暗香








 人生は消費。
 噛みつき合い、血肉をそぎとられ、恥ずべき白い骨となって横たわるまで。
 無慈悲に繰り返される舞踏。
 たぶん、きっと。



 さるすべりの花びらが散りばめられた土の上を、あの人は来る。
 薄く開けた目でその姿を追いかける私は、眠ったふり。
 水気をおびて盛り上がった地面は、やさしい小山のような苔が覆い、木陰の湿気を吸い込んだ桃色の花びらは、木から離れてなお、生きているかのように瑞々しい。
 寄りかかった倉の白壁は、午前中わずかに当たった日のぬくもりをまだ抱えて、うっすらと生ぬるい。
 頭の上に枝を張った柿の葉の緑は強くて、中空にさしかかった陽気な日差しはここまで届かない。あかるい日なたで、手をかざしてこちらを見た彼は、いつものように目を細めて、確かめるような動作をする。
 それから、真っ直ぐではなくて、私が山のてっぺんにいるかのように右手に見ながら、カーヴを描いて近づいてくる。
 気を配った足取り。やわらかに空気をたたえたバームクーヘンみたいな土が、彼の足元で踏まれ、紫色の息を吐く。
 私の頬は嬉しさをこらえきれず、徐々に緩み始めている。
「起きているんだろう?」
 彼はまたいつものように、さるすべりの木のところで立ち止まり、すべすべした木肌に長く繊細な指をかけてこちらを見おろす。
 私は、口元にわきあがる笑いを押さえきれず、唇から小出しに外へ送り出す。
 熱をおびた空気が、体の外に露出する恥ずかしさ。
「やれやれ。困ったひとだ」
 強く閉じたまぶたの裏で、ふたたび足音がひびく。
 にちゃり。にちゃり。
 肉を踏むような生々しい響きが、空気を押しのけて近づいてくる。 
 私の腕も腰も脚も、熱くしびれたようにふくれあがり、動けない。
 彼の影がかかり、私の瞼の世界を覆いつくすまで。
 逃げることなく、待っている。



   ***



 土曜の授業があけて、中庭の清掃を終えて道具を片付け、連れ立って掃除日誌を届けるべく歩き出した祥子たちの前を横切って、灰色の集団が渡り廊下を進んでいく。
 会釈で見送ったシスター達の後姿は、沈痛な重荷を全員で運んでいるかのごとく真ん中に向けてたわんでいる。
「どうかしたのかしら」
 彼女たちの重苦しい雰囲気はいつものことだが、と思いながら祥子は尋ねる。
「あら。祥子さんはご存知なかった?」
「シスター・桑原、お亡くなりになったということよ」
 振り返ったクラスメートたちが口々に告げて、祥子は一人のシスターの肖像を思い出す。
 シスター・桑原はリリアンで唯一、学園長のシスター・上村より歳が上のシスターだった。学生たちの身だしなみや歩き方などにやかましく口を出すシスターもいるが、シスター・桑原はそういうタイプではなかった。
 かといって、愛想がいいわけでも、進んで生徒たちと交流を持とうとするわけでもない。常に彼女は、直角のしわの走るこめかみを陰鬱に地面にむけ、せかせかと忙しく歩み去る。だから、祥子が真っ先に思い出したのも、あわただしく前後する彼女の、僧服に生えた枝のような細い足首の、張り出したかかとの腱だった。
(もし。その体を火にくべたなら、あのかかとの筋だけ焼け残るのかもしれない)
 不謹慎かつ、気味のわるい想像だと戒めつつ、祥子はそんなことを考えてしまう。だから、
(ばちがあたったのかしら)
 その放課後、誰も残っていない教室の席に一人座って、祥子は気を紛らわせるべくかすかに苦笑したのだった。
 教室に戻ってすぐ、差し込むように訪れたお腹の痛みも、もうだいぶ薄れている。痛んだところに重ねた手のひらの下で、わずかに食い違ったものが、ゆっくり一所に還っていくにぶい音が、祥子の内奥から水泡のように立ちのぼるイメージ。停止した思考の中で、重たいページを繰るように、ついさっき何食わぬ顔でクラスメートを送り出した自分であるとか、殉教者のように廊下を過ぎたシスター達の光景であるとか、かわるがわるよぎっていく。
 まるで言い訳でもするように、気持ちの悪い想像を訂正しようとする心の動きを感じる。ひび割れて乾燥した大地に置かれた一角獣の角は、シスター・桑原の焼け残ったかかとの腱だ。とぎすまされたヤリの先端のように研ぎ澄まされ、貝殻の裏の奥深い光沢をまとい、見つめるたびに色を変えていく。聖域に隠されて滅多に見ることのない神々しい象徴のように思えてくる。
 祥子は、鞄を持ってゆっくりと立ち上がった。
 黒板には、ガラスの破片のように、午後の日差しが放恣に散らばっている。一歩出て見渡す廊下も教室の連なりからも、何の物音もしてこない。

