「居所の悪い虫」






 流れない汗は、重く肌をつつんで、体の熱を閉じ込める。

 梅雨明けの遅い夏は暑くなるとか、誰に聞いたのだろう。灼けた石を投げ込んで蓋を閉めたような、行き場のない熱気のただよう午後だった。薔薇の館の、四方開け放した窓から見える空は、彼方までうすく低い雲に覆われ、干した洗濯物のように音もなくぶら下がったカーテンにうつる木々の影は、風のないことを示して微動だにしない。
 放課後の早い時間に、黄薔薇の姉妹三人が集まって、それきり誰もやってこない。紅と白の両薔薇さまたち、なにか都合でもあったかしらと思いながら、空になったカップを手に集め、令は立ち上がった。
 課題らしいプリントに目を落としていた由乃が、その前のカップをつまみあげた手にそって、ちらっと令の目を見た。江利子さまはといえば、職員室に提出する堅苦しい報告書に目を通す作業を早々に放り出し、文庫本を開いてのんびりページを繰っている。
(今日はもう、お開きにしてもよいのだろうけど)
 カップの底の滓を流しながら、令はそう思ったものの、すでに一時間近く続いた沈黙に、とどめをさす勇気を起こせずに、ポットの茶葉を取り替える。新しい湯を満たし、テーブルに戻ろうとする令の頭のすぐ横を、かすかな金切り音をたてて、何かが行き過ぎた。
(あら?)
 自分の席にもどると、そこには珍しい客が、令を待っていた。
 正式にはなんという虫なのだろう。テーブルに広げていた令のノートの右半面に着陸したばかりらしい消しゴムくらいの大きさの生き物は、拙い飛行の後始末なのか、背中のかたい殻をせわしなく動かして、はみ出た透明な羽根を押し込もうとしていた。
(コガネムシとか、カナブンとか。そういうたぐいのものだっけ?)
 令は、虫には詳しくない。そして苦手でもあった。中等部のころだったか、お風呂場に出たバッタのような虫に、悲鳴をあげて服も着ずに廊下まで飛び出したこともある。背の高い外見が災いしてか、教室に迷い込んだ虫を追い出す作業などのお鉢がまわってくることもしばしばで、そういう時は我慢してやるものの、とても直接触ったりはできない。父の退治したゴキブリの始末は、ティッシュ10枚重ねが基本。息遣いとか、感触とか、およそ人間の感覚を遠く離れたような存在が、こちらの意思と無関係に、いきなり走り出したり、飛んだりする。悪ふざけのような唐突さに、いつまで経っても慣れない。
(由乃は、もうちょっと平気なんだよね)
 枕元に出た虫などを、顔色ひとつ変えず窓から放り出したりする従妹は、変わらず手元に目を落としたままで、向かいの江利子さまともども、令の「珍客」に気づいた様子もなかった。
(困ったな)
 自力でなんとかするしかない。ノートごと窓際に運んで、放り出すか。――とりあえず、カップとポットをおろし、椅子にそぅっとすべりこむ。刺激したくなかったからだけど、虫は気づいた様子もなく、白い紙の上に硬質な手足を踏ん張っている。どんぐりのようにつやのある背中の下で、ふっくらとしたお腹がかすかに動いていて、虫の健康な生存を伝えていた。
(長いこと飛んで、疲れちゃったのかな)
 そう思うと、なんとなく抵抗感が薄れて、令は手近のシャーペンをとりあげた。ノートにうつぶせた虫の、体についた取っ手のような小さな頭にむけて、そろりそろりと下ろしてみる。
 シャーペンの先がまだ遠いところで、気づいたらしい平べったい頭が持ち上がる。黒く小さな、魚の卵のような瞳の脇で、先の曲がったひげのようなのをふりふりしつつ、ひっかかりの少ない紙の上をもがくように、虫は歩き出した。逃げ出すのかなと思って見ていると、ふかい色合いの、固く引き締まった玉石のように輝く体が、不恰好に向きを変えて、令のシャーペンの先に向き直った様子は、子犬のように穏やかだった。触れそうに近づいたシャーペンの先端の三角形に、つつましい動きで、小さく二つに分かれた鉤爪のついた前足が持ち上がる。
 ばんざーい。
(お、可愛いかも)
 にわかに楽しくなって、令はもう一度、一旦離したシャーペンを小さな甲虫に近づけていった。
 ばんざーい。



