空を支える巨人のような優しい腕でありたかった。
 卑小な私の心は、ふくらむ肉体の内側で、青くうつむいていくばかりだったから。




「LITTLE WING」




 風の強い午後だった。薔薇の館の閉め切った窓からみえる木々の枝も、びょうびょうと音をたてて大きくしなり、秋の半ばというのに、あれでは色づく前に葉がすべて落ちてしまうのでは、と頬杖の上で私は思う。視界の端を、何か白いものがつるりと横切って、硬い音をたてて床に落ちた。
「うーん。あまり飛ばないなあ」
 独り言のように言って紙ヒコーキをつまみあげたのは、祐巳さま。 祥子さまが中座したその隙に、いらないプリントか何かでこしらえたものらしい。ちらと目をあげて見たけれど、紙ヒコーキを持ち上げ片目をつぶってしげしげと観察している祐巳さまは、私の視線に気づいた様子もなかった。
 放課後。いつものように薔薇の館に集まった私たち。体育祭で祐巳さまとの賭けに負けて、学園祭まで山百合会の手伝いをすることになった私が少し遅れて顔を出すと、ビスケット扉のところでちょうど出てきた松平瞳子と鉢合わせた。「今日はすること、ありませんことよ」上目遣いに言い捨てて階段を下りてゆく彼女と入れ替わりに部屋に入る。松平瞳子は嫌な顔をするときも大げさで芝居がかっているから、私は意地でも無表情にならざるを得ない。
 手ずからお茶を入れてくれた祐巳さまの話では、本来今日来るはずだった部活の報告書が来週に延びたせいで、つくる予定だったプリントにとりかかれなくなったらしい。ならばお開きにしてもよかったのだろうけど、折から強まった風の音に窓を見た紅薔薇さま――祥子さまの「ひどい天気になってきたわね」の一言に、なんとなく皆椅子に落ち着いてしまった。
「台風が来てるらしいですよ。ちょうどこの時間くらいかな、南の海上を通過中だとか」
「そういえばそうだったかしらね。なら、もうちょっとすれば風も弱まるかしら」
 乃梨子さんの説明に白薔薇さまがかぶせて、もう二人とも宿題をひろげて、額をくっつけるようにして仲良く始めた。大判の編み物の本を広げた黄薔薇さまの横から、由乃さまが一方的に何か話しかけている。祐巳さまは、と見ると隣の祥子さまと目が合ったから、私はすぐ手元のティーカップに目を落とす。私のことを分かっていない祥子さまを私は恐れていないけれど、けれどあの目はやはり強い。まだ慣れない。演劇部に向かった松平瞳子のように退出すればよかったのだけど、タイミングを逸した私は居心地悪く黙っているばかりだったから、祥子さまが席を外したときはちょっとほっとしたのだった。
「祐巳ちゃん、それじゃ駄目だよ。そもそも折り方があまい」
 紙ヒコーキに反応したのは黄薔薇さま。自分もどこからか紙を出してきて、やっぱり折り紙の方が、とか言いながらてきぱきと折っていく。白薔薇姉妹も顔をあげて見つめる中、折り目の美しい翼をつくりあげ、かざして投げる。祐巳さまのものより3倍くらいの距離をふわりと飛んだその成果に、それでも黄薔薇さまは不満そうだった。
「ありゃ?うまくいかない。昔はもっと――」
「お姉さま、私にやらせてください」
 由乃さんが待ちかねたように椅子から身を乗り出して手を差し出した。祐巳さまは、といえば戸棚をあけてごそごそして、「メモ用」と書いた箱から紙の束を持ち出し、一番上の一枚をにこにこしながら白薔薇姉妹に突きつけて、「志摩子さんたちも折ってみてよ」と無理やりノートの上に置いてしまった。怪訝そうな乃梨子さんとちょっと微笑んだ白薔薇さまが顔を見合わせる。そこで気づいた。祐巳さまが私を見ている。
「可南子ちゃんも、ね?」
