真珠貝 そこは、着た者を少なからず古美術品のように見せる制服姿のリリアン生ならば誰であれ似つかわしくない場所で、だからそこに居たのがたとえ鏡に映った私自身だったとしても、やはり違和感を覚えてしまうことだろう。 まして、それがリリアンでも選り抜きの模範生にして学年一の優等生ならば。 ようやく暗さに慣れた目に、夜明け前の嵐の雲のように、ふつふつとあちこちで起伏する波のようなものが部屋の全体にぼんやり浮かび上がってくる。私の足の腿くらいの太さのパイプが、分岐し交差しまた合流しながら、天井も床も隙間無く埋め尽くしているのだ。それは完全に静止した眺めでありながら、どこか生々しく、なまめかしい気配があった。まるで太古に生きていた巨大な猛獣を荒々しく描いた洞窟の壁画のように。 「外、寒かったでしょう。顔が赤いわよ」 蓉子は、私を見るなりそう言った。白い靴下が私の目の高さでぶらぶらと揺れ、蓉子の顔は高みにぽっかり浮かんで私を見おろしている。そのすぐ前、顔より低いところにほとんどこの部屋の唯一の照明である裸電球がぶらさがり、つめたい光を放っている。白く輝く蓉子の首筋と靴下との間を埋めているはずの色の暗い制服は、愛想のない周囲の暗がりに半ばとけ込んで体の線もわからない。 どこからか、蛇が藪を這うようなしゅうしゅうという音がする。足元から頭に向けて段階的に暖かくなっていく部屋の空気が気持ち悪い。蓉子が腰をかけているのは緑色の大きな円筒で、たぶん水の入ったタンクか何かなのだろう。それはパイプに埋もれた床から奇抜なキノコのようにそそり立っている。 「どうやって上ったのよ、そんなところ」 「聖も上ってこない?」 「遠慮しておく」 「お尻が温かいのに。いいわ、ほら早く、近くまで来て」 まるで自分の部屋に招き入れるような口調で、そう皮肉ろうとして、私は蓉子の口元に浮かんだ笑みを見て口をつぐむ。地面と並行に並んだパイプの隙間を用心しながら足を運んでいくと、蓉子の座るタンクの前は小さく開けて小人の劇場の演台のように照らされ、そこに上履きがそろえて置いてあるのが見えてくる。 蓉子のいるあたりから離れるほど暗くなる壁際では影そのものになった機械が低い声で唸り、ところどころに、撤去し忘れた電飾のようなランプが点いている。透明な猫みたいな熱気が足元から湧きあがり、次々と頬を撫でて私の背後でわだかまる。垂直に立つパイプは触れるとほんのり暖かい。私は、部屋全体を包むパイプが、実は物凄く長い胴を持つ一匹の生き物であるかのように感じる。 高等部の西のはずれ、プールと新しい温室をつなぐねずみ色の壁についた鉄扉の中がボイラー室であることを知る生徒は少ないだろう。白壁と木肌が主体のリリアンの中でこの殺風景な施設は運動部の生徒が校庭から戻るときに通りがかる小道に面しているものの、扉からもれ聞こえるかすかな機械の音に立ち止まって耳をそばだてる者が一年に一人もいるかどうか。 折りしも、閉じてきた背後の扉の向こうを小走りのような足音が駆けて、すぐに遠ざかっていく。この施設は確かに私たち生徒のためにありながら決して顧みられることはない。通り過ぎる少女たちの足音は、春になると跡形もない落ち葉のように蓄積するばかりだ。マリア様に見守られた学園の、ここは内臓のような場所なのだ。 「誕生日おめでとう聖。一日早いけれど」 蓉子の声は割れた陶器がかちあうようにこわばって残響し、電球のわずかな揺れにあわせて周囲の闇を押し返すようだった。 「ありがとうって答えたいところだけど。こんなところで言われてもね」 「そうかしら。嬉しい言葉はどんなところで聞いても嬉しいって言わない?遠ざかる列車の窓からの愛の告白とか、テレビ中継でのプロポーズとか」 「それは特殊でしょ。