はざまのよる







 世界の終わりとかこの世の終末とか、一切想像したことのない人なんているものだろうか。どのように不足なく満たされようとも、どんな歴史を学んでこようとも、大げさにいえばそれは、万人のこころにはじめからあるような空想なのかもしれない。はじまりを知る人間が、何気ない空や風にお終いの光景を連想するのは無理からぬことで、また時に空や雲は、好んで破滅を予感させるような色をまとう。
「令ちゃん、おかえりなさい」
 早足の台風が未明に関東の南海上を通り抜けた秋の日、試験前ということもあって剣道部の練習を早めに切り上げて帰ってきた令は、玄関先で由乃に出迎えられる。交流試合の近いこの時期、全学年そろっての練習は週に二度しかなく、だから由乃たち試合に出ない部員たちは交代で道場の清掃をするくらい。放課後に会った由乃は山百合会に顔を出す、と言っていたけれど、先に家についていたらしい。
「なに、由乃」
 隣あって暮らすこの従妹が、令の帰宅にあわせて出てくるなんて珍しく、令は嬉しい半面ちょっと動揺する。
「なによ、なにって」
 けれど自分でもらしくないと感じているのか、カーディガンを羽織った由乃は三つ編みの先をいじりながら、門柱に手を置いて黙っている。逆光になった顔はくらく、それではじめて令は、彼女の背景になった空の物凄さに気づいた。台風の影響か透明度の高い空は見上げるだけで転落しそうな錯覚をおぼえる。まるで世界の半分が燃えているかのように燃え立つ地平には、矢のようにするどい雲が浮かび、背後の夕日の灼熱をあびて陶器のようなかがやきを放っている。美しいけれど、見ているだけで不安になるような不吉な予感が、令の背筋をはしる。まるで幼い時分に確かに見たけれど忘れてしまっている怖い夢を、断片だけ思い出しているかのような。
 明日、何事もない平穏な朝は、またやってくるのだろうか。
 そんな弱弱しいことをちらと考えたとき、暗闇のかがり火のように、由乃が自分の影法師の中で赤みを帯びた笑顔をむけてきた。
「令ちゃん、お願い。今晩泊まりにきて欲しいの」



 その前日。
 近所のレンタルビデオ店にて、令は陳列棚をはさんで向こうに立つ由乃の、棚の隙間から見える上着の裾を目で追っていた。
「ええと・・これはどうかな。面白いかな・・・あ、こっちは話題作・・・だった気がする。う〜、選べない。令ちゃん、こっち来て選んでよお」
「絶対、お断りよ」
「なによ、意気地なしー。それでも薔薇さまなの?」
 やがて、レジから専用の袋をさげて戻ってきた由乃は、満足げな笑みを浮かべている。
「なにを借りたの?」
「えっとね、『血だまりの週末』シリーズの最新作と、『闇の縁』でしょ。あと、ゲテモノっぽいパッケージだった『宇宙軟体生物NO.32』ね。令ちゃん、一緒に見る?」
「ああ、タイトルだけで駄目・・・」
 それでも、面白がってあらすじを説明にかかる由乃の、アスファルトに跳ね返るサンダルの足音を聞きながら、令は夜道の先を、遠く見つめてしまう。
 約一年前に、心臓の手術をするまで、ホラー映画を見ることも、大事をとって許してもらえない由乃だったから。
 感謝に近い喜びを感じながら、しかし令がいまだに違和感のようなものを抱えていることに、由乃は気づいているのだろうか。
 令の握ったこぶしほどの肉体の器官が、どれほどの大きなはたらきを為しているのか。術後元気になっていく由乃、身体の元気に引っ張られて変わっていく彼女の様子に、令はつくづく思い知ったものである。身体の調子が精神に与える影響について、運動部の経験から令もわからないわけではないけれど、そして日々の会話のやりとりで感じられる由乃は、確かに十数年一緒に大きくなってきた由乃には違いないのだけれど。ある日突然、夢がさめたように今の世界が閉じて、手術前の由乃が戻ってくるのではないか、というおぼつかなさが、令のどこかに残っている。
 ただそうなったとして、純粋に悲しむべきことなのか、不謹慎なことと思いながら、令自身にもわからなくなるときがあることを、否定できない。
 その夜半から関東にかかる台風で学校が休校になることを期待したのか、あてのはずれた翌日不機嫌そうに令と登校した由乃の目は赤かった。どうやら、自身の「前向きな」予想を信じて夜っぴて借りてきたビデオを見ていたらしい。
『泊りにきて』
 由乃がちょっと気恥ずかしそうにそう言ったとき、令は内心でちょっと笑ってしまった。由乃の両親は今夜二人ともいない。知人と申し合わせての温泉旅行。一人きりで過ごす夜を由乃が不安に思ったのか、それに昨夜のホラー映画オンパレードが影響しているのかはわからないし、尋ねたところで素直に言いはしないだろう。けれど令は喜んでいた。手術前の、今思い返せば単に気分が悪かったのかもしれないけれど、物静かで弱弱しい空気が、由乃の周辺に一瞬よみがえった気がしたのである。
(やっぱり、不謹慎よね)
 とはいえ、由乃の両親が二人そろって家をあけることなどこれまでになかったことで、そう考えるとやはり由乃の健康は周りの人間にとってもよいことだったのだなと、令はあらためて思うのだった。



