夏颪









 しゅわしゅわ。指でつまんだペットボトルを左右に揺らすと、川のせせらぎのような音がした。ボトルの表面についた水滴が、ぽたぽた、乾いたアスファルトに落ちて丸く広がる。
 炭酸を一口含む。無数の細かな泡が口の中をひっかいて、ハーブみたいな苦味がちょっと残る。
 目の前の道路を、黒くひらべったい自動車が走りぬけ、メタリックな車体に反射した光が、ぎらりとこちらをひと睨みした。
 それきり、車は途絶え、あたりはぽっかりと静かになる。
 街のあちこちで熱をもらってきた風が亀のようにのろのろ、足元を這っていく。まばゆい外界に、令は頑張って目をこらした。人気のない歩道にゆらゆら陽炎がたち、その向こうの白い街なみに向かって、平坦なはずの道は上り坂になっているように見える。
「バス、来ませんね」
 ベンチの隣にかけた乃梨子ちゃんが、ゆっくりウーロン茶の缶をかたむける。
「そうだね」
 と答え、令は夢からさめたように感じる。今まで、何の話をしていたんだっけ。



 白い旗。男がそれを掲げる。ごつごつした棒の先に結ばれた、それは病院のシーツだ。風を受けて大きくふくらむ、そりかえる。
 男は戦う意思を捨てていない。何十年、一人で戦い続けた。かつてただ一度心を許した女性の説得に応じて、彼は銃を捨てた。ナイフを置いた。両手を高々と、むしろ誇らしげに男は投降する。暑い暑い、夏の昼下がり。
 裏切りの銃声。そして女性の悲鳴。それらは、遅れてやってくる。突然、透明な獣が牙をむいたように、旗の真ん中に黒々と穴が穿たれた、そのあとに。
 人々の怒声。喧騒。それでも、旗はひるがえっている。風穴をあけられても、悠然と、まるで風そのものの強靭な皮膚のように。
 昨日の夜、お父さんに借りて読んだ一冊の本。一番最後のこの場面を、令はずっと忘れられずにいる。心のどこかにひっかけたまま、剣道部の練習に出て、竹刀を振り続けた。



「令さま。私にお構いなく。どうぞ先にお帰りください」
 リリアンの高い塀。その黒々と長い影にバス停ごとすっぽりつつまれた中で、乃梨子ちゃんの目は静かに光っている。
「いや、私もね。練習で疲れたからさ、今は足を休めているの」
 歳はとりたくないものね。そう言って足を延ばすと、乃梨子ちゃんは首をかたむけ、うっすら微笑んだ。
 きれぎれに蝉が鳴く。じわじわ日なたで炙られている、丈の高い校門からは、もうずいぶん長いこと誰も現れない。
 夏休みももう終わりだ。秋に大会に参加するメンバーだけで申し合わせて集まり、剣道場で汗を流し、昼すぎて帰ろうとした令は、バス停にひとり佇む乃梨子ちゃんを見かけた。山百合会の用事のない今日、乃梨子ちゃんは図書館の開館にあわせて登校したのだという。
 宿題?と、バスが来るまでと飲み物を差し出した令に、乃梨子ちゃんは一度辞退してから受け取った。ちょっと植物について調べていたんです。花の名前。知りたくて。実は喉がかわいていたのか、一気に半分ばかりを飲みほして息をはき、乃梨子ちゃんは言った。
 ふうん、とか、そんな気のない返事をした覚えがある。バスの時刻が来て、二人とも黙り、道の先を眺めて、時刻表を確認した。どういうわけか、それからずいぶん経つのにバスはやってこない。
「よっと」
 令は立って、信号前の自販機まで歩き、脇のくずかごにペットボトルを入れた。振り返ると、目がくらむ。塀の影から出た半身に、目を閉じていてもわかる、たたきつけるような日差し。制服の下で、だいぶリラックスしていた筋肉がふたたび脈打ち、令は自分が裸で立っているように気恥ずかしくなる。
 手をかざして見上げた空は、青くかがやく海底の洞窟のように、底知れない。
 白い旗。また、令の心ではためく。何が気になっているのかわからない。本を読みながら令は呟いたのだった。ちゃんと降参したのに、ひどい。お母さんに甘える小学生みたいな声が出てしまい、一人の部屋であたりを見回した。