私は嫌だなあそういうの。それに、歳をとることって別にそんなに嬉しいことじゃないしね」 蓉子が足を投げ出して座るタンクの前で私はゆっくりしゃがみ込み、上履きを手にとった。まだ蓉子のぬくもりの残るそのかかとの裏のところには小さく「水野」と書かれている。 「で?天下の紅薔薇さまが、こんなところに居る理由、当然お聞かせ願えるんでしょうね?」 立ち上がった私の目の前に、スカートにくるまれた蓉子の膝がある。布団にもぐってふざける子供のように、その丸みはころころ、上になったり下になったりする。 「鍵がかかっていなかったから」 「そんな理由?だいたい、いつパーティーを抜け出したの、私が部屋を出るときは確かまだいたわよね?」 膝の上で組んだ手にあごをのせて、蓉子が前かがみになってくる。 「ふふふ、駄目よ聖、愛がないわ。愛のない歌は歌じゃない」 耳鳴りのような違和感が私の耳に溜まっていく。普段の蓉子はそんなはぐらかしたような返答の仕方をしないのだ。背中からかけた卑怯な問いかけでもきちんと相手の目を見て、格調高い声が追いすがり、腰のひけた臆病者に恥をかかせるのだ。 蜂蜜のしずくを垂らすように、蓉子の唇はしなやかに笑いをつくる。電球に近い額の後ろで、その髪は生え際から背後の闇に同化している。天井のパイプの凹凸の上で蓉子の薄い影は三角形に広がっている。焦りに近い気持ちが私を煽る。今日は終業式、放課後は恒例の山百合会のクリスマス・パーティだった。準備の段階から蓉子はずっと楽しそうだった。銀紙で出来た王冠をかぶってにこにこと飾りつけをしていた。王冠はパーティが始まっても彼女の頭上にあり、その存在はむしろ紅薔薇さまの王座を安楽椅子か座布団のように見せ、おかげで他のメンバーをさらに打ち解けさせていた気がする。 今、蓉子の頭に銀の王冠はない。細めた彼女の瞳はむしろ、銀のナイフ、もしくは弾丸を連想させる。 「だって。気がついたら、聖が居なくなっていた、から」 からかうような口調だった。私は痩せ我慢して腕組みし、笑顔をつくる。 「乙女がパーティを抜け出すのにはいろいろ理由があるでしょうに。午前零時をまわったからとか、それからそうね、トイレに行きたくなったからとかね」 「そう。私はまた、あなたがどこかで一人で俯いている姿を想像していた。遠い遠いところで、声が届かない高い空の下で、涙を見せる相手もいない、それは無残な光景」 朗々と歌うように蓉子の声は流れ、私の前で細いふくらはぎがリズムをとる。私は、喉の渇きを感じていた。西部劇で一対一の決闘をしているガンマンのような気分だ。蓉子の目をにらみつけてやろうとして出来ず、私はじりじりと、ベルトにさした拳銃に手を伸ばしていく。こわばった指の先が、固い金属に触れる。 胸の中で鉄砲を構えたとき、いきなり蓉子が飛び降りてきた。布に包んだくさびのようなその体は、しなやかに音もなく床に接してしゃがみ込む。そのままの姿勢で、蓉子は床に落ちた果物のようにじっとしていた。 「ちょっと、大丈夫?もう何してるのよ、どこか痛めたんじゃないの?」 かがみこんで肩にかけた手の下で、蓉子の胸のタイがふっくらと上下して、千切れた薔薇の花びらのようにかすかな香りが立ちのぼる。二人の体の輪郭に押し出されるように、床に這いつくばっていた熱気が私を袋詰めにするようにせりあがって来る。それはまるで生きながら煉瓦の壁に埋め込まれるような着実さだった。よろこびも、それから悲しみも区別なく、積み重なる暗闇の向こうに規則的な冷徹さで覆い隠されていく。私はうっすらと、その甘美さの中に懐かしさを感じていた。 私の胸の下で、折り曲げた片足からくるくると靴下を巻き取った蓉子が、「かかとが痛いわ」と小さく呟いた。 