、話が見えてないんだけどね・・・」
 なんてつぶやいていて、祐麒はなんだか気の毒になった。ひとつため息をついて、
「姉が何を言ったのか。・・・たぶん、モヤモヤしてる男二人、適当に稽古をつけてやればすっきりする、とか言われたのでは?ご迷惑なら・・・」
「ううん、竹刀でびしびし叩いてやれって」
「ゆ、祐巳!?」
「祐巳ちゃん!?」
 さすがに小林も声をあげて、廊下にいた祐巳はひゃあ〜っと頭を抱えた。
「あ、いやそういうことじゃなくってね、その、なんていうか剣道に打ち込んでるときの令さまってなんか違うし、強い目をしてるし、そのあたりが一番正解に近いんじゃないかって、なんとなく・・・」
 顔を赤くして手を振っている。令さんの後ろの由乃さんがくすくす笑っていた。
「よろしくお願いします」
 いきなり横の小林が令さんに向かって頭をさげて、祐麒は驚いた。あの程度の説明で懐柔されたのか、こいつは。突然の豹変ぶりに、令さんも目を丸くしてこちらを見ている。
「おい小林」
「思い切り行ってよろしいんですよね?」
「ええ・・・まあ」
 小林の勢いに気圧されたように、令さんが曖昧にうなずく。
「小林」
「ユキチ。俺はな、復讐してやるつもりだった」
 小林の横顔は存外に真面目だった。いつになく低い声音で小林は続ける。
「ジュリエッタをな、傷つけたヤツのこと。直接なんかしてやろうと思ったわけじゃない。けれど、ぜったい許さない、思い知らしてやるって気持ちを持ち続けて大人になってやろうと思ってた。それが正しいことなんだって。・・・でもな、思い出したんだよ」
「何を」
「頭撫でてるときのジュリエッタの目をさ。――いや、そこに映る俺自身を、かなあ。俺はたぶん好きだったんだ。なーんも考えなしでジュリエッタを可愛がってるときの俺のことが、自分でさ。それって取り戻せるものかわからないけど」
 こいつもここに来ていたのか。祐麒はなんだか顔の赤らむ思いだった。ただ弱弱しさに沈んでいるだけだと思っていた小林の言葉は、意外に祐麒のすぐ近くに沈みこんでいく。かろうじて、言った。
「・・・それが、令さんに闘いをいどむ理由になるのか?」
「いいじゃん。ユキチもやろうぜ。ぜったい勝てないって、俺たちさ」
 言ってることと裏腹に、小林はひどく楽しそうにニカッと笑ってみせた。ぜったい勝てない――その言葉は祐麒にもなんだかひどく魅力的に思えた。
 胸を借りるつもりで。
「二人そろって叩かれるのも、悪くないか」
「駄目よ。ちゃんと一本狙いで来てくれないとね」
 向かいから令さんの声がかかった。やや斜めに腕を組んで笑っている。祐麒たちの会話だけで納得してくれたらしく、むしろ今は楽しそうな顔つきになっている。
「いいわ。お相手しましょう。夕方から門下生の子たちが来るから、あんまり長くはできないけれど」
 さっぱりした顔で立ち上がり、
「由乃、悪いけど面つけるの、手伝ってあげてくれないかな?」
 戸口の傍で、祐巳が勢いよくぴょん!と頭を下げた。



 言い方としておかしいのはわかっているけど、なんだか騙されたような気もする。
 面の奥で荒く息を継ぎながら、祐麒は思った。
 一通り竹刀の振り方などもらっている間は、ひどく和やかな空気が道場には満ちていた。教える令さんも楽しげで、なっちゃいない振りを見せる祐麒や小林のありさまに、場外に引いた由乃さんや祐巳まで笑いころげたりして。
『まあでも、今日のところはチャンバラごっこ、ってことで』
 そう言いながら面をつけたところまでは、令さんも変わらずにこにこしていて。
『でも私だってただの女子高生よ?男二人で同時に、ってのはやめてよ、令さん泣いちゃうかも』
 なんて軽口まじりに向き直った刹那――空気が変わった。
 ――それから二人、かわるがわるに何度打ち込んだことだろう。