(令ちゃんたら。何してるのよ、まったく)
 もとより集中していたわけではない課題のノートのおもてを睨みつけながら、由乃は不機嫌だった。
 暑くて、湿度も高くて。――朝から、体調はよくなかった。こんな日には、自分が健康な大勢の人間ではない、ということをつくづく思い知らされる。ほんの少し熱のあるときの、かすかな気だるさは、もう何度となく感じてきたもの。動揺するほどのことじゃない。けれどその大元が心臓にあるからだろうか、体のどこか、頭のどこかで、いちいちそれを無視させないように、絶えず注意をそちらに向けようとする何かの意識がある。
 するとそこから逆に、心臓の鼓動が強くなっていく。自分のもののはずの心と体が、押さえがきかない。体の半分が、不出来な自分の心臓そのものになったみたいな感覚。無様にふくらんで、体の輪郭からはみだしたみたいになって、どくどくばくばく、うっとおしい。
 もともと我慢強い性格じゃないのに、きっと私は。そして臆病だ。しょうがないことだから我慢して、しょうがないことなのに動揺しちゃってる。お父さんやお母さん、それに令ちゃんに当たり散らして、それでようやく立っていられるんだ、この場所に。この地上に。
 でも、ここは学校だ。
 よくない方に傾いた思考は、とりとめもなく収束し、ただのマイナスな意識のとんがった先っぽになって、私の体の中を出口を求めて走り回り、突き破って飛び出そうとし始める。そうなると、もう私は完全に降参して、白旗を振って、泣きべそをかいて、ただ令ちゃんにむけて、照れ隠しに乱暴な信号を送りつけるしかない。
(令ちゃん、もう帰ろう)
 ほとんど悲鳴のように、カップを手に立ち上がった令ちゃんに視線を飛ばしかけた由乃だったが、その拍子に、向かいに座る人の、令ちゃんのお姉さまの、こちらに注がれた無遠慮な目つきに出会ってしまった。
 とたんに、冷水を浴びせられたように、全身が引き締まる。暑さもあって、溶け出しそうになっていた意識と体が、完全に合致して立ち直る。いつの間にか、心臓の動悸もおさまっていた。
 鳥居江利子さま。
 すぐに手元の文庫本に戻してしまったけれど、そのなんともいえない目つきは、はじめて会ったときから変わらず、由乃にはその向こうの感情をうかがうことができないものだった。
 入学式の日に、令ちゃんからロザリオを受け取った由乃は、最初から黄薔薇のつぼみの妹、として登校したわけで、山百合会での具体的な仕事にしても、その肩書きから学内でどう扱われるかにしても、ある程度承知していたつもりだった。体のことはあったけれども、細かな雑用くらい、きちんとこなす自信はあった。
 すでに黄薔薇のつぼみとして、山百合会に参加している「お姉さま」に恥をかかせたりしないように。――令ちゃんはもちろん、そんなことを由乃に言ったりする人じゃなかったから、余計に由乃は気負っていたのである。
 その決意や自信が。――薔薇の館に乗り込む前に、放課後の教室に、令ちゃんを伴って現れた江利子さまに、さっきと同じ、その無造作な視線に出会って、いとも簡単にがらがらと音を立てて崩れていくのを、由乃はどうすることもできなかったのである。
 由乃のよりどころは、令ちゃんだった。きっと誰よりも、私は令ちゃんのことをわかっている。山百合会でどんな人間関係に出会うにせよ、令ちゃんのお姉さまという人がどんな人であるにせよ、私は、その令ちゃんとの結びつきをもって、その場所に食い込んでいくことができる。
 なんといっても、私は妹なのだから。
 江利子さまの視線は、そんな由乃を丸裸にした。はじめて会ったその目は、由乃のまとっているもの、令ちゃんのことや、それこそ心臓病のことも含めて、一切興味のない風で、頭の先からつま先まで、由乃を眺めまわして、そして去った。興味があったのか無かったのか、お眼鏡にかなったのかそうでないのか、そんなこともわからず、ただ無性に、傍にいる令ちゃんの背後に、人見知りの子供みたいに逃げ込みたくなった由乃に対して、
「鳥居江利子です。よろしくね」
 ようやくと、にっこり笑って江利子さまは言ったのだった。
 そのときの敗北感を、いまだに由乃は忘れることはできない。そしてその敗北を、いまだにひとつも取り返していない気がして、彼女に気後れする感情は、どこまでもついてまわるのだった。
 令ちゃんのノートに、虫が舞い降りたときも、口を出そうとした由乃は、またも江利子さまの視線とかち合って、すぐに目をそらしてしまったのだった。
(面白いから、黙って見てらっしゃい)
 あなたの知らない支倉令が見られるから。それとも、それが怖いのかしら?
 そんな風に感じるのは、半ば被害妄想だとわかっていたけれど。
(怖いことなんて、あるものですか!)
 そうやって、心を硬直させて課題のノートをめくったりしていると、蒸し暑い空気はなおさらに暑く感じて、そんな由乃も露知らず、大好きな令ちゃんは虫なんかに向かって極上の微笑みを投げかけていたりして。
(ああもう、なんでそんなに隙だらけに笑っているのよ)
 シャーペンで突っついていたのに、今や令ちゃんは、自分の指を差し出して、嬉しそうに虫と戯れている。虫なんか触った手で、私に触れてきたら、それこそ許してあげないんだから。
 私がこんなに、いちいち臨戦態勢なのに。伏せた由乃の視界の端で、江利子さまの手が優雅に動いて、令ちゃんの洗ってきたカップに、紅茶を取り分けて注いでいる。
 いったいこのひとは、何を考えているのだろう。



