落花星







 蝶つがいのぎいぎい音を立てる重い扉を押し開けたとたんに、いつも目が合う。
 扉を開けるものすべてを見ているのか、私だけに向けられる視線なのか、それはわからない。
 何食わぬ顔で目をそらし、締まりの悪いドアノブを両手でつかんで、カチリと鳴るまで回している最中にも、視線は常に私の背に注がれている。
 振り返らなくても、わかる。振り返ると、まるで鏡を見ているように、視線が再びかちあうからだ。
 大抵すぐに根負けして、私は歩道を走り出す。車の通る通りに出るまで、背中に張り付いたままの視線に、かすかな敗北感を、後ろめたさを感じたまま。

 

「リコってばさ。そういえば、ホームシックにはならなかったの?」
 10月のなかばの週の木曜日、取り込んだ洗濯物をたたんでいるところに帰ってきた菫子さんが、コートも脱がずにどっかりとソファに沈み込んで発した第一声が、これ。
「なに言ってるの」
 生返事をして立ち上がり、箪笥に順々に洗濯物をしまいこんでソファの脇を戻ろうとしたところで、菫子さんの腕が私をはっしとつかまえてくる。
「コ〜ラ、保護者の目を見て答えなさい」
 董子さんの腕と胸と頬に挟まれた三角地帯は、お化粧と香水の匂いの充満する魔の空域だ。抱きかかえられた顔をぐいと浮かせて見上げると、ボリュームのある香りがひと息に鼻から口にあふれて、くらくらする。
「もう。何なのよ」
「あんたがリリアン入ったころはさ。私何かと忙しかったから、気がつかなかったかもしれないけど。そういうことがあったのかなー、ってさ」
「そういうこと、って何よ?」
「夜な夜な、『パパ』とか『ママ』とか、呟いて窓から外を眺めたりしてなかった?枕を抱きしめて泣いたりしてたりして」
「私、パパとかママとか呼ばないし」
 二秒ほど私の目を凝視した菫子さんが、つまらなそうに頬をふくらませてぱっ、と手を離した。少なく見積もっても私の三倍は生きているはずのこの大叔母は、しばしばこんな子供っぽい表情を見せる。
「なあに。私がホームシックだった方がよかったの?」
「そうは言わないけどさ」
 真っ赤なロングのコートをソファに引っ掛けて、台所の流しで手を洗っていた菫子さんは、そのまま手ですくった水を一口飲んで振り返る。
「大体、なによ今頃になって。私がリリアンに入って董子さんと暮らすようになって、もう半年以上じゃない。夏休みだって実家には帰ったし、そうそうホームシックなんてなってたまりますか」
 いい加減なリズムをとるように私の声に頷き返していた菫子さんが、傍らの炊飯器を指して目で尋ねてくる。
「あ、それはもうお米といで、セット済み」
「オッケー。んじゃ、何か作りますかね」
「私、部屋に戻ってるからね」
 傍らに落ちていた新聞をテーブルに載せて部屋を出ようとすると、冷蔵庫の野菜室を覗き込んだまま、菫子さんがするどい声を飛ばしてくる。
「リーコ。ネットもたいがいにしなさいよ。最近、朝ガッコに行く前もつけてるでしょ、パソコン」
 その董子さんの読みは図星、大正解だった。

 

