「Share」




「あら」
 薔薇の館の前で祥子は小さく声をあげた。
 まだまだ夏の余韻の残る中庭には、校舎にはさまれて逃げ場のない熱気がこもり、逆光気味になった館の影に身を落としていても、うっすら汗がにじんでくるやりきれなさ。
 薔薇の館の扉が、自らに管理の責がある場所の入り口が、みっともなく開けっ放しになっていたから、祥子は眉をしかめたのである。確かに今日は集まる予定があったし、先に来た誰かが・・・と考えかけてすぐ祥子はその可能性が低いことに思いいたる。担任が病欠したためにホームルームも早上がり、掃除当番でもなかった祥子より早くここに来られるメンバーがいるとは考えにくい。とはいえ、一般生徒の掃除区域に入っていないこの建物に、用もなく上がりこむ人間がいるとも思えないのだ。先代の紅薔薇さま、祥子のお姉さまでもある水野蓉子さまは、この場所をもっと一般生徒が気軽に入り込める場所にしたかったようだけれど、依然として大多数の生徒にとっては、ここの扉をノックするのでさえ勇気がいるものであることを、祥子は妹である祐巳の、「館に来る前の」話から間接的に理解している。それに祥子は、蓉子さまには悪いけれども、ここの敷居の高さがちょっと気に入っているのだ。
 しかし、だとすると。
「祐巳かしらね。まったく」
 建物の影にくろぐろと口をあけた戸口をくぐり、後ろ手にドアを閉める。見上げた階段の上もしんと静まり返り、廃屋のように沈んだ空気の中に、人の気配は感じられない。
 今日祥子は、始業前にも昼休みにもここには来られなかったから、ここでお昼をしたメンバーの誰かが扉を閉め忘れていったことも考えられるのだが。どうしてかこういうとき、祥子の頭の中には、二つに分けた髪を頭の両側でゆさゆささせた妹の申し訳なさそうな顔しか浮かんでこない。
(きちんと叱っておかないと)
と思いつつ、顔が緩んでしまうのを自制できない。どうしてなのだろう、すこし過去の自分に、祐巳に対する祥子の心に、こんな余裕は無かった気がする。そう、6月のあの雨の日々を、2人でくぐり抜けるまでは。
 軽い足取りで階段を昇りはじめた祥子はしかし、次の瞬間2階のビスケット扉の向こうから聞こえた大きな音にひどく驚いて、階段の手すりにしがみついた。
 物が倒れるような音につづいて、何かをひきずるようなしつこい耳障りな響き。
 我にかえった祥子は階段を早足で駆け上がり、扉を引き開けて中に飛び込んだ。



