〜「三色怪談」後編
中等部の中庭は花壇のつくりや周りに植えられた木々も、高等部にくらべて全体的に小ぢんまりと寸詰まりに見え、遠い夕暮れの弱い黄色に照らされてミニチュアの庭園のように静まり返っていた。乾いた空気が鼻をつき、懐かしい感情が由乃の胸にこみあげる。ガラス越しに見える教室の廊下の壁には、「美化週間」と大きく横書きされた下に生徒たちが描いたであろうカラフルで元気のいい絵がところ狭しと貼り付けてある。 「久しぶりにここに来たわ。やっぱり中学生のすることって、どこか可愛いわね」 思わずそうつぶやいた由乃に、振り向いた菜々がもの言いたげな眼差しを向けたその背後に、昇降口のからつづく角を曲がって人影が不意に現れた。 「きゃ」 「おっと」 とっさに身をかわしてよろめいた菜々は、それでもその場でくるりと半回転して姿勢を正した。 「先生」 「済まないね、有馬君だったね。大丈夫だったかな」 「はい」 菜々と向き合っている初老の眼鏡の男性には見覚えがあり、会話の内容でも教師らしいことが知れた。男性の隣には由乃の母親と同い年くらいに見えるエプロンをつけた背の高い女性が立ち、こちらはなぜか由乃の顔にちらちらと視線を送っている。 「青田先生!」 とりあえず、菜々の隣で頭を下げていると、祐巳のやや興奮気味の声が頭の上を越えていく。お陰で由乃は福引のガラポンが回るように思い出せた。 「ああ、ミッフィーちゃん!?」 (しまった) 即座に後悔したものの、突き出した人差し指はもう引っ込みがつかない。外見のほかに三津夫という名前も由来して中等部では代々陰で呼ばれる「ミッフィーちゃん」は、自分に突きつけられた由乃の指の前で、テレビ番組の水戸の黄門様のように呵呵と笑ってみせた。 「福沢君に島津君か。山百合会のつぼみ二人がお揃いとはね。そうするとさしずめ、後ろにいるのは白薔薇のつぼみということになるのかな」 「し、失礼しました」 顔を上げられない由乃は、隣で「二条乃梨子です」と自己紹介している乃梨子の、スカートの前でそろえた指先ばかりを見ていた。と、 「ああ、やっぱり、そうじゃないかと思っていたのよ!由乃ちゃんなのね!」 いきなり、声とともに上半身をまるまるすっぽり柔らかいもので包まれ、「ミッフィーちゃん」呼ばわりでただでさえ混乱していた由乃の思考は一瞬、天も地もわからなくなる。ほのかな化粧の香りにおそるおそる顔を上げると、先ほどの背の高い女性が、顔をくしゃくしゃにほころばせて由乃を見おろしていた。 「心臓の手術をして元気になったって聞いて、先生ほんとに嬉しかったのよ。由乃ちゃん、もう大丈夫なのね?」 (ああ) 泣いているような顔で、やや乱暴に由乃の背を撫でさする手の動きに、由乃はゆっくりと思い出していく。 (せんせいだ) 幼稚舎のころ、病気のおかげで外で遊べない由乃につきっきりで本を読んでくれたり、歌を歌ってくれたり。一番身近に接してくれた先生のことを、顔も背格好も忘れていたけれども、由乃は今確信をもって自分を見おろす彼女の瞳に重ねていた。「せんせい」と呼びかけようとして、顔をあげたとたんに菜々と眼があって、とたんにきまり悪くなった由乃はただ、いまだに大きく頼りがいのある腕の中で、うんうん頷いてみせることしか出来なかった。 「あの、お久しぶりです、お世話になりました。私いつも苦労をおかけして」 やっと解放されて、頭をさげる由乃に「せんせい」は深くうなずいてみせた。 「そうねえ。病気のせいでおとなしくしてなきゃいけない、ってわかってたみたいだから、そんなに手がかかる子じゃなかったわよ。でも一度、先生たちの目を盗んで帰りのバスに乗らないで、砂場の置物の中にずっと隠れていたことがあったわね。さんざん探し回って幼稚舎に戻ってきたら、元気にブランコをこいでいるんですもの。びっくりしたわ・・・。それから、あれは覚えてる?ええと」 「あああ、その」 再び菜々の目が気になってしまう。由乃は情けなく声をあげて、放っておくとどこまでも続きそうな「せんせい」の思い出話に割って入った。 「ああ、幼稚舎のときの!」 由乃と同じく、幼稚舎からリリアンの祐巳には女性が誰かすぐにわかったらしい。