 7時すぎに家を出た。宿題のプリントと着替え、それにおかずの入ったタッパーを持って。令のつくった玉子焼きと、お母さんの作った里芋と烏賊の煮付けが入っている。
 サンダルが玄関に出ていたので敷地の間を通らずに一旦車道に出る。いつの間に書かれたのか、子供がけんけん遊びをするときの輪がくっきりと道の表に描かれていて、令はちょっと驚いた。夕方、由乃と話したときには確かになかったはずなのに。
 戸外はいつの間にか風が出てきている。さっきまでの夕焼けが嘘のように、星のない夜が黒々と町を覆っていた。
 一声かけて島津家のドアを開ける。薄緑のカーテンの色のはねかえる暗い廊下も、入ったすぐのところにある階段の上からも、何の物音もしない。
 気のせいか、いつも入ってすぐわかる由乃の家の匂いも、今日はことのほか薄い気がする。なんとなく音をしのばせて、令が玄関のたたきに足をのせると、
「あ、上」
見ていたかのようなタイミングで由乃の声が聞こえて、令はどきりとした。
 人肌に熱のこもった赤黒い階段を足裏に感じながら二階に上がると、廊下のつきあたりがほんのり明るくなっている。
「由乃」
 あきれたような声が出てしまった。廊下の突き当たりにある由乃の部屋のドアが開きっぱなしで、部屋からもれた光の下に引っ張り出した椅子に、由乃は男の人のように直角に足を組んで座っていた。それだけでも普段しないことなのに、大きめのトレーナーを着ただけの彼女の脚はあらわで、スリッパをつっかけているだけ。片手に持った500のペットボトルの炭酸をぐいっとあおって見上げた由乃に、さすがに令は渋面をつくった。
「なにしてるのよ、こんなとこで」
「うん。お風呂入ったら、なんか熱くって。誰もいないからいいかなって」
「はしたないわよ、もう」
 言いながらもそっと由乃の額に手をはわせて、令はほっとする。手術した後でも、由乃はときどき微熱を出すことがあって、しかもなかなかそれを申告しないものだから。
 しかしそれならば、この由乃の様子は体調によるものではないことになり、令はかすかな違和感をおぼえる。単に家の人のいないのをいいことに、羽目をはずしているだけなのか。
 とりあえず由乃の肩に手を置いて促して立たせ、椅子を元の場所にしまいこむ。三つ編みをほどいた由乃の髪はゆるく波打って、シャンプーの香りがぷんと立った。
 部屋の入り口で、ゆったりしたジーンズに大儀そうに足を通していた由乃が、「そうだ」と叫んで令を廊下へと押し戻す。
「なによ、大きな声出して」
「今日はさ、下に陣取ろうよ。せっかく二人きりなんだからさ」
 そのまま、抱きかかえるように令のお腹に手を回し、ぐいぐい押しながら廊下を歩きながら、「そうそう。はじめからそうするつもりだったんだった」と独り言のようにつぶやく。
「ち、ちょっと。歩けるから、放して。ほら階段なんだって、危ない!」
 それでも由乃は放してくれなくて、危うく下りの一段目を踏み外しかけて三段目に足をおろした令が、一言叱りつけようと見下ろした先、シャツのわき腹のあたりに、猫が爪を研ぐようにごしごしと顔をこすりつけて、にっと笑ったのだった。
 なまめかしい目の縁の上、細まった由乃の瞳はかすかに充血して赤らんでいた。