 リリアンに入学したばかりの頃は、パソコンの電源を入れるのは学校から帰ってきたときと寝る前くらいに限定していた。インターネットに入っても見てまわるところはタクヤ君のページやら仏像関係に限られていたから、それで十分だったのだ。
 でも、例えばタクヤ君のページにしたって他のサイトとつながっている。仏像にあまり関連ない情報でもなんとなく読んでしまったりして、それがまた面白かったりして。気がつけば新聞に載るようなニュースまでネットで見るようになって、パソコンに向かっている時間は際限なく長くなっていく。
 これじゃいけない、万が一成績に差し障ったりしたら志摩子さんに申し訳が立たない、と、さすがに夜更かしをしてのネットは自制することにしたものの、近頃は朝、起きると同時にパソコンのスイッチを入れ、制服に着替えながらディスプレーをちらちら覗く、というのが習慣になってしまった。
「〜しながら」なら時間の無駄にならない、なんて自分に言い聞かせていたけれど、興味のある項目に出会ったりするとついつい読みふけってしまう。必然家を出る時間が遅れる。
 マンションには三台のエレベーターがあるけれど、朝の忙しい時間はなかなかつかまらないことも多くて、エレベーターホールでちら、とそれぞれの階数を覗いて「こりゃダメだ」と判断すると、建物の端にある階段に飛び込む。そっちの方が通りに近いし、早いのだ。
 階段を駆け下りて、息を切らしたまま重くてうるさい扉に手をかけるたび、明日こそもう少し早く出なくっちゃ、と心に誓い・・・おそらくはその誓いは果たされないのだろうな、と己の意思の弱さを恥ずかしく思いながら目を上げると、するとそこにはいつも視線がある。
 非常口を抜けた先、細い道をはさんだ向こうに製材所があって、その隣のいつも車の入っていない駐車場に、不躾な視線の主はいつも四つんばいになっている。
 黒くて大きな、短毛の犬。まばたきもせず無感情に私を見るその眼は、犬というよりもむしろくちばしの鋭い鳥のそれのようだった。



 シャーロック・ホームズの話に出てくるバスカヴィル家の犬というのが、ちょうどあんな感じなんじゃないだろうか。
「まあ、そんなに大きいの。怖いわね」
 校門をくぐった並木道で会った志摩子さんに、朝のネット生活うんぬんは伏せて犬の話だけする。首をすくめた志摩子さんは、すぐに「でも、大きな犬もいいわね」と、くるくるふわふわの髪の毛を指にからめて微笑んだ。
「別に怖くはないんだけど。犬は慣れてるし」
 二人並んで手をあわせて見上げたマリア像の肩には、黄色い銀杏の葉がひっかかっている。
「あら。乃梨子、犬を飼っているの?」
「あ、えーと。実家でね、飼ってるんだ。誕生日に妹が飼いたいって言い出して、もう6年になるかなあ」
「あら、そうだったの。どんな犬?種類は?」
「ええと」
 昇降口に向かう生徒たちの影が石畳の上で明滅する。太陽のおもての雲がひっきりなしに形を変える。高い空は風が強いようだ。
「・・・なんだっけ。ダックスフント・・じゃないし。チワワでも、マルチーズでもない」
「乃梨子ったら」
 先に昇降口のたたきに上がった志摩子さんが、可笑しそうに口元を押さえた。お姉さまはこういう仕草のひとつひとつがとっても可愛くて綺麗だ。リリアンはお嬢様学校だけど、こういう動作をやらせたらお姉さまの右に出る人はなかなかいないんじゃないかと思う。
「ご実家で飼っている犬なんでしょう。どうして乃梨子が判らないの」
「もともと、妹の犬だしね。もっとも、散歩とかほとんど私がやってたけれど。妹はそういうのが苦手なタイプだから」
「だったらなおさら、なんの犬なのかくらいわかるでしょう」
 もう志摩子さんは本格的に笑いはじめている。
「ああ、うん。なんだったっけ・・・。種類とか割とどうでもよかったから・・・」
「ふふふ」
 鈴のように笑い声をたてて、志摩子さんが背をむける。色素の薄い髪がゆるやかに波打つ。
「なんか、志摩子さんみたいな感じだったよ」
「え?」と振り返った志摩子さんにあわてて「毛並みがね」と言い繕ったけれど、大してフォローになっていないことに気づく。
「あ、あの。性格はわがままだしおっちょこちょいだし、志摩子さんとは似ても似つかないんだけど、ね」
 かぁっと顔が赤らむのがわかる。けれど、志摩子さんは黙って私に近寄って、セーラーカラーの上にそっと手を置いてうなずいただけだった。
「そう。それじゃあ、乃梨子がいなくなって寂しがっているかもしれないわね、その子」
「うーん・・・どうかなあ。夏に帰った時会ったけど元気そうだったよ。私のいたときより伸び伸びしてる感じ。妹もそれなりに世話してるみたいだったし、案外私がいなくなってせいせいしてるかも、ね」
「そんなこと」
 鞄を持ち直した志摩子さんは、かすかに眉根を寄せて私を見た。
「ううん、私けっこう厳しく躾けてたし。そのくせ、ご飯をあげたりするのは妹やお母さんだったから、犬から見たらどういう存在だったんだろう、って思うんだ。私がいなければあの家で、家族の中でリーダーになった気で威張っていられるのかもしれないから、ね」