にこにこと、由乃の隣にやってきた祐巳は、そこで青田先生の方を向いて首を傾げた。 「あれ、でもどうして、お二人がご一緒に?」 それを訊くならばどうして高等部の人間が連れ立って、ということになるのではと由乃はひやりとしたものの、祐巳の素朴な質問はどうやら、良い方向に転がってくれたようだった。 「うーん。ちょっと探しものをね」 青田先生は腕を組み、青紫色の空を見上げた。 「由乃さま」 横から菜々が由乃に囁き、腕の時計を指し示す。時刻がつい昨日、由乃がトイレで「声」を聞いた時間に迫りつつあった。 「探しものですか?」 うきうきと嬉しそうに身を乗り出す祐巳は、ここに来た用事のことなどすっかり忘れているようだった。青田先生は髭を撫で付けつつ「うむ」と重厚に目を閉じる。 「青い鳥をさ。幸せの青い鳥。私らはそれを探して、ここまで来たんだよね」 「はあ?」 首をかしげた祐巳に、声をかけようとした乃梨子を由乃は小さく首を振って制した。半年くらい前、祐巳の口から青田先生の名が出たことを思い出していた。それ以来となるはずの対面を邪魔したくなかったのだ。 「先生、私たち少々用事がありまして。由乃さまと先に参りますね」 事情を知らないはずの菜々が進み出て、青田先生は組んでいた腕をほどいて頷いた。 「もちろん構わんよ。引き止めて悪かったね」 「由乃さん」 「いいの祐巳さん、後から来て。乃梨子ちゃんも」 追いすがってきた祐巳の声に背中で答え、歩き出そうとした由乃に、「せんせい」がにこにこと手を振った。 「私、まだずっと幼稚舎にいるのよ。いつでも遊びに来て頂戴ね、令ちゃんも連れて」 そう言われても、高等部の生徒が早々幼稚舎に顔を出せるものではない。そんなことを思いながら、由乃はどうしても頬がゆるんでしまうのを自覚していた。ただぺこりと頭をさげると、 「でも、由乃ちゃんはやっぱり黄薔薇を選んだのね。うん、ぴったりな気がするわ」 (選んだ?) 引っかかりながらももう一度会釈をして、由乃は菜々を追って小道を曲がる。昇降口の前で待っていた菜々と目が合い、由乃は上気した頬の赤みをさとられていないか気になってしまう。 「祐巳さまたちは」 とはいえそう聞かれてしまうと、自分を無視されたようで面白くなくなる。「先に二人で行ってよう」と憮然とし、先にひんやり暗い校舎の廊下に上がったところで、由乃の背中で菜々が「そうか」とぽつりと言った。 「なに?」 「いえ。思い出したんです。以前中等部で出回った高等部の学校新聞のこと。今思えばあれに載っていたのが、由乃さまだったんだなあと」 「リリアンかわら版?」 「新聞の名前までは覚えていませんが、たぶんそうだったかと。アンケートみたいなのが載っていました」 それはおそらく、令にロザリオを返した「革命」の直前に刷られたもので、令と由乃についてのアンケートが取り違えて掲載されたものだ。ただでさえ令の少女趣味をまとって紹介された上に病弱のイメージ。菜々は今、その実物をどんな印象で見ているのか。 気になってつつきまわす由乃の視線も何処吹く風で、菜々は小さく頭を上向け前髪を揺らしただけだった。 考えてみれば、自分が病気だったころの話をあまり菜々にはしていない。聞かれなかったからだが、弱みを見せるようで話したくない、とどこかで思っていた。そのことに由乃はあらためて気づいた。 「こっちの方とか、どうでしょう」 先頭に立つ祐巳が指し示し、二人の先生が後へつづく。 (由乃さまたち、放っておいて大丈夫だったかな) 本音を言えば「怪談」に後ろ髪をたっぷり引かれる思いの乃梨子だったものの、なんとなく言い出しかねて「探し物」をする三人の後を、少し離れてついていく。 冬でも緑濃い生垣の向こうに、高等部にあるのとは違う聖堂が見えてくる。見るからに瀟洒で、高等部のそれより細やかな印象は、薔薇の館で留守番をしているはずの乃梨子のお姉さまを思い出させた。 その聖堂の周囲には白い柵が張られ、今はまだ何も植えられていない植木鉢が丁寧に並んでいる。 (こんなところ、あるんだ。