中世の軍船の中にいるよう。飛行機に乗って、窓の日よけを客があらかた下ろしてしまうと、真紀の心に浮かぶのは、汚れた船員服を着たたくましい男たち。大砲を突き出して撃つ穴に蓋がついていて、軍船の船員たちが波をひっかぶりながら必死でロープを引いて閉じる場面が、シャッターの下りた飛行機の窓を見ていると思い出されるのだ。それは、古い映画だったろうか、鯨の背みたいに盛り上がった男達の背中にはシャツがぴったり張り付いて、血管の浮き上がった丸太のような腕は汗にまみれ、それを波頭の先端からこぼれた針のような波しぶきが洗い流していく一瞬の爽快感・・・。
(・・・思い出してしまった)
 肩から背中にかけての筋肉を自慢げに動かしていた男の顔を、真紀は不愉快に頭から追い出す。身体が立派であるほどに心がみすぼらしく見えるなんてこと、あの男は考えなかったのだろうか。
 水平飛行に移ってどのくらいの時間になるだろう。さっきまでほうぼうの席から聞こえていたお喋りも消え、床から靴裏に伝わるかすかな振動だけが、ここが飛行機の中だということを示している。にぎやかな機内食の時間が過ぎて、忙しく立ち働いていたスチュワーデスの姿もまばらになり、キャビンを仕切るギャレーをはさんで向こうに一人、毛布を持ってゆっくり歩く姿が見えるだけだ。
 静かだ。
 真紀は顔を起こして、左右を見回した。ところどころシャッターを下ろしていない窓があり、高空の冷たさを感じさせる青い粒子が楕円の枠を埋めている。真紀のうろ覚えの知識では、今この飛行機は太陽の動きに逆らって飛んでいるはずだから、急速に日暮れた外はもう夜のはずだったが、明かりを落とした機内に比べるとまだ窓の空は明るい。
 静かすぎる。
 ドクロのような模様の薄い雲が、翼の先端をかすめていく。キャベツ畑の上を飛ぶ蝶みたいにゆるやかな動きだが、実際はかなりのスピードが出ているのだろう。はるか一万メートル下はもうシベリアの黒い森だろうか、飛行機は日本を目指して勤勉に突進してゆく、沢山の女性客とたぶん少しだけの男性客を乗せて。
 イタリアからの修学旅行の帰り道だった。この機体の乗客のほとんどは真紀たち教師の引率する生徒たちなのだ。リリアン女学園高等部二年生200名余。
(そうよ。年頃の女の子が200人も乗ってるっていうのに)
 こんな静けさって、どういうこと。
「!・・・・先生?」
 思わず、椅子の肘掛けにつかまってがばっと身を起こした真紀を、すぐ後ろの席でお喋りをしかけていた生徒二人が、怯えたように見上げた。
「あ、ごめんなさい、なんでもないの」
 そそくさと腰をおろす。そう、静かなのは問題じゃない。生徒がおとなしくしているなんてむしろ教師としては喜ぶべきことだ。
 ただ気を紛らわせたかっただけ、さっきから胸にこみ上げるイライラモヤモヤを吐き出したかっただけ。
 いったいどうしたことだろう、こんなことははじめてだ。真紀は、肘掛けを握った指に力をこめた。
 タバコが吸いたい。