 通りの向こうで、ガラガラと音をたて、シャッターが閉まり、令はそこが営業していたお店であることにはじめて気が付く。小さな、腰をかがめたお婆さんが、じっと閉じるシャッターを眺めている。光る道の上で、その足元にはほとんど影もない。
 令と同じく、缶を捨ててきた乃梨子ちゃんが、日なたと影の境目をゆっくり戻ってくる。どこか物憂げにうつむいていたのが令の目に気づき、ダンスのステップのようにくるっと車道の方を向く。乃梨子ちゃんの二の腕も、プリーツの下のふくらはぎも、ためこんだ体の熱を発散するかのように、うっすら赤らんで見える。
「楽しい夏休みだった?」
 声をかけてから、格好悪い質問をしちゃったな、そう令は悔やんだ。ゆっくり振り向いた乃梨子ちゃんの後ろをのろのろ、白い車が走っていく。乃梨子ちゃんの頬と、やや乱れた前髪の下の額のてっぺんは汗で濡れている。
「そうですね。けっこう、楽しめたと思います」
「志摩子と旅行もしたんだったね。お祭りとか、参加しなかった?」
「お祭りは。でも、昨日ですけど花火をしました。同居の叔母と二人で、ですけれど」
 通りの向こうから、風の塊が大きく膨れ上がり、二人めがけて雪崩れてくる。乃梨子ちゃんはスカートを押さえ、令は目を細めた。駆け抜けた風の尻尾はどこか、ひんやりとしていた。埃をあびてかすかに痛むまぶたの裏で、令はうっすら、心をしめつけられるように、自分のあばらが胸を抱え込むように感じた。
 風はやみ、やがて白い旗はしおれる。戦い疲れた男はゆっくり目を閉じる。彼が死んだのか生き延びたのか、わからないような形で、小説は終わっていた。
 青臭い話だぞ?本を借りるとき、いつものいかつい眉の下でめずらしく、お父さんは照れたような笑みを浮かべていた。新しい本が並ぶ中で、一冊だけ黄ばんだ背表紙。だから気になり、手に取った。この本がお父さんのどんな歴史とくっついているのか、それはわからない。ひょっとしたら、お母さんと出会う前まで遡れるのかもしれない。
「乃梨子ちゃん、誰かを好きになったことってある?」
「え?」
 乃梨子ちゃんはくりっと目を丸くした。
「男の子と、の話ですか」
 聞き返されてから、何も考えていなかったことに気づく。言い訳のように、中学まで共学だったんでしょ、と令が言いかけて、乃梨子ちゃんは自分の言ったことがおかしくなったのか、あははと声を上げて体を折り曲げた。
「ごめん、変なこと聞いて」
「いいえ、いいんです。ありませんね、そういうことは」
「そっか」
 ベンチから立って剣道着の入った袋を担ぎ上げた令は、先ほどより黄色がかったゆらめく街の足元に、見慣れた影を見つけた。
「バスだ」
 ほんとだ。令に並んで乃梨子ちゃんがつぶやく。ベンチに置いたかばんを取りに戻りかけ、乃梨子ちゃんは「でも」と令を振り向かせた。
「バレンタインに、チョコレートを渡したことはあります。近所に住んでいた、男の子」
 かばんを前にして、つつつと戻ってきた乃梨子ちゃんは、うつむき加減に令を見て、恥ずかしそうにした。唇をやわらかく噛んで、いつものクールな印象に、ぽん、とあざやかな花が添えられたようで、令は驚きを顔に出さないようにする。
「へえ。凄いじゃない」
「私が中一のときで、その子はひとつ下、小学6年だったんですよ。幼馴染というわけでもなかったけど、親どうしでちょっと交流があって」
 ちらりと見ると、バスはリリアンの敷地にさしかかる交差点で信号を待っている。乃梨子ちゃんはバス停の支柱にそっと、指をかけた。
「やたらと、つっかかって来る子だったんです。朝学校に行く途中なんて私の顔を見て、悪口言って、すぐ逃げ出しちゃうの。そんなことばっかりで、私も頭にきたもので、意地悪してやるつもりで、綺麗にラッピングしたチョコレート、無理やり渡したんです。14日の朝に。こう、満面の笑顔で」
 バスが来るから、早口になっている乃梨子ちゃんは、それでもご丁寧に、いかにも心のないふうににっこり笑ってみせ、令はふきだした。
「それで、どうなったの?」
「次の日、家の郵便受けに入っていました、チョコレート。それからその子とは会ってないんです。私に押し付けられたときその子、悔しそうな顔をしてました。可哀想なことをしちゃったのかもしれない」
 どこか神妙な表情を乃梨子ちゃんがうかべたとき、バスの大きな車体が目の前に滑り込んできた。道の上で折り重なっていた分厚い熱気が押しのけられ、ぐいぐいと令の胸元を突く。
「でも私も、ちょっと悲しかったんですよね」
 乃梨子ちゃんは目を伏せ、つぶやいた。人気の無かった校門から、ぱらぱらと現れた生徒たちが令の方へ駆けてくる。
「そうね」
「このこと、誰かに話したのは初めてでした。悲しかった、なんて言ったのも、初めてです」
「誰にも言ったりしないよ」
 わかってます、そう言って乃梨子ちゃんはバスのタラップを早足で上った。
 やがて、信号にむけて歩き出した令を追い抜いたバスの背中の窓は、傾いた陽のだいだい色にいちめん染め抜かれていた。こちらを見ているかもしれない、乃梨子ちゃんの姿もすっかり覆い隠されている。
 ごきげんよう黄薔薇さま。令と同じく、歩いて下校する生徒たちがあわただしく挨拶し頭をさげて、横断歩道を渡っていく。