(ただのカナブンかしら。アオドウガネか、ハナムグリの一種かも)
 紅茶のポットを置きながら、江利子は横目で、令の眼前でのどかな動きをする生き物を眺めていた。
 二番目の兄の趣味が昆虫採集で、その部屋には関する本が山ほどあり、たまに熱っぽく語られたりするせいで、江利子はそのあたりに出てくる虫ならば、だいたい一目でわかるようになっている。直接触ったりするのはやっぱり嫌だけれど、教室に入ってきた蝶などに、大声をあげて逃げ惑うようなことはない。それがまた江利子の近づきがたい雰囲気を作っているのだが、そのことには江利子は気づいていなかった。
(にしても、こんな顔もするのね、この子って)
 今しも虫に「お手」をしている令の笑顔は、傍にいる江利子や由乃ちゃんのことも忘れ去ったように、くだけて力がぬけていた。ゆるんでいる、とも見えるその無心さは、窓から入ってきた西日の照りをうけて、むしろ神々しいようにも江利子には思えた。思えば、江利子の妹になってから、そして島津由乃ちゃんが薔薇の館に来るようになってからも、令がこんな子供っぽい表情を見せたことはなかったような気もする。
(やっぱり、気が張っていたのかしらね)
 ただの生徒会なのに、山百合会なんて大仰に呼ばれて、生徒の多くがカリスマ的幻想をもつこの場所は、やっぱり新たにそこに加わる者に、大なり小なりの圧力を加えるものなのかもしれない。江利子自身にはあまり身に覚えのないことだったけれど、その圧力に気遣って、令があんな表情を見せないようになったのだとすると、なんだか申し訳ないような、ものさびしいような気にもなる。
 そして今。江利子は、そっと視線をずらして、向かいに座った由乃ちゃんを盗み見た。
 この子にとっては、どうなのだろうか、この場所は。
 由乃ちゃんが高等部にあがるずっと前から、江利子は由乃ちゃんについてのことを何度となく令の口から聞いていたし、彼女が支倉令の妹としてこの薔薇の館に現れることは確信していた。ただその人となりについては、令の説明があまりうまくなく、心臓に持病があることばかり強調していたから、
(これは・・・。要するに、手加減してくれと言っているのかしらね)
そう考えて、「お客さん」扱いしようかと思っていた江利子の前に現れた由乃ちゃんは、果たしてほっそりとして、うつむきかげんの声も弱弱しく、いかにも青々しく沈んだ病身の沈静のうちに、しかし、
(令ったら。話が違うじゃないの)
江利子は内心、焦燥に似たよろこびを感じたのだった。由乃ちゃんの、肉のうすい顔のおもてに、爛々と居座った瞳の強さと、江利子の感情を跳ね返す鏡のような輝きを見出して。
 あるいは、病気にくるしむ人の心がおとなしい、なんてことこそ、単純にして愚かな思い込みなのだろうけど。それ以上に、顔を突き合わせる日々を重ねていくごとに、江利子は由乃ちゃんの、個性としての我の強さのようなものの端々を感じとれるようになっていった。
 そして、その中に混じる、江利子にまっすぐ向かってくる力のようなものも。江利子は、それが嫉妬であることを願った。それこそマリアさまに平伏するような勢いで、真摯に願ったのである。それが嫉妬ならば、いろんなものが動く。山百合会幹部だの、リリアンの生徒だの、いっさいをかなぐり捨てて、ただの人間同士として、面白い部分が、ごっそりと根こそぎ動いてくれるのだ、きっと。独りよがりとも思えるそれは、江利子にとっての渇望でもあった。私は退屈なわけじゃない。むしろ臆病なのだ。周りが動いてくれないと、自分の居場所もわからなくなるような、そんないい加減な自分しか今まで築いてこれなかった、半端者。聖や蓉子といった、才能や個性の溢れるメンツに並んで、意地になって薔薇の館につきあっているうちに気付かされたそのことに、正直落ち込みかけていた時期に、令が由乃ちゃんを連れてきてくれたのである。
 だから、由乃ちゃんには、元気になって欲しかった。
 文庫本に隠れて見やる由乃ちゃんは、ちらちらと顔をあげて令の方を見たり、ノートを意味なくめくってみたり、私の視線に気付いて不自然に顔をそむけてみたり。それ自体が、よく動く生き物をつめこんだ袋みたいにめまぐるしかった。ほんのり赤くなった頬は、暑さのせいなのか、熱があるせいなのか、それとも、自分を見てくれない姉に向かうやるせなさのせいなのか。
 ものが心臓だけに、気軽にどうしろなんて、言えないけれど。江利子は、自分だったらと思う。とても出来ないことだろう、難しい手術ではないと聞くけれど、肉を切り開いて自分の心臓にメスを入れるなんて、恐ろしくて考えたくもないこと。だからこそ、もしそこを越えられれば、由乃ちゃんはきっと元気に走りまわり跳びまわり、私を屈辱感で一杯にしてくれるはずなのだ。そのときにはきっと、令も、今まさに虫に向かって浮かべているような、無邪気で安らいだ笑顔を生活のどこかで浮かべたりして。安易に、不用意に私の前でなんて。その二重の屈辱感はしかし、私に不思議な安心をもたらすような、そんな予感が、どこかにある。確信に近いところに、じっと横たわっている。
 優しい横顔で、令がノートを持って立ち上がった。虫を逃がしてあげる気になったのだろう。つられて姉を見上げて目で追った由乃ちゃんの目は、ちょっと不満そうで、でもどこか嬉しそうだった。令はきっと、こんな風にして、むしろ自分が意図しない方向でより強く、この妹をささえてきたに違いない。そういう不器用な子なのだ。
 そして、無遠慮な江利子の視線に気付いて、ちらりと独占欲をのぞかせた由乃ちゃんの視線を、江利子はことさら挑発的に見返した。
 今はただ、そうやって見守ってあげよう。ほんの少し、江利子の奥底ににじんだ感情は、母親のそれのように野暮ったくて、江利子はそこではじめて、部屋の暑さにうんざりしたのだった。