愛していた。もし問われれば今の私は投げ遣りにでもそう答えるかもしれない、かすかに燃え残った火種に息を吹き込むように。その相手、栞と別れた昨年のクリスマス・イブ。私の中で、未だあかあかと燃える炎に水をかけるのはしのびなくて、私はそこから一つ一つ燃える材料を取り除いていった。蓉子と、この春卒業したお姉さまが一晩中、そんな私につきあってくれた。 二週間の冬休みをどう過ごしたのかほとんど覚えていない。年が明けて始まった三学期。髪を切った私の容姿は周囲を驚かせたようだったが、私自身は意外とさばけた心境で日々登校していた。授業も山百合会の仕事もストレスなく時間はすいすい過ぎた。蓉子とお姉さま、私の別れを見守ってくれた二人も、私の様子はそれなりに安心しているようだった。 三学期の始業式からちょうど一週間目の日、私は遅刻をした。母親を手伝った家の用事が思いがけず長引いて、学校についたのは昼すぎだった。担任には事前に連絡していたものの始まったばかりの午後の授業に顔を出すのが照れくさく、私は昇降口で靴だけ替えて高等部の外周をぐるりと歩いた。 栞との思い出のある旧温室に行こうと思い、見てみようかと思い、遠目に眺めようと思い、ひどく事務的な結論として行くべきではないと断念した。その戻り道、プール脇の鉄扉に手をかけると思いがけず軽く開き、熱気が私を出迎えた。 寒い日だったのだ。しばらく歩いた私は冷え切っていた。ぬくもりに誘われて扉の奥に進み、パイプに囲まれた床にかがみこんだ。床はあたたかく、私はすぐに腰を落ち着けて膝を抱えた。湿度を含んだ暖かさのうず高い堆積の底で、天井に登るパイプやそれにつながれて低い唸りをあげる機械を眺めていた。油か埃にまみれた機械の表面はそれでも赤や緑の地の色が見えた。使い込まれた臓物のようだ、と私は思ったのだ。 リリアン女学園の内臓。少女たちの臓物。誰にでもあるもの。けれどそれをわざわざ見にくる少女の肉体と精神は存在しない。希望のように、それは私の中に灯った。思考を止めた体内で私はその明かりだけを見つめていた。透明な光は果てしない奥行きをたたえた空洞で、悲しみや寂しさといった感情さえも、形になるのを待たずに吸い込んで行くようだった。 どれだけの時間が経ったことだろう。突然、肩に手を置かれて私は言葉のとおり私は飛び上がった。耳元とも言える近さで私を見おろす顔はお姉さまだった。いつもの落ち着いた様子はかけらもなく、その瞳は私の目線を小動物のように追いかけ、頬は濡れたように真っ赤に輝いていた。私はぼんやりと、外では雪でも吹雪いているのだろうか、などと思ったのだ。 私の前に回ったお姉さまは包むように私の腕と肩を抱いた。その制服は冷え切って、寒そうに開けた袖口からは白い手首に青い静脈が透けて見えた。停滞なくお姉さまは動き、黙ったまま私の髪のてっぺん、額の生え際、それからこめかみ、頬にとキスをした。無心な動作はまるで、生き死にをかけた動物のなわばり付けのようだった。 「嫌じゃなかった?」 問われて私がゆるやかに、おそらくは不思議そうな顔をして首を振ると、ようやくお姉さまは安心したように微笑んだのだった。 後で聞いた話では、遅刻の件をまったく聞いていなかったお姉さまは、体育の授業で校庭に出てきたクラスメートの中に私の姿のないことに気づき、それから何度も私の教室を訪れていたらしいのだ。不幸にして担任をつかまえる機会もなかったらしく、昼過ぎに昇降口で私の靴を確認したお姉さまは、午後最後の授業をすっ飛ばして、リリアンじゅうを探し回ってくれていたらしい。 お姉さまに私の与えた不安が何だったのか、その正体は今でもわからない。ただ、後にも先にもお姉さまがあれほど動揺した様子を見せたことはなかった。