「なあに、令ちゃん。竹刀はどうしたのよー、もってこなかったのー?」
 居間の畳に置いたクッションに頭と足先をのせて伸びをした由乃が、目を閉じたまま言う。
「竹刀って・・・そんなの聞いてないわよ。何につかうのよ、ここに持ってきて」
「ふんだ。夜稽古つけてもらおうと思ったのに」
「嘘でしょう」
「だって」いきなり身を起こした由乃が、生き生きした目つきで令を見る。
「なにしろ女二人のお泊りなんだよ。痴漢とか不審者とか殺人鬼とかやってきたら、危ないじゃない」
 前二人はともかく、殺人鬼相手に竹刀でどうなるものだろうか、と令は思う。
「ほんと、ホラー映画の見すぎだよ由乃は。昨日借りたやつもう全部見たの?」
「うん。まだ返してないから、令ちゃん見るならつきあってもいいよ」
「遠慮します」
「えー。『血だまりの週末』よかったよ。二人目の犠牲者の女子大生が地下室で殺される場面がすごくってね、もう・・・」
「やめてよっ、聞きたくない。せめて食事の後はやめてよね」
 大きな長方形の食卓に広げられた空になったお皿やタッパーを抱えて、令は逃げるように台所へ向かう。流しのボールの中に汚れた食器を落として水を張りながらふと振り返ると、電気を消した家の真ん中で、由乃のいる居間だけが孤島のように輝いている。
 由乃の両親が食べるものをたくさん用意していてくれたから、令がちょっとしたスープを作るだけで二人きりの夕餉はずいぶん豪勢なものになった。和風のおかずが多かったから本当は味噌汁にしたかったところだけど、一つだけ場違いにハムを巻いたステーキがあったから、それにあわせることにしたのである。聞けばそれだけは由乃が作ったもので、ふだん料理なんてほとんどしない従妹のこの発言に、令はおおいに驚いたのだが、
「別に。食べたかっただけよ」
由乃は淡白にそう答えただけだった。ステーキはちょっと冷めてはいたけれど、焼け具合もちょうどよかった。令の持参した分も含め、二人にはいささか多すぎる量を、あまり言葉もかわさず、黙々と食べた。たまに令は顔をあげて、由乃が形よい唇を間断なく動かして食べ物を送り込むさまを見つめていた。
 皿を洗っていると、令の背中に声がかかった気がする。
「令ちゃん」
「はい」
 はっきりと今度は由乃の声がして、令は手を動かしたまま返事をする。
「令ちゃん」
 同じ調子の声がもう一度。やや遠のいた気がするのに気づきながら、令は水道を止めた。秋の冷気で濡れた指先がたちまちひんやりとする。
「すぐ戻るから」
 自分の声が廊下の突き当たりや玄関まで届くのを意識しながら、手を拭いてお皿を並べた食器乾燥機のスイッチをいれる。うすく開けた台所の小窓から、庭をはさんで令の家の風呂場の明かりと、道場につづく廊下が見える。
「令ちゃんー・・・」
 もう一度、さっきよりも小さな声で聞こえた由乃の呼びかけは、語尾が粘っこく尾を引いて途切れて、令は一瞬身を止めて全身で耳を澄ませてしまう。あまり聞いたことのない、甘ったるいというか、どこかはかない弱弱しさに満ちた雰囲気が、声の消えた台所にまだ残っている。
 我にかえって、急ぎ居間にとって返すと、煌々と蛍光灯の照らす白い世界に、由乃の姿はなくて、凹んだクッションだけが襖の手前に腹立たしげに転がっている。
 一瞬ひやりとしながら、トイレにでも行ったんだろうと思いなおして、長テーブルにふきんをかけようとかがみこんだ令のジーンズの膝に、柔らかい感触が跳ねかえる。
 と、同時にくぐもった笑い声。
「由乃!」
 覗きこんだテーブルの下で、仰向けに寝転んだ由乃が、緩慢な笑顔を令に向けて、小さくあくびをした。
「なに、由乃?もう眠いの?」
「うん。お腹がいっぱいになったら眠くなったよ」
 のそのそと、由乃は令のいる側に這い出してきて、うーんとのびをする。
「昨日、あんまり寝てないんでしょう。映画の見すぎで」
「うーん。3時間か4時間は寝たと思うんだけど・・・なんかね、内容はアレなんだけど、怖い夢見ちゃって、それから眠れなくなって」
「ほら、言わんこっちゃない。そんな映画見るからよ。今日はもう早く寝たら?明日も学校、あるんだし」
「そうしよっかなあ」
 そう答えながら、由乃はテレビをつけて、チャンネルをつぎつぎ変えている。
「宿題、済ませてからね」
「あー、もう、令ちゃんたら、お母さんみたい」
 頬をふくらませてテレビを消した由乃に、令は苦笑する。
「まあまあ。今日は私が横についててあげるから、嫌な夢も見ないでぐっすり眠りなさい」
「そうは言うけどさ」
 消したテレビの画面に向かい、ひとしきり喉元にかかった髪の毛を気にしていた由乃が、そのままの姿勢で、思い出したように言う。
「いつだって令ちゃん、夢の中までは助けに来てくれなかったじゃない」