初めて来た) そこが中等部なのか、それとも別の場所なのか、リリアンでの生活もまだ一年に満たない乃梨子にとってはまったく馴染みのない場所がつぎつぎと現れる。ともすればここが学校であることを忘れるような、何のためにあるのか判らない建物や木立ちの眺めは新鮮で、興味深々できょろきょろ見回しているうち、乃梨子は前の三人にぴったり追いついていたのだった。 「福沢君は、そろそろ妹はできたのかな」 一瞬で意識が立ち戻ったのは、それが乃梨子にとっても刺激的な一言だったからだ。にこにこと人の良さそうな顔で見おろす青田先生の前で、祐巳はあくびをこらえたときのような微妙な表情であははと笑った。 「特に決めた相手はいないのかな」 「ええ、まあその。居ないわけじゃないんですが」 「そうか。うん、頑張れよ」 青田先生は満足そうに笑い、頭をかいた祐巳の目がちら、と乃梨子を見る。 「大変よね。祐巳ちゃんの妹ということは、紅薔薇のつぼみの妹になるわけなんだものね」 幼稚舎の先生が四人の中で一番高い背をそびやかし、乃梨子はそろそろ、と助け舟になる文句を探し始める。けれどもその必要はなく、葉を落とした立ち木の間から漏れてきた音に、全員は口を閉じて顔を上げたのだった。 それは断続的に、ところどころ節をつけて、滑らかに夕方の空気を回りこんでくる。音にあわせるように祐巳が肩を小さくゆすった。 「お聖堂でシスターがお祈りしてるのかな」 「あそこにある建物から聞こえるみたいですが」 「あら」 乃梨子の指した先を見た幼稚舎の先生が苦笑する。「そこ、私の職場じゃないの。いつの間にか戻ってきちゃったみたいね」 幼稚舎の先生が指した先に、白壁の低い建物がオレンジ色の窓明かりを灯している。 「お歌の練習みたい」 「でも、もう子供たちが残っている時間じゃないはずなんだけど。ああ、そうかそうか」 悪戯っぽく笑って、引き戸になっている柵の一部を押して入っていった先生が「こっち」と手招くのに、三人が近づいていくと、声はぴたりとやんだ。 それからすぐに再開した、今度は合唱に、祐巳と乃梨子の足がぴたりと止まる。 「どうしたのかな」 訝しげに振り向く青田先生にも答えず、早足で園の正面に回って確認した乃梨子と祐巳は、思わずお互いに指を突きつけあったのだった。 「乃梨子ちゃん、これって・・・」 「ええ。祐巳さま。由乃さまたちのところへ戻りましょう」 そぼ濡れたように光る暗い廊下の床板をつたう菜々の靴下の白を由乃は追いかけていく。 (選んだ、って言ったわよね) 先ほどの「せんせい」の一言が由乃のどこかに引っかかっていた。 令からロザリオを渡されて由乃は黄薔薇のつぼみの妹になった。体調のおかげで出席できなかった高等部入学式のその日、自宅のベットの上でロザリオを握らされただけだ。令の妹になることに異存はなかったが、山百合会の黄薔薇のしんがりについたのは別に望んだわけではない。結果的にそうなっただけなのだ。 (やっぱり、とも言ってたけど・・・) 幼稚舎のころに山百合会を意識したことがあったのか、答えのようなものが目の前に明滅しているように思え、けれども由乃はそれを掴みかねていた。 「今日は誰もいませんね。好都合ですね」 例のトイレがある廊下への角で菜々は立ち止まり、目をこらしてきょろきょろする。その目つきの真剣さに、由乃はいろいろあっていささか薄らいでいた興奮を思い出した。 「楽しそうね、菜々」 「え、そうですか?」 野に放たれたばかりの小さなトカゲのように、菜々はきょとんと首をのばした。明かりの消してある廊下を肩を並べて進む。音楽室、用具室、未踏のジャングルのように暗く沈んだ教室を閉ざしたガラスの向こうから、人ならぬものの視線がこもるようで、由乃は目に力を入れて前だけを見て歩いた。 たどり着いたトイレのドアに手をかけ、上の階から聞こえたかすかな足音が遠ざかるのになんとなく耳をすましていると、菜々がゆるりと動いて由乃とドアの間に回りこむ。由乃よりひとまわり小さな骨格は、おそらく由乃よりはるかに長い剣道歴を感じさせない。 「祐巳さまたちを待ちますか?」 そう言った菜々の横顔は弱弱しい夕陽に朱を吹き付けられている。 「そうね。・・・でももう、昨日脅かされた時間か」 「由乃さま、怖いですか?」 