 でも、仕方の無いことだった。父も母も、もちろん妹も、放っておくとどこまでも犬を甘やかすというより、むしろ甘えるばかりの家族だったから。
 本来の飼い主で言いだしっぺの妹はそれこそ自分が甘えたいときぐらいしか近寄らないし、父は黙っていると猫なで声で一日中エサを与えてしまう。母は母で、犬と二人きりになると食事の支度をしていても、テレビを見ながらだってずっと喋りかけつづける。犬が迷惑そうにしていてもおかまいなし。
(そもそも。私が抜けたあとのあの三人。大丈夫なのかな、うまくやっているのかな)
 訪問販売が来ると玄関先で一時間も二時間も追い返せない母。私を「乃梨子ちゃん」と呼ぶ父は、母にするべき預金とか保険の相談までもちかけてきた。当時中学生だった、私に。そして現在中学生の妹は、私が家を出る直前まで「一人じゃ怖い」と一緒にお風呂に入りたがることもしばしばだったのである。
 よくは知らないけれど、ともに暮らす仲間が頼りなければ、犬だって「私が頑張らなくちゃ」と思うんじゃないだろうか。そして、犬がその地位に収まる前、二条家でその役についてたのは・・・。
 私、だったのだろうか。
 そう思うのは傲慢かもしれないし、ただの思い込みかもしれないけれど、奇しくもその日の昼休みに、瞳子にも「ホームシックになったことはございませんの?」と聞かれた私の口は、自然に言い返していたのだった。
「そういうの、感じる家族じゃあないし」
 お弁当の玉子焼きに箸をつき刺したまま、瞳子は眼を丸くした。
「乃梨子さん、何かご事情が・・・」
「あー、違う違う。そういうのじゃないよ。別に嫌いとか、仲が悪いとかじゃ、ない」
 こういうとき、「仲がいい」「愛してる」とかはなかなか言えないものだなあ、と思う。それでも納得したのか、すまし顔の瞳子は食事を再開する。
「まあ、乃梨子さんはしっかり者ですからね。ご家族の方がお寂しくていらっしゃるのかもしれませんけれど」
「どうかなあ」
 董子さんのマンションに住まわせてもらうようになってから、月に一、二度は実家と電話しているし、携帯を持っている妹からはもう少し頻繁にかかってくる。メールも届く。それらはほとんど用というほどのことはなくて、私が家にいたときに交わしていた会話の延長線のような、他愛もないもの。何を食べたとか、天気がどうだったとか、学校で何があった、とか。
 やりとりをする一つ一つ、電波にのった私の返答は、その向こうの家族とつながって何かの役割りを果たしているのか、いないのか。そう考えると、確かにちょっとだけ寂しい距離のようなものが、心のどこかに浮かび上がってくる気もするのだけれど。