 スタンドの手前に置いた時計が控えめな時報を鳴らして、日付けの変わったことに気づく。
 カーテンの隙間の暗闇に浮かぶ母屋の明かりを見やって、夜遅くまで起き出していても何も言われなくなったのはいつからだろうと思う。祥子が中等部に上がったばかりのころには、この時間まで明かりをつけていればお手伝いの人が気遣ってやってきたような記憶がある。
 天井の蛍光灯を消して、祥子はスタンドの明かりに寄り添った。9月になったばかりというのにうす寒い部屋の空気に、電球の熱がちょうどいい。
 少しだけカーテンを引きあけると、オレンジの光沢をおびた祥子自身と部屋の輪郭が幽霊のように浮かび上がる。目と目をあわせて、その向こうの暗闇に目をこらす。
 今は机を置いて隔てるこの窓から、もっと幼いころには、祥子は庭に自由に出入りすることができた。
 窓の下に置いた大きめのサンダルをつっかけて出ると、飛び石のつたう和風の庭園。こんもり盛り上がった芝生に、年中陰気な色をして刈り込まれた松を尻目にさらに行くと、錦鯉のたくさん泳ぐ三日月形の池があり、池に向かって下るゆるやかな斜面には百合や菊、秋桜やパンジーなど折衷で詰め込まれた花壇。斜面の頂点には椿や山茶花といった比較的背の低い木々が尾根をつくり、その細い幹の間にもぐりこむと、母屋からはまったく見えなくなる。格子のようになった幹と、垂れ下がった枝の間から母屋や屋敷の表玄関に立つ洋館を見おろしていると、後ろめたいような、もの寂しいような奇妙な快感があったことを覚えている。
 そこは、幼い祥子にとってお気に入りの場所だった。不意の来客などで父母があわただしく、お手伝いさんにも構われないときなど、祥子は好んでそこに「隠れ」た。けれど、隠れている、ということ自体を知られたくなかったから、家のものが気づいて探し始めるより先に、部屋に戻っているのが常だった。
(そういえば、しばらく庭に出ていないわね)
 まだ窓の下にはサンダルがあるのだろうか。そんなことを考えながら、カーテンを閉ざしてスタンドを消し、ベッドにもぐりこむ。
 掛け布団がふわりと落ちかかり、自身の体から立ちのぼるにおいを祥子は気にする。このところ毎日のように、祥子は寝床の中でのめりこんでしまう。
 指先を鼻先に押し当てる。手首のあたりまでずらし、軽く歯をたててみる。嫌なにおいというわけではないし、気になるほど強いわけでもない。けれど、皮膚のにおいなのか肉のものなのか、無色ではない存在が確かにある。どんなにお風呂で隅々まで体を洗おうと、寝る前に手をゆすいでみたところでなくならないにおい。その執拗さにわずかに苛苛しているうちに眠りに落ちるのが、祥子の習慣になっていた。
(子供の頃には、まったく気にならなかったのに)
 体のにおいなんて、無かったのか。それとも、祥子の中で何かが変わって、気づくようになったのか。
 その晩、布団の中で身をよじる時間はいつもより長く、今はもうこの世の人ではない老シスターの姿を祥子はまた思い出す。彼女が死んだことを知ってむしろ、枯れ木のようだった彼女の中で脈を打っていた血肉の存在をはっきり感じられることに、祥子は不思議な驚きを感じる。
 60年かそこら、祥子の先を生きた彼女。それだけ長く女を続けていけば、今の自分の体臭はさらに強くなっていくばかりなのだろうか。意識が途切れる前、祥子はそんなことを考えていた気がする。