「たのもーう!!」
 いや小林、それ掛け声として絶対間違ってるって。――祐麒の内心の突っ込みも露知らず、小林は竹刀を勢いよく振りかぶって何度目かの突撃をしていった。剣道特有の足さばきなんてあったものじゃない、ドタドタと音高く走りこんでいく。令さんが体を動かすともなく、小林の竹刀をかわす。
「おっ、おっ」
 勢いが殺しきれず、小林は妙な声を含んでたたらを踏む。テレビのリピート映像か、と思うほど何度も繰り返された光景が祐麒の眼前に展開していた。もっとも、祐麒の方も小林から見れば、やっぱり衝撃リピート映像何連発、なのかもしれないが。
「次!」
 紙を断つような鋭い声がかかり、あわてて祐麒は竹刀を握りなおした。「声が小さい!!」と何度も言われたくなかったから、ぐっと唾を飲み込み下腹に力を入れる。
「はっ!!」
「はぁいっ!!」
 自分ではかなり大きな声を出したつもりだったけれど、令さんの声は圧倒的だった。音だけで風が起こり、祐麒の体を押し戻すがごとく。これほど違うものか、と今さら祐麒は慄然とした。
 ちら、と見た面の視界の隅に、中庭に面した廊下に立つ由乃さんと祐巳の姿が入った。あくまでも冷静な表情の由乃さんの隣で、祐巳は肘をかたく折り曲げ前かがみになって、必死な形相でこちらを見つめている。
「よそ見しない!」
 鋭く令さんの注意が飛んで、祐麒は動揺した。互いに面をつけているのにどうしてわかったのか。
 うろたえたまま足が前に出た。えい、ままよ!
 斜めに振り下ろして令さんの左の胴を狙うつもりだった祐麒の竹刀が持ち上がったところで、かなりの勢いで前に出掛かった祐麒の体ががっ!と何かに阻まれた。
「え?」
 いつの間に間合いをつめたのか、令さんは祐麒の目の前にいた。組み合わせた小手の両手が祐麒の胸元を押さえている。面の向こうの切れ長の瞳は冷ややかで、祐麒の向こう側を見据えているようだった。
 祐麒とて男。顔が祐巳に似ていると言われようが、男子の中でも格別力のない方ではない。なのに今、全力を足にこめて押しているのに、令さんの体はびくともしなかった。
 と、思っていると逆に押し返される。離れる瞬間、令さんは頭上に竹刀を掲げたが、祐麒は振り上げた竹刀を振り下ろす気力もなく、よたよたとその場を離れるのが精一杯だった。
 ――さらに数合。
 祐麒は今や全身にびっしょり汗をかいていた。そのすべてを吸い込んだかのように防具は重く、息すらも拘束しているかのように呼吸が苦しい。令さんはまだ一度も反撃してきていないというのに、腕も足も、したたか打ち据えられたかのように、厚く腫れぼったい感覚に沈んでいる。
 視界の端で小林が派手にぶっ倒れた。自分の番。必死に呼吸を整え、祐麒は竹刀を持ち上げる。
「どうする?これで最後にしとく?」
 令さんの声がした。息が切れている様子はまったく無い。もはや声も出ず、祐麒は面の下で頷いた。
 せめて一太刀、とは言わないが、少しでも格好のいい振りを――なんて考えて、すぐに祐麒は馬鹿馬鹿しくなった。一度も令さんの体に当てていないじゃないか。ふらついたり倒れかけたり、何度無様なところを祐巳や由乃さんに見せたものか。なにをつまらなく気取る必要がある、自分はただ向かっていけばいいのだ。
 そう思うと楽な気分になった。膝からも力が抜けて、テンポ良く床を踏みしめ、祐麒は最後の一撃に向かった。
「やぁっ!!」
 けれど竹刀をふりあげた瞬間、祐麒の目に意外なものが見えた。たぶんよく見ていなかったのだろう、また祐麒同様体力的な限界に来ていたであろう小林が、祐麒の番であるにもかかわらず、なんだかよくわからない声を発しながら、令さんにむかって行ったのだ。
 挟み撃ちのような形になる。
「あっ!」