    ロングフライト






「・・・ミカ」
 その名前を、ほとんど無意識に口の中で転がしてから、じんわり浮かんでくる自己嫌悪を、真紀はいつものように心の奥に片付けた。
 一つ空けた隣の席の男性教師がたてている寝息にあわせ、深呼吸してみる。トレイに乗った紙コップに半分残ったコーヒーを飲み干す。それでも、下手なピアノを聴かされ続けているような不快感が、ちくちくと湧き上がってくるのを抑えきれない。
 ああ吸いたい、タバコを。ポーチの奥深く、手鏡とメモ帳の間に押し込まれたタバコの箱の映像がパッケージまでくっきりと思い浮かぶ。
(おかしいわ)
 来るときの飛行機では何の問題もなかった。イタリアでは、最近になって喫煙に厳しくなってきているとはいえ、吸う場所にそれほど苦労はしなかったし、一日2、3本で満足できた。念を入れて出発前にホテルで一服、空港でも一本吸ってから乗り込んだというのに。
 ヘビースモーカーではない自覚はある。友人や同僚の教師に喫煙者があまりいないから、比較しようがないけれども、三日で一箱消費するかどうかを愛煙家のペースとは言わないのではないだろうか。それに、リリアンの敷地は基本的には禁煙で、大学の学食の奥に空気清浄機を置いた部屋が黙認されているだけ、昼休みなど時間がちょっと空いたときにわざわざ出向いて吸うだけだ。忙しい日など、一本も吸わないこともある。
 それで物足りなく思ったことも口寂しくなったこともない。だから、これがいわゆるタバコを我慢したときの苦痛なのかどうかもわからないのだ。
(そうよ、気のせいということもあるわ)
 そもそも。ここは間違ってもタバコに火をつけていい場所ではない。テレビでたまに流れる、トイレで乗客の及んだ一服のおかげで飛行機が空港に引き返したニュースを真紀は思い出す。その不心得者に対する遠慮仮借ない非難の内容も。
(あんなことになりたくないでしょう?大丈夫、我慢できるわ、大人なんだから)
 極力、タバコのことは考えないよう。真紀は目を閉じた。背後で話す生徒の声が聞こえて、真紀は意識を集中する。なんでもいい、藁しべみたいにすがって心の中から追い出そう、タバコにまつわることを。
「・・・なのよ」
「・・・・よね。でも・・・うん、私もそう思ったわ」
(・・・うんうん。何を思ったのかしら。先生にも教えて頂戴な)
「タバ・・コが欲しいって」
 自分でもびっくりしたほどの勢いで真紀は立ち上がって振り向いた。
「何が欲しいですって!?」
 教壇で話すような声が出かかり、あわてて途中からトーンを下げたものの、さっと顔を上げた生徒たちと目が合って、真紀は逆向きに座るような格好で、後ろの席の生徒の上にかがみこんだ。
「・・・何が欲しい、ですって?」
 小声で聞き直す。真紀のクラスで一番足の速い彼女は、隣のクラス委員の子とほとんど抱き合わんばかりになって、涙目で言った。
「タバスコ・・・」
「あの、さっきの機内食についてたパスタ・・ひと味足りないなって。いけなかったでしょうか・・・?」
 クラス委員の子がおずおずと補足するのに、真紀は青くなって首を振った。
「あの、鹿取先生・・・?」
「なんでもない、勘違いしたのよ。ごめんなさい、びっくりさせちゃって」
 先生ちょっとお手洗いに行ってくるわ、と言って席を立ってもまだ見つめている二人に、真紀は何度も振り向いて笑顔で手を振らなければならなかった。



