日曜日。あるいは、風の起こる場所










 先端に大きな穴がぽっかり開いた針、それが刺さる瞬間をきっと見逃さないように。そう思っていたのに、いざとなったら目をそらしてしまった。
 けれど針の上から看護婦さんがガーゼで押さえていたから、ずっと見ていても刺さるところはわからなかっただろう。
 思ったよりも痛みはしなかった。でも、針の管を中心にして体が、ぐいっと押し拡げられたような感じがする。感覚というより、不安そのもののよう。こじあけられた不安の中をどんどん潜っていけば、緑やらオレンジやらの色をした、見たこともない私の中身が、ぬめりのある光沢をまとって、ひょいと顔を出すのかもしれない。まるでお化け屋敷みたいに。
 私は、天井を向いて寝台に頭をもたせ、気持ちを落ち着かせようとする。
「今、半分くらいですからね」
 脇に立って忙しく立ったりしゃがんだりしていた看護婦さんが、マスクの上の目を細めた。
 腕から伸びた半透明のチューブは、赤い色で満たされている。思っていたより濃い色なんだな、と思う。血管から直接とる血液なんて、もっと綺麗な色をしていると思っていたのに。
 チューブの終点、流れ出す川のない池みたいによどんだビニール袋が、何かの機械の丸い台にのって、ゆりかごのようにゆらゆら揺れている。



 エレベーターホールを出てビルの外に出ると、西の空から注ぐ秋の日差しで街は黄色。人も黄色。
 まぶしさに手をかざして、乃梨子さんの眼差しを思い出してしまう。私の腕に、髪に、足にやわらかくまといつく彼女の眼差し。
(そんなに、心配ですの!)
(当たり前じゃない。瞳子、あんたいったい、何かひとつでも大丈夫なことがあると思っているの?)
 ううん。彼女はそんなこと言わない。思わない。
 新宿の街に出て、駅前でメガホンを持った人が呼びかけをしていたから、生まれてはじめての献血をやってみようと思ったのだ。そのくらいしか、理由がない。
 いくつか種類があるらしいのだけど、私の年齢では200CCの献血しかできないらしい。許可されていないのだ。
 200CC。っていうとどのくらいなんだろう。ジュースの缶とか、ペットボトルとか、あれこれ思い浮かべてみる。200CCくらいとっても大丈夫、ということなのだろうけど、なんとなく、貧弱な私の体をかけまわっている血なんて全部集めても大した量じゃないと思っていたから、不思議に思う。私の体には200CCの何倍も、何十倍もの血がつめこまれていることになるのだ。
 そんなにたくさんの血と、肉と。あと何が加わって、今の私なんだろうか。



 秋ももう熟しきっているのに、朝から光がまぶしくて、空は青くて。気持ちがささくれだってしょうがない日曜日だった。
(往生際が悪いですわ。すんなり冬らしくなってしまえばいいのに)
 そんなことでいらいらしていても仕方がないと思った。お父さまお母さまが知人の結婚式に出かけて留守なのをいいことに、ドーナツとオレンジジュースだけでお昼をすませ、外へ出た。
 電車に乗って、まっすぐ新宿に出た。
 新宿に一人で来たのははじめてかもしれない。歩きにくい道。見通しの悪い空。
 献血センターから出て待った信号で気持ちが萎えて、灰色のお城みたいな新宿の駅の建物にもう一度もぐりこむ。混雑する地下道の階段の端によって、靴ひもをしめなおした。今春、高等部に入ってからはじめて足を通したダークブラウンのショートブーツ。固さの残る皮を両側からしばりつけて、足に編み上げる。
 しゃがみこんでいると人の足音は何倍にも大きく聞こえる。クラスメートの敦子さんか美幸さん、あるいは演劇部の同級の誰かにでも電話してみようか、なんて思いつく。
(もしもし?今から出ていらっしゃいません?今日は私、献血をいたしましたの