 大きく開いた窓際に令ちゃんが立つと、部屋の中に長い影ができて、いつの間にか空が晴れ上がってきていることに気付いた。部屋を押しつぶすようだった暑い空気も、うっすらとかさが減ってきたように思える。
「あっ!」
 令ちゃんの声は、大きくて、悲鳴に近くて。それ以前に、斜め後ろにいた由乃には、何が起きたのかはっきり見えていた。
 令ちゃんがそっと窓から差し出したノート、やや斜めにした一番高い端のところに、のろのろと這い上がった虫が、一呼吸おいて空中に飛び出したとたん、黒くすばしこい影が、電光のように窓の外を横切り、まるで魔法のように見事に、虫をとらえて行過ぎたのである。
 おそらく薔薇の館の屋根にでもとまっていたのか、カラスよりやや小さく見えたその鳥は、虫をとらえた急降下から弓なりに空へ舞い上がり、校舎を飛びこえるようにして、向こう側の木々の群れに消えていった。
 令ちゃんは動かない。だらりと垂れた手に、力なくノートがぶら下がっている。
 声をかけようかどうしようか。思わず中腰になったところで、由乃は迷った。ちょっと信じられないことに、令ちゃんは本気で悲しんでいるようで、虫の劇的な最後よりも、そのことが由乃にとっては驚きだったのである。
 椅子がかたり、と音を立てた。由乃を振り返りもせず、立ち上がって一歩進んだ江利子さまは、やや眉をしかめて、不機嫌そうだった。
「令」
 声まで物憂げだった。令ちゃんはびくり、としたけれど。声は返ってこない。
「泣いてもいいわよ」
「な、泣きませんよ。何言ってるんですか」
 令ちゃんの声は平静だったけど、その大きな背中は、相変わらずこちらに向いたままだった。
「ほら。胸を貸してあげるから」
 言葉とうらはらに、腰のあたりでおざなりに広げられた江利子さまの腕には、やる気のようなものがかけらも感じられなかった。そっけない足取りでもう一歩進んで、「さあ」と言う。
「だから、大丈夫ですって。本当ですって」
 やや裏返り気味の令ちゃんの声を聞いて、ようやく由乃は腰をあげたものの、もはや間に合わなかったらしい。なにが起きているのかわからぬまま、重要なタイミングを逸したような気がして、所在なく立ち尽くした由乃に向かって、不意に江利子さまが振り返った。
「ねえ?」
 そう言って肩をすくめ、由乃にむかって笑いかけたその顔に、今度こそはっきり、由乃は胸いっぱいにひろがる敗北感を自覚したのだった。



