ダフネ









「由乃はさ、ホントに猫みたいだね」
 令ちゃんはよくそう言う、私の髪を撫でながら。
 どこが?と聞き返してもたいてい「うーん」とはぐらかして笑うばかりで答えない。私は宙ぶらりんな気分になる。たいていむくれて、令ちゃんの二の腕の内側あたりに噛み付いてみたりする。
 猫が嫌いなわけじゃない。心臓がまだ悪かったころ、外で見かける猫は憧れだった。人の入り込めない細い隙間、高い塀の上、とげだらけの茂み、颯爽と軽快にずる賢くすりぬけてどこかへ去っていく彼ら。風に乗った毛糸みたいに自由なその背中に飛び乗って、走り回ってみたい――何度そんなことを考えただろう。ちょっぴり照れくさい気持ちになるのは、そのことを思い出すからかもしれない。
 けれど、むしろ私の方こそ令ちゃんのことを「猫みたい」だと思っていた時期がある。やはり心臓の手術をするずっと前のことだ。
 家と外を自由に行き来させている飼い猫は、しばしば体にいろんな香りをつけて帰ってくる、そう何かの本で読んだのだ。匂いの強い花、例えば沈丁花、梔子、金木犀。それから焚き火の煙、藁束、夏の日差しの熱を残した金色の香り。抱き上げて気をつけてみればきっとわかるそれらの香りは、その猫がどういった場所で遊んできたのかあなたに教えてくれるはずですよ・・・。
「ただいま、由乃」
 具合が悪くて学校に行けなかった日には必ずお見舞いに来てくれた令ちゃん、鞄だけ置いてすぐ二階の私の部屋まで上がってきてくれるものだから、その髪や服にはいろんな匂いが新鮮に残っているのだった。静かな部屋に一人居た恥ずかしさで不機嫌そうな顔をしながら、私はその匂いをたどっていく。

「こっちの袖だけなにか匂いがするよ、令ちゃん」
「途中で沈丁花の花びらをつまんだからかな」
「ジンチョウゲ?」
「うん。白い花。今度見にいこうね」

「土の匂い?雨の匂いかな」
「よくわかるね、今日部室の周りの草むしりをしたんだ。由乃、この匂い嫌い?」
「ううん、そんなことないよ」

 高い空とか緑の草むらとか遠い空に沈む夕陽とか。小説を読むときのようにくっきりと、そんなときの私は思い浮かべることができた。
 レースのカーテンを抜ける黄色い夕陽を背中に受けて頬の産毛を立たせた令ちゃんはほんとに猫のようだった。
 もっとも、抱き上げるどころかほとんど抱き上げられていたのは私の方だったのだけれど。