 私に紙を差し出した祐巳さまの表情に、白薔薇姉妹に対した強引さはない。
「いいえ。見ている方が面白そうですから」
 うまく断れたと思う。「そう?」と手を引いた祐巳さまに瞳に、こちらを窺うようなふうは無かったから。
 いつの間にやら楽しげに白薔薇さまも紙を折っている。それでも、紙ヒコーキは初体験らしくて、少し折っては乃梨子さんの手といったりきたり。出来上がったそれを「乃梨子が」と促されて照れくさそうに立ち上がった乃梨子さんにあわせて、嬉しそうな祐巳さまと闘志まんまんな笑みをうかべた由乃さんとでつぼみ三人が並んだ。最近気づいたけれど、ここにいるときの乃梨子さんは教室にいるときよりずっと表情が豊かだ。
「いち、にの、さんっ!」
 黄薔薇さまの掛け声で3機の紙ヒコーキがつぼみたちの手を離れた――と同時に、ビスケット扉がさっと開き、風で髪を乱された様子の紅薔薇さまが入ってこられ、その目の前を、紙ヒコーキがきりきり舞いをして落ちていく。
「・・・何してるの!あなた達!」
「う。お姉さま・・・ごめんなさい」
 まるで怒られるためのように祥子さまの前に駆け寄った祐巳さまの後ろから、
「そうなのよー。祥子からも祐巳ちゃんに言ってやってよ」
 のどかな調子で黄薔薇さまが声をかけ、祐巳さまと祥子さまが同時にえ?とそちらを見た。
「なによ。令」
「だって」と床を指し、黄薔薇さまはややわざとらしい身振りで、「祐巳ちゃんの紙ヒコーキ、全然飛ばないんだもん。競いがいがないってものよ。祥子、あなたの指導が足りないんじゃない?」
「なに言ってるのよ。そんな、紙ヒコーキごときで」
「紅薔薇最下位よ。いいの?」
 ――そして祥子さまは青筋をうかべたまま、今や折り紙に格闘している。予想できたけれどやはり紙ヒコーキなど作ったこともないらしく、横から祐巳さまが口を出そうとしてはためらっているのが明らか。リリアン生徒でその名を知らない者はいない小笠原祥子さま――紅薔薇さまが、こういった人間くさい一面のある人だとは、これもここに来るようになって知ったことだ。
 それを言うなら黄薔薇さまも白薔薇さまも、なんだか思っていた人物像とはちょっとずつ異なるような気がする。黄薔薇のつぼみの由乃さまも、乃梨子さんから聞いていたよりも輪をかけて元気な人のようだし。私の予想や予断というものは、これほどまであてにならないものだったのだろうか。この半月ほどの間に、私の世界は急速に輪郭を失った。よいことなのか逆なのか、それもわからない。
 祥子さまに集中しているのをよいことに、私は今度は無遠慮に祐巳さまを眺めた。すべてはたぶん、この人のせいなのだ。
「今度は三薔薇で投げようか。――祥子?できた?」
「ふん。こんな子供っぽいこと、これきりですからね」
 紅薔薇、黄薔薇と顔を見合わせて立ったところに、白薔薇さまも並んで。
 今度は一人一人投げた。順位は変わらず、紅薔薇の紙ヒコーキはつむじを巻いて祥子さまの足元に落ちる。
「祥子、力入れすぎなんじゃないの?」
「うるさいわね令、だいたいあなたと私じゃ背の高さが違うのだから、そもそも不公平なのよ」
「あら。だったら志摩子はどうするのよ、祥子より小さいじゃない」
 二人が言い争っている間に祥子さまの紙ヒコーキをひろいあげた祐巳さまが、ちら、と私に目をやった。しばし考え込むように、頭上の言い合いがおさまるのを待っているようだったが、
「じゃあ、こうしましょう、公平を期して第三者に発射台をつとめてもらって、もうひと勝負」
「え?」
 祐巳さまの提案に、一瞬だけ戸惑った面々が、いっせいに私を見る。
「可南子ちゃん!」
 やれやれと、私は立ち上がった。



