レイニー・ロード







「女なんて、みんなそんなものさ」

 花寺の学園祭を終えた翌週の日曜日。山百合会メンバーと花寺の面々が、ふたたび顔をあわせる機会があった。花寺側の申し入れで、学園祭の事後報告と、リリアンの学園祭にむけてのいくつかの確認、というのが一応の名目だったのだけれど、実質「打ち上げ」みたいなものだから、というのは、祐巳が事前に祐麒に聞いていたことだった。
 その主旨もあって、また祐麒が祥子さまに気をつかったらしく、今回はどちらの学園でもなく、リリアンに程近いファミリーレストランに集まったのも、よくなかったのかもしれない。お互い見慣れない私服姿で、妙に高いテンションではじまった「打ち上げ」は、時間が経つにつれて変に間延びした、異様な馴れ馴れしさを花寺の生徒たちに与えてしまっていた。
 それでも、花寺生徒会のメンバーは、普段とさしてかわらず、一線をひいた姿勢でいてくれたのだけれど、一緒にやってきたクラブの代表という数人が、最初の緊張がほぐれた後にくる昂奮みたいなものをあらわにして、リリアンのメンバーに遠慮ない質問を投げかけはじめてから、雰囲気が変わってしまった。
 曰く、好きな男の子のタイプは、とか、つきあっている人がいますか、とか。
「お前たち、程ほどにしておけよ」
 日光・月光先輩不在の中、たびたび祐麒が強い口調で牽制してくれたのだけれど、だんだん強張ってくる祥子さまの横顔に、祐巳ははらはらして、自分に向かってくる質問におざなりにしているうちに、それがまたくみしやすい印象を与えてしまっていたらしい。
 異性について、やや突っ込んだ質問をされた令さまが、苦笑いして黙りこむのを、見かねた由乃さんがはっきりと敵意を示して相手を睨みつけたところで、男の子たちが鼻白んだように顔をそむけたのを、やや落ち着いたと判断したのだろう、祐麒が席を外した隙だった。
 こちらに、聞こえないような声でなにやらひそひそ話していたクラブ代表の男の子たちが、一斉に嫌な声でどっと笑ったあと、中の一人がつぶやいた、一言。
「女なんて――」
 はっきりと、顔の色を変える祥子さまに、かける言葉をさがして祐巳は自分の中を振り返ったけれど、何も出てこなくて。
 祥子さまがやや乱暴に席を立ったのを、隣の席で感じながら、祐巳は歯がゆい思いで目を伏せた。
「祥子」
 たしなめるでもなく、ただ見上げて名前を呼んだふうの令さまは、すでにあきらめ顔だった。
「私。失礼させていただきますわ」
「紅薔薇さま」
 離れて座っていたアリスが、弾かれたように立ち上がるのを、見ようともせず、自分のポーチをとりあげる。
「こんな集まり、時間の無駄だわ」
 場の全員が、それぞれの表情で口を閉ざして見上げるのを、あっさりと背をむけて、祥子さまは早足で戸口に向かう。あわてて後を追った祐巳に、扉に手をかけた祥子さまが、一瞬だけ鋭い視線を投げかけた。
「あれ?どうした祐巳」
 トイレから戻ってきたらしい祐麒が声をかけてくる。祥子さまは躊躇なくドアを開けた。
「祐麒のばかっ!」
 言い捨てて、きょとんとした祐麒を置いて、祥子さまの出た後戻るドアを押して、祐巳も外に出た。