 恋人のキスを交わしてから、令ちゃんとあまりケンカをしなくなった。
 想像していたよりずっとドキドキして、幸せで、後悔して。身体が半透明になったみたいにふわふわして、それで心臓だの胃だのが丸見えになったくらい恥ずかしくて。めまぐるしいそんな瞬間の過ぎたあとで、冷静になった私は焦りはじめた。これまで感じたことのない、自分の中身がそっくり抜け落ちて、すっからかんのガラス瓶になって、内側からじりじり火で焼かれているような感覚。
 ひと月先の学園祭を口実に、家に帰ってもあまり令ちゃんと会わないようにした。もともと大学生になった令ちゃんとはいろいろ時間が合わなくなっていたから、平日は特に気の向いたときに私の方から訪ねるかたちになっていて、だからケンカも何も顔を合わせていないだけなのだけれど。
 家に帰る時刻も遅くした。山百合会の用事の無い日でも薔薇の館に残って勉強してみたり、図書館で読んだことの無い本を片っ端から手にとってみたり。
 校門を出てもまっすぐ帰らない。事情を知らない祐巳さんや妹の菜々を付き合わせるわけにはいかないから、適当に言い繕って、帰るふりをして駅前に出たりする。薔薇さまとしての立場もあるし、迷惑がかかると思ったから喫茶店やファーストフードの店に寄ったりするわけにはいかず、闇雲に商店街を歩きまわったり、公園で読書の続きをしたりするのが常だったけれど、だんだんそれだけでは我慢できなくなる。焼きごてを押し付けられたような例の焦りが復活する。
 街中を歩いていて思いつくこと、これは冒険だ、とってもじゃないけれど恥ずかしくてできない、そう感じることに挑戦的になる。負けるもんか、と一旦思うともう歯止めがきかなくなって実行している。コンビニの前にいる他校の女生徒たちに話しかけてみたりする。八百屋のおかみさんに、旬の野菜について質問してみたり、バス停の前でずっとこっちを見ている若い男の人のところへ目線を外さず歩いていって「何か御用ですか」とたずねてみたり。
 気がつけばとっぷり日が暮れていたりして、さすがにお母さんが心配して学校に問い合わせたりするとまずいから、急ぎ足で帰途につく、そんな毎日。若々しい秋の風が吹く夜の道を走っていると、自分の足音に追い立てられるようで切なくなる。空しくて息苦しくて、遠ざけていた令ちゃんの気配が欲しくなって、どうしようもなくなる。
 そのくせ、たまに朝家の前で出くわしたりすると、にっこり笑って「いってきます」と手を上げたりしながら、すでに私は逃げ腰になっている。令ちゃんの影が少しでも私に落ちかかる距離になると、もう背中がじりじりして、たまらない。たいてい逃げるようにその場をあとにする。
 何日かすると、菜々が私の様子に気がついたようで、いつものあの子らしく真正面から質問してきた。そのうち話すから、と半ば脅しつけるような目をして誤魔化す。
 土曜や日曜にも、何かと理由をつけて外出するようになった。そんなふうに三週間ほど過ぎて、気がつけば最後の一週間は令ちゃんと一言も会話していない。



 海外で立て続けに大きなニュースのあった木曜日の放課後、駅前の大きな本屋を出たところで、三人組の男の子に声をかけられた。M駅をはさんでリリアンと反対側にある高校の生徒で、全員私よりひとつ下の二年生らしい。
 音楽を聴きにいきませんか?という誘い方は変わったナンパだなあ、と思えた。タダだから、と連発するのには内心怖くなったけれど、そこで負けん気が出てしまうのが我ながら困ったところだ。
 どこかお店か、ライブハウスのようなところに行くのなら断ろうと思ってついていくと、彼らは駅前の繁華街を抜けて住宅街の方へ、リリアンと逆方向にどんどん歩いていく。
 やがてたどり着いたのは高架を走る高速道路の下のスペース。古くて、明かりのほとんど点いてない古いアパートと、反対側は細い水路に挟まれた場所で、古いタイヤや鉄骨の積まれたあたりは暗く、高架の柱にはおどろおどろしい落書きがされている。
 猛烈にこみあげる恐怖と後悔を押し隠して、すすめられるまま古タイヤの一つに腰をおろすと、他の二人にせかされて、茶髪の一人が照れくさそうに鞄からサックスを出して、吹き始めた。
 曲のタイトルはわからない。上手いとも下手ともいえない演奏で彼が吹き終えると、残りの二人がやんやと喝采をおくる。私も申し訳程度に手を叩いた。相変わらず照れくさそうな顔で、茶髪の彼はそのまま二曲目をはじめる。また聴いたことのない曲だ。
 気がつけば男の子の一人が、隣のタイヤに来て座っている。その手に握られたタバコの先が赤く燃えるのを見て、私はぎょっとした。
 煙の中に蜜柑の皮のような匂いが混じって、私の鼻先をかすめていく。叔父さんのひとりがタバコ好きで吸っているのを見たことがあるけれど、男の子の左手に握られたタバコの箱は叔父さんのそれとは違い、珍しいもののように思えた。
 二曲目が終わった茶髪の子はもうレパートリーがないのか、練習のようにいくつか短いフレーズを高架の壁に向かって吹き鳴らしている。隣の男の子は、ひっきりなしにタバコを吸っている。一本吸いきると即次のタバコに火をつけるという調子で、私とサックス吹きの彼との間でせわしなく目を動かして、一言も喋ろうとはしない。
 私の靴のすぐ横に、吸殻がぽとりぽとりと増えていく。
 どこか遠くで、学校のものと思われるチャイムの音が聞こえた。私は勇気を振り絞って立ち上がり、一斉にこちらを見た6つの目に頭をさげて、回れ右して早足で歩き出した。何か声が聞こえたけれど、車の通る道に出るまで振り向かなかった。男の子たちは誰も追ってこなかった。
 帰り道でちょっと迷ったせいもあって、家にたどりついたときには8時前だった。月一でお母さんが実家の方に手伝いに行く日で、お父さんもまだらしく、家の中は真っ暗だ。手探りで階段をのぼり鞄を置いて、窓から外を見ると、庭の向こうで煌々と明かりのついた道場から、胴着を脱いだばかりなのかTシャツ姿の令ちゃんが戻ってくるのが見えた。
「令ちゃん」
 二階の窓からつぶやいただけだから、聞こえたとは思えない。それなのに私が言い終えたとたんに顔をあげた令ちゃんに、私は窓をあけて身を乗り出した。
 そのまま庭を渡って私の部屋に上がってきた令ちゃんは、明かりを消したまま出迎えた私の背中に、何も言わずに腕を回した。
「なにか不思議な匂いがするね、由乃」
 制服についたタバコの匂いのことだ。私は身を硬くする。
「沈丁花の香りかな?これは」
 思わず顔をあげた私を令ちゃんは優しく見返した。急速に、かなしみともつかない甘酸っぱい感情が心を満たしていく。私はほとんど涙をこぼしそうになった。
「令ちゃんのばか。ぜんぜん違うじゃない。それに、沈丁花は春の花でしょ」
「そうだね」
 肩をつつんだ腕に力がこもった。私のものでない手が、胸の前で組んだ私の腕をとらえて、そっと下ろす。触れ合っている部分以外、身体の感覚が遠のいていく気がする。
 鼻先をうずめるようにした令ちゃんの喉もとから、肌の匂いと熱が湧き上がってくる。
 密着した身体の隙間を這うように上がってきた令ちゃんの指が、そっと私の顎を押し上げた。
 髪に額に、唇の感触が降りてくる。次はまぶただろうか。私は目を閉じて、私のものか令ちゃんのものなのか、服や息のたてる柔らかい音にじっと耳を澄ませた。