「祥子お姉さま」
 水曜の昼休み。午後一の授業にそなえて教室移動していた祥子は、開け放した廊下の窓から声をかけられた。
「瞳子ちゃん」
 親戚で二学年下の彼女は、声をかけた窓際から元気に駆けて、わざわざ渡り廊下への出口からまわって祥子のいる廊下に飛びこんでくる。
「走らないの」
 祥子の前まで来るのを待ってたしなめると、胸元の黒いリボンに手を置いた瞳子は、芝居がかって深呼吸して、悪びれずににっこりした。全体的に肉のうすい体つきの中で、いきいきと潤った瞳が、彼女の生命の中心のようにキラキラしている。
「だって。祥子お姉さまにお話できるのひさしぶりだったから、嬉しくなってしまったんですわ」
「夏に、別荘で会ったでしょう」
「ええ。だから、ひと月ぶりですわ。ひと月って、長くありません?」
 くるくると縦に巻いた髪に指をかけ、上目遣いに祥子をうかがう瞳子の視線に、祥子は慣れた反発をおぼえる。彼女の祥子に懐く感情は本物だろうと思うけれども、余計に大人びた態度が、何か周囲を見下しているような印象を与える。損をしているな、と思う。
「最近、祥子お姉さま全然瞳子を家に呼んでくださらないんだもの」
「中等部も三年になれば忙しいの。来たければ来ればいいでしょう、あなた昔から約束もなくたずねてきたじゃないの」
「あ、そんな言い方ってないです、瞳子傷つきます・・・」
 大げさに体を振った彼女に思わず吹き出しながらふと見ると、瞳子の胸にかかえた筆記用具入れに、アクセサリーのようなものがぶらさがっていることに気づく。透明なビーズで出来た熊か何かの人形。
「瞳子ちゃん、それ・・・」
「気づきました?さすが祥子お姉さま」
 瞳子がいそいそと差し出した用具入れを、祥子は軽く手で押し戻した。
「駄目よ瞳子ちゃん。こういうの持ってきたら。校則に違反しているわ」
「えー?でも、これ今とっても流行ってるんですよ、原宿とかの若い子の間で密かなブームとか」
「だったらなおさら、そういうのって軽薄で好きじゃないわ」
 あなたも若い子でしょうに、と思いながら歩き出した祥子の隣で、瞳子は身をすりよせるように食い下がる。
「祥子お姉さまったら。高等部に進んだら薔薇さまにおなりになる方なんですから、もっとこういうことにも積極的に冒険してくださらないと」
 祥子はまた小さく吹き出してしまう。
「気が早すぎるわよ。・・・山百合会の薔薇さまって、そもそも薔薇さまの妹として見初められないといけないんでしょう?」
「祥子お姉さま以外に、薔薇さまにふさわしい人なんていません」
「はいはい。・・もう自分の教室に戻りなさい、瞳子ちゃん。それにね」
 階段を上がりかけて振り向いた祥子を、瞳子は口をとがらして見上げている。
「もしも私が薔薇さまになった暁には。そういうの、ビシビシ取り締まるわよ、いいの?」
「そんな。・・・祥子お姉さまったら、もう」
 甘えた声の末尾が残るうち、踊り場のところでちらと振り返ると、階下に瞳子の姿はすでにない。胸元で手を握り締めて頬をふくらませた瞳子の視線がまっすぐ自分に突き刺さるのを回想して、祥子は新鮮な感覚をおぼえる。これはこれで好ましいなあ、と思う。