 夕方に、マンションの横の通りにさしかかると、例の黒い犬は四つんばいから身を起こして、曲芸をする前のオットセイみたいにぴんと背筋を伸ばしてすわっている。
 一度だけその時刻に、飼い主らしい老婦人が出てくるのに出くわしたことがある。綱をとく彼女のゆっくりした動作を、犬は、私のうしろめたい朝を目撃し続ける勤勉さでもって見つめ続けていた。
 綱を解き終えてゆっくり歩きだす彼女の後ろから、黒い犬はのそりと立ち上がり、影のように頭を垂れてついていく。
「ああ、そう。黒くて大きい犬でしょ。あそこのご婦人、かならずあの時間に散歩してるみたいよ」
 董子さんは犬のことを知っていた。土曜の午後、いつもより早く帰った私とお茶のテーブルを囲みながら、「製材所の隣の・・・」と私が言いかけただけでわかったのだ。
「いつからだろ。私がここに住むようになったときにはもう居たからね。けっこう歳いってると思うわよ、あの犬」
「ふうん」
「無愛想で物静かで。ちょっとリコ、あんたに似てるよね」
 チーズケーキを大胆に大きく切り分ける董子さんを、紅茶を口に含んだまま私は上目遣いに見た。なんとも返答のしようがなかったから。なるほど、我が家の犬にたとえられた志摩子さんの気分もこんなだったのだろうか。
 けれど、続いての董子さんの台詞の方がもっと唐突だったから、私はひといきに犬のことを忘れてしまったのだった。
「それで、来週なんだけど。いろいろ冷蔵庫に買い込んであるけど、適当に足りないものは買い足していいからね、お金も渡しとく」
「え?なんのこと?」
 ぽかんと聞き返した私の顔を、私に数倍する驚きの表情で董子さんが見た。
「言わなかった?友達と旅行に出るから家をあける、って。火曜から土曜まで」
「へ?聞いてないよ、そんなこと」
「あーららら」
 自分のまぶたを手のひらで押さえて、菫子さんはからからと笑った。
「そっかー・・。そうそう、この前のホームシック云々のとき、話した気でいたんだわ。ごめんごめんうっかりしてた」
 窓から入る光を背にして、董子さんの髪はかすかに茶色がかって見える。今日は朝から家に居たはずなのに、董子さんはうっすらと、けれどきちんとメイクしていた。
「旅行って、どこに行くの?」
「グァム」
「海外!?」
「同級生4人でね、ひと泳ぎさね。年甲斐もなく水着姿を披露しにいこうってツアー」
「うっわー・・・」
 思わず出た私の嘆息に、「コラ、無礼者」と董子さんは私の頬を軽くつまんだ。
「年甲斐もないから。心臓麻痺で帰ってこなかったりしたら、ゴメンね」
 董子さんは大きく手をあわせて、私を拝む。
「それ冗談にならないよ」
「あははは」
 立ち上がってポットにお湯を足しにいった董子さんが、思い出したように振り返って「寂しい?」と聞く。
 意外に真面目な表情だったから、私も「のびのびできてラッキー」なんて軽口が叩けなかったのだった。
「ううん。大丈夫、いってらっしゃい」



「乃梨子。・・・あなた、ホームシックになったことはないの」
 明けた火曜、董子さんが予定どおりに出発した日の朝、薔薇の館に一番に着いて空気の入れ替えをしているところにやってきた志摩子さんに、今週限定の一人暮らしに至った理由をざっと説明すると、しばらく黙っていた志摩子さんは気遣わしげに私の手をとってそう言ったのだった。
「・・・志摩子さんまで」
「え?」
「あ、ううんなんでもない」
 私と並んで、志摩子さんは開いた窓枠に手をついて外に身を乗り出す。晩秋にさしかかろうというのにあたたかな空気には、夏の前のように湿度がこもっている。
 横顔の志摩子さんの顔の脇でかろやかに髪の毛が揺れている。ちょっと冗談めかした説明だったから、かえって心配をかけてしまったのかもしれない。
「別に、私がホームシックにならない人だとか、もちろん痩せ我慢してるとかじゃないよ。寂しかったら、ちゃんと言うから」
「ええ」
 戸外を見つめたままの志摩子さんの返事はどこか遠い。こういうときのお姉さまは大抵、いろいろ気をまわして考えている。
「なんだったら、今週は私の家に泊まりに来てもいいのよ」
 案の定、しばらく二人して床を掃いたりしたあとで、思い出したように志摩子さんはそう言った。
「うーん。それはとっても嬉しい申し出だけれど・・・」
 志摩子さん家にお泊り、なんて。ちょっと恥ずかしいけれど、その何倍も楽しそうだった。けれど、私はなんとなくこだわっていた。このところ立て続けに言われたホームシック、という言葉に。一人きりで過ごす時間は、その感覚が私に降りてくるかどうか試す機会になるのでは、と。
 もうひとつ、学園祭を控えたこの時期、薔薇さまである志摩子さんは家に帰っても祥子さまや令さまと連絡をとりあう機会が増えていること知っていたから。私が泊まりに行ったからどうだ、というわけではないけれど、ほんの少しでも志摩子さんが妹に甘い顔をしているイメージを持たれるかも、と思うとなんとなく抵抗があった。私が泊り込んで電話傍にいたからって祥子さまたちが気にするなんてこと、万にひとつもないのだろうけど。
 それでもなんだかすっぱり断るのも悪いかと思って黙っていると、志摩子さんは先回りして「そう」と頷いた。
「でも、困ったことがあったら遠慮なく言って頂戴ね。私はあなたの姉なのだから」
「うん」
「千葉のご実家から通うには、やはり遠すぎるのね」
「うん。ちょっと・・・無理かな」
 テーブルクロスのしわを伸ばす私の向こうで、椅子の背もたれに手をかけた志摩子さんは、まだ何か考えているようだった。
「志摩子さんなら、ホームシックとか、平気かなあ」
 いささか無神経な聞き方だとは思ったけど、もし余計な心配をしてるなら、と私は思い切る。かつて修道院に入るから勘当してくれ、と家を出ようとしたお姉さまは、しかしうっすら微笑んで首をふった。
「きっと駄目ね」
「えー?」
「今になって思うの」志摩子さんはやわらかな指で自身の二の腕をそっと包み込んだ。「家を出る、って決意していたころの私は、そのことしか頭になかったから。まわりの人の気持ちとか、思い出とか、何にも気づいていなかった」
「志摩子さん」
「私は、弱くなったのかもしれない。けれど、私は今の自分が、嫌いじゃない」
 その「嫌いじゃない」は私が家族にむけるのと同義の言葉なんだろうか。たずねることは、できなかった。
 階下で扉のあく気配がした。志摩子さんと二人してゴミの袋をもってビスケット扉を出ると、祐巳さまと祥子さまが前後して階段を登ってくる。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
 入れ違いに館の外に出ると、野分のように沸き立つ風に、細かな水滴が海辺のように混じって吹きすぎる。
「さしあたって、今日の晩御飯はどうしようかな」
「一日30品目よ、乃梨子」
 空いた手で髪をかきあげた志摩子さんが、綺麗な歯をみせた。



