ブ ラ ン チ








 薫煙でいぶしたような深い色の廊下に、どこか離れた窓から反射してとどいた光が、こみいった模様を描き出している。
「ごめんください」
 三度目の呼びかけをしながら、がらんとした客間を抜けて次の間に入りコートを脱ぐ。広い家の奥で、ふすまと桟がこすれてさえずる。僕はわざとスリッパの足音高く、ねこ脚のダイニング・テーブルの鏡面のような天板の脇をすり抜けていく。
「優さん?」
 家人で使う台所に入り、シンクで手を洗っていると、声がかかった。戸口の低い階段から僕を見下ろした彼女は、丈の長いすっぽりしたワンピースに長い起毛のセーターをひっかけている。
「やあ、さっちゃん」
「あら、まあ。家のものは誰もいなかったの?」
 彼女は目をしばたかせながら、手を拭く僕に近づいてきた。
「玄関の外では会ったんだけどね。お手伝いさんも皆外に出て、総出で庭仕事をしているみたいだった。正月も目前だから、やることがたくさんあるんだろう。昨日まではずっと天気がよくなかったからね」
「今日は暖かいわね」
「うん。よく晴れてるよ」
「お腹がすいたわ」
 シンクのふちを両手で握ると、猫のように背をそらせ、いつも行儀のいい彼女はめずらしくそのまま小さくあくびをした。



 彼女は素足で、白と青のタイルを踏んで僕の横をゆっくり歩き、背もたれのない三本足の椅子に腰をおろす。
 ほぼ正方形の部屋の二面を高く囲う、ぶ厚いガラス窓の向こうには、目の高さくらいのサカキの茂みと、黄色く乾いた芝生に挟まれた散策道が見える。
 窓から入って脱色した光は、影をつくらないやさしさで、白い窓枠や冷蔵庫、壁から下がったたくさんの鍋やフライパンを包んでいる。
「久しぶりに、よく寝たわ」
 テーブルに肘をついた彼女の頬はうすい皮膚に子供のように血管を浮かせ、先端に少し癖のついた長い髪は水を吸ったばかりの庭木のようにふっくらとしている。
「今起きたばかりかい?」
「ええ。ひどい顔をしているでしょう。お父さまもお母さまも、私を起こさずに出かけてしまったのね」
「日曜だからいいさ。何か食べるかい?」
 腕まくりをした僕は、手近にあったフライパンをこつこつ叩いてみせた。
「何ができるかしらね」
 彼女はゆるやかに立ち、冷蔵庫を開けてかがみこむ。僕はコードの抜かれていた電気ポットに水を注ぎ、コンセントに挿した。
 樫の木でできた古いテーブル、皺の寄ったようにひびわれたぶ厚い板の上に、次々と食材が並んでいく。キャベツ、チコリ、レタスにベーコン。椎茸、あさつき、木綿豆腐、卵。茗荷にパプリカ、グレープフルーツ。剥き栗につづいてパックされたローストビーフが出てくる段で、僕はたまりかねる。
「さっちゃん。いったいどれだけ食べるつもりなんだい」
 くすくす言いながら、彼女は冷蔵庫の扉を閉め、食材の並んだままの色とりどりなテーブルに手をついて、さらに笑う。冗談よ、優さん。しなやかにかたむけた首筋にこぼれ落ちた笑い声は、そのまま数珠繋ぎになってころころ、斜めになった彼女の体の線にそって流れ下る。
「まだ眠ってるんじゃないのかい」
 僕が言うと、彼女はさらに上体を曲げて苦しそうなほど喜んだ。