   

   ***



 刻々とすぎる夜につれ、はっきりと空気が冷えてくる。コタツか何か出してもいいと令は思ったけれど、さすがに由乃に聞かないと、馴染んだとはいえ人の家のことだから、どこにあるのかわからない。
 居間の押入れ以外、三方に開いた襖や障子をしめきって、二人ともなんとなく、だだっ広い長テーブルの真ん中あたりに、肩を触れさせて座っている。そうやって黙って身をかたくしていると、家のどこかでひびくかすかな音も、遠く街中から聞こえる車の音も、みな同じように感じられて、ますますこの居間だけが、世界から取り残されたような感覚が研ぎ澄まされて、するどくなっていく。
 結局由乃は布団に入ろうとせず、他愛もないことを話したり、ちょっとだけ課題のプリントを広げてみたり、30分だけテレビを見て馬鹿みたいに笑ったり、かわるがわるお茶を入れに行ったり。気づけばもう、日付けもかわろうという時間で、二人の間で会話も音も途切れてしばらく経つ。
 と、由乃がそうっと自分の二の腕のあたりを抱きしめるようなしぐさの音。
「どうしたの、寒いの?」
「ううん」
 返事とは逆に、由乃は少しだけ、令に背中をもたせかけてきた。その身体が、急にぴくりと電気がはしったようになる。
「聞こえない?」
 青い蛍光灯に照らされた由乃の唇は、夜見る花のように血の色が薄い。
「なにが?」
 令は耳を澄ませたけれど、ちょうど由乃の「聞こえる」という言葉が重なって、他に何の音もとらえることができなかった。
「近づいてくる、みたい・・・」
「空耳でしょ」
 そう言ってから、金属のような照り返しの机の表面に目を落として令は息を潜めてみる。じーっという虫の鳴くような小さな音、たぶん隣の部屋にかかっている時計の針の動く音。
「ほら、気のせいだって」
 わざと快活に令が言ったとき、天井のはるか向こうから、飛行機が遠く行き過ぎる唸り声のような音がゆっくり響いて、消えていく音を追いながら戻した目が、由乃のそれと合う。
「もう布団、ひいちゃおうよ。由乃、寒そうだし」
 返事を待たず、長テーブルを脇にどかした令が振り返ると、先ほどと寸分違わない姿勢で由乃はじっとしていた。
「ほら」
 令の差し伸べた手を素直に握って立ち上がった由乃は、立ち上がってからも令の手のひらを両手でひろげて、しげしげと見入っている。
「令ちゃん、すっごくごつごつしてる・・・」
「試合近いからね。どうしてもそうなるよ」
 自分の交流試合にあわせて、由乃が妹をつくる、という話があることを令は聞いていたけれど、口には出さなかった。
「試合が終わったら、もう冬だね。クリスマス・・・」
「その前に試験のあることを忘れちゃいけないなあ」
「うん」
 ちょっと茶化したつもりだったのに、由乃は落ち着いて頷いたきり、令の胸元を見ている。三学期にはいって一月の末にある生徒会役員の選挙であるとか、バレンタインのことであるとか。令の卒業のあたりまで思いを馳せているのかと思っていると、
「令ちゃん、いいお母さんになれそう」
などと、想像を飛躍した返事が返ってきたので、令は腰が砕けそうになる。体勢のくずれた勢いで、部屋の隅にあらかじめ積み上げておいた布団のところへいき、敷布団をひきにかかる。
「でも、なんだか男で失敗しそうなんだよなあ令ちゃんは。不安不安」
 令の動きに、布団をよけて歩きながら、由乃は楽しげに目をらんらんとさせた。
「失礼な」
「しかも、二回くらい」
「また、具体的な・・・」
 二度目に畳んである布団のところにもどったとき、庭に面した廊下につながる障子の向こうから、かすかに、何か異質な響きの音がした気がして、令は言葉を切る。別段珍しくない種類の音だと経験が告げているのに、なんだか違和感を感じるのはなぜなんだろう?
「だって、ぜんぜん免疫なさそうなんだもの」
「由乃だってそうじゃない」