          *



「恐れ入ります先生、見えないんですが」
 トイレに行きたいわけではなかったから、なんとなくキャビンをふらふら進んで立ち止まったところで真紀は声をかけられた。埋まった座席のところどころで顔をあげた生徒たちが、授業中みたいに真紀を注視している。その耳から一様に垂れ下がる白いコードを見て、真紀ははっと振り返った。キャビンの仕切りの壁一面に大写しになったのは、ちょっとノイズの入った青い空。頭をかがめて廊下へ逃げ出すとやっと全体が目に入る。
 機内に設置された大型スクリーンだ。行きの機内では航路図をたまに映すくらいだったのに、映画でも流しているのかと思った真紀が見ていると、おもむろに画面の真ん中に進み出た、鍔の広い帽子の下で顔半分を影にしたヒゲ面の男は、腰に手をあてて深々と葉巻を吸い込み、憎らしいほどたっぷり溜めてから白い煙を吐き出した。
「わぁっ」
 思わず声が出てしまう。最前列に座った生徒にちらと視線を送られて、真紀は早足で来た道と反対側の通路を引き返した。
(なにやってるのよ。格好わるいなあ)
 そのまま自分のクラスの席に座る気になれず、生徒を見回るような顔をして、真紀はしばらくキャビンを進んだ。
(・・・でも、美味しそうだったなあ)
 さっきのテンガロンハットのヒゲ面男が、今でも真紀の背中に向かって得意げにタバコをぷかぷかしているような気がして、おさまりかけていた苛立ちがぐいと頭をもたげる。
「・・・・そうなの?えー、声をかけられたの?ヴェネツィアで?」
「うーん。でもなんだか怖くって、逃げちゃったの。全然言葉わからないし」
「なんだか勿体ないじゃない、いいなあ、定子さんたら」
 廊下をはさんでおしゃべりしていて、そばまで来た真紀に気づいて顔をあげた生徒は何故か「ごめんなさい」とひきつった顔をした。「定子さん」の方だ。
「いいのよ、大きな声じゃなければ。・・・別に誘われてついていったわけではないんでしょう?」
 笑顔でささやいて通り過ぎたものの、確かにその前に思い切りきつい目つきをしてしまった自覚があって、何故だろうと真紀は首をひねる。
(ああ)
 サダコさん、サダコ、タバコ・・・サダコ・・・。
 一文字しかあっていない。
(こりゃ、本格的に重症だわ)
 外がほとんど見えないのでわからないが、翼の付け根を通り過ぎたと感じるあたりでキャビンの仕切り壁があり、一番後ろに一列開いた席に、真紀はどさりと腰を落とした。
(情けないわ)
 そう自分を戒めても、タバコを吸いたい気持ちは弱まるどころかむしろ強くなってくる。唇にあたる巻き紙の乾いた感触がなつかしくて仕方がない。
 真紀は、胸のポケットから鎖につないだキーホルダーを取り出した。プライベートでロスに旅行したとき買ってきた、アルミで出来た一本のパイプをぐにゃぐにゃ折り曲げて作られたもの。15ドルちょっとで真紀にそれを売りつけた黒人の男は、手渡すときに「天使だ」と白い歯をみせた。
(ミカ)
 漢字で書けば美嘉、だったはず。
 十数年前、リリアン生だった真紀が三年の冬にこの世を去ったクラスメート。死の直前に彼女は真紀に手作りの天使のマスコットを渡した。ずっと職場の机の引き出しにあったそれを最近手放したあと、真紀は彼女のことを忘れるつもりだった。忘れなくては、と思い、それですぐに疑問に思ったのだ。
(忘れる忘れないなんて、私にそんな資格があるのだろうか) 
 真紀が美嘉と話すようになったのは三年の二学期、秋も半ばにさしかかったあたりからだった。お喋りをしたり、一緒に下校したりしたのはほんのわずかの間だ。病弱で休みの多かった彼女に真紀以上に打ち解けた相手がいたのかはわからない。彼女が真紀のことをどう思っていたのかも。年明けには、彼女はもうこの世の人ではなかったのだ。そんな短いつきあいで、自分が彼女にとって特別の存在だったのでは、なんて考えること自体、おかしなことなのではないだろうか。
 そう思ったから遠慮なく代わりの「天使」を探した。ほんの少しだけ、仕返しのような気持ちもあった。もうしばらくは付き合ってくれても罰は当たらないんじゃない?と。
(ずっと忘れさせてくれなかったんだから、あなたは)
 家に置いてきたオイル式のライターにいつもはぶらさげているその天使を、そっと握りしめる。
 いつしかそれは、真紀にとっては心を落ち着かせる儀式のようになっていた。目を閉じてうつむくと、そこにはないライターの火花がきらめいて、もうほとんど顔を覚えていない彼女の幻影が、その向こうにたなびいていく。
「・・・先生?鹿取先生」
 耳元でささやかれて、はっと真紀は顔を上げる。真紀の席の背もたれに手をかけて廊下に立つ、縛った髪を頭の両脇に垂らした生徒の顔には、見覚えがあった。
「福沢さんね。どうしたの?」
 福沢祐巳、山百合会の「紅薔薇のつぼみ」。彼女がいるということは、ここは松組のいるあたりか。――真紀はすばやく思い出しながら、中のものを見えないように丸めた手を伏せた。祐巳は、名前より先に思い出した人懐こい目つきで真紀を見ている。
「私、ちょっとお手洗いに行ってきます、ので。友達の分までジュース、飲んじゃって」
「ええ、いってらっしゃい」
 えへへ、と照れたように笑って歩き出した彼女の背に、律儀な子だな、と真紀は思う。そんなことでわざわざ教師の了解をとる必要などないというのに。
 なにしろミラノから成田までのフライト、12時間以上乗りっぱなしの上、何度か食事もとるのだ。トイレを我慢したりすることのないよう、旅行前の説明でも充分徹底したのだ、ベルトを外せる時間なら、いちいち先生に言わなくてもいいからじゃんじゃん行きなさい、と。いくら女同士とはいえ年頃の乙女たち、去年の同じ旅程では我慢しすぎて体調を崩した生徒が出た。
(そうなのよ。12時間なのよね)
 さっきから、見ないようにしていた時計を確認する。マルペンサ空港を飛び立って4時間あまり、最低でもあと8時間は箱から取り出すことができないタバコの味覚の想像はひどくリアルだった。