栞との別れの日、私を迎えに駅のホームに現れたときでさえ、お姉さまは堂々としていたのだ。彼女が卒業した後でも私は何度も思いだし、そしてできることならと切望したのだった。あの日の、小鳥のように震えたお姉さまに、そっと口付けを返すことができたなら、と。 「どうしたの蓉子。パーティーで何かあった?」 「いいえ。いいパーティーだわ。きっと、ここからいなくなった後でも思い出せるほどにね」 しゃがみ込んだ私にもたれるように座った蓉子が、ころころと笑う。ボイラー室の扉からするどい風の音がする。きちんと閉め切ってはこなかったかもしれない。 「なんかおかしいよ蓉子。アルコールでも入っているみたい」 「そうね」 自分のつむじの後ろを押さえるようにして蓉子が横顔を向けた。その瞳はさっきより強い光を帯びていて、むしろいつもの彼女らしい。私は少し安心する。 「あるいは、この部屋だけが完全で、その外側はすべておかしな世界、なのかもしれないわね」 「こんな、無味乾燥な場所が完全だっていうのなら、私はそんなのまっぴらごめんだなあ」 暗い天井を見上げると、蓉子のくすくす言う声が追いかけてくる。 「そろそろ戻らないとさ。皆心配するでしょう」 いつもなら蓉子の先に言い出しそうなことだと実感しながら私は言う。「そうかもしれないわね」と答えながら蓉子はさらに自分の膝に深く、あごの先端をうずめた。 「いい子たちだものね。皆」 「そうよ」 「祥子に祐巳ちゃん。令に由乃ちゃん。志摩子。ねえ、どうして志摩子は呼び捨てにしてるのかしらね」 蓉子はトランプを広げるように両手の指を一本一本立てていく。肉の薄いその指は、名前を呼ばれた少女たちの肉体そのもののようだった。 「そんなこと、私に聞いてどうするの」 「ふうん」蓉子はつぶやき、今度は伸ばした指を一本ずつ折りたたみはじめる。 「サンタクロース。クリスマスツリー。ポインセチア。ブッシュ・ド・ノエル。・・・ねえ、聖はどうなの」 「何言ってるのかわからないんだけど」 「世界なんて、たちどころに立ち消えてしまえばいいとか、思っている?」 純粋に、私は困惑した。こんな、私に不親切な蓉子は初めてだった。 「私は、山百合会のあの子たちを、この学校の生徒たちを、この学園自体を、とても愛しているわ」 「うん」 よどみなく蓉子はつづけ、私は頷くことしかできない。 「愛しているし、皆幸せであればと思う。いつまでもね。けれどそれは使い古されている。無責任で、野放図な願いでしかない。世界が滅んでしまえばいいと思うのと同じくらい、それは軽々しいの。つくづく思うわ。私は、この世界の母親なんかじゃなくって本当に良かったって」 「軽々しくなんてないと思うけどなあ、そういうこと」 首をもたげた蓉子が私に顔を近づけてくる。 「本当に綺麗な顔をしているわね、聖。私嫉妬してしまう」 「何よそれ。やめてよ」 「正直に言ってるの。特に鼻と唇にかけての線がいいわね。そういう形で切り取られたものって例外なく美しいわ。銀杏の木のてっぺんとか、雪山の頂とか、氷の中の水泡とか」 そう言いながらも、風に押される小枝のように持ち上がった蓉子の指は、私の頬に届く前に臆病に縮こまって、すぐに離れていく。私は、蓉子が教室の机でテストを受けている姿を思い浮かべた。頭のいい彼女はいつも早々に問題を片付けたあと、そんな想像を心に浮かべているのだろうか。青い海や光る空や、美しい人の心や。 「なんとなく、あなたがここに来そうな気がしたの。聖はどうしてここに来たの?」 「うん、なんとなく」 「そう」 そして、うすく開いた扉の間に、私は見慣れた制服の色を見た気がしたのだった。