 さしあたっては火曜の夜、30品目は無理だった。それでも、初日から難しそうなものを、とことさらに挑んだロールキャベツは案外上手くできて、翌日のスパゲティの上に変り種ミートソースとしてのっかるまで、活躍してくれたのだった。
「おひとりなんて。いいですわね、気兼ねがなくって」
 私の一人暮らしを聞いた瞳子の顔は、言葉に反して少しもうらやましそうではなかった。彼女らしい、と思う。その直後に目を輝かせて「じゃあ瞳子が乃梨子さんの面倒を見に行ってさしあげますわ!」と身を乗り出してきたのには閉口したけれど。
 志摩子さんの申し出を断ったのに瞳子を家に呼ぶわけにはいかない。学園祭で二つの劇に出演するため、追い込みの時期にさしかかっている彼女のことだから、本気だとは思わなかったが。
 その志摩子さんからは、董子さん不在中に電話が一度。けれど、学校にいるときには、朝授業がはじまる前、昼休み、そして放課後といつもよりも積極的に私の傍にいようとしてくれているように感じる。帰り道では、しりとりをするみたいに一緒になって晩御飯のメニューを考えてくれる。そのやり方はたいてい「家庭料理」を逸脱したものに飛躍してしまうのだけど、お姉さまが楽しそうに笑う姿は、気持ちよかった。
『どう?』
 水曜の晩にかかってきた電話でひとしきり話したあと、志摩子さんはぼそりとそれだけ言った。
「どう、ってことはないよ」
『一人だと、静かでしょう。空いた時間は何をしているの』
「読書とか、パソコンとか」
 電話口で志摩子さんはころころと笑う。
『私も、メールくらい覚えなくちゃいけないわね』
 タクヤ君からはメールが来た。董子さんが家をあける云々は伝えていなかったのだけれど、
<志摩子さんの父上とチャットしてて知ったよ。ノリちゃん、羽目を外すんじゃないよ!・・なんて、言ってみたいところです>
「うわ、チャット友達なのか、あの二人」
 深夜の一人部屋で、思わず口に出して呟いてしまう。
 実際、羽目を外すとか、開放的になるとかいう方向からは正反対のような気がする。董子さんという部屋の主からあずかった留守に万一のことがあってはならない、と緊張する気持ちが常につきまとう。火の元、戸締り・・・と、普段よりも慎重に点検しないと気がすまない。この状態が続けばそういうのにも慣れていくのかもしれないけれど、今回は慣れる前に董子さんは帰ってくるわけだから。
 一日一日、時間ごとに、家の中の董子さんのお化粧の匂いが薄れる気持ちがする。時計を見ると、今彼女はどんな空のもとにいるのだろう、なんて想像する。
 千葉の実家には董子さんから連絡が行っていたらしく、火曜の夜に母から、そっちに行こうか?と電話がかかってきたのを「大丈夫だから」と断る。電話口からは、父と妹が何かはしゃいで喋る声が聞こえていた。
 董子さんがいなくなって、逆に気持ちを引き締めたせいか朝もぎりぎりの時間になることはなくなったけれど、私は、エレベーターを使って降りてもわざわざマンション脇の小道に出て表通りに向かうようになった。
 なんとなくそうした次の朝には、習慣になっていた。
 製材所の隣に寝そべる黒い犬は、私が非常階段の鉄扉と違う方向から現れても、最初から周知のようにふてぶてしい目線で私を迎える。小道をゆっくり歩いて、通りに出るまでやはり、背中に視線が貼り付いて離れない。
 やっぱりなんだか、どこかうしろめたい。