「誰?いったい何をしているの!?」
 自分の声を追いかけて、祥子はざぁっと部屋の中を見回した。
 窓という窓にカーテンが引かれた部屋のうちは、ほの暖かい黄金色のうす闇に包まれている。
 人の息遣いのない空気はあまりに落ち着いていたから、祥子は急速に不安にかられた。いつだったか読んだ異界の話を思い出す。扉の向こうに常に存在する人ならざるものたちの世界。人がドアのノブに手をかけるまで永遠に続くその宴を、万が一見てしまったら・・・どうなるんだったかしら?
「こらっ!」
「きゃっ!?」
 いきなりお尻のあたりにあびせかけられた声に、祥子は例えではなく本当に飛び上がった。そのまま窓際に向けとととっ・・・と逃げ出して、にわかに口惜しくなる。
 今や祥子は、リリアン高等部に並ぶものなきロサ・キネンシス。何を恐れることがあろう。いや、恐れてはならないのだ。
 先代の薔薇さまたちのからかうような笑顔を思い浮かべ、祥子は自分を奮い立たせた。できるかぎり悠然ときびすを返し、腰に手を当てて仁王立ちになる。
 奇妙な光景だった。
 真っ先に祥子の頭に浮かんだのは、写真で見たことのあるアイルランドの巨石群だった。ビスケット扉から入った死角の位置に、背もたれをこちらに向けた椅子が整然と円周状に並び、さらにその奥、円の真ん中に置かれた椅子に腰掛けている少女が一人。
 見慣れたリリアン初等部の制服だったけれど、幼稚舎の子かと見まごうばかりの体躯からして、1,2年生くらいだろうか。肉付きの薄い脚を無理やりに組んだ上に、体を屈めるように肘をつき、気取ってのせたおとがいの上には、大きな瞳が挑発的に祥子を見上げている。
 気づいてみると部屋の長テーブルの周りに椅子は一つもなく、女の子がその細腕でおかしなバリケートを築いたのだ、と祥子はさっき聞こえた音の正体とともに理解しつつ、その大仕事ぶりにちょっと感心して頬を緩ませると、
「何を笑っているの!」
「は?」
 鋭い声が飛んで、思わず祥子は我ながら間抜けな返答をしてしまった。
「まったく。リリアンも堕ちたものね。あなたのような粗忽なふるまいをする方がいらっしゃるなんて」
 わざとらしいため息を長々と吐くその様子に、さすがに遅ればせながら祥子のこめかみに血が上ってくる。
「なん・・・ですって?あなた、いったい――」
「まずは『ごきげんよう』でしょう!」
 伸ばした人差し指と中指を一方の手のひらに叩きつけ、女の子は祥子を睨みあげた。
「なっ・・・」
 たまりかねて怒鳴りつけようとして、それでも祥子はすぐに自分の感情をねじ伏せた。どう見ても10は歳の離れた子供に、大人気なく声を張り上げるというのも、想像するにずいぶんとみっともないこと。ちぎれるほど握りしめていたカーテンから指をほどき、背筋を伸ばす。左手の鞄をゆっくり机に載せて、ひとつ大きく咳払い。
「・・・・ごきげんよう」
「はい、ごきげんよう」
 慇懃に頭を下げられてまたちょっと腹が立ってしまったが。
「ひとつ、聞いてもよろしいかしら?」
「はい、どうぞ?」
「あなたは、どなた?何故この薔薇の館にいらっしゃるの?」
「ああ、やっぱりここは薔薇の館なのね。良かった、間違えていなかった」
 いきなり歳相応に嬉しげな顔をしてぱんと両手をあわせると、またすぐ不愉快な半目をして、値踏みするように祥子を斜めに見上げた。
「と、いうことは、あなた、まさか・・・あのうるわしき山百合のお姉さま方のお一人、ということは」
 言葉を切って、大げさに首を左右に振る。
「ないわよねえ・・・」
「あら。どういう意味かしら」
 声に怒気があらわれてくるのをもう抑えられない。祥子の変化に気づいた様子もなく、少女は自分の細い顎を得意そうにをつまみあげた。
「言葉どおりの意味よ。階段を音高く駆け上がったり、ノックもなしにドアを開けたり。あげく初めて会う人間にまともに挨拶もできないんですから。あの気高き、噂もたかい殿上の先輩方に、そのような半端な方が混じっていようとは、たまさか思いませんもの」
 あまりになめらかに出てくる言葉の列に、感心する余裕はもはや、祥子の中にはなかった。 
「言わせておけばっ・・」
 あ、いけない、と思ったときには手遅れだった。力いっぱいテーブルの表を叩いた祥子、その音声のすさまじさに、はじかれたようにおもてを上げた女の子の瞳の奥に、ほんの一瞬おびえた色が横切ったのを、祥子は見逃さなかったから。