 ややふくれっ面で言い返して、令が毛布をひこうとした場所に、由乃はべたっと乱暴に座り込む。
「こーら、邪魔。早く寝巻きに着替えなさいって。パジャマ、自分の部屋?」
「嫌。部屋から出たくない」
「馬鹿言ってないで」
「怖いもん」
「なんか今日は変だよ由乃。どうかしたの」
 自分の分の布団をのべにかかろうとしたとき、さっきと同質の音が、より大きく、近いところで聞こえた気がして、令ははっと顔をあげて由乃を振り返った。彼女が動かないので令が放り出した毛布を腰のあたりに巻きつけて、由乃は横座りに落ち着けた自分の膝のあたりに、じっと目を落としている。
「私ね。去年のちょうど今頃、ずっと考えてた」
 令が「聞いた?」と尋ねる前に由乃は口を開いた。
「手術しようかどうしようか。あのとき、令ちゃんとけんかした勢いがあったのは確かだけれど、実際大人になる前に治しておくなら、もうギリギリな時期なのかも、って思っていたから」
 折りたたまれたままの布団を由乃の隣にそっと下ろして、令はその上に椅子にかけるように腰を下ろした。由乃のなめらかな指が、ゆっくりとシーツの表面を撫でている。
「もうそろそろ一周年だね。手術してから」
 令の声に、由乃は顔を上げずにかすかに頷く。
「なんか、あっという間だったよ。一年、まるで浮かれてるみたいに、早くって。私、こんなに時間の経つのが早いって感じたの、はじめてだった。心臓がわるかったときには、一日ホント長くって、いつも早く明日にならないかな、なんて思っていたのにね・・・」
 人工の青い明かりの影で、由乃の唇はわずかに引き締められている。令の視界の中で、それは急にゆるんで、疲れたような三日月形の笑みをうかべる。
「駄目駄目。らしくないね。令ちゃんに強くなれ、なんて言えないね私」
「由乃」
「なんか怖くなって。ここまでずっと令ちゃんと一緒だったのに、これから先一緒じゃいられない未来もくるのかな、それが思ったより早いのかもしれないなんて思ったら」
 そのとき、今度こそはっきりと、くぐもった人の声のような、重くもったりとした音が令と由乃の顔の間で響いて、二人はさっと顔を見合わせる。白く乾いて粉っぽい光を放つ障子や壁にすばやく目をはわせ、顔を戻した令の目をしばらく見つめた由乃が、そっと令の肩口に頬を寄せてきた。
「・・・昔、小さいころ、身体の調子の悪いときにね、何度も見た夢があってね。令ちゃんいなくて、私一人で、なんかおっきな太陽みたいなのがぎらぎら燃えていて、でも熱くないの。寂しいの。起きるたび泣きそうになるのよ」
 由乃の吐く言葉はそのまま温かい空気の塊になって、令の喉元の下あたりを叩いていく。
 部屋の中にまた同じ音が響いた。音源のはっきりしない気味悪さに、令はかすかに苛立つ。さらに遅れて、天井から聞こえたうなり声のような低い音が、こちらもさっきより大きく、二人の頭上にとぐろを巻く。
「ちょっと、見てくるよ」
「いいよ。行かないでいいから」
 立ち上がりかけた令に、由乃は言葉より先にその腕に手をかけて抑えた。
「でも」
「いいから、ここにいて。・・・・私、昨日ね」
「うん」
「昨日、映画見たあとで、久しぶりに見ちゃったの、その夢。やっぱり誰もいなくて、足が重くてね。夢だってわかってるのに、なかなか覚めてくれなくって・・・令ちゃんを呼んだの」
 くっと顔をあげた由乃が、令の顎のあたりを睨みつけている。
「どうして来てくれないのよ」
「そんなこと、言っても」
 もう一度、バタリともボタリとも、ちょっと粘り気のある音がして、令は立ち上がった。
「やっぱり、見てくるよ」
「いいって。行かないで令ちゃん」
 あわてたように立ち上がろうとする由乃の頭を軽く手のひらで抑えて、令は障子を引き開けた。
「令ちゃん!」
 怒声に近い声が背中を叩くのをかまわず、すばやく後ろ手に閉める。