 明日には董子さんの帰るという晩には、西日本での台風なみの荒天の影響なのか、夕方から風が強くなった。窓をしめきっていてもどこからか入り込む夜の風に、台所に立つ足首がすうすうする。
 9時を過ぎて、たぶんもう電話も、もちろん訪問者もないだろう、と私は散歩に出てみることにした。
 スニーカーとダウンジャケットで固めてマンションのエントランスを出ると、埃っぽい風がきりきりとつむじを巻いて天空にかけあがっていく。
 例の黒い犬は見当たらなかった。夜には家の中に入れてもらうのかもしれない。
 外に出てはじめて、散歩ってどういうものなんだろう、なんて思う。目的地もなく歩く、ということをこれまでした記憶がほとんどない。 適当に方向の目星だけつけて、人影まばらな道の上を、前かがみでわしわしと歩く。
 コンビニの看板ばかりが光り輝く大通りは、正面から吹き付ける乾いた風に、すぐに目が痛くなった。横道に逸れると、風の止んだ青黒い家の影の上に、人の気配のするオレンジの灯がにぶく反射する。ほっとして、ためこんでいた息を吐く。
 見えない炎のようにくすぶっていた高揚感が、気持ちよくひいていく。留守番の数日に蓄積されていた何かに火をつけられたようなこの昂ぶりが、マンションの、私の部屋から台所からあらゆるところであふれて、息がつまりそうな気がして、だから外へ出たくなったのだ、ということに私は気づいた。
 大通りの喧騒はもう聞こえない。遠くの方で、「火の用心」の声と拍子木の音が遠ざかっていく。
 真っ暗な境内の神社の脇に、でこぼこな石畳の小道が抜けていて、途中から階段になるところを登っていくと、頭上にいきなり大きな送電線の鉄塔があらわれる。
 風がふたたび強く吹いた。そこは、大きな川の土手の上だった。