いったいこの場所に誰がどんな関心がと、興味というにはあまりに強い力に牽引されるようで、鉄扉をぬける私には一切のためらいはなかった。 小さなモーターがまわるような音が、会話の途切れたときだけ、虫の声のように部屋のどこかから聞こえてくる。 「世界の滅亡とか終わりとか聞いて、人の思いつくパターンはおおよそ三つに分かれるらしいわよ。聖にはわかる?」 ゼリーを塗ったケーキのように、蓉子の前髪は鈍く輝いている。もう一度王冠を載せてみたい、私はぼんやりそう思った。 「へえ。興味はあるけどさ、とりあえず戻ろうよ。薔薇の館を出てからもう三十分じゃきかないでしょ」 「うん。一つはね、人間だけが居なくなってしまうもの。もう一つは、地球とか宇宙とか全部なくなっちゃうもの。それからもう一つ」 また指を折っていた蓉子は、いきなりスピーカーコードを抜かれたステレオのように、おかしな黙り方をした。 「ん?あと一つは」 「なんでもないわ」 先に腰を上げた私めがけ、ぴょん、と兎がはねるように蓉子が立ち上がった。勢いあまって軽く私の胸を小突いたその指と頭のてっぺんを見ながら、意外と身長差があるものだ、そう私は思った。 「私たちも、もうちょっとよね」 三ヶ月先の卒業のことを話しているのだろうと私は決め付けた。蓉子は、私の肩に手をかけて器用に片手で靴下をはき、上履きに足を入れた。 「そうだね。もうちょっとだ。早いものね」 「ねえ、聖」 「なに?」 「人を愛するって、どういうこと?」 私は、怒った顔をつくろうとしたのだった。振り向いて見た蓉子の顔はあまりに真剣な蒼い影がさしていて、私は頬を引きつらせたまま硬直してしまった。 「パーティーの途中でね、私に笑いかける祐巳ちゃんや祥子を見ていて、思ったのよ。ふとね、私の笑顔や、人に向ける気持ちはいったいどこから生まれてきてるのかなって」 石像に語りかけるように、蓉子は私の胸元を見ている。 「わからなかった。いえ、わからないのは、いいと思ったの。ただ、何かがあまりにも変わっちゃったみたいな、子供のころはこうじゃなかったみたいな・・・気がするのよ。気持ちと体と言葉が、別々に動いて出て行く、いつの間にかそんな自分を当たり前みたいに思っていたけれど、ちっちゃなころはそれはみんな一緒に動いていたようで、それが幸せだったように思えてね」 蓉子は苦しげに笑い、私はそれを見てやっと、いつもの蓉子の傍らにいることを実感したのだった。石像の魔法が解けていく。 「ごめんなさい。何を言ってるのか自分でもさっぱりだわ。情けない」 「そんなこと、私にだってわからないわ。わからなくっていいものじゃないの?」 噛んで含めるように蓉子は何度も頷いてみせた。 「今年のはじめだったわね。聖と、あなたのお姉さまがここに居たのは」 「見ていたの?蓉子」 「ええ・・・」 「キスをしていたからって、愛することがわかるわけじゃない。そのくらいのこと、蓉子ならわかるでしょう」 「ええ、もちろんそうよ。ただ、聞いてみたかった」 首を垂れて、蓉子はゆっくり扉の方へ歩き出した。切りそろえた髪の下に、白い歯が見えた。その制服の後ろを見て、私は「待って」と呼び止めた。 「ほら、お尻のところが汚れてる。まったく、あんなところに座っているからよ」 「あら」 半円型の白い埃は、かなりの厚みで蓉子のスカートにくっついていた。しばらくの間二人とも黙って、蓉子が少し持ち上げたスカートをはたき続けた。 今度は私が先導して、手をひいて歩き出したところで歩き出したところで、蓉子が顔を上げ、私もすぐに気づいた。乾いた足音が近づいてきて、扉の前で立ち止まる。真っ暗の扉に出来た光の隙間に一瞬影がさし、「こんなとこ、居るわけないか」と小さく声がした。 