 薔薇の館を一歩出ると、中庭には風の運んできた新鮮な香りがたちこめていた。水気をはらんだ生々しい匂い。風に雨が混じった時間帯もあったらしく、地面にばらまかれた折れた小枝や、吹き散らされた木の葉はみなしっとりと濡れていた。今は風の音もしない。
「だいぶ風、おさまったねー」
 さらさらと足音をたてて、私の前を祐巳さまが歩いていく。
 見上げた空は雲がはやい。はるか南の海上を旅する台風に呼ばれるのか押されるのか、波頭のような雲の塊が、それこそ泡のように刻々とかたちを変えながら、空を自在に横切っていく。厚い雲にたまに切れ目ができて、一瞬だけ秋のするどい日の光が地面を照らし、幻のようにまた立ち去っていく。対照的に風のない地上から見た空は、水の世界を描いた絵画のようだ。
 祐巳さまが私を見た。笑いかけている。
「えへへ。楽しかったね」
「・・・疲れました」
 心底から私はそう言った。「発射台」の役目は一度きりでは終わらず、「いかにして長く、遠くまで飛ばすか」ということに祥子さまを筆頭にみんな夢中になってしまったから、その後少なくとも30分あまり、私はさまざまなカタチの紙ヒコーキを何機も何機も、指でつまんで放り投げる役目を果たす羽目になったのだった。
 翼の端を折ってみたり、切れ目をいれてみたり、先端の部分を折り返してみたり、おもりを仕込んでみたり。――憧れの山百合会幹部たちが、薔薇の館でそんなことに没頭しているなんて、まばらに行き交う生徒たちは想像すらしないだろう。そして私は、投げるたびに集中する皆の視線が苦痛で、ことさら楽しくもなく嫌でもないフリをしようと努力していたものだから、祥子さまお手製の鋭角的な機体が本日最高記録をたたき出し、満足げな祥子さまが祐巳さまの手をとって喜ぶころには、激しい運動でもしたかのようにくたくたになってしまっていた。
 風もおさまってきたようですし、お先に失礼させていただきます。――部屋を出た私に、階段のところで祐巳さまが追いついてきて「私ももう帰るから。可南子ちゃん、一緒しよう」。
「紅薔薇さまは」
「お姉さま、また何か令さまとお話があるみたいで。今日は先に帰りなさいって」
 そう言った祐巳さまの手には今、紙ヒコーキが握られている。祐巳さまとひとしきり相談した祥子さまが、基本に忠実であれと、ひどく慎重に折った形は、見事に美しい三角形。投げた私が驚いたほど飛んだそれは、祥子さまと祐巳さまの絆のひとつには違いなかった。にまにまとそれを目の位置にかざして相好を崩していた祐巳さまが、私の返事にはたと顔をあげて見上げてくる。
「ごめんね可南子ちゃん。嫌だった?」
 祐巳さまといると、私の中で何か壊れる瞬間があるような気がする。それはたとえば、こんなふうに謝られたとき。
「いいえ。なんだか疲れただけです。立ちっぱなしだったからでしょうか」
「うん。そうだね、なんだか盛り上がっちゃって。可南子ちゃんにはちょうどいい役目かなあって、思ったんだけど・・・」
「いえ。『発射台』としてはこれ以上ないほど適任ですからね」
 皮肉な調子は込めなかったけれど、祐巳さまには伝わってしまったらしい。
「あ・・・ごめん。そういうつもりはなかったんだけれど・・・」
「祐巳さまも、たまには」
 私の身長のこと気味悪く思ったりなさるでしょう?そう言いかけてやめたのは、祐巳さまがうつむいてしまったからなのかどうか、自分でもわからない。中2の終わりには170センチを越えた私の身体は、言葉より無遠慮な視線を数え切れないほど覚えている。リリアンの取り澄ました生徒たち、礼儀と躾と、常識の向こうから漏れてくる、好奇と違和感。いちいち傷つくわけではない。けれど、私は気がついてしまうのだ。私を見るともないその目線は、否応なく私の奥底の、昏い感情に結びつく。
 ふと松平瞳子の縦ロールの背中が浮かんだ。彼女の私に対する敵意は、むしろわざわざ割り増ししているかのような疑わしさはあるけれど、こうやって傍にいないときなら、すがすがしく感じることもある。少なくとも今の私の周りでは、もっとも輪郭のはっきりした人物だ。
 祐巳さまは黙って歩いている。「百面相」と彼女のことを称する人もいるらしいが、私にとっては祐巳さまは、しばしばつかみどころのない人になる。近頃、特にそうだ。両の手に押し戴くように祐巳さまを愛おしんでいたころにも、思い通りにならない祐巳さまから遠ざかったときにも感じなかった困惑。そう、私は祐巳さまで楽しんでいた。気持ちは真面目だったけれど、祐巳さまは私にとってそれだけの存在だったはず。なのに、手のひらからこぼれそうになる祐巳さまに、私のイメージではいられないと言った祐巳さまの前で、なぜ私は泣いてしまったのだろう。
 わからないことだらけ。祐巳さまを焦点にした世界は、常に私に不安を強制する。こうして私のことを見上げてくれていないときには、ことさらそれが強くなる。薄暗がりの中で、どのくらい歩けば人の心にたどりつけるのだろうか。祐巳さまの背にかけるべきは、指なのか言葉なのか。マリア像の手前で、私はほとんど立ち止まってしまいそうになった。
「あっ」
 唐突に強い風が、見えない壁のように押し寄せて去った。声をあげた祐巳さまが呆然と口元に手をあてている。それは、祥子さまの紙ヒコーキを持っていた方の手だった。
「どこに?」
 私の問いに、祐巳さまが銀杏の手前に植えられた痩せた低木に駆け寄っていく。精一杯手を伸ばした30センチばかり先の黒々とした枝葉の中に、突き刺さるように紙ヒコーキが捕らわれている。幹に手をかけて祐巳さまは軽くジャンプしたけれど、指先はかすりもしなかった。私を振り返った祐巳さまは苦笑いをしていた。
「揺らしてみます?」
「ん・・・いいよ、しょうがない。もうバス来ちゃうしさ」
 言いながらちょこっと紙ヒコーキを見やった祐巳さまの瞳は、はっきりと悲しそうだったから、私は何の躊躇もなく細っこい木の根元に歩いていった。
「可南子ちゃん?もういいから」
 祐巳さまの声には応えず、私は腕を伸ばして頭の上を探った。少しの労もなくあっさりと紙の感触が指に触れたものだから、、私はかすかに腹を立てたのだった。