 さるすべりの花びらは、不死の動物の肉片のように、高慢にそりかえって天を向く。
 夏の残り香にうっとり汗をかいた地表を、紅桃色に覆いつくす。
 祥子はまた、柿の根元で待っている。
 彼は来ない。それは、しかたがない。一年は365日あっても、そのほとんどは満足できないまま終わる一日だということ。そのくらい、子供の祥子にもわかっている。大人たちに頼んでも、泣いてもわめいてたって、どうにもならないこと。
 ひょろっとした山モミジと椿の枝の間から、午後の光に白けた母屋の屋根が見える。瓦を囲うといの上にとまっていた黒い鳥が、二羽三羽、続けて飛び立つ。羽音もなく、緩やかに羽ばたきながら飛び行く姿を追って目を水平に動かしていると、前触れもなく建物の影が視界に飛び込んできて、一瞬何も見えなくなる。
 夏の日差しは、底の詰まった容器に降り注ぐがごとく、地面すれすれに溜まって色あせていく・・・。
 ふと、時間の感覚を取り戻して祥子が目を開けると、あたりを圧迫していた熱気はやわらいで、目に映る世界は、するどさを失った橙色の明かりにつつまれ、息を吹き返しつつある。
 近いところで、乾いた葉がこすれ合うような音がした。
「また、ここにいたんだ」
 振り向いた祥子と、さるすべりの幹をはさんで、彼は歳より大人びた表情を見せた。
 祥子はおそるおそる、抱えていた足を伸ばす。汗をいっぱいかいた膝の裏に、風があたってひんやりする。
 いつものように、ゆっくり回りこむように彼は足を運ぶ。逆光になった顔の中で、その目は祥子を指しているのか、わからない。
 やがて、そろえた祥子のサンダルに向き合うように彼の茶色の靴がならび、実際の彼の体よりふたまわりも大きな濃い影がすっぽり祥子を包み込む。とたんに感情があふれて見上げた祥子に、彼は目をそらすように背後を見やって言う。
「君がいつもこんな奥まったところにいるものだから。かわいそうなことをしてしまったね」
 祥子のもとにたどり着くのに、踏みつけて屈服させたさるすべりの花びらにむけて放たれた言葉なのだ、とおくれて理解したとき。ため息まじりに額の汗をおさえた指が、昆虫の足のようになまめかしく動くのを見たとき。
 祥子ははっきりと、彼を手放したくないと感じたのである。
 それは食欲にも似た感情だった。

 思い返してみると、たかが一つ歳の上なだけの彼が、何ゆえこれほど大人びた印象で祥子の中に残っているのか、よくわからない。あるいは、父の姿と混同している部分もあるのかもしれない、と思いながら、父が自分を探して庭を歩きまわるような人ではないという認識が、それを妨げる。人となりがどうというより、祥子の周囲の大人たちは、いつも忙しかった。従兄の彼は、そんな祥子の隙間にちょうどよくおさまっただけだったのだろうか。
 その彼とは、今年の年始に会ったきり。最近のことなのに、そのときのことははっきり思い出せない。
 祥子は、鏡台の上の箱におさめられていた口紅をそっと取り上げた。
(あたりさわりのない会話くらい、交わしたかしらね)
 母の部屋は、小笠原の家でも最も日当たりの悪い位置にあって、まわりからたびたび入れ替えを薦められながらも、いつもやんわり退けて確立した陣地である。
 内装が殺風景なせいか高く感じる天井にむけ、倉のようにのっぺりした壁がそそりたち、天井に接するあたりで小さな窓にたどりつく。8畳程度の部屋で、窓はそこにしかない。衣服のぶらさがった押入れの扉を閉めると本棚と鏡台くらいしかなくなる部屋に座り込んでいると、海の底にいるような気分になる。
 窓の反対側には小さな板張りがあり、そこに母の活けた花が置かれ、鏡台の鏡にそれが映っている。ダリアだろうか、部屋に似つかわしくない黄色い豊かな花びら。
 この部屋に来たのも久しぶりだった。10歳になるかならないかの頃、ここで母にお化粧の手ほどきを受けた記憶がある。子供とはいえ、パーティなどに同席する機会の多かった祥子にとっては半ば義務で、あまり楽しくはなかった。化粧品の強い匂いと色に、気分が悪くなった覚えがある。
 手にした口紅のキャップをとる。どこか透明感のないピンクは、野山の花が実際にまといそうなくすんだ素朴な色だった。あまり使われた様子のない先端は均一に輝き、かすかな香りが立つ。
 膝をくずして、祥子は小さな窓を見上げた。午後おそい日の光は、天井にわだかまった祥子の体温をかきまわして、細かな粒子を散らす。
 素足のふくらはぎの内側に当たる青ざめた畳の感触。青くかぐわしい草の茂る野っ原に腰をおろしているかのように、やわらかくとがった葉の先端が祥子の足を撫でていく。体の熱や血や、そのほかさまざまのものが、接しているところから畳へ、床下へと、拡散して落ちていく感覚を思い浮かべる。
 その日祥子は、放課後に出席した英会話の教室から気分がすぐれなくて途中で帰ってきたのである。やはり、熱でもあったのかと思う。
 口紅を持ち替えて、先端を左手の甲に押し当てる。予想していたひんやりした感覚がないことに、祥子は少々戸惑った。口紅は、祥子自身の肉の一部のように、違和感なく皮膚に乗っかっている。ふと、お化粧を教えてくれたときの母の、やわらかな指の動きを思い出す。
 どこか遠い家の中で名前を呼ばれた気がして、祥子は身を起こした。それでも、すぐに立ち上がらずにぐずぐずと膝をかかえ、小さくなる。胸の前に組んだ手のにおいをかぐと、丸く痕のついたままの口紅がかすかに香った。
 もう一度誰かの声が聞こえて、祥子は立ち上がりながら、化粧品のにおいに抵抗がなくなっていることに気づく。