 土手の上の道は広くて、暗くて、乾いていて、誰もいない。街で一番高いところのようなそこに立つと、風の温度まで変わったような気がする。
 黒い川面にうつる街明かりは、風をうけるたび細かくちぎれて、ゆっくりと元の位置にもどっていく。
 ダウンジャケットの襟をたてて、遠くに見える鉄道の橋を目指してぶらぶら歩き出し、すぐに私は立ち止まった。
 堤防の内側に作られた小さなグラウンドの脇から伸びた木が斜めに枝をさしかけた道の上に、犬がいたのである。いつも朝に顔をあわせる、あの黒い犬が。
「どうして・・・」
 散歩の時間でもないのに、といぶかしく思って、なんとなく足をとめて目を凝らす。犬は、飼い主を迎えるときのぴんと背を伸ばした姿勢でこちらを見ていた。相変わらず鳥のように無表情なその目に、間違いない、あの犬だ、と思う。
 視線に引き寄せられるように歩き出す。犬の首輪には引き綱がついていたけれど、その先はどこにも結ばれておらず、乾いた土ぼこりにまみれている。
 近くに寄ると、思いのほか犬は大きかった。ほぼ真上に見おろすように立った私の顔を犬は見つめ、それから首を垂れて私のジーンズの膝の匂いを嗅いだ。
「どうしたの、一人?」
 なんとなく話しかけながら、引き綱の先をおそるおそる手にとった。かがんだとき、犬のあたたかな体温が、私の左半身に日差しのように降りかかった。
 綱を持って立ち上がると、待っていたかのように犬は腰をあげ、歩きだした。ひょっとしてこのあたりに飼い主さんがいるのかも、としばらく待とうかと思っていた私が一瞬迷っていると、犬が振り返った。またあの目つきで、私を見る。
「うん。わかったよ」
 なんとなく、負けるもんか、なんて妙な対抗心を出して歩きだした。犬は私を引っ張るでもなく、広い土手の上を真っ直ぐに、首をあげてゆっくり進んでいく。綱から感じるゆるやかな引力が、私の中からぼんやりとした記憶と結びついていく。
 あれは、実家に妹の犬が来たしばらくのころ。子犬だったのがぐんぐん大きくなって、意気揚々と散歩に出て行った妹が、「逃げちゃったよ」と泣きながら一人で帰ってきたことがあった。父も母もそのとき留守で、家には小学校から帰ってきたばかりの私だけ。
「はやく見つけないと、つかまっちゃうよ」
と、さらに泣く妹をなだめ家で待つように言って、探しに出た。昼過ぎから夕方まであちこち、思いつくところを探し歩いた。交番があれば聞き、電話ボックスを見つけては保健所に電話して似たような犬がいないかたずねる。気がつけば駅ひとつ向こう、小さな山を越えた町まで線路伝いにたどりついて、見上げた空にはもう星が輝いていて。
 なぜか「簡単には見つかるまい」と思い込んで用意してきていたジャムパンを、駅のロータリー前のベンチにすわってかじりながら、目の前で明かりを消して眠ったように待機するバスの背と、駅のプレハブの屋根の隙間から見える空ばかり見ていた。
 夕刻の赤みを弱めて青みを増していく空に目を凝らしながら、私は考えていた。昼の空はいつから夜になるのだろう、と。それは、自分がいつから眠ったのか、を感じるように難しいことなのだろうか、と。
 そのとき、足を休めようと脱いでいた靴に足を挿し込みながらふり仰いだ群青の空に、私は見たのだった。細長い視界の真上から真下に、さぁっと流れおちる流れ星を。
 わふ。
 引き綱の先で黒い犬がかすかに声を立てて、歩みをゆるめて道の端に寄った。人間には何の変哲もなく見える道端の草の生え際に鼻先を寄せて、しばし立ち止まる。
 犬を待って見上げた空は、記憶の空とは違って、どこまでも黒く、夜の花びらが何重にも折り重なっているように濃厚だった。躍動するぎざぎざの雲の隙間に、何かの信号のように、遠い星がまたたいてすぐに見えなくなる。
 前触れもなく、私の片頬を涙がひとしずくつたって、顎に届く前に消えた。驚いた私がぬぐう暇もなく。
 わふ。
 もう一度犬の声がして、その視線を感じる。今度は私が綱を引いて歩き出した。犬はおとなしくついてくる。
 結局、ジャムパンを食べ終わった私が家に電話すると犬はもう戻っていて、迎えに車を出す、という父の申し出を断って、私はその駅からひと駅電車に乗って、家のある町に引き帰してきたのだった。
 駅には父と母と妹と犬、そろって出迎えに来ていて、私は少々きまりの悪い思いをした。改札に出てきた私の顔を見て、父は「乃梨子」と呼んだ。乃梨子ちゃん、ではなく。
 それから、駅を出たところで、妹が私と、犬の両方に、「ごめんなさい」と頭を下げた。たぶん、会ったときにそうしろと言われていたのだと思う。
 家に帰る道すがら、隣の町にまで及んだ私の捜索行の隅々を、犬と私を除いた三人が根掘り葉掘り聞きたがった。みんなえらく上機嫌で、すごい勢いで矢継ぎ早に質問を飛ばしてくるものだから、半ば辟易しながら答えつつ歩いた道の上は、昼間のように照らす街灯に照らされて明るかった。
 晩御飯の席につくころには、昼間の疲れがようやくに押し寄せて、箸を持ったままこっくりこっくり、何度も船を漕ぎそうになった。そのたび湧き上がる父母の笑い声と、天井の蛍光灯の白い光と、卓上コンロにのった土鍋から立ちのぼる白い湯気とを、やたらとはっきり覚えている。   
 鉄道橋のたもとまで来たところで、犬は向きを変えて、土手を降りていこうとする。私はおとなしく従った。確信ではないけれど、犬の歩みは自分の家を目指している、と思えた。
 土手を降りきったところで振り返ると、斜めにはしる土手の向こうに、白い骨の城のような送電線の鉄塔がそびえていた。
 そういえばあのとき。流れ星の話だけはしなかったんだった、と私は思い出す。
 どうしてなんだろう。聞いてほしかったことのはずなのに。またいつか、実家に帰ったりしたときにその話題が出たなら、ちゃんと思い出して話せるだろうか。
 頬をかすめる風は冷え冷えとしていたけれど、肌触りはなめらかだった。自分の足音ばかり響く道の上を、犬の背中の筋肉の動きを眺めて歩いていく。