 早足で校門を出て、ちょうどバス停に走りこんできたバスにあわただしく乗り込み、二人がけの座席に祐巳さまと座る。時間も遅くなっていたから、一緒に乗り込んだリリアンの生徒は数人だけだった。
 ・・・紙ヒコーキを私の手から受け取り、祐巳さまは小さく「ありがとう」と言った。それから鞄をあけて紙ヒコーキを差し込んで閉じてからもう一度はっきりと「ありがとう、可南子ちゃん」と私の目を見たのだった。
 ガラガラの座席で、バスが軽快に走り出す。私はすっきりした気分だった。薔薇の館からずっと続いていた緊張みたいなものがほぐれていたのは、祐巳さまが感謝してくれたからなのか。隣の祐巳さまが二言三言話しかけてきたあたりで記憶の消息がぼんやりしているのは、バスの中がぽかぽかしていたからだけではないのかもしれない。
 いきなりぱちっ!と目があいた。いや、覚めたのだ。ちょっとあいだ眠ってしまったのだ、と気づいた私の視界は傾いでいる。ぐらぐらと不安定に体重を預けている感覚を一瞬私は掴みかねてわずかに身じろぎしたのだが、
「あ、可南子ちゃん。起きた?」
 右の頬あたりから伝わるもぞもぞとした動き。斜め下から聞こえてきた声に、私は意識を完全に取り戻した。
「祐巳さまっ」
 斜めにした体を、全面的に私は祐巳さまに預けて眠っていたのだ。身長差があるものだから祐巳さまの頭の上からのしかかるみたいに寄りかかって、頬を祐巳さまのこめかみあたりに、押しのけるみたいに肩で祐巳さまの頭を押しこみながら。あまつさえ私の長い髪は恥知らずにとぐろを巻き、祐巳さまの髪や顔の上にも滝のように落ちかかって、祐巳さまの左の目や口元を容赦なく覆いつくして堂々としている。
「ご、ごめんなさい・・・」
 ほとんど声にならず、私は頭をもたげたのだが、思いがけず祐巳さまが私の腕をとらえて強く引いたから、たいして変わらない位置で動けなくなってしまった。
「ダメ。こうしていなさい」
 口調まで力強い。
「でも、祐巳さま」
「いいの。――本当に疲れちゃってたんだね。それって、私にも責任があることだから」
「でも、こんな・・・噂になってもよろしいんですか」
「誰も見ていないよ。ほら、いいから体重かけて。あ、そうか」
 祐巳さまは私と祐巳さまの顔の間に左手を突っ込むと、私が頭を持たせかけている側の自分の髪に手をやり、束ねているリボンをためらいなく解いて抜きとった。そしてさっきよりやさしく、私を引き寄せる。
「私のつんつん髪の毛じゃ、顔に当たると痛いよね。これでいいでしょ。・・・なんか道が渋滞してるみたい。私もちょっと寝ようかな」
「祐巳さま」
 寝られないでしょう、あなたの方には私の重みがかかっているのだから――。言葉にはできなかった。それどころかもう祐巳さまの顔も見られない。熱っぽい霧が意識に立ち昇ってくる。不安が昂奮と乗じて、私の胸をわしづかみにしてぐいぐい締める。祐巳さまとの距離がまた見えない。でも今は、ゼロに等しい距離にいる祐巳さまのことを。ただその身体のぬくもりだけを感じていればいいのかもしれない。・・・そんなことを考えたところで動悸は鎮まらず、自分の手や足がどこにあるのかも感じられなくなってくる。絶対顔も真っ赤だ。少なくとも、もう一度眠るなんてことできるはずもない。
 必死に目を動かして窓の外を見る。信号でもないのにバスは止まり、どうやらエンジンも止めているようだ。渋滞というのはほんとうらしい。 
 祐巳さまの呼吸が聞こえてくる。やはり身体を起こさないと、と思いつつ、もはや指一本すら自分の意思で動かせる気がしない。なんだか母親の胸で不安にくれる子供みたいに、せつなさにほとんど泣きそうになりながら、私は唇を一文字に引き結んで、起き上がってくる感情にじっと耐えていた。

 
 

                                                                     

<了>


戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送