  ***



「そのときお腹に宿ったのが、菜々、あなたと言うわけですじゃー」
「いや、ですじゃー、なんて言われても。そもそもどっちのお腹に宿ったっていうんです」
「そんなの、令ちゃんに決まってるでしょう。痛いのいやだもの、私」
 学園祭を翌週に控えた日曜に、意を決して菜々を呼び出してすべて話した。もっとも、細かいところは話してないし、恥ずかしいところはむしろ逆に、冗談とわかるくらい誇張してのことだったけれども。
 それでも、菜々の頬はかすかに赤くなっている。
「びっくりした?」
 覗きこんだ私に、いいえ、と菜々ははっきり首を振った。
「話してくれて嬉しかったです、お姉さま。それに」
「それに?」
「私は、別の形でお姉さまを独占しますから」
 喫茶店のテーブルに手をついて身を乗り出した菜々は、勝負に挑むときの誠実な顔をしていた。
 あはは、と笑って彼女の髪をそっと撫でたとき、かすかに花の香りが漂った。それは私の体に入るやいなや轟音のようにあたりをつんざいて駆け出し、ずっと遠くの記憶の蓋を揺らして、そのまま立ち去っていく。

『白い花。今度一緒に見に行こうね』
 
 令ちゃんにそう言われて、でも結局その後、二人で沈丁花を見には行かなかった気がする。
(もう二度と、それは叶わない約束なんだ)
 あの頃の気持ちには、きっと戻れないから。
 心の底をしめつけた感情を打ち消して、私は恥ずかしそうに見上げたままの菜々の肩を叩いて、出ようか、と言った。飲み干したレモンスカッシュのグラスに窓越しの夕陽がさして、角のとれた氷がストローを伝って転がって、カラリと音を立てた。









<了> 


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