 祥子さまは、どんどん歩いていく。
 秋だというのに、ねっとりと蒸し暑い空気が、あたりに立ち込めている。そのくせどこからか冷たい風が吹きつけて、足元がすうすうする。夏のさなかに、夕立のくる前に吹くあの風に似てるな、と祐巳が思う間もなく、ぽつりぽつりと、かなり大きめの水滴が落ちかかりはじめた。
 鞄の中から折りたたみ傘を引きずりだし、足を早めて、祥子さまに追いつく。
「いらないわ」
 さしかけようとするより早く、背中で祥子さまが答えた。
「でも」
「いいから。濡れたい気分なの」
 そう言われて、祐巳は傘を畳んで、祥子さまの隣に並んだ。祥子さまはまっすぐ前を見て、祐巳にも、傘をささないその様子にも、気づいているのだろうけど何も言わない。
 黒々と空を覆った雲の下、街だけは白っぽく光り、どこかよそよそしい。
 はるか遠い空で、雷の音か、飛行機のような音が細長くはしっていく。
 どうしたらいいのだろう。
 祐巳の中で、判断のつかない相反する思いが、混濁してちりぢりになって、やがてひとつの義務感のようなものになりかわる。それは、少なくとも一年前、祥子さまの妹になったばかりの祐巳ならば、決してとらないだろう選択肢だった。
 どうなるか、わからないこと。でも、やらなければいけないこと。
 祐巳は二度、三度と息を吸い込んだ。
「お姉さま」
 信号で立ち止まったところで思い切ったけれども、折から勢いを増した雨にやや顔をしかめただけで、祥子さまは振り向いてくれなかった。
「さっきのは、よくありません」
「祐巳」
 信号を渡りきるまでそのまま沈黙していた祥子さまが、「あなたにはわからないわ」とぼそりと言った。
 思ったよりも穏やかな口調で、だから逆に、祐巳の中で何かがぐらつきそうになる。
「ご不快になられたのは、わかります。けれど、あの場においては、お姉さまが、その、言ってみれば一番上なんだから、気に入らないことははっきりと――」
 心に鞭打って言いつのっていると、銀行の前で、祥子さまが祐巳を振り向いた。
 顔の前に垂れた前髪に雨のしずくがからんで、こんな場合なのに、お姉さまはほんとに美人だ、と祐巳は心から思う。
「傘をさしなさい、祐巳」
 目つきは鋭かったけれど、視線はどこか遠くをさまよっているような漠然とした表情。かつて一度か二度、こんな表情の祥子さまを見たような既視感が、祐巳の記憶に曖昧によみがえる。
「あなたまで濡れる理由はないわ」
「い、いえ。大丈夫ですから」
「変な子ね」
 大通りを一本はずれて、煉瓦みたいなブロックが綺麗な歩道に入る。車の音が遠ざかり、とたんに雨の音が周囲を押しつつむ。道の上に跳ね返った水滴が銀の花のようなしぶきをたてて、低い地面をもとめて、流れ出している。急のことで、傘を持たない人が、走ったり、お店の軒先に飛び込んだりするのが、やはり雨の音にさえぎられて、音のない映画を見るように、現実感もなく見える。額の前にはりついた髪を、祐巳はやや乱暴に押し分けた。最初の一滴二滴はつめたく感じた雨も、体の半面が濡れてしまうと、平気になってしまうのは、それだけ体温が下がっているからなのだろうか。デニム地のスカートがたっぷり水を吸って、むしろ熱をおびたもものあたりはパンパンに張って、かなり歩きにくい。指先でそれをいちいちつまみあげ、少し歩幅を縮めて、小走りに歩く。斜め前を歩く祥子さまのジャケットの背は意外なほど濡れていなかったけれど、前に回れば祐巳と同様の濡れねずみなのだろう。
「お姉さま」
 その背を見ているうち、何故だか急に胸をしめつけられて、押し出されるように祐巳は声を出した。聞こえたのかどうか、祥子さまの歩みは変わらない。
「お姉さま」