 雨戸が閉めてあるのか、一歩出た廊下は真の暗闇で、しばらく待っても何も見えてこない。わずかな濃淡のついた黒の色に、天地がかろうじて判別できる程度。
 由乃は追って出てこない。背中で締め切った居間とは、永遠に遠ざかったような不安が、狂った鐘のように令の中で鳴り響いている。
 耳を澄ませたとたんに、すぐ近くで軟らかいものを叩くような音がして、令は足をすくませた。じりじりとした焦燥の裏で、不思議と落ち着いていく心境が、こまねずみのように忙しく、令自身にもわからない速さでさまざまのことを考えている。
 ふと浮かんできた映像に、記憶がよみがえる。
 リリアンの初等科の三年生くらいの頃だったと思う。学校から帰って、その日欠席した由乃を見舞いに、彼女の部屋を訪れると、ベッドに身体を起こした由乃が、静かに泣いている。
「どうしたの」
 体調が悪くても、簡単に泣いたりはしない従妹の様子に、驚いて声をかけると、
「私、いつか死ぬんだよね」
目を見て聞かれて、令は返事に窮した。
「令ちゃんも。お父さんもお母さんも、いつか、必ず死ぬんだよね。私、そんなの嫌だ」
 ほとんど衝撃に近い驚きに麻痺した心の底で躍起になって言葉を探す令に、由乃はさらに追い討ちをかける。
「令ちゃん、なんとかしてよ」
 結局、ひととき馬鹿みたいに部屋の真ん中で棒立ちになったあげく、「令ちゃんのばか」の言葉まで贈られて、すごすごと両家の間の庭を帰りながら、令の中の衝撃はだんだん落ち着いて、由乃の言ったことを噛みしめるにつれ、令の心は締めあげられていく。
「誰もが最後には死ぬ」ということ、当たり前のこととして知っていたはずのこと、あらためて気づかされたような気恥ずかしさに近い悲しみに、自宅の縁側に上がるころには、どうにも我慢できなくなっていた。
「あらあら令。どうしたの、いったい」
 台所に入っていった令の顔を見るなり、驚いて駆け寄ってきた母親のエプロンのお腹にすがりついて、令は泣いて訴えた。
「お母さん、私、死にたくない」
 そのとき母親の顔に浮かんだ困惑は、先刻由乃の部屋で令が浮かべた表情と、まったく同じものであったろう。
 令は目を閉じて、息を吸い込んだ。見開いた視界はわずかに闇に慣れて、果ての無い廊下の先の暗闇に、煙のように何かの影が動いた気がした。
 どうして、かなえられない願いなんてものがあるんだろう。
 そう考えて、すぐに令は苦笑した。いったい私は何様のつもりなんだろう。ちょっと剣道をやってるだけの、ただの高校生にすぎないじゃないか。
 少なくとも、今は、まだ。
 暗い廊下に、また音がした。今度は怖気ずに、令は足を踏み出した。竹刀はないけれど、構えている風に片足をひき、右手を振り上げる。
 一拍おいて、思い切り踏み出した。
 だん!大きく木の床が響き、瞬間令の周囲の空気の膜が破れるように大きく乱れて流れ去る。
「あ。あれ・・」
 前に出した方の足に冷たい感触があった。と、音に驚いたのか背後の障子が開いて、由乃が飛び出してくる。
「令ちゃん、どうしたの!?」
「あー、うん、由乃。なんでもない、大丈夫大丈夫」
「なんでもって・・・行くなって言ったのにどうして行っちゃうのよ、令ちゃんのばか!」
 居間からもれた光を背に、由乃は毛を逆立てんばかりに怒っている。逆光でもはっきりわかるほどその頬は赤らんでいて、令は頭をかいた。
「それがね・・・」
 令は庭に面した窓を開き、雨戸をあけにかかる。
「令ちゃん?」
 開け放した庭は、ほの白い夜の明るさに包まれて、庭石も松の枝も独特のかがやきを放っている。
「あっ・・雨」
「そうなんだよね。いつの間にか降り出してたみたい」
 肩越しに由乃に頷いて、令は縁側に置いたサンダルを履いて二つ三つ、庭石を歩いた。ふりあおぐと、銀の糸のような雨の滴が、街の明かりをうけた雲母のような雲から、いっさんに降りおろしてくる。見つめていると、自分の身体が浮き上がって、空に向けて飛翔しているような気分になる。
 どこか遠くで雷が鳴った。天井から聞こえた音はこれだったのか、と令は気づく。
「ふふ。なんか気持ちいい」
「令ちゃんたら。風邪ひくよ」
 縁側から廊下に上がりながら、令は廊下の一点を指差した。
「ほら、濡れてるでしょ」
「ほんとだ。雨漏りしてたのね」
「さっきの音はこれだったんだね、きっと」
 言いながら令は思った。ひょっとして、世の中の難しいと思っていること、今の私や由乃に困難と思えることも、思い切って覗き込んでみたら、案外この雨漏りみたいに、そんな恐れるようなことじゃないって気づくこともあるのかもしれないと。
「バケツ、持ってこなくちゃ」
 小走りに由乃が、廊下の奥に消えた。



