シェスタ






 三年生の卒業まで一週間を切ったある放課後、一人薔薇の館の二階にやってきた祥子がドアをくぐったとたん、触れるか触れないかの距離で背中にぴったりとくっつく人の気配。
「!?・・・・白薔薇さま?」
「なんだもうバレたか、祥子は勘がいいねえ」
 前を向いたまま、祥子はやや乱暴に髪をかきあげた。
「何をなさっておいでですの?」
「抱きついてみていいかなあ」
「私相手に戯れても、よいことはありませんわよ」
 身を離して距離をとった祥子に、聖は肩をすくめて笑いかける。
「祐巳ちゃん相手なら問答無用なんだけどね。なんとなく祥子には許可をとらないといけない気がしてさ」
 鞄を置いて、祥子が流しに立つ。「お茶、お入れしましょうか」
「いいよ、そのうち皆来るでしょ、そろってからでさ」
 あ、でも江利子は来ないかもしれないなあ、そう呟きながら窓枠にもたれた聖を目で追っていた祥子が、手にしたカップをそっと音を立てずに置く。
「いよいよですわね。ご卒業」
 祥子の言葉に、中庭を見おろしていた聖がうん、と間をおいて頷き、祥子に向き直って背筋を正した。真っ直ぐの視線に祥子の背中もつられたように伸びる。
「後はお任せします、ロサ・キネンシス」
 わざわざ軽く会釈までしてみせる。くすり、と聖の額の上で祥子が笑う気配がした。
「まだ、あなたが薔薇さまですわ。・・・聖さま」
 聖の見たこともないような表情で祥子は答えた。穏やかなその目元も唇も、聖のなにものも刺激しないほど満ち足りていて、それでいて焦がれるようなもの寂しさを感じさせたのは、秘めた祥子の思いなのかどうか、ゆるやかな混乱を覚えながら、聖はうっとりと息を吐いた。祥子の背後の壁も、天井も、夕刻の光が反射して、ほんのりと木目が色づいている。
「ありがとね、祥子」
 口にしてから聖はかすかに後悔する。祥子は小さく小首を傾げた。
「何がですの?」
「んーん。何でもないよ」
 しばし無言で見つめ合って、確かに聖は、祥子が何か言いかけてやめた口元に気づいた。目を凝らし、耳を澄ませて、館の周りの静けさを確認して、それでもしばらく待って、聖は祥子に近づいた。わずかに揺れた祥子の目の奥にあるものはなんだろうと思う。
「大切な人ができたら、自分から一歩引きなさい」
「・・・なんですの?」
「私のね、お姉さまがね。最後に私に言ったことなのよ」最後、という単語がざらついた余韻を聖に残す。「私がのめりこみやすい性格だから、ってね」
 聖の視界の片隅で、祥子の指がわずかに握り締められるのが見える。
「でも、あなたには祥子、あえてこう言っておく。あなたは、前へ出なさい。気持ちに正直に、周りなんか気にしなくて、いいんだから」
 言葉がしみ込む時間の長さを感じさせて、固まっていた祥子の表情が、にわかに豊かになって、生き生きとした血流を感じさせて、黒髪の美女の頬はかすかに赤らんだ。
「・・・つくづく、嫌な方ですわね、白薔薇さまは」
 顔をそむけて、祥子は再びお茶の準備をはじめる。遠く校舎の方から、生徒たちの気配が思い出したように薫り立つ。
「祥子、こっち向いてよ」
「嫌です」
「祥子さあ、私のことけっこう好きだったでしょ」
「・・知りません」
「いや、嫌いになりきれないというべきかな?否定しながらもついつい視界に入ってきてしまうというか、まるでむか〜し同じ体の生き物だったみたいに通じ合うものがあるというかさ、運命?」
「いい加減にっ!」
 こらえかねて振り返った視界がさっと暖かな暗闇に包まれて、祥子は言葉を失う。抱きしめられたんだ、とのろのろと気づく合間に、聖の温もりと、肌の弾力と、髪の香りが、魔法のように祥子を取り巻いて、煙のようにたなびいていく。
「元気でね、祥子」
 ずっとずっと高いところから、聖の声が聞こえた。やや横抱きになった体勢で、聖の体にはさまれて折りたたまれた自分の腕の形を意識しながら、「痛いわ」と祥子は小声で言った。
「・・・祐巳ちゃん来るまで、こうしてていい?」
「本気で怒りますわよ」
「ちぇー」
 胸元に吐いた祥子の言葉に押されるように、手をあげて祥子から離れた聖が、のしのしと乱暴な足取りで窓に向かうのを、その背から垂れる影を、床に目を落として祥子は見送った。
「あ、ほんとに祐巳ちゃん来た。由乃ちゃんも一緒だー」
 おーい、と呼びかける聖の声を背にして、祥子は水を入れなおしたポットのスイッチを押した。
 シンクのステンレスには暖色の輝きが満ちている。わずかに乱れたタイを直しながら、祥子は、背にはしる甘やかな感覚と、それが悪戯な子供のように手形を残して消え去っていく残像を、心に噛み締めていた。




<了>



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