 もう一度、やや声を大きくする。祥子さまは振り返らない。遠い街に、彼方の黒い空に、はっきりと胸をはって、前から叩きつける雨に、揺れ動く大気に、挑みかけるように進んでいく。強烈に、祐巳のどこかで、焼け付くような強い感情が渦巻いて、消える。かと思えば回転灯のように、またよみがえってくる。それはひどくなつかしい欲望をはらんだ感覚だった。どうしても欲しいおもちゃにおあずけをくらったときのような、切なさに似ていた。
「そんなに、怖いんですか」
 文字通り、背徳感が背中をわしづかみにしていたけれど、どうにも押さえのきかない感情が、祐巳を後押ししていた。相変わらず返事をしない祥子さまの、けれど今度はきちんと耳をすませているだろうことは、祐巳にはなんとなくわかった。
「お父さまや、お祖父さまのことがあって、男の人に特別の感情のあるのは、それは、別にいいと思うんです。でも、それがお姉さまを、ただ苦しめて、弱めているんじゃ意味がないと思うんです」
「祐巳。それ以上は、いいわ」
 横に並んだ見た祥子さまは、斜めに降り注ぐ雨の糸にむかって、眉根を寄せながら、目を見開いていた。
「お姉さま。教えてください。話してください」
「しかたのないことなのよ。人に話しても」
 わずかにゆがんだ祥子さまの唇に、祐巳の衝動がまた大きく手を振る。夢の中で歩くようなまだるっこしい道のりの行く手が、幸運にも見通せそうな予感がして、他の一切のことが考えられなくなる。顔を流れる雨をぬぐって、轟音をたてる空に負けないよう、祐巳はさらに声をあげた。
「私、もっとお姉さまのことが知りたくて。お姉さまの知られたくないことでも、知りたいんです」
 うつむいた祐巳に、祥子さまが目を向けたのがわかる。
「だって、お姉さまとリリアンで過ごせるのも、もう半年ないのだし」
「祐巳。黙って」
「私は、怖いです。私の中で、わからないままのお姉さまが残るのも、そのままお別れするのも。なんだか、すごく焦るんです」
「祐巳、いいから――」
「わかってます、頼りにならない妹だってことも。けれど、一度くらいお姉さまの見てるものが見たくって。それがお姉さまに迷惑だとしても、私――」
「祐巳!!」
 すさまじい声が、全身をつらぬいて、言葉も何も失って、祐巳は立ち止まった。同時に、二の腕をつかまれて、すごい力で引き寄せられる。
 胸をあわせた下から見た祥子さまは、白く陶器のような頬に、わずかに赤みをさして、水の中で呼吸するように、荒く息をはきだしている。何か言わなくちゃ、とぼんやりと思ったものの、祥子さまの瞳の強さに呑まれて、鈍っていく脳裏で、ばんやりと、後悔のような感情が盛り上がる。腕を掴んだままの祥子さまの指に力がかかり、かなり痛かったけれども、顔をしかめないよう、ぐっとこらえて、祐巳は祥子さまと視線をあわせつづけた。そうすることしか出来ないような気がした。
「あなたにっ!」
 炎を吐き出すような勢いの声だった。雨にけむる世界のあちこちで、こちらに向かって振り返る人がいるのがわかる。
「私の、私のすべてを、受け入れることができるというの!?あなたにっ!!」
 道のむこう、やや下っている先から、唐突に湧き上がった風にのった水滴の渦が、立ち尽くす二人の側面に叩きつけられ、流れていく。眠りから覚めた心細さが胸に押し込めてくるのを、どうしようもなく祐巳は受け止めていた。体の感覚がすっかり抜け落ちて、ただ腕を掴んだ祥子さまの手の温度だけが、空中にただよっている。そそり立った刃の上に身を置いたような、ちょっと身の置き所を間違っただけで取り返しのつかない場所。親も兄弟も、もちろんお姉さまにしたところで、手をひいてくれるわけではない場所だった。
 そこが、お姉さまの居場所なのかもしれない。
 どうにも卑怯な自分に対する悪態が、心をびっしり埋めていくのを感じながら、そっと寄り添ったお姉さまの、びっしょりと濡れたシャツの胸に、そうっと口付けて、心でつぶやく。