 マンションまで戻って、犬の飼い主の家まで回りこむと、妹よりも一つ二つ年下くらいの女の子が泣きながら出てきて、泣きながら綱を受け取り、泣きながら家に犬を連れて入っていく。
 かわって出てきた老婦人に説明すると、温厚そうな細い目をさらに細くして、彼女は丁寧に頭をさげた。
「孫なんですけど、散歩に連れて行くって聞かなくって。綱を離しちゃって、追いかけたら逃げた、ってもうどうしようかと・・・」
 首輪に住所が、と言いかけてぺこり。書いてあるから大丈夫じゃないかとは思っていたのだけれど、でぺこり。何度も頭をさげる彼女の向こう、玄関の奥から犬が顔だけ出して、例の鳥の目つきで私を見ていた。



「乃梨子。あなた昨日、泣いたでしょう」
 土曜の朝、薔薇の館で顔をあわせた途端に志摩子さんにそう言われて、私は仰天した。流した涙はほんのわずかだったのに、起きぬけに見た鏡では跡も何も残っていなかったのに。
 鞄を取り落としそうになりながら、自分の頬や額を手で撫でまわして確認していると、志摩子さんは口元を手で隠して「うふふふふ」と笑い出す。
「し、志摩子さん、かまかけただけ・・・だよね」
 そう言えば肯定することになる、ということに気をはらう余裕もなく、鞄を椅子にあずけてにじり寄った私から、志摩子さんはおどけたように二、三歩逃げ出した。
「志摩子さんたら」
「さあ、どうかしらね。でも、もう大丈夫よね、乃梨子」
「うん」
「大叔母さま、今日お帰りなんでしょう」
「うん。家を出る前に電話があったよ。これから飛行機に乗るーってね」
「そう」
 志摩子さんがカーテンを開けた。鳥の飛び立つ羽音がして、乳白色の朝の光が、一気に室内になだれ込んできた。

                        *

 それから、余裕をもって出た朝にも、私は例の犬の前を通っていくようになった。
 黒い犬はいつも同じ姿勢で寝そべっている。目を合わせないで過ぎようとすると、「わふ」と一声。
 それでなんとなく犬の顔をうかがってしまう、毎日。なんだか、私の泣いたとこを見たぞ、って言ってるみたいで、無視することができないのだ。

 後日、妹から送られてきたメールが二通あって、片方には父母の写真と、もう一方には実家の犬の写真が貼り付けてあった。
 鼻っ柱の黒い長い体毛の犬は、まるで使い古した鍋敷きのようにひらべったくお腹を上にむけて、口をあけて眠りこけていた。
(そうそう、こんな顔だった)
と、思いつつ、私はそれをプリントアウトすることはしなかったのだった。
 志摩子さんには、見せられない。








 

<了>

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