「いつも、ここにいるね」
「いつもじゃないわ。私がここにいるときに、あなたが来るだけでしょう」
「ふうん。お気に入りの場所じゃないのかな」
「別に。どうだっていいでしょう」
「ここから、君は。女王さまみたいに見おろしているのかい?」
 彼は手を広げて、さるすべりの周りを歩きながら言う。
「何のこと」
「ちょっと高くなってるから。小笠原の家の敷地があちこち見通せるじゃないか。君はここで、何から何まで手に入れたような気分で、偉くなった気になっているんじゃないかい」
「そんないいものじゃないわ」
「そうかい?」
「嫌な人ね」
「うん。よく言われるよ」
 そこで二人はそろって笑った。十年来の友人のように、気心の知れた笑いだったような気がする。
 夜中に目が覚めて、お手洗いに行った帰り、長く暗い廊下を歩いて自室にもどるさ中、祥子は唐突に思い出したのである。従兄と交わした、おそらくは二度目の会話を。
(それにしても)
 あのときと似た、たぶん同じ気持ちから発した笑いが、祥子の腹腔から湧き上がる。
(二人とも子供のくせに。どうして、あんな可愛げのない会話しかできなかったのかしらね)
 笑いながら、祥子は気づいた。たぶんあのときはじめて、祥子は自分が自分以外の誰にもなれないことを寂しいと感じたのだった。従兄の目を見、言葉を交わしながら祥子は無性に寂しかったことを覚えている。この先何十年生きて、誰を好きになり求めても、決して他の誰かになりかわることはできないということ。あのときの名状しがたい感覚は、そういうことだったのではないだろうか。
 いや、と祥子は打ち消す。あるいは、15になった現在の祥子の、夜の暗がりに弱気になった心の産物にすぎないかもしれないじゃないか、と。
 長い廊下は夜そのものに溶け込んでいるかのように静まり返っている。