それは、冷やかしやからかいとは違う、ただ今日の天気を聞くような何気なさからぽかりと浮き上がった問いかけだったけれども、そしてそのニュアンスを充分にわかっていたにもかかわらず、反射的に由乃は気持ちを逆立ててしまう。濡らした画用紙がそりかえるように、ごく自然に。 「怖いわけないじゃない。今日こそ正体を暴いてやるわ、いくわよ菜々!」 それでもドアは、昨日よりも重く感じられたのだった。 「時間は?」 中に入ったとたんに尋ねたのは、思っていたより青く暗い室内の気配に気圧されたからだ。 「4時40分です」 菜々がすぐに答える。昨日来たばかりなのに、黒壁に覆われた室内は生き物の内臓のようにくねり、由乃の目の前で自在にその広さを変えるように思えた。そんなわけはない、目の錯覚だ。時代劇小説の凄腕の剣客になった気分で、刀を抜き放つ想像をしつつ、由乃は三つ並んだ個室の方へ近づいていく。 (もっとも、剣術で幽霊を倒せるかは疑問だけど) やや高いところについた窓の向こうには、燃えつきる寸前の暖炉を思わせる空が広がっている。由乃はそろそろと例の個室の前に進んだ。内側に少し開いたドアの隙間は真っ暗だ。――いったい、何だったら幽霊を倒せるのだろう。 (いや、幽霊なわけないじゃない、あんなの) それでは、何? 「由乃さま?」 動きをとめた由乃を、菜々がのぞきこんでくる。 「ちょっと黙って」 由乃の中で、潮がひくようにうかびあがるものがあった。・・・キバラ シロバラ ベニバラ どれがいい、どれにする、さあさあ選べ、さあ選べ・・・。 (そうだ、これは) 「由乃さま?あの、だったら私が入りますから」 そう言って菜々は、するするとドアを押して個室に消えた。律儀にカギがカチリとかかる。考え事をしていた由乃は反応が遅れ、内側から閉じたドアに手をあてる。 「ええと、菜々?」 「はい。由乃さま。大丈夫です」 それきり扉の内側は誰もいないかのように静まり返り、由乃はドアに背をもたせかけて、せめて目の前の静寂と対峙する。トイレにはないはずの時計の針の回るようなコチ、コチという音がする。由乃はさっきたどりついた考えをもう一度引っ張りだしていた。 (でも、だったらどうしてこんなところで) 不可思議な思いにとらわれ、広大な夜空のような天井を由乃は見渡す。すると、遠い夜の口笛のようにかすかに、由乃の耳にとどく音があった。 「菜々。今の聞こえた?」 「え?何がですか?」 「あ、今また聞こえた。ほら―」 『サアエラベ』 さあ選べ。唐突に、かなりの音量で由乃の言葉を断ち切った響きは昨日と同じく、壊れたスピーカーを通すように奇妙な響きがこもっていた。個室の中で菜々の身動きする気配がする。 『ベニバラ シロバラ キバラ サアエラベ』 そして、ことここに至って、いきなり由乃は緊張しはじめたのである。いったい菜々はこの質問にどう答えるのだろう。もちろん、こんなところでの回答に何の意味があるとは思わない。けれどもここで彼女がどの色の薔薇と答えてくれるのか。自分がそれを心穏やかに受け止められないであろうことが、唐突に由乃には理解できたのだ。 ガタン!菜々がどうしたのか、何かにぶつかったような大きな音がして、それに反応するように天井のあちこちに投げた石が当たるような音がする。それから高い窓の外をさっと行過ぎる影に、由乃はやっと、すべての真相が理解できたのだった。 「菜々、ここに居てね!」 言い捨てて駆け出した。トイレを出たすぐ、階段脇の非常口を開けて飛び出すと、ちょうど走りこんできた人影とあやうく衝突しかけて身をよじる。同じく急停止して由乃を見上げたのは祐巳、その向こうを振り返りもせずに乃梨子が小走りに追い抜いていく。 「由乃さん、あれは幼稚舎の!先生が教えてくれた、逃げたんだって、だから、青い鳥がって」 「うん、祐巳さん、今私も思い出したんだ。あれ、まだ幼稚舎で流行っていたんだね」 「そうなんだって。私も驚いた。ほとんど変わらないまま、子供たちが歌っているって」 「インコ?オウム?ひょっとして九官鳥?」 「インコだって。ちょっと前に逃げ出してそのまんまだって」 「乃梨子ちゃん!」 