 目を逸らした沈黙を、長いと感じたのはどちらだったのか。むしろ義務感から、祥子は口を開いた。
「――そうね」
 祥子は、何食わぬ顔で取り繕うつもりだった。自分と女の子の双方、生々しい感情で無様にも揺り動かされてしまったことを、無かったことにしようと思ったのだった。
「確かに私は、この館の新参の者よ。山百合のお姉さま方のもとでお手伝いをさせていただきながら、いろいろ学ばせてもらっている身なの」
 喋りながら、誰もいないテーブルの一角に、かつての自分のお姉さまの面影を思い出し、場違いにこみあげてきた熱いものを、あわてて祥子は飲み下した。
「やっぱり。ただの雑用係ってわけね」
 女の子は迷い無く祥子の魂胆に乗ってきた。うろたえてしまったことを、祥子に感づかれまいとしているのだろう。その認識でみると、女の子の薄いほおから透けてみえる血色にあらわれる彼女の純情が、急にいとおしいもののように感じられてくるから不思議なものだ。
「その、雑用係としてはね・・・」
 すっかり余裕をもって、祥子は女の子に一歩近寄った。かすかに強張る彼女に微笑みかけたけれど、逆に緊張の材料にしかならなかったようで、大人を相手にした子供の動揺が、徐々に目つきに現れてくるのが手にとるようにわかる。
「無関係の人間に、我が物顔でここに居座られることを、看過するわけにはいかないのよね」
「なん・・・ですって」
 今度こそはっきりと、少女は椅子に腰掛けたまま後ずさろうとする。その目から視線を外さず、祥子はさらに近づいた。
「さ、言いなさい。あなたはどこの誰なのかしら?」
「ひっ!?」
「ここに入り込んだ目的は何?この馬鹿げた砦はいったい何事なのかしら?」
 一番手近にあった椅子に手をかけ、わざと片手で乱暴に取り除ける。
「ちょっ・・・と、待って」
「言いたくなければ、いいわ」
 大きくため息をついてみせる。
「とにかく、子供はさっさとお帰りなさい」
「子供あつかいしないで」
「子供でしょう。なんならお父さまかお母さまでも呼んでさしあげましょうか?」
 その一言に、箱に押し込められた子猫のように切なく縮んでいた彼女の顔が、乱暴に空気を吹き込まれたかのように、先ほどまでの迫力を一瞬だけ取り戻したのには、正直祥子もかなり驚いた。
「呼んだって無駄なんだから!誰も私のこと・・・なんて・・・」
 声はしぼんでしまったけど、祥子を睨みつけた目からまだ力は失われていなかった。きらきらした眼の奥から、バネのように跳ね上がってくる感情が、記憶のどこかと強烈に結びつくのを、祥子の感覚ははっきり捉えていた。
 なんだろう、懐かしくてちょっと息苦しくなるような、この気持ちは。
 暗闇で何か非常に気になる手触りに出会ったかのように、祥子の中で、それがいったいなんであるのか、探り求める気持ちが盛り上がる。少女に近寄ったときに携えていた、ちょっと脅かしてやろう、というのびやかな気持ちはもはやなく、むしろ余裕をなくして、祥子はもう女の子をどこにも逃がさない気持ちになっていた。
「『私のこと、なんて』?何を言いかけたの?」
「あ、あなたには関係のない・・・」
「関係あるわ。あなたは自分の問題を棚にあげて、私の一挙一投足にけちをつけたのよ。ひるがえって自分のこととなると、一切蓋をしてそ知らぬ顔をするつもりなのかしら?それこそ、公正なやりかたとはいえないのではなくて?」
「ち、近寄らないで!」
 傲岸な態度を自覚しながら、祥子は鼻で笑った。
「たぶん、あなたは逃げ出してきたのでしょう。何かつらいことに背をむけて。そしてここに、こうやって隠れていたに過ぎないのだわ。兎のようにぶるぶる震えて」
 言いながらまた一つ椅子をどける。床を叩くように、歩みを進める。
「なのに、私に不意打ちをかけて戦ったつもりになっていたのでしょう。本来戦うべきものが他にあり、自分でもそれがわかっている癖に。何かを変えようとするふりだけして、実は何も変わってほしくないのね。ひどくみっともない欺瞞というべきだわ」
「あなた・・に何が・・・」
 今や少女は、椅子の背を後ろ手に抱え込むようにして祥子からのけぞっている。
「いまさらごめんなさい、は無しですからね」
 たぶん泣きそうになっている。見覚えのある顔つきになって、おそらく涙をこぼすまいとして、女の子は不自然に上向いた。もうやめなさい、すっかり降参しているじゃないの、と自制を求める声は、今の祥子にはひどく遠くから聞こえるものだった。そのくせ危機感はある。誰か止めてほしいと、本気で思っている。ひどくやわらかくてつつましいものに、震えながらナイフを差し込もうをしている背徳の気持ち。――お願い、誰かとめて。
「ごきげん・・・よう?お姉さま」
 だから、緩い風を起こしてビスケット扉が開き、聞こえてきた懐かしい声に、祥子はそれこそすがりつきたくなるほど感謝したのだった。



 祐巳はすぐに事態を把握したわけではないだろう。祥子の目の先にいる小さな女の子に、ちょっと首をかしげたものの、すぐに漂う緊迫感に気づいたらしく、祥子にむけてやや真面目な眼をむけた。それだけで祥子は、一切祐巳にまかせる気持ちになる。
 ぴょん!と髪を跳ねさせて、祐巳は少女の目前、彼女の目の高さにしゃがみこんだ。
「・・・な、なんですか、あなたは!」
 涙声で強く叫んだ彼女に、祐巳はびくっとして、祥子に叱られたときのようなはかなげな表情をつくる。その反応は予想外だったらしく、女の子が祐巳の顔に見入って、おずおずとわずかに首をさしのべたとたん。
 たたんでいた腕をすばやくひろげた祐巳が、女の子を抱き寄せた。
「何、するの!」
「へへへー、捕まえたよ」
 ぽかぽかと祐巳の半そでの腕をたたく抵抗むなしく、女の子はしっかりと祐巳の胸にくるまれてしまった。「よいしょ」と言いながら祐巳はそのまま女の子を抱き上げる。
「下ろしなさい!下ろしてったら!」
「いてててて。おとなしくしてよお。――あいたたた」
 ツインテールの片側を引っ張られてさすがに顔をしかめた祐巳は一旦顔を離し、今度は正面から近づいていく。おでこをくっつけあうようにして、睨みつける女の子と目をあわせ、「大丈夫だから」とつぶやいた。
 祐巳の胸元に手を下ろした女の子が、おとなしく上目遣いになる。
「大丈夫だから、ね」
 もう一度言って、抵抗しなくなった女の子の後ろ頭に手をかけ、制服のカラーにそっとその顔を埋めさせた。
 背中をさする祐巳の指を、祥子はぼんやりとみつめた。その手の動きの感触も、背から伝わるであろう彼女の指のかたちまで、寸分の違いもなく伝わってくるような錯覚に、祥子は甘い震えを背筋におぼえた。
 声もなく、女の子がしゃくりあげている。