   ***



 9月の最終週には、何度も水不足のニュースの流れた盛夏とうってかわって雨の日が続いた。それも毎回、髪でも洗えそうなくらいたっぷりと、長い時間をかけて降り注ぐのだ。
 週末の土曜も、雨をこらえているような空模様だった。学校から戻った祥子が自室で着替えて台所に出ると、お手伝いさんが電話の子機を持ってくる。
『祥子お姉さま。今日これから、お伺いしてもよろしいでしょうか?』
 瞳子だった。よそ行きの声はらしくもなく硬い。構わないと告げて受話器を返すと、玄関の方に車の音が聞こえた気がする。瞳子にしてはいくらなんでも早すぎると考えていると、荒々しい足音の主につづいて、追いかけるように母が現れる。
「あら?お父さま、お帰りなさいませ。珍しいですわね、こんな時間に」
 次の間に消える父の足取りにいささかの停滞もなく、祥子に返事も返さなかったことに訝しく思っていると、「融さん」と小走りに前を通り過ぎた母の表情を見て、これはただ事ではないと祥子は気づいた。
 居間と隣あった客間につづく扉が開け放たれ、物が倒れるような大きな音と、聞いたことも無いような父の声が響いてくる。
「分からず屋め!」
 それは、祥子のはじめて見る父の姿だった。家にいるとき、こと祥子や母に対しては卑屈なほど軽薄に振舞い、その一言も聞き逃さずに冷静でウィットに富んだ返答を返すのを得意とする父が、他のいっさいが目に入らないというふうに、つま先を上げて部屋中をいらいらと歩きまわっている。マホガニーの壁や、天井や、南の庭に開けた窓や、あらゆるところに短気な視線をひっきりなしに飛ばし、神経質につりあげた唇からは言葉にもならない悪態が数珠繋ぎに垂れ下がっている。
「お仕事でね、ちょっと、ね・・・」
 和装の母は祥子に気づいて、小声で言った。
 部屋に入ってよく見ると、三つ並んでいた客用のソファの一つは横倒しになり、隣にあったと思しき小卓も押されて斜めに壁に突っ込んでいる。蹴ったのか殴ったのか、物にあたる父というものも祥子にとってははじめて見るものだった。
 ソファの足元のマットにはめりこむようにガラスの灰皿が落ちている。毛足の長さのため割れずに済んだらしい。部屋の中で起きたことが具体的にわかってくるにつれ、祥子の衝撃もだんだんに落ち着いてくる。
「こんな融さん、はじめて見たわ・・」
 呟いた母はもうすっかり落ち着いた様子で、どこか憐れみのこもるあたたかな瞳に、祥子は嫉妬のような感覚をおぼえる。今は足をとめ顎に手をかけてうなだれた父の背中は、見たこともなくみにくく縮んで見えた。祥子の中で急激に暴力的な思いが高まる。
 あんなみじめなもの、放っておけばいいのに。
「みっともないですわ」
「祥子さん」
 祥子の声を聞きとがめた母の声には、はっきりと非難の色があった。
「あんな大声を出して、椅子を倒したりして。うらやましいですわね、私もやってみたいものですわ」
 母が息を呑む気配がした。戸口につめかけた使用人たちを押しのけて、祥子は廊下に走り出た。
 まっすぐ自分の部屋にもどり、机をずらして、窓をひき開けた。丈の短い縁側の下にはサンダルはなかった。
 素足で降りた庭の土は、連日の雨をまだもてあまして、しっとり潤んでいる。
 もし誰か見ていたら、逃げている、と思われたくなくて、祥子はことさらゆっくり足を運んだが、記憶にある隠れ家への道のりは実際にたどるとちっぽけで、日本庭園も斜面の花壇も、ミニチュアセットかと思うくらいあっさり通りぬけてしまった。
 かつて門柱のようにそそりたって見えた椿の枝も、祥子の胸のあたりまで垂れ下がり、くぐるために腰を深くかがめなければならなかった。
 スカートの汚れるのもかまわず、柿の木の根元に腰をおろす。ポケットに硬いものを感じて取り出すと、この前母の部屋で手にした口紅だった。鏡台に戻したつもりが、ポケットに入れっぱなしだったらしい。
 さるすべりの花は、もうほとんど落ちて、黄色く変色した苔むした土に同化しかかっている。
(お父さまに。ひどいことを言ってしまったわ)
 葉のうすくなった柿の枝と、さるすべりの小粒な葉を通して見上げた空は、午前中よりはだいぶ雲も薄く、明るくなってきていた。くすんだ花壇越しに母屋の方を見やっていると、祥子を呼んだ母の声を思い出して、いまさら自身のどこかが青ざめるのを感じる。
 どうしてあんなことを言ってしまったのだろう。
 自分を追い詰めていたのは父なのに、なぜ私は余裕もなく、自らが崖の縁に立っているように感じてしまったのか。
(わからない)
 動きを止めた体からは急速に熱が奪われていく。風のない地表に染み出た湿気が下から衣服に吸い込まれ、濡れているかのような不快感が這い上がってくる。
 祥子は目を閉じた。
 忙しく動きまわる目の中の火花に耐えてじっとしていると、まぶたの暗闇から、無骨に削り出されたほの温かいなにものかがゆったり流れ出してくる。一瞬だけただよった嫌悪感につづき、どうにも子供じみた感情が祥子の中からあふれて、止める間もなく暗闇にもたれ、甘えかかろうとする。
 こつ。こつ。庭のどこからか、鳥が木の幹をつつくような音がする。
(ごめんなさい。大好きよ)
 父のものなのか誰のものか、立ちのぼる見も知らぬ男の気配に、祥子はほとんど泣きつかんばかりにすがりつき、言葉にならない謝罪を吐きかけていた。膝の上で組んだ腕とももの間で、抱えた暖かい空気が、どうにもならないほどいとおしかった。