 彼女は従妹で、家同士の決めた許婚だ。自由に遊びまわることを禁じられた子供のようなその約束は、大人たちの手垢がつきあちこちよじれ、綻びかかっていてもまだ一応、僕と彼女の間に横たわっている。
「紅茶は食後でいいかな?りんごがないから酸っぱいかもしれないけれど、ジュースをつくろう」
「優さん、卵を焼ける?難しいわね、これ」
 頼んだとおり、不器用な手つきでじゃが芋をむく彼女の隣で、僕はグレープフルーツとオレンジの実を取り出し、ジューサーに放り込む。
「卵か。今こっちで茹でているんだけど、他にまだ食べたいかな?オムレツか、それとも目玉焼き」
「あ、そうね。ポテトサラダなのよね」
「とりあえずパンを焼こうか。起きぬけはいつも食欲がないだろう、君は。だからサラダとスープくらいでいいかと思っていたよ」
「そうね。でも今日はたくさん食べたいのよ。どうしてかしら」
 食欲があるのが嬉しいとでもいうように、彼女は自分の頬にそっと手をあてた。テーブル下のチェストに乗った紙袋から塊の食パンを引き出していると、「待って」と彼女が指を立て、食器カゴの隣に置いてある、四角いタッパーにかかったふきんをとりあげた。
「お、パスタかい。手作りだね」
 枯れ草色の角ばった麺の束を手にとると、強めに振られた粉がしっとり表面になじんでいる。
「おとついね、母が作りすぎちゃって」
「冷凍しておけば良かったのに」
「そうなんだけど。これでなんとか出来ないかしら」
「やってみよう。卵と同じお湯はまずいかな」
 鍋をもう一つ火にかける。ガラスのボウルに入れたじゃが芋を電子レンジにかけ、ブロッコリー、キャベツをざくざくと切る。たまねぎをスライスして水にさらす。
「あんまり、たまねぎを沢山入れないで」
 彼女は卵を茹でている鍋の湯気をのぞきこんでいる。
「たまねぎは平気なんだろう?さっちゃん」
「ポテトサラダに入ったのはあんまり好きじゃないのよ」
「卵はもういいと思うよ。殻をむいてくれないかな」
「え、そうね」
 その後しばらく、偏食に対する僕のささやかな復讐に、つまりおっかなびっくり湯を捨ててまだ熱い卵の殻に取り組む彼女を、視界の端で楽しむ。水を流せばいいのに、こわばった爪の先だけで卵を取り押さえようとして「つっ」とか「あっ」とか声がもらすたび、彼女の裸の足の指が床を握りしめようと縮こまる。
「ねえ、優さん」
「なんだい、さっちゃん」
 フライパンにつぶしたにんにくと一緒に入れたオリーブオイルが熱するのを待っていると、彼女が隣に立って、まとめた卵の殻を三角コーナーに捨てている。
「私、大学はそのまま上がろうと思うのよ」
「大学部に優先入学ということかい?」
「ええ、そう」
 今度は僕は、遠慮なく彼女の横顔を振り向いてしまう。僕の視線を受けても、彼女は一仕事やりおえたような小さな陶酔に、ひっそり浸っているように、遠くを見つめていた。
 いいんじゃないかな。僕はそう答える。いいと思うよ。



 唐辛子とにんにくに軽く火を通し、ベーコンを加えて炒めはじめる。沸騰した鍋の湯につけておいたブロッコリーを取り出しフライパンに入れる。鍋にはパスタを放り込み、透明で陽気な生き物のような熱い塊の中を泳ぐさまをしばし眺める。
 彼女は僕と背中あわせになり、マッシャーでじゃが芋をつぶしている。ボウルから立つ湯気はちょうど彼女の頭から出ているようだった。取っ手を握った彼女の指は、度重なる労働に興奮しているように、赤く輝いている。
 末来のこと。
 僕と彼女の、定められた、望まれた生き方に関わること。二人でいるとき、彼女の口から、少しでもそのことに繋がる話題が出てくることはない。僕が触れても、愉快な顔はしない。少なくとも、彼女が高校生になってからはずっとそうだった。だから僕は、目の前の末来について切り出した彼女に、驚いたのだ。
「黄身もつぶすのよね?」
 僕を見た彼女は、なつかしいというよりはじめて見る、いとけない好奇心に満ちていた。つぶすな、と言えばとたんにしゃがみこんで唇を噛んで涙を流すのではないかというほどに。そんな姿は、彼女がずっと小さかったころにも見たことはないというのに。
「頼むよ。あとはほら、全部をマヨネーズであえるだけだから。あ、個人的には胡椒をきかせてくれると嬉しい」
 フライパンにキャベツを入れ、適当に味をつけ、パスタの鍋から湯をすくって加える。沸き立った泡が、騒がしくも優しい音をたててはじけていく。コンロの向こうの窓が、少し白く曇る。冬らしくもない、角の取れたまん丸な雲が、遠い木立ちの上に浮かんでいる。
 幼い日から、ずっと行き来していた飛び石の上に、大人たちが橋をかけた。僕がそれを茶化してあざ笑いながら踏みにじったそのとき、彼女が愛してくれていたことに、はっきり気づいたのだ。うっすら予感はしていた。それでも僕は、痛手がどんなに強く、与える傷がどんなに深かったとしても、情熱のように高ぶる衝動に正直であろうとする気持ちに抗えなかった。末来につづく時間軸の中で、僕と彼女をとりまいて無闇に膨張していく状況を打ち破りたかった。
 それは目をつぶって飛び出す激しい力そのもので、だから僕はいまだに、自分のしたことがどこにたどり着いたのかわからないでいる。そして今、僕の目の前に立つ彼女は、少しも破壊的な匂いをさせることなく、自ら新鮮な寝返りをうとうとしている。僕は祈るような気持ちになる。まだ僕にも、そして彼女にも十分に時間が残されていることを。
 大きなスプーンを握り、彼女はポテトサラダ直前の物体を大きくかき混ぜている。僕はパスタをすくい取り、フライパンに入れ、さらにゆで汁を加えて軽くゆする。
「できたわ。美味しいんじゃないかしら」
 彼女の勝ち誇ったような声を背に、僕は蜂蜜の瓶の蓋をあけてスプーン一杯、果実を入れたままのジューサーに垂らし、ボタンを押しこんだ。軽快に砕けていく果実の立てるリズムには、ずっと彼方にいるなにものかに送るメッセージのように、独特の規則正しさが含まれていた。
 