 いや。
 別に取り出すくらい構わないのではないだろうか。要は火をつけて吸わなければいいだけ、口にくわえるだけなら何の問題もない。どうせライターもないことだし、少しは気が紛れるのではないか。
(バカを言いなさい、あなたは教師でしょう?今仕事中でしょう?生徒に見られたらどうするの)
 じゃあせめてトイレでなら、と思いかけて真紀は自分の卑屈さにうんざりする。人の迷惑になるような場所でも吸いたくなるようだったら、きっぱりタバコはやめる。去年の正月だったか、喫煙をたしなめる母親に、そう啖呵をきったことを思い出した。
 手のひらにうっすらかいた汗をジーンズでぬぐい、真紀は自分をからかうつもりで大げさに首をかしげた。
(こりゃ、日本に帰ったら即禁煙、かしらね)
 松組が集まっている座席を後ろから見ると、廊下に面した肘掛けや背もたれの上から顔や手が飛び出していて、他のクラスよりも起きている生徒が多そうに見えた。真紀のかけたシートの近い方の窓はシャッターが開いていて、空はさっきより暗く、透明感を増している。座席の下に投げ出したふくらはぎのあたりがひんやりして、機内の温度も少し下がったように感じられる。
(とにかく我慢よ)
 酔い止めを飲みアイマスクをつけ眠ってしまいたいところだが、教師間の緩い取り決めでとりあえず真紀は今は起きている当番になっているのだ。
 遠くの席でお喋りをしているらしい生徒の声が、間断なくふるえる飛行機の背骨にやさしくまとわりついて流れてくる。
(今年の旅行は、どうやらトラブルなく終わりそうね)
 気を紛らわせようと、真紀はわざと頭をめぐらせた。去年の旅行では、行きの飛行機で早くもホームシックになった子がいて、クラスメートと一緒になだめるのに骨を折った。自分でもどうしてこうなるのかわからない、と悔しがる彼女は、涙に濡れた頬で真紀たちを懸命に見返していた。
 自分のときはどうだったろう。十数年前真紀たちは、福岡・長崎を中心に九州の北半分をぐるりと周った。国内という気安さがあったにせよ、比べてみると今の生徒たちよりずっと感情豊かな道中だったかもしれない。笑い声に泣き声、それから突然飛び出す歌声。移動中もホテルでも、けっこう頻繁に先生のお叱りが飛んでいた覚えがあるのは、真紀たちが腕白だったのか、教師たちが今より口やかましかったのか。
(制服は変わっていないんだけどね)
『お前たち、お嬢様ばかりじゃなかったのかよ・・・』
 明日は東京に帰るという深夜の二時に、ホテルの部屋で大騒ぎして布団とごちゃまぜになった真紀たちを、部屋に飛び込んできて見おろした若い男性教師の、疲れたような目とすぼめた口。漫画の登場人物みたいにコミカルな印象だけになった彼を思い出したとき、真紀の中にふと疑問が浮かぶ。
 指先にひっかけたままにしていた天使をたぐりよせる。あのとき、彼女は・・・。
「うわっ」
 いきなり、真紀の視界の真ん中を白い物体が放物線を描いて、同時に上がった声に真紀の思考は中断する。ポケットティッシュの袋をつまんで立ち上がったのは、誰が名づけたのか近頃教師の間で「カメラちゃん」と呼ばれている武嶋蔦子だ。
「なにするのよ、思わずシャッター押しそうになったじゃないの」
 瞬間高まったエンジン音のせいで聞き取れなかったが、おそらく「ごめん」と言って、真紀の二つ前のシートから伸びた手が蔦子の手からティッシュを受け取る。
「蔦子さん、いい写真撮れた?」
「たぶん。――なに、由乃さん退屈なわけ?」
 背もたれの向こうに消えた蔦子の声は笑っている。
(由乃さん・・・島津由乃さんか。へえ)
「退屈ってわけじゃないけど。なんだか風物詩に欠ける旅行で終わっちゃうな、って」