 お姉さま、ごめんなさい。



 小笠原という大きな家の、お金や、格式や、その他もろもろの頂点に位置する祥子さまの日常には、きっと祥子さま自身でもどうにもならない巨大でおそろしい力のようなものがあって。
 たとえばそれは、女の人にだらしなかったという、祥子さまのお父さまやお祖父さまの、祐巳の日常では受け入れられないようなあり方をも、否応も無く肯定してしまうようなもので。
 それが男の人の論理というものなのか、暴力的に一方的なそれが、祥子さまや、お母様の清子さまを、間接的にでもすり減らしているのか、半ば想像でしかないことだったけれど。
 少なくとも今、祥子さまを追い詰めたのは自分で、垣間見たなにものかに怯えて逃げ出したのも自分で。
 自らを取り巻いてぐるぐる回る後悔の念に、まるで祈りのように、祐巳は謝罪の言葉をつぶやきつづけた。



「誤解しないでね。父も祖父も、私は好きよ」
 M駅に向かうバスの停留所にたどりついてすぐ、雨はあがった。屋根の下で、びしょ濡れの服や髪を絞って、したたる水の多さに、祥子さまが笑い出して、祐巳もつられて笑う。
「やあね、もう。何してたのかしら、私たち」
「そうですね」
「祐巳。だいたい、なんで傘を使わないのよ。馬鹿みたいじゃない」
「だって、お姉さまが、いらないって」
「あら、そんなこと言ったかしら」
 さも滑稽な表情で祥子さまが言ったから、また二人、ひとしきり笑った。
 指でちぎりとったような、早い雲の流れの向こうには、緑がかった透明な空がひろがりはじめている。戦場の兵士のように、緊張した顔で二人、手をつないで駆け抜けた雨の世界を、うっとり夢のように思い返していた祐巳に、祥子さまが不意に言ったのだった。
「柏木さんもですか」
「うん?そうね。もちろん男性としてではないのだけど」
 祥子さまのかきあげた髪の束に、つやつやと、光の筋が踊る。
「きっと私はね。男性に対して執着が強いのだわ。・・・たぶんお母様以上に、いろいろ期待してしまうのよ、たぶん。男だ女だという前に、同じ人間だというのにね」
 ちょっと照れたように笑って、ベンチに腰を下ろした祥子さまの、背もたれに置かれた指に、祐巳はそっと自分の手をのせた。ちらっと、こだわりのない視線で、祥子さまが祐巳を見る。
「父も祖父も、私にはとても優しいのよ。甘いといってもいいわ。けれど、あの人たちが決してそれだけで生きてるわけじゃないのも、私は知っている。私に向けられる部分は、彼らのほんの一部分にすぎなくて、だからたまに怖くなるし、許せなくもなるわ。ちょうど、さっきの祐巳のように、ね」
「お姉さま」
 すがるような気持ちで見上げた祐巳の、たぶんぐちゃぐちゃに乱れているツインテールの髪に、そっと祥子さまは手をそえて、水気を吸って重くなったリボンを解いていく。右が終わると、今度は反対側。
「祐麒さんに、悪いことしたわね」
 リボンを渡し、祐巳の髪を撫で付けながら、悪戯っぽく祥子さまは笑った。
「そ、そんな、平気ですよ、きっと」
「あなたも、謝っておきなさい。別れ際の一言、祐麒さんきっと気にしていてよ」
 ドアが閉まる寸前だったというのに、祥子さまはちゃんと聞いていたらしい。甘えに近い感覚で、わざと祐巳は唇をとがらせた。
「でも」
「いいから。にっこり笑って。それだけでいいのよ」
 交差点に現れたバスの姿に、立ち上がった祥子さまは、祐巳の手を引いて立たせながら、耳元でそっとささやいたのだった。
「男なんて、みんなそんなものなのだから」



 M駅まで、祐巳と一緒に乗って、祥子さまはそこで、バスに乗る前に連絡していた家からの車に乗った。
 送ってくれようとするのを断った祐巳に、「風邪をひかないようにするのよ」と言って、走り去る祥子さまの車を、見えなくなるまで見送って、祐巳は家路についた。
 日曜だから、家に戻ればお父さんもお母さんもいるはず。送ってもらわなかったのは、ひととき一人になりたかったから。その時間をつくるべきだと思えたから。
 祐麒が帰ってきたのは、祐巳よりもだいぶ遅い時間だった。祥子さまが出て行ってすぐ、祐麒は会をお開きにして、問題のあったクラブ代表の生徒たちをつれて、花寺にとって返し、体育館に正座をさせて、自分も正座をして、延々と説教したらしい。
 それはそれはもう、凄みのある光景だったという一連の顛末は、ずっと後になってアリスに聞いたことで。なにしろ、帰るなり憔悴しきった顔で祐巳の部屋を訪れた祐麒は、謝罪の言葉を口にするより早く、満面の笑みをうかべた姉に抱きつかれて、言葉を失ってしまったから。
「な、なんだよ。気持ち悪い」
 やや乱暴に身をよじって離れた祐麒の、一見平静な表情は、どこかお姉さまの、祥子さまがまれに見せるそれに似ていて、思わず祐巳は、今度は心からの笑いをこぼしてしまったのだった。




                

<了>

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