 一時過ぎに二人とも布団に入ったから、3時か4時か、ともかく未明に令が目を覚ますと、うす青い暗がりの令の視界の大部分を占領して、由乃が見おろしていた。やや傲慢な目つきの口元にはかすかに、意地悪い笑いを浮かべている。見慣れた由乃の表情だ、とぼんやり令は思った。
「何」
「ううん。令ちゃん、何か寝言言ってたから」
「え、そう?やだなあ」
 見ていたかもしれない夢の記憶はなかった。「おやすみ」とそっけなく自分の布団に下半身をしまいかけた由乃が、見つめたままの令に気づいてふりかえり、顔を寄せてくる。
「なに。キスでもする?」
 由乃の表面から起き上がる体温を感じて、令は完全に目を覚まして、あわてて布団の中で身をよじった。
「な・・何言ってるのよ」
「別にいいけれど。私、病気のとき、このまま若くして死んじゃうなら、令ちゃんにあげようと思ってたし、ファーストキス」
 令にしてみればとんでもない告白を、布団にもぐりこんで枕を整えたりしながらさらりと告げた由乃は、
「じゃあ、おやすみ」
と、もう一度告げて静かになる。
 その後、降り続く雨だれの音だけを伴に、頭に浮かぶ色とりどりの考えが一枚一枚落ちて落ち着いて、令がふたたび軽い眠りにあずかることができたのは、もう夜が白んでずいぶん経ってからのことだった。



   ***



 明けた土曜日、雨の上がったばかりの空にはむっくりとしたじゃがいものような雲があちこちに残っている。
 まだ雨に濡れた地面を元気一杯に鞄をふりふり登校する由乃の隣を歩く令の目は、まるで昨日の由乃そのままに赤く充血していた。
 剣道場の朝の清掃当番の由乃と昇降口で別れ、令は一人薔薇の館へ向かった。
 二階のドアを開けると、振り返った祥子が令の「ごきげんよう」よりも早くため息をついた。
「なんて顔してるのよ」
「いや、ちょっと寝不足なのよ」
 祥子が何か言うより先に、窓を開けて空気の入れ替えをしていた祐巳が、「お茶いれますね」と流しに向かった。
「ありがと、祐巳ちゃん」
「はしたないわよ。そんな顔でマリア様に挨拶したの?」
 自分の分の紅茶のカップを持って、令の隣の椅子を引きながら祥子が小声で言った。
「あー。したかなあ今日私。よくおぼえてない」
「まったく、だらしないわね。なんだか佐藤聖さまに似てきたわよ、令」
 祥子が澄まして紅茶を口に含むのを確認してから、令は言った。
「聖さまってさ。キス、上手だったと思う?」
「んぅっ!?」
 思い切り顔を紅潮させながら、それでも口から紅茶を噴き出さず、あまつさえ横を向いて耐えた祥子に、「おー、さすが」と令は心からの賛辞を贈った。
「?どうかしたんですか?」
「ううん、なんでもないよ」
 何か勘違いしたのか、微笑みながら振り返った祐巳に笑顔を返して席を離れ、令は窓際に立った。
 青く濡れた校舎の屋根の上、うっすらまだらにたなびく雲の向こうに、美しい魚の背のような空が姿を見せはじめている。あちこちから、登校してきた生徒たちの小鳥のようなさえずり。令は、その中に確かに由乃の声を聞いたような気がした。

「れ、令!ちょっとこっちに来て座りなさい!」






<了>

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