「なに、風物詩って」
「ほら、寝ている友達の顔に落書きするとかさ。枕投げとか、そういうの」
「そんな知識、どこで仕入れてくるのよ」
 真紀の思ったことをそっくりそのまま返して、蔦子がもう一度シートから身を乗り出してくる。
「そんなに落書きしたければ、ほら」
 蔦子の指した先はちょうど真紀のひとつ前のシートで、椅子から立ち上がった由乃ともども教師の見ていることに気がついて、会釈をしてくる。真紀も頷き返して、腰を浮かして前の席を覗き込んだ。
「へえ。珍しいじゃない」
 由乃が「珍しい」と言った理由は真紀にもわかった。シートの中ほどにうずまるような格好で寝息を立てているのは山口真美、新聞部の部長だ。旅行中もエネルギッシュにおそらくは「取材」をしていた彼女も、さすがにエネルギー切れを起こしたのだろうか。
「よーし」
 真紀の見ているにも関わらず、かの「ペコちゃん」みたいな表情をした由乃は取り出したマーカーのキャップをポンと抜いた。
「ち、ちょっとやめなさいよ、ホントに書くつもりなの」
 真紀は止める気はなかったが、蔦子の方が先にあわてて身を乗り出す。
「ふふふ。いいからいいから。蔦子さん、シャッターチャンスよ」
「あ、そうかも」
 あっさり寝返った蔦子が、カメラを持ち上げたそのとき、身じろぎした真美が小さく寄せた眉根でおかしな笑い顔をつくった。
「・・・・おねえさま」
 つぶやいた口をぐい、と丸めた手の甲でこすりあげて、真美は勝気そうな額をシートに押し付けた。
 きゅ、とマーカーのキャップを閉めた由乃がくるりと回れ右するのに続き、蔦子もおとなしく席に戻る。
 不自然なほどの沈黙が機内に広がった。たぶん真美のつぶやきを聞いたのは由乃と蔦子だけではないのだろう。真紀は自分の膝をかかえて、笑いを堪えるのに必死だった。
(おねえさま、か)
 リリアンOGとして、かつて姉も妹も「つくった」真紀には、新聞部部長の今後辿る命運は手に取るようにわかる気がした。まあ、普段の彼女の物怖じしない様子からして、笑い話で済むことだろうが。
「先生」
 笑い顔をひっこめて振り返ると、祐巳が覗き込んでいる。
「あら福沢さん。おかえりなさい」
「そうなんですけど。もう一度出歩いて来てもいいでしょうか?」
「なに、どこに行きたいの?」
「藤組の志摩子さんのところに。トイレの前で会って、ちょっと書くものを貸して欲しい、って頼まれたもので」
「ええ、構わないわ」
 由乃の座っているあたりにとことこ歩いていった祐巳は、さっき由乃の握っていたマーカーを取り上げて、「いってきます」 と片手をあげた。
(本当、律儀な子ね)
 一服したい気分だった。もっともそれは、さっきまでの追いたてられるような余裕のないものではなく、昼間にふと、楽しい夢を見たことを思い出したような、沈静した憧れに近いものだった。
(それにしても)
 昨年度に担任として受け持っていた現在の黄薔薇さま、支倉令の妹ということ以上あまり知らなかった由乃という生徒の知らなかった一面を見た驚きが、新鮮に真紀の中によみがえった。去年の秋に手術をして良くなるまで、ずっと心臓の持病を抱えていた彼女。手術の成功したあとは欠席もほとんどなくなり、体育の授業にも元気に参加していると職員室で聞いていたものの、たまに廊下に一人いるところを見かける彼女は、どこかまだ自分の中身を見つめて立ち止まっているような顔つきをしていることがあったから。
(それも、私の思い込みにすぎないのかしら)
 かつて同じような目つきを真紀の中に残して去った女の子を知っているから。
 美嘉は、果たしてどうだったのだろう。もし元気になっていたら、という考えが乱暴すぎるのはわかっているけれど。