「あーあ。せっかくだから紅薔薇さまに会いたかったわ」
 方々に連絡をして、彼女の家からの迎えを待つころには、女の子はすっかり立ち直り、そんな感想もとがらせた唇にのぼらせるようになっていた。
 校門手前の並木道に立ち、門の外に目をやる彼女から少し離れ、その後ろ姿を見ながら、祥子は隣の祐巳と顔を見合わせ、どちらからともなく笑いあった。
 女の子の詳しい事情は何も聞かなかった。ただ、高等部の職員室で聞いた話では、初等部の2年生は今日、父兄参観日だったということ。彼女の両親と連絡を取るにどうやら自宅に連絡していたようだったから、どうやら今日の参観授業において、彼女のクラスの保護者のスペースには彼女の背中を見つめる人間が誰もいなかったのだろう。
(そんなの。私にはいつものことだったわ)
 思わずそう感じてしまい、口に出さなくてよかった、とすぐに祥子は思ったのだった。それだけが彼女をむくれさせた理由なのかどうかは、わからない。仮にそうだとしても、彼女の心の軽重をはかることはできないのだから。
 夕方の強い光にほとんど圧倒されているその細い背中を見ながら、祥子はある感情を思い出していた。
 あれは、私だったのかもしれない。
 幼い祥子の父は今よりもっと忙しい人で、それに巻き込まれた母にも今ほどの余裕がなかった頃。
 それが、祥子にとっての幼少時代の記憶。大人は忙しく、それは絶対のことで、犯してはならないこと。
(いえ・・・違うわね)
 大人の領分を理解した振りをし、そのルールに従うことで、自ら大人になったような気分になっていたのではないだろうか。いわば優越感ともいえるその気持ちが、あのころの自分にとっては、同級生たちにむける精一杯の仮面であり、対外的に身につけた唯一の武器だったのではないだろうか。
 私は、それを自覚していたのではなかったか。
(戦っていなかったのは、私のほうだわね・・・)
 もう一度祥子は校門の方に目をやった。女の子の目の奥から沸き立つしぶとい必死さが、昔の自分を思い出させたのだろうか。それともあのふてぶてしさは、あの頃の祥子が求めてやまなかったものだったろうか。
 あんな破れかぶれの方策でも、戦わずして閉じこもった自分よりも。苦い笑いをかみ殺す祥子の横顔を、祐巳がじっと見上げているのがわかる。
 表の通りをじっとうかがっていた女の子が小さく手をあげた。照れくさそうにのろのろと歩み出ていく。祥子も祐巳も、その場を動かず見送っていた。門の端によせて青い車がとまる。
 たぶん母親だろう、背の高い女性が早足で女の子と合流した。二言三言言葉をかわし、こちらに歩いてくる。
 門からすこし入ったところで立ち止まり、深々と頭をさげた女性は、会釈を返した祥子の顔をまじまじと見つめてしばし固まっていた。
「もしかして、小笠原祥子さん・・・でいらっしゃいますか?」
 頷くかわりに微笑んでみせた祥子に、女の子がちらとまた意地悪な視線を取り戻して、母親の袖をひく。
「お母さま?」
「ほら、あなたにも話したでしょう。紅薔薇さまよ、高等部の山百合会の」
 みるみる女の子の目が丸くなっていく。にわかにきまりの悪い思いがした祥子は、もう一度女の子の母親にむけて頭をさげてきびすを返した。
「ごきげんよう。・・・行きましょう、祐巳」
「はい」
 祥子におくれて頭をさげた祐巳が、小走りに追いかけてくる、その姿越しに見た校門のところに、まだ青い車は止まっていて、母親に促されるように女の子が後部座席に吸い込まれていった。