「・・・祥子お姉さま?」
 きっと見たこともない表情だったのだろう。垂れた柿の枝の向こうに立った松平瞳子は、首をかしげた顔の上で、何時間も声をかけるかどうしようか迷ったような思いつめた目つきだった。
 足音は聞こえなかった。足音をしのばせるのが得意だ、と本人が言っていたのを祥子は聞いた覚えがある。
 祥子が顔をあげたとたん、気弱な表情を一転して引っ込め、瞳子は腕を後ろに組んで胸を張った。
「どこにいらっしゃるのかと思いましたわ。お家の方も、ご存知ないと仰るから」
 祥子の黙っているうちに勢いを稼ごうとでもするのか、瞳子は笑みをうかべてさるすべりの幹をまわる。
「こんなところありましたのね。私、ちっとも知りませんでしたわ」
「・・・瞳子ちゃん」
「あ、お父さまが探してらっしゃいましたわよ。祥子に悪いことをした、って。気にしないで――」
「黙りなさい」
 照れくさい、というにはあまりに純粋な怒りがあった。一瞬硬直した瞳子は、地面の落ち葉や花びらをのろのろと目で追って、なかなか祥子の顔にたどりつけないでいる。
「こっちに来なさい」
 裸足の足を横にかくして、祥子は落ち着き払った声を出した。小動物のように背を丸めて祥子の傍にやってきた瞳子は、一度だけ目をあげて祥子を見た。
「座りなさい」
 言われるがまま膝を曲げた瞳子の茶色のツイードスカートの腰に、先日見た動物のアクセサリーがぶらさがっている。
「なによ、こんなもの」
 握って軽くひねると、人形は簡単にちぎれ、はずみで二つ三つのビーズが散らばる。あ、という瞳子の声を顔の横で聞きながら、祥子は手の中のものを潅木の茂みに放り込んだ。
「祥子・・お姉さま」
 瞳子の語尾は震えていた。
 彼女の登場にわけもなくかきたてられた怒りは、祥子の中から消えていた。とはいえ笑顔もつくれずに、祥子はできるかぎり表情を殺して瞳子にささやいた。
「黙ってなさい」
「・・・はい」
 赤黒い地面に吸い寄せられるように、抱えた膝の真下に瞳子はうつむいている。普段の彼女の高慢な態度や気丈さの半分は見せかけなのだろう、と祥子は新鮮に想像する。実際、幼馴染みであるにも関わらず、今まで見た中で最も線の細い瞳子に、祥子は出会っていた。
 瞳子のショートブーツの足の甲に手をおいて、四つんばいにぐい、と前進する。驚いたように顔をあげた瞳子の額に、祥子の影と長い髪が落ちかかる。祥子の髪を払い、ついでに瞳子の前髪をやさしくかきあげてやると、彼女は息をとめたように顔を赤くした。
 自分の顔を映して見開いた瞳を見おろしながら、今ここで涙を落とせば、そのまま瞳子の瞳に注がれるだろうか、などと祥子は考える。 
 祥子はポケットをさぐり、母の口紅を取り出した。キャップを抜くと、その音に目を落とした瞳子が小さく口を開ける。
「口紅。塗ったことがあるかしら」
 祥子の問いに、「まだ、そんなには」と小さく答えながら、なぜか瞳子は何度も頷いている。
「塗ってあげるわ」
「でも、祥子お姉さま」
「黙っていろって、言ったでしょう」
 肩に手を置くと、瞳子は叱られた猫のように体を縮めて、わずかに背中の柿の幹に後ずさった。
 口紅を手に、それを祥子に教えたときの母の手つきを思い返していると、瞳子は何も言わないのに目も唇も堅く閉じている。
「罰よ、これは」
(何のよ)
 即座に祥子は自問する。瞳子はまた、頷いた。
 硬くすぼめた瞳子の唇を見ながら、祥子は髪をあげた瞳子の額に口紅の先端を押し付けた。
「ひゃっ」
 セーターのハイネックに顎をひいた瞳子が、「冷たい」と額をぬぐおうとする腕を押しとどめる。
「嘘おっしゃい。冷たいはずはないわ」
 我ながら無茶な物言いだ、と思いながら、瞳子の縦巻きの髪に指をかけて押さえて顔を寄せると、日なたのような、なつかしい匂いが祥子に向け立ちのぼった。祥子を見上げたままの瞳子の視線から目を外さないようにしながら、赤みがかったその頬に口紅を下ろす。
 そのまま横にずらしていく。瞳子の肌の質感が、水底からの音を拾うように、祥子の指先に伝わる。口紅を離れたピンクの線は、元よりもあざやかに、まるで瞳子の皮膚そのもののように瑞々しく光を放ち、祥子はいきなりどきどきと胸を高鳴らせた。
 気持ちを抑えて、さらにもう一本。厳かに、息すらこらえて、何かの儀式のように、瞳子の首筋と耳の境まで、今度は長く丁寧に引く。
(よかった)
 口紅を離し、身を起こして瞳子を観察して、祥子は安堵したのである。瞳子の向かって右の頬に引かれた二本の線は、西の空に顔を出した古びた日の光のもと、はっきりとただの悪戯書きの範疇におさまっていた。
「もう、いいわ。瞳子ちゃん」
 さらに一歩離れた祥子にようやく安心したように身をゆるめた瞳子が立ち上がり、食べ物のかすでもついたかのように、しきりに眼を動かしたり肩をすくめたりして自分の頬を気にするのを、オレンジ色に暖まったさるすべりの幹に手をかけて、祥子は可笑しさをこらえきれなくなる。
「ええと・・祥子お姉さま」
 おずおずと陽の中に出てきた瞳子は、太い眉をしかめて怒ったような表情をするものの、その下にはしる感情の波が信号機のようにめまぐるしく色を変えて、なんとか唯一の堤防としてうかべた不恰好な笑みが、祥子にとってはまた可笑しくてたまらない。
 そしてあいかわらず頬に鎮座した、二本の馬鹿みたいなピンク色。
「ごめんなさい。ごめんなさい、瞳子ちゃん」
 口紅を手に瞳子を見おろしたとき、祥子の中に浮かんだ、思い返してもぞっとするような暗い気持ち。それがいっさい現出しなかったことに、祥子は全身で感謝したくなったのである。夢のような安心に後押され、祥子は身を二つに折って、思う存分笑いを吐き出しつづけた。
「祥子お姉さまったら!・・・もう、ぶちますわよ!」
 バタバタと大げさな音をたて、鳥の雛のように両手を振って、瞳子が駆け寄ってくる。