          **   



「恋だの愛だの、そんなもの見たことないよ。目に見えるのは恋人だけさ」
 そううそぶいてみせたくせに弱気な顔をした男に、読んでいた新聞を投げつけた半年前の日曜日。真紀ははじめて思い出した、そして気がついたのだった。十数年前の修学旅行の夜、騒いだ真紀たちを余裕なく叱りつけた若い教師の顔を。その落ち着き無い眼差しと肉のうすい頬骨が、真紀の中にずっと残って、どこかに繋がりつづけていたことを。
 そのときの男性教師は渥美先生、今は真紀の同僚であり、実の姉の夫でもある。
 美嘉は、渥美先生のことが好きだった。
 それが、どのくらいの奥行きのある感情だったのかはわからない。渥美先生で盛り上がっていた女の子たちにの中に混じっているのを見て、はじめて彼女の気持ちに気がついたくらいだから。けれど、天使のマスコットは渥美先生のためにつくられたものだった。病床の布団の下に隠して、彼女がこつこつ作ったものだ。それは今、渥美先生の車の中にぶらさがっている。
 すきま風のような細い空気の流れを感じて、真紀は窓を見た。紫から黒の羽を持つ蝶が折り重なったような広がりを貫いて、夜そのもののように黒い翼が伸びて、先端で赤い光が明滅している。居るはずもない鳥の甲高い鳴き声が、飛び行く飛行機の右から左へ、通り抜けていくような気がした。
(違う)
 アルミの天使を、真紀は唇の端にはさんだ。ちりちりした感情の火花が、背骨をこすりあげていく。
(渥美先生のことを好きだったとか、そんなのじゃない、私は)
 それは、何度も、美嘉の生きていたときにも自分の心にたしかめたことだ。それでも、一心に天使を作る彼女に、渥美先生が自分の義兄になると決まっていることを、伝えることが出来なかった。
(言えなかった、どうしても、嬉しそうに自分に似た天使を作るあの子に。ただそれだけのことじゃないの)
 彼女が傷つくと思ったから。ずっと、そう思い込んできた。 けれどあの春の朝、二年付き合った男に別れを言い渡したとき、真紀はわかってしまった。自分の中に出来た、異性に対する原型みたいなものが、確かに渥美先生の骨格を持っていることに。
 だから好きだった、ということにはならないと思う。現に真紀は、姉と渥美先生が結婚する、と聞いたときには心底喜んだ。修学旅行のときから親しみを感じた顔と、学校でもそれなりに気軽な言葉を交わせるようになっていた先生と、高等部を出た後も身近な存在でいられることが嬉しかった。しかし真紀は、渥美先生がクラスの話題になるたびに、口元を隠して皮肉に笑う自分をどこかで意識していた。姉の夫になるということ、クラスメートの誰も知らない彼の、先生としてではない声や顔つきを、自分だけが知っている、ということ。
 それが嫌いではない、ということを。「真紀ちゃん」と彼に呼ばれる優越を。
(言えなかった)
 無意識に、顎に力を込めてしまって、真紀は手のひらにキーホルダーを落とした。天使のつま先にあたるアルミの板にうっすら凹みができている。両手でつつんで握った手が、細かく震えはじめる。
(タバコが、吸いたい)
 かすかに感じたうしろめたさを、あのとき自覚していたかもわからない意識を、一緒くたに言葉にのせて彼女に伝える冷静さも能力も、あのときの真紀にはなかった。そのためらいのわずかの間を、美嘉は待ってくれなかった。
 そして代償のように、真紀の中には男の横顔だけが残った。
(あるいは、本当に好きだったのかもしれない)
 それが何だというのだろう。どうしても伝えなくてはならないことだったのだろうか。彼女にとって真紀は、友と呼ばれるものであったのかどうかもわからないのに。
 急にたちこめたこげ茶色の気持ちに耐えかねて、真紀は天井の蛍光パネルを睨み上げた。その視界を、さっきより大きな白い物体がひょいと横切る。
「なに?」
 不機嫌な声は今度は手前からした。ハンカチを手に真紀の前に立ち上がったのは、それが飛んできたから目を覚ましたのか、新聞部部長山口真美だ。  
 真美の体の向こうから顔を出した由乃は悪びれる様子もなく目を生き生きさせている。
「枕投げ、枕投げ」
「枕じゃないじゃない。これ」
「飛行機の中で枕を投げたりとか出来るわけないでしょ。ほら投げ返して」
 なんでそんなこと、とつぶやきながら手を振り上げた真美に、「違う違う」と由乃が眉を寄せる。
「ほら、こうするの」
 おそらくシートに膝をついているのだろう、真紀から見て横向きになった由乃がバレーのレシーブのような格好で手を振ると、今度はタオルか何か、やや大き目の塊が彼女の背中の向く方に弧を描く。飛んでいった先からはまた「なに?」と声。
「せっかくイタリアに行ったんだから、トレビの泉風」
「なによ、それ」
 それでも、とっさに薄目をして寝たふりをした真紀の方を向いた真美は、由乃からは見えない頬を楽しそうにほころばせていた。
 かくして白いハンカチが飛ぶ。
「なに、これ?」
「枕投げ」
「トレビ風」
 ただそれだけのやりとりが1、2度繰り返されただけで、ものの一分も経たずに真紀の視界は舞い飛ぶハンカチやタオルで満たされている。一応他のクラスに配慮しているのか、ほとんど無言で繰り返されているのが見ているぶんにはさらに可笑しい。
(・・・とはいえ、これはさすがに放っておくわけにもいかないわね)
 腕を組んで、真紀は顔をあげた。数列前のシートの真ん中では、蔦子が写真を撮っているのが見える。火付け役の由乃はもう見物役で満足しているのか、星を見上げる子供のような目をして顎を背もたれにのせている。
 ふと、真紀はさっきの疑問を思い出す。
(美嘉は、修学旅行に行ったのだろうか)
 二年のときの彼女について真紀は全く知らない。あれだけ欠席や早退の多かった彼女のことだから望み薄だろうが、もし行っていたのなら・・・。高速道路を連なって走った別のバスの中で、長崎の教会で歌うことになっていた歌の練習に、小声で参加したりしていたのかもしれない。最終日の夜には、真紀たちのホテルでの騒ぎに、駆けつけた渥美先生の声に、布団の中で聞き耳を立てたりしていたのかもしれない。
 真紀は、胸元にアルミの天使をぐいと押し付けた。
(一緒に居たかったな、美嘉と)
 顔をはっきり思い出せないのが悔しかった。傍にいて、話をして、まだ夏の強さを残す九州の太陽の下を、並んで歩きたかった。たとえ皆がふざけたとしても、決して布団から出てこなかったであろう彼女をせきたて、盛り上げて、華奢な肩を抱いて、自分より大きな笑い声をあげさせたかった。こっそり後ろで手をつないだまま、先生の小言を聞いたりしたかった。
 ばさ。
 真紀の膝と、隣のシートの上に立て続けにハンカチが落ちた。スイッチを押されたように、ほとんど夢中で真紀は立ち上がった。
「あなたたち!」
 声をはりあげたとたんに飛んでいた「枕」はすべて落ち、ほとんど松組全員と思われる顔が一斉に真紀を見た。
「先生に、叱られるわよ!」