 後で聞いた話では、お客さんに急病人が出たとかで、バスは本来の道筋からちょっと外れたところにある病院まで回り道をしたということだった。お客さん全員が賛同したというけれども、珍しいことには違いない。
 乃梨子ちゃんと別れて、令が家にたどり着くころには、昼間の火照りが逃げ出していく、そんな寂しさがあたりにはもう立ち込めはじめていた。
 荷物を置いて、お母さんが気を利かして沸かしておいてくれたお風呂をつかいに行く。髪を洗いながら、悲しいことをいくつか、無理やり思い出してみる。試合に負けたときのこと。仲良しだったクラスメートの突然の転校。テレビで見た、食肉用の牛があまりに可愛く畜主のおじさんに懐いているところ。シャンプーを流しながら、令はじんわり、まぶたの裏を熱くした。
 お風呂から出ると、凉しい風が吹き出していた。自分の部屋に戻ると、いつの間にか上がり込んでいた由乃が、令のベッドにどっかり陣取って漫画を読んでいた。令の姿を見るやいなや、Tシャツにデニムパンツのラフな格好の由乃は、くるりと背を向ける。
「由乃。泣きたいときは、素直に泣いた方がいいよ」
「いきなりなによ令ちゃん。何言ってるのかさっぱりわからないんだけど」
 そのくせなかなかこっちを向こうとしない背中に、令は笑い出しそうになり、あわてて口を押さえる。由乃が手にしていたのは令の本棚でも選り抜きの「泣ける一冊」なのだ。
 机の椅子をひきだして腰をかけ、近くにあった雑誌をパラリとめくる。どこか南の国の、果てしのない海岸が広がるグラビアに見るともなく目を落としながら、令はぐずりと鼻を一度ならしたきりの従妹に、声をかけるタイミングを計っていた。
 もしくは、どう声をかけるべきか。
 そうだ。
「由乃。明日、海に行こうよ」









<了>




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