「由乃ちゃんね」 「こんなとこ、だってさ、蓉子」 扉にくっついて蓉子は笑いをこらえている。私も冷えた鉄扉に肩をあてた。由乃ちゃんの軽やかな足音は、おそらく扉の前で軽く円を描いたあと、少しずつ遠くなっていく。 「誰か探しにくるかと思ったけれど、由乃ちゃんだなんてね」 「ねえ、蓉子」 「なにかしら」 「さっきの質問だけどさ」 「さっきのって?」 「とぼけない。世界のお終いとかなんとか言ってたでしょ。あれについて想像する三つ目のパターン」 今更、蓉子は恥ずかしそうに、丸めた両手で鼻先を覆い、私を見上げた。 「いいのよ、もう」 「よくないわ。聞いてよ」 「私、調子に乗ってたわ」 「嫌ね。あなたっていつもそうやって先回りするのね。おかげで私は確信できたけどさ。いい?三つ目はきっと」 いっぱいに見開いた蓉子の瞳に、私の髪の色が映っている。 「愛する人との別れ。そうでしょ?」 私は鉄扉の取っ手に指をかけ引き開けた。つめたい、けれど新鮮な香りの空気が一気におしよせ、まぶしい光が閉じたまぶたを力任せにこじ開けようとしてはねまわる。 渡り廊下まで戻ると、すぐに由乃ちゃんの背中が見つかった。蓉子と声をそろえて呼びかけると、振り向いた訝しげな表情のまま、じりじりと近づいてきた。まるで人に慣れていない猫のようだ。 「なにしてたんですか、二人して」 そろって中庭を戻りながら、由乃ちゃんが私と蓉子に交互に首を向けた。 「肝試し」 「こんな季節に?」 もちろん信じなかったようで、私を睨んでふくれた頬は赤みがさし、おさげからはみ出した髪の毛が逆立っている。けっこう長い時間を探させてしまったのかもしれない。 「江利子が行けって言ったの?」 私と顔を見合わせてから、蓉子が聞いた。図星らしく、由乃ちゃんの頬がもうひとまわり大きくなる。 「ええ。お二人がしばらく戻らなくて、そうしたら、面白そうだから見に行ってらっしゃいって。最初は全員で探しに行こうなんて言い出したんですけれど、それには及ばないんじゃって私が言ったら。あ、すみません」 「いいのよ。ありがとう、由乃ちゃん。探しに来てくれて嬉しいわ」 わざわざ足を止めて蓉子はゆっくり微笑みかけ、由乃ちゃんはといえば、嬉しさと照れをフラッシュのように交互に顔にうかべて、それからくるりと背を向けた。 人気のない放課後の校舎から落ちる紅茶色の影をものともせず、由乃ちゃんは大きな歩幅で進んでいく。遅れて蓉子とついていく私は、由乃ちゃんの膝の下でにぎやかにはじけるスカートのプリーツを見て、ひょっとして彼女は、あのボイラー室の扉を開けかけてやめたのではないかと考えていた。私たちが中に居ると思ったからではなく、純粋な好奇心にさそわれて。だとすれば、私の中のリリアン生というイメージは若干の変更を余儀なくされることになる。もしくは、今私はその変化を目の当たりにしているのかもしれない。 「ねえ、聖」 白い息を吐いて、隣で蓉子が大きくのびをする。 「私、卒業式のときは思いっきり泣きたいわ。祥子と手を取り合って、二人でわんわん泣くの」 「あなたが?しかも祥子と・・・それは難しそうねえ」 思い浮かべた祥子は、何故か烈火のごとく怒っていた。 「ええ。リリアン学園生活の最後にして最大の目標ね。腕が鳴るわ」 「あっはは。まあ、優等生のお手並み、拝見しときましょ」 仰向けて笑う私を蓉子が見ている。色素のうすい冬の空はぽっかりと高く抜け、星の世界まで見通せそうなその透明を、白い鳥の群れが横切っていく。西に傾いたクリーム色の光の中で、彼らの羽ばたきはまるで地上までとどかない雪のように、きらきらと瞬いた。 <了> |
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