 確かに。
 それはそうだわ。
 誰かがつぶやいて、席を離れていた生徒もゆるゆると戻っていく。しばらくは自分の持ち物を探してのやりとりが続いたものの、やがてすぐに話し声も消えて、エンジンの低い唸りが戻ってきた。
 その一切を、真紀は音だけでたしかめていた。恥ずかしさで顔が上げられなかった。自分の足の間にもぐりこもうとするかのように、握った両手の上に上体をかぶせて、じっとしていることしかできなかった。
(ああ、もう、早く日本に着いて欲しい)
 タバコを吸いたい気持ちの上に、何色もの絵の具を垂れ流したような、ごちゃまぜになった気持ちが大音響で真紀の中を回転している。早く空港に降りて、解散式を済ませ、ものの五分でいいから一人になって、一本だけでいいから、ライターを擦って・・・。
「・・・先生」
 かぼそい声と一緒に、隣の席に、一人分の体温がすべりこんでくる。
 伏せたまま顔を横にすると、同じく身体をかがめた祐巳が、こわばった笑顔で真紀の耳を口を寄せた。
「大丈夫ですよ、大丈夫ですから・・・」
(なにが?)
 とたずねかけ、真紀はそこで「あっ」と気がついた。
「大人だからって、怖いものは怖いですし、そう思うことって、恥ずかしいことじゃないって思うし・・・」
 そう続いた言葉に、真紀は確信をもって顔をあげた。自分の方こそ恥ずかしそうにどんどんうつむいていった祐巳の前髪が、エアコンの風をうけて揺れている。
(私が飛行機を怖がっているって。この子、そう思っていたのね)
 なるほど、思い返してみると、祐巳が声をかけてきたときの真紀は、そうとられてもおかしくはない格好をしていたような気がする。いちいち断りを入れてきていたのは、彼女なりにいろいろ、教師である真紀に配慮した上でのやり方だったのだろう。
「ありがとう」
 大丈夫よ、とも、誤解だから、とも言えなかった。手のひらでそっと包むように触れると、緊張しているのか祐巳の小さな肩は震えて、雲の切れ端のように落ち着かない。それでも、ぎこちなく逆三角形をつくった上唇のとがったあたりが脈うつように動いて、真紀は、彼女が何か言いかけているとわかった。
(そうよ)
 水泡のように浮かんだ記憶に、真紀は注意深く指先をいれて、それが縮んで消えないように引き伸ばしていった。
(そうよ。私にはわかるんだわ)
 ひとつ、大きくかぶりを振った祐巳が、授業で当てられたときのような顔で身を乗り出してくる。
「大丈夫ですよ。今まで私の乗った飛行機って、落ちたことないんですから」
「んふ、そうね」
 もっとちゃんと笑ってあげなくちゃ、と思いながら、真紀は祐巳の制服の腕を撫でて、頷いてみせた。
(思い出した)

 まだ美嘉と知り合って間もないころだった。彼女について、身体の弱い、休みの多い子、というクラスメートと横並びなことしか知らず、二人きりのときは会話が続かず歯がゆい思いをしていたころ。
 その日はめずらしく美嘉が誘って、本屋に寄るためにいつもと違う道を帰ったのだった。
 小さな公園に通りかかった。緑に塗られたジャングルジムがあって、そのてっぺんに作業着を来た中年の男がハンモックに寝るような格好で座り、タバコをふかしていた。
 空を仰いで、ぷかりぷかり。
 秋の真ん中なのに、息が白く曇った。風の冷たい日だった覚えがある。
「私、ああいうのって登ったことないな」
 校門を出て、しばらく黙って歩いたあとだった。美嘉は、ジャングルジムに目をやったままぽつりと言った。
「うん、私も」
 なんとなくそれだけ答えた真紀と、美嘉の目が合った。その唇が小さく上下して、ひょっとして何か話したいことがあるのかな、と真紀は思った。けれどなんとなく億劫で、聞き出すこともできずに、そのまま歩き続けた。
「真紀さんも?」
 公園を行き過ぎようとしたところで、真紀の背に美嘉の声が届いた。振り返ると、弱弱しい夕陽に半身をさらした美嘉はゆったり立っていて、ジャングルジムはその向こうで彼女のかぶった王冠のようにそびえていた。頂上の男の姿はそこからは見えず、ただタバコの煙だけが、白い空にゆっくりゆっくり伸び上がってゆく。
 美嘉はまた上唇を揺らして、それから微笑んだ、と思う。
「ほんと?友達だね」