「わかりました、がんばってみます!」 すでに薄暗い空を見上げたまま乃梨子はカーブして校舎の陰に消える。祐巳もすぐに追いかけて続く。由乃は息をはいて、出てきたばかりのトイレの外側の壁を眺めた。思ったとおり、窓のすぐ上のところに、下向きに飛び出した四角いダクトの先に大きな換気用らしい穴が開いている。 『さあ選べ』 それは、由乃の幼稚舎時代に流行った、園児たちの創作の歌なのだった。ロサ・キネンシス、ロサ・ギガンティア、ロサ・フェティダ。高等部山百合会の薔薇さまたち。それは、園児たちにとっても憧れだった。それが何者かもわからないまま、大きくなれば皆がなれるようなものだと思っていた。節もでたらめにそんな歌を歌い、三色の薔薇のうちどれがいい、なんて盛り上がり、ときには口喧嘩にまでなったものだ。そして幼稚舎の、中庭から入った教室前のスペースには、由乃の知る限りずっと、大きめの鳥かごの中でインコが数羽飼われていたのである。彼ら彼女らは、園児たちの歌をまねすれば、調子はずれたところまでご丁寧に再現する、堅実な記録者だった。 校舎に当たって吹きおろしてきた風が由乃の頬をたたく。寒さに耐えかねて鳥は屋根裏へもぐりこんだのだろう、そう思って目を戻した由乃は、ぎしりと揺れたトイレの窓の向こうで、個室のドアが開くのに気づいた。 (あれ、菜々) 見間違いかと思った顔つきに気をとられ、由乃はふたたび急ぎ足で引き返す。トイレのドアを開けたところで、すぐ目の前に飛び出してきた菜々は、由乃と目が合うやくるりと背を向けた。 「由乃さま、どうして一人にしたんですか」 くぐもった声の抗議に、思わず伸ばした由乃の手が肩に届く前に、弾かれたように振り向いた菜々は、由乃の期待した表情はしていない。ただ目元に残ったわずかな緊張に、怒りとも恥ずかしさともつかない感情の尻尾が隠しきれずに先端をのぞかせていた。 「ごめん。でももう大丈夫だから」 「え?」 「ゆっくり説明するわ。たぶん私の思ったとおりで間違いないはずだから」 黙って由乃の目を数秒見つめ、息をふうっと吐いた菜々ににじんだ気配は穏やかな諦めに満ちていた。 「私、本当はこういうのがすごく苦手で。どうしようって思っていたんです」 「正直に、言えばいいのに。別に恥ずかしいことじゃないと思うけど」 「由乃さまなら、怖いって言えました?」 そう聞かれると、由乃も黙るしかない。 「怖いなんて、絶対言いたくなかったんです。だからクラスの子に頼まれたときも断れなくって。祐巳さまに話せば、山百合会のどなたかが来てくれるんじゃないかなあって、期待したんです。昨日もぎりぎりまで待とうって思って、高等部との境にいたんです」 なら、誰でもよかったということか。やや釈然としない気持ちで、長く伸びる廊下を引き返しにかかった由乃の背中に、小ぢんまりとした声が届く。 「由乃さま、来てくださってありがとうございます」 菜々は本当に、私を突き落としたり持ち上げたりが上手い。彼女は結局、どの薔薇が、と答えたのだろう。――そして由乃ははたと思い出した。幼稚舎の時に、一度だけ加わったその「論争」で自分は「絶対黄薔薇がいい」と主張したことを。白と紅に希望者が集中したことに対する、単なるあてこすりだったのだけれども。 「何か、おかしいですか」 くすくす笑っていると、やや険のある声が由乃の斜め後ろから飛んできた。 出会ってすぐはまったくそう思わなかった。菜々と私、案外似ているのかもしれない。 ○ 右手にグラウンドが見えてくる。高等部に引き返しているな、と祐巳は余裕なくそれだけ思った。陽はほとんど落ちて、鍾乳石のような雲が地平線から押し寄せ始めている。 前方を走っていたはずの乃梨子の姿がいつの間にかない。お互い空ばかり見上げているうちにはぐれてしまったらしい。 チチチと声をたて、ずっと先の校舎の間を低く小さな影が渡る。幸い、まだ祐巳は目標を見失っていなかったようだ。『リンちゃん』と呼ばれているという、幼稚舎で三年前から飼われている青い羽根のインコ。一緒に飼われている数羽の中でも、特に物覚えがいいという。