 昇降口のところで江利子さまと別れて、令ちゃんとふたり、人影のまばらな銀杏並木を歩く。あのあとすぐに、祥子さまが入ってきたからうやむやになってしまったけれど、今こうして見るかぎり、令ちゃんはもう落ち着いているらしかった。
夏の長い夕暮れ、太陽はまだ家々の上から強い光を放っていて、無言で歩くふたりの影も、乾いた地面にくっきりとして、あたりは明るい。
「由乃」
 足元を見ていた由乃は、急に降って来た令ちゃんの声におどろいて、なんとなく「うん」と頷いてしまった。
「今日はさ、あんまり体調よくなかったんじゃないの?」
「暑かったから。でもそんなでもない」
「そう」
 予想していた問いだったから、すらすらと言葉が出た。令ちゃん、やっぱり気付いていたんだ。虫にうつつを抜かしたりしていても、やっぱり。
(だったら、もう少し)
 私に気を使ってくれても。不条理な言い草と思ったけれど、由乃は令ちゃんの背を睨み上げた。本当に調子の悪いときはちゃんと言うからと、特に薔薇の館では気を使いすぎないよう、令ちゃんに言い渡したのは、他ならぬ由乃だったから。
 少し距離があいて、令ちゃんの背がちょっとだけ小さくなる。追いかけなきゃ、と由乃が思うより先に令ちゃんが振り返った。まっすぐ由乃の目を見ているのに、優しげで、少しも気にならない目つき。
(ほんと、意外なところでおセンチなんだから)
 望みもしない肝試しをやらされたような腹立たしさが、熾き火に息を吹き込んだように、また由乃の心でかすかに赤く火を灯す。
「可哀想だったね」
 心にもないことだった。けれど口にしてみると、言葉にみちびかれるように、ほんのりと浮かんできたせつなさに、由乃は謝罪のように目を閉じた。瞼の裏で、令ちゃんの指にすがっていた虫の姿が、蛍のように闇に弧を描いて消えた。名残り惜しげな闇を、ほのかに絶望の魅力に満ちた暗がりを振り切って目をあけると、令ちゃんの見慣れた、うつくしい顎のラインが見えた。
「あ?ああ・・・まあ、ね」
 横に並んだ由乃から、令ちゃんは照れくさげに顔を背けたけれど、江利子さまのときのように強がらず、肩をすぼめて歩き出した。
 頼もしい背中。力強い足取り。それでも、
(いつか、きっと)
 私にも。情けなくて、余裕がなくて、人の気持ちがわからなくて、自分の尻尾だけ見てぐるぐるその場で廻っているような私でも。
 この人のことを、助けてあげられるかもしれない。弱さに真っ先に気付いて、手をひろげて、抱きしめて。
 今よりも、ずっとずっと、何倍も笑わせてあげて。
 私にも、できるかもしれないのだ。だから。
 行楽の予定のように、それは楽しい不安をはらんだ予感だった。
 下校を促すチャイムが、背後の校舎から、頭上の空へと伸び上がっていく。
 地面近くにうずくまった昼間の熱気をつま先で蹴り上げつつ、由乃は歩いた。

 いつか、きっと。
 元気になってみせるからね。




<了>

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