 由乃さんの声が聞こえた。祐麒自身自分にストップをかけようとしたが、疲れきった腕には振り下ろした竹刀の重みを食い止める余力が残されていない。
 令さんが動いた。
 左から振り上げ気味に持ち込んだ竹刀の腹が、見事に祐麒の竹刀を受け流す。祐麒の竹刀の先端が大きな音をたてて床をはじいた。竹刀を振りぬいた勢いで令さんが体を半回転させると、同じく竹刀で床を叩いた小林に向かい合う形となる。
「面!」
 乾いた音が道場に響いた。



「おつかれさま」
 面を外した3人に、由乃さんがタオルを渡してまわる。「ありがとう」の祐麒の声に、由乃さんはにっこり微笑んで、
「どういたしまして。今お茶持ってくるから」
 と言って、渡り廊下に出て行った。
 座り込んだ祐麒と小林の傍に、祐巳がとてとてと駆けてきた。「大丈夫?」と言いたげなのを制して、小林と目配せし、姿勢を正す。
「まいりました!!」
 そろって手をついて、頭を下げた。令さんはちょっと額に浮かんだ汗をタオルでぬぐいながら、照れくさそうに笑った。頬に血色がのぼったその顔は、学園祭のときにも見たことのない、いきいきとして美しいものだった。
「・・・父がね」
「はい」
「男なのよ」
「それはそうでしょうねえ」
 なんだか間のぬけた令さんの発言に、小林は素で応じた。たぶん疲れきっていて気づいていないのだろう。
 令さんも自分の発言のおかしさに気づいたようで、頭をかきながら、
「男の中の男ってこと」
「はあ」
 正座した祐麒の後ろに回った祐巳が、うー、とか言いながら胴を外してくれようとしている。
「基本的にワンマンで、娘や奥さんの言うことを聞いてくれないのよ。だからね、もし私が、父に何か意見しようと思ったなら、きっとこうするだろうって、自分でも思っていたの」
「道場に招いて、剣をまじえることで、ということですか」
「そう。・・・んー、なんていうのかな」
 祐麒の言葉にまた髪をかきあげた令さん、
「だから、男の子に面とむかって意見するなら、この方法がいいんじゃないかって、そう思ったから。――何といっても、私もまだ男の子って免疫ないのよね、こう見えてもさ」
 あさっての方向を向いて苦笑いした令さんの頬は少し赤くて、祐麒が見てもとても可愛いものだった。
 と、そこで、
「素敵ですっ!」
 いきなり大声を出して立ち上がったのは小林。さっきまでグロッキー寸前だったとは思えない勢いでつかつかと令さんの方に歩み寄る。
 先に気づいたのは祐巳だった。祐麒の後ろで「小林・・・くん」とつぶやいたまま青い顔をしている。
「あ。よせ、小林」
 祐巳の見ているものにすぐに祐麒も気づき、手を伸ばして小林の制服の裾をつかもうとしたけれど、指先がむなしく空を切る。祐麒の声も小林には届いていない。息を大きく吸って、
「支倉さん、凄くかっこいいし凄く可愛いです!!よろしければお友達から」
「な・ん・で・す・って・ぇ?」
 それは、地獄の釜の底をたきつける火のように熱を帯びた声だった。お茶の入ったグラスを載せたお盆を持ったまま、令さんの後ろで硬直した由乃さんの目は、さっき面の中で向かいあった令さんのそれをも上回る強烈な光を放っていて。
 その後。
 竹刀を振り回して小林を追いかけまわす由乃さんを止めるのに、令さんは祐麒や祐巳を加えて3人もの手を必要としたのだった。



 大通りの手前で小林と別れた。花寺に戻る坂道を、夕日に照らされた小林の細い体がひょこひょことせり上がっていく。
「大丈夫なのかね、あいつは」
「大丈夫だよ、由乃さんきっともう怒ってないって」
 あいつの体が大丈夫なのか、と言ったんだが。そう思いながら、祐麒もすでにあちこち痛み出している体の端はしをうーんと伸ばした。明日の筋肉の惨状が今から目にうかぶようだ。