「仲間だね」とか「同士だね」と言おうとして間違えただけ、なのだろう。
 真紀がジャングルジムに登らなかったのは、もちろん身体が弱かったわけでもなく、高いところが苦手なわけでもなかった。近所の男の子たちが公園で占有して威張り散らすのに腹をたてて、反発心を発揮しただけなのだ。
「窓のそれ、閉めておきましょうか?」
 もう大丈夫だから、と真紀に促されて立ち上がった祐巳が、シャッターの上がった窓を指差した。
「ううん、いいわ」
「はい、それじゃ失礼します」
「福沢さん」
 海老のような格好で後ろ向きに通路に出た祐巳を、真紀は呼び止めた。
「旅行日誌には書かないでね」
 旅行日誌というのは、帰ったあと次の登校時に提出が義務付けられている感想文で、この旅行唯一の宿題のようなものだ。
「書きませんよ」
 それでも、真紀の冗談に安心したのか、はじめて祐巳は打ち解けたように笑った。
 通路を遠ざかる彼女の姿を、真紀は夜に向かう窓に映して目で追った。
 もはや機内の明るさを優先させる鏡面の中で、相変わらず翼の先に付いたランプが、飛行機そのものの鼓動のように、規則正しく点滅している。
 


          ***

 

 水族館のようなガラスの向こうを、黒い車が徐行していく。目を凝らすと、明るい日差しを通す表面には、真紀の背後を行過ぎる旅行者たちが半透明で動き回っている。
(なにか、焦っていたのかもしれない)
 さっき売店で買ってきた使い捨てライターを手の中でこねくり回しながら、真紀は思った。かつての自分の過ごした時間のかけらをたずさえて現れては去り、現れては去る生徒たち。川の中に立った棒くいのようにその中に佇み、変わらないと思っているうちに変わるもの、あるいはその逆の流れにさらされていることに、知らずにストレスを覚えていたのかもしれないと。
 ポーチから抜き出したタバコを、唇の定位置におさめる。馴染んだ感触はしかし、飛行機の中で想像していたような感動を運んできてはくれなかった。あれほど機内で真紀を苦しめた喫煙への渇望も、こうなると少しだけ思い出したいような気になってくる。
 成田にはほとんど時間通り到着し、解散式も滞りなく済ませて、生徒たちもそろそろ電車かバスに乗り込んだり、迎えに来た保護者に手を振ったりしている頃だろう。
 時計を見た。あと5分ほどで教師も最後の集まりをして、一部の責任者をのぞき現地解散になる。
 ロビーの白く高い天井を、飛行機の轟音が弓なりに通り抜け、だんだん遠ざかってゆく。音を追いかけてロビーを見渡した真紀は、長細いスペースに散らばる旅行者たちの中に馴染みの制服姿を見出した。
(福沢さん)
 特徴的な髪型が揺れて、彼女が手をあげた先に立つのは由乃、それから髪の長いもう一人は「白薔薇さま」、藤堂志摩子だろう。
 由乃が何か言い、応えてまた手をあげた後姿の祐巳は、機内で彼女が見せてくれたよりずっとほどけた笑顔を浮かべているように真紀には思えた。重そうな鞄をひきずって、三人は歩き出す。
(いいなあ。もしもこの先結婚なんてすることがあったら、福沢さんみたいな子としたいなあ)
『ふふ、なに言ってるの、真紀さんたら』
 美嘉の声を聞いた気がして、浮かんだその顔はほとんど祐巳そっくりだった。これは仕方がないことだ、と思いながら真紀は己の現金さに苦笑する。
 もう一度、さっきよりも遠く高く、音だけの飛行機が飛び抜けていく。
(さて。これを最後の一本にしたものか。どーしようかしらね)
 唇の端に移動していたタバコをくわえなおして、真紀は火をつけた。









<了>



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