 絶えず流れ行く秋の空に、名もなく年老いた小さな草は、遠い町の上に浮かんだ半熟卵のような夕日をうけて、乾き始めている。心地よい触感を足の裏でたのしみながら立つと、かつて丘のように思っていた斜面も、たいした傾斜ではないことに、祥子は気づいた。
 けれど失望はない。それだけ、自分の背丈が伸びたということなのだろうと思う。
「もう家に入りませんか、祥子お姉さま」
 祥子の斜め前に立った瞳子が、穏やかな目つきで言う。口紅の跡が血管のように残った頬に、後で綺麗に拭いてあげなければ、と思いながら、祥子はゆっくり頷いた。
 祥子の差し出した手に、 遠慮がちに腕をからめた瞳子が、「祥子お姉さま、いい匂い」と目を細めた。むしろ哀しげな表情だった。
「そう?」
 背中に広がる世界を、柿や、さるすべりや、倉や、その向こうの町並みまで意識しながら、祥子は振り返らずに歩いた。視線を送らないことで、それらが無くなってしまうようなかすかな恐怖。それでも、雲の上を歩くようなおぼつかなさの中で、愚鈍に足を運びつづけてさえいれば、新たなぬくもりにたどり着けるのではないか、というような淡い期待がある。
(ふふ。小笠原祥子。この甘えんぼさん)
 嘲るように、戒める。
 粉をふいたようにかがやきだした低い雲の上を、煙突の煙のような飛行機雲が、東から西へと横切っていった。






                         

<了>

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