 出来上がった料理を、居間には運ばずに、そのまま二人で台所のテーブルで向き合って食べた。ペペロンチーノ風のパスタは少し味が薄かった。ポテトサラダはずいぶんと黄色かったが、じゃが芋のつぶし具合もマヨネーズの塩気もちょうどよかった。
 彼女はよく食べた。綺麗に力のこもった唇と歯が、軽やかに料理を取り込んで細かくしていくさまを眺めている、僕の目にも気が付かないほどに。サラダとパスタの皿を空にして、物足りないかもと僕が切ったロースト・ビーフの最後の一枚を飲み込みながら、彼女は上目遣いに僕に、少し恥ずかしそうに微笑んだ。
「お口に合ったかな?さっちゃん」
 紅茶を入れようと立ち上がった僕に、ええとっても、と彼女は答え、横に出して足首で重ねた足をそっと組み替えた。
 湯をかけてあたためたポットに茶の葉を振り入れていると、背中でくすくす笑い出す。
「なんだい?」
「考えてみれば、さっちゃん、なんて子供っぽいわよね」
「そうかな」
 湯を注いで蓋をし、カップをテーブルに並べる。何も入っていないカップの上に、顔をさしかける彼女の目は悪戯っぽく切れ上がっている。長く黒い髪は、何度もあたたかな蒸気にさらされたお陰か、つやつやと重みを取り戻し、テーブルの端の断崖から流れ落ちている。
「覚えているかしら。優さん、ずっと小さなころ、出会ったばかりのころは、祥子さん、って呼んでいたのよ。私のこと」
「おや。そうだったかな」
「百歩譲って、祥子ちゃん。祥子さんこっちで遊んでいましょう、って。今よりずっと生真面目な感じだったわね」
 僕はポットをかかげてカップに注いでいく。赤茶色の水位が上がってくるのを、彼女はどこかうっとりと見つめていた。
「もう一度、そう呼べる?」
 自分のカップに注ぎ始めた僕を、彼女は重ねた手にあごをのせて見上げた。彼女の言うかつての自分を、僕は思い出せなかった。ただその眼差しが、深い霧のような隔たりの向こうから届いている、そんな感触があった。
「照れくさいなあ」
 茶化したつもりだったのに、「そうそう、そんな顔だったのよ」と、彼女は食事で満たされてふっくらとした手のひらを合わせて目を輝かせたのだった。
 僕は椅子にかけて、紅茶のカップをかたむけた。もう一つのカップから立ちのぼる湯気の向こうに、明るさを増した庭が見えた。もうすぐ昼になるのだろう、大きなカゴをさげた二人連れの使用人が、身ぶりを入れて喋りながら散策道を戻ってくる。
 カップを握る自分の指を眺めて、かすかにそれが揺れていることに気づいた僕は、彼女に気づかれないようにそっと、もう一方の手で湯気と一緒に包み込み、その陰に口を隠して、笑った。








<了>


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