 支倉の家を退出するとき、由乃さんは確かにもう笑っていたけれど。後ろに立つ令さんの笑顔が微妙に引きつっていたような気がするのは考えすぎだろうか。今頃いろいろ問い詰められたり確認されたりしているのかもしれない。
「楽しかったね」
 M駅に向かうバスに乗り込んで、並んで椅子にかけたとき、祐巳がにこにこして祐麒に言った。「まあね」と返事をして見ると、祐巳はもうこちらを見ていない。それきり二人とも押し黙り、人気のないバスに揺られていった。
 M駅でバスを乗り換え、家に近いバス停で降り、ゆるやかに宵闇がかぶさってきた空気の中にバスの赤いテールランプを見送ったとき、ようやく祐麒の背で姉の声がした。
「・・・正直言うとね」
 祐麒は振り返らずうなずいた。
「私、祐麒には泣いてもらいたかったんだ」
「いや、いくら令さんに竹刀でぶたれたからってさ。そのくらいじゃ泣かないって」
「うん。そうじゃなくってね。泣きたいなら泣けばすっきりするのに、とか思ってたのはそうなんだけど」
 何か考えてるふうだったから、祐麒は祐巳に向き直って、鞄だけバス停のベンチに載せた。
「令さまの道場で最後、祐麒たちが床に頭つけて『まいりましたー』ってやったでしょ?あのとき思ったの。私の見たかったものって、これだったのかなあ、って」
 祐巳が顔を上げて祐麒に笑いかけた。いつになく表情のないその笑いに、祐麒は少し緊張する。
「祐麒っていろいろ考えてるんだなあってつくづく思ったよ。お昼にね、祐麒の話聞いたときには、私ほんとのところなんで祐麒がイライラしてたのか、実のところよくわかってなかったから。・・・私、それからずーっと考えてた」
「うん」
「確かに、令さまと剣道やって、それで何かすっきりしてくれれば、と思ってたはずだった。でもね、『まいりましたー』をやった祐麒を見て、私なんだかすごく気持ちがよくなって。・・・そしたら、祐麒の話してたこと、ひとつひとつ思い出してね。今日あれだけ祐麒が謝ってくれたのに、私は祐麒を許していなかったのかもしれない。どうしても力づくでも、祐麒のこと屈服させなきゃ気がすまなかったんじゃないかって。だから令さまのところに連れていったんじゃないかって」
 うつむいた祐巳は一気にそれだけ言った。
「祐巳。もういいよ」
「卒業した先輩がね、私のこと、よく子供みたいだとか、ぬいぐるみみたいだとかって、抱きしめてくれたの。・・・でもこんなの、違うよね、私知らなかった。こんな、私――」
 祐巳の肩は少し震えているように見えた。
 鞄から手を離した祐麒は、ちょっとだけ勇気を出すことにした。
「ゆーみ」
 両手を大きく広げて、それから本当におそるおそる、祐麒は祐巳の体を引き寄せた。
「ゆゆゆゆ祐麒!?なにするの」
 さすがに祐巳もびっくりしたらしい。軽く身をよじろうとしたから、
「なにって。・・・泣きそうになった弟がお姉ちゃんの胸に顔をうずめている図。ま、さすがにセクハラになるからそこまではやんないけど」
「うー。人に見られちゃうじゃない」
 耳まで赤くした祐巳はそれでも、祐麒の腕の中でおとなしくしていた。
 すぐに体を離し、祐麒は祐巳の分も鞄を手にした。
「帰ろう」
「うん」
「大丈夫、お父さんもお母さんもいる。・・・俺たち、まだ子供だよ」
 祐巳の足音が後ろから聞こえる。植木屋の造園の向こうに、福沢家の角ばったフォルムが見えてきた。
「祐巳」
「うん?」
「ごめんな」
 祐麒たちの乗った次のバスがもう来て、バス停には止まらずに、交差点に集う車の光の中に消えていった。



                                            <了>

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