幼稚舎の先生の一人の不注意で籠から逃げ出して、ほぼ一週間になるということだった。リリアンの敷地で見かけたという連絡があり、それで青田先生と幼稚舎の先生が連れ立って朝な夕な、あちこち探し回っていたらしいのだ。 食べるものもなく、寒い気候の中で弱っているのか、ほとんど鶏のように、『リンちゃん』はちょっと飛んで着地を繰り返す。とはいえ。 (追いついたとしても、どうやって捕まえればいいんだろう) 虫取りの網でもあればまだしも、それでもなんだか傷つけてしまいそうな気がする。そうはいってもこのまま一月の冬空に放置すれば命があぶないだろう。 (傷つけるつもりじゃない、って気持ちが伝わればいいのに) やがて、すっかり葉を落とした銀杏の並木のつづくあたりで、祐巳は立ち止まった。煉瓦道の真ん中で見上げて青黒い空に食い込む枝を見渡しても、動くものはない。 (やっぱり見失っちゃったか) 息を吐くとほのかに白かった。指をすりあわせながら小道を進むと見覚えのある眺めが現れてくる。正面遠くに見える街灯がスポットを落としているあたり、分かれ道になったところはちょうどマリア様の像の前で、まばらに下校途中の生徒が手をあわせているのが見える。 せめてマリア様に、『リンちゃん』を守ってくれるようお願いしよう。そう思いながら、急に地面から立ち込めてきた冷たい風に逆らって数歩進んだ祐巳は、あ、と思わず声に出してしまう。 (瞳子ちゃん) 人影途絶えたマリア像の前で一人、手をあわせている横顔は街灯の下で自らも石像のようにかたくなに固まって見えた。 こわごわと前に進みかけ、祐巳は瞳子の前、、マリア像の足元から跳ねるように転がり出てきた影を認める。それは『リンちゃん』だった。 立ち止まり息までこらし、木々の影になったようなつもりで祐巳が見ていると、瞳子もすぐに足元の珍客に気づいたようだった。しばらく逡巡したあと、ねじ巻き人形のようにぎこちない動きで腰をかがめていく。 そろそろ、そろそろ。「ゆっくり」。祐巳は思わず、声に出さずにつぶやいてしまう。 やがて、毛糸の手袋につつまれた瞳子の手が添えられると、意外と大きなインコは自分からその中にそっと身を寄せたように見えた。しゃがみこんだときよりさらに時間をかけ、立ち上がりきった瞳子の背中に、祐巳は乾いた口の中を湿しながら歩き出す。 「瞳子ちゃ・・・」 「瞳子」 同じく、タイミングを計っていたかのように落ち着いた声が聞こえ、驚いたように振り向く瞳子の視線は、祐巳とは反対の方を向いている。ツツジの茂みを分けて、乃梨子が姿をみせた。 「その子、逃がさないでね」 自らも鳥を驚かせないようにしているのだろう、ゆっくりした動きで近づく乃梨子を、また石像のように瞳子は俯き加減に見つめている。 二言三言ぼそぼそと言葉が交わされてから、二人は校舎の方へ歩き出す。乃梨子に手元を覗き込まれた瞳子が、小さく笑い声をあげた。 ちょっと困ったような、楽しいというより嬉しいが勝った笑顔が、暗がりの中でも祐巳の目にはっきり焼きついた。 二人の姿が並木道を回って消えるまで、祐巳は身動きひとつしなかった。祐巳の顔を見れば、瞳子は気持ちを乱して手の中の鳥を逃がしてしまうかもしれない。そんな逃げ口上も今は許される気がしたのだ。まぶたをおろせばそこに浮かぶ瞳子の笑顔、それが心地よいままにどこか遠い穏やかな世界の宝箱にしまわれる、今はその眠りを妨げないことが一番大事なように思えたのだった。 少しして、祐巳はさっき瞳子の立っていた光のサークルの真ん中で立ち止まった。見上げたマリア像は濃紺の空を背景ににぶく街灯の明かりがとどき、まるで白鳥の羽毛を集めてできたように幻想的で軽やかでだった。善良で心優しい、それは邪気のない幽霊のようだった。 (こういう感じだったら、お化けも全然怖くないのになあ) ともあれ、それはたぶんマリア様にとっては失礼にあたる想像なのだ。手をあわせてそれだけを謝って、心の奥の願い事はしっかり抱きかかえ、祐巳はゆっくりと、まばらに灯った校舎の明かりを目指して歩き出した。 <了> |
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