 なんだ、仲良さそうじゃない。
 また減らず心に浮かんだ言葉に、祥子は笑いそうになってしまう。
 女の子を見下ろした母親の顔は、それでも祥子にも見覚えのある気遣わしげなものだった。思い出した、といってもいい。祥子の母清子にも、あんな顔で見下ろされたような記憶が。ゆっくり触れられた手のひらも、その暖かな声も。
(どうして私は、いちいちそれを覚えていないのだろう)
 そうすればきっと、今よりも強い自分になれるのだろうに。
 祥子の沈黙に、黙って追随していた祐巳が、脇に出て並んだ。
「可愛い子でしたね」
 祥子に並んだ祐巳の言葉に、祥子は思わず眉をひそめた。
「口のへらない、の間違いではなくって?」
「そんなにすごかったんですか。でも」
「ええ。将来が楽しみなほど、ね」
 考えてみれば祐巳の入ってくる前に女の子は喋り尽くしていたから、祐巳の疑問はもっともだったけれど、それより何か言いかけた祐巳の言葉の先が祥子には気になった。
「でも、なに?怒らないから言ってごらんなさい」
「え、え、あの、でも」
 それきり口をつぐんで歩いている。返事をしたくないから、ではなく言葉を選んでいる顔。妹のそんなそぶりにいちいちやきもきしなくなったのも、ごく最近のこと。
 吹奏楽部の練習する音が聞こえてくる。マリア像の分かれ道が見えてきたあたりで、思ったとおり祐巳は話題を蒸し返した。もっともそれまで、二人黙っていたのだけれど。
「お姉さまの子供のころって、どんなでした?」
 祥子の考えていた答えから微妙にずらしている。祐巳らしい配慮だ、と祥子は思った。だから、
「少し、似ていたかしらね」
 祥子もまた、ピントのぼけた返答をしてみたのだった。
「可愛げのない子だったわね」
 それは、祥子自身について述べたことだったのだけど、祐巳は勘違いしたらしい。
「でも。おとなしく抱かれてくれたから、嬉しくて。・・・小さな体で、心臓がどきどきしてるのが聞こえて、それで、私・・・」
 自分の胸もとにそっと手を置いてうつむいた祐巳の横顔を見つめて、祥子は足をとめた。ちょうどマリア像の前だった。
「祐巳」
「は、はいお姉さま」
 手をあわせていた祐巳が、はじかれたように祥子の前に直立する。
「ほら。・・・曲がっているわよ」
 女の子を抱き上げたときに乱れたであろう祐巳のタイに、そっと手を這わせた。祐巳の表面にまとった暖かな空気の層がたやすく祥子の指先から感じられる。制服の半そでからまっすぐ下ろした祐巳の両手は、ローウェストの横でゆるく握り締められていた。
 祥子の手元を落ち着き無く見下ろしている祐巳の姿に、祐巳が感じているであろう自分の指の感触に思いをはせながら、祥子は薔薇の館でのさっきの光景を反芻していた。
 あのとき。祐巳の胸に抱きしめられていた少女は、あるいは私だったのかもしれない。抱きしめられた感覚も、彼女の気持ちの動きも、祥子には手にとるようにわかる気がしたから。今指先から伝わる祐巳の手ごたえとおなじくらい、それはひどく直接的に想像できる確かさだった。だから、私をめざして暖かく見上げてくる祐巳を、戯れにでも引き寄せたなら。
 抱きしめるのも抱きしめられるのも、その場ではきっと等価なことなのだ。祐巳の胸に包まれて、無限の安心を得ることができるかもしれない、私は――。それは押し付けられた焼きごてのような強い確信となって、祥子の背中を切迫し続けている。
「お姉さま?」
 祥子はいつの間にか、祐巳の髪のにおいを感じられるくらいに近づいていた。たちのぼる陽炎のような祐巳の体温に、名残を惜しんで指を離した。
 せめて、この子のことは、何もかも覚えていたい。・・・祥子は、祐巳の耳元に口唇をよせた。
「ふふふ。祐巳、いい香りがしてよ」
 とたんに耳まで赤くした祐巳が、木の人形のようにカクカクと祥子から後ずさる。
「そそそそんな。今日暑かったし、体育もあったし、それに・・・」
「ふふふふ」
「・・・お姉さま、意地悪仰ってますね」
「そうかしら」
 わざと軽やかな声を出して、祥子は石をしきつめた路の上を歩き出した。
「もう会議は始まっているかしら。さすがに令に怒られてしまうわね」
「あ、はい、お姉さま。急ぎましょう」
 夏の残りの日差しはまだまだ高いところにあって、照らされた並木道は川面のようにまぶしく輝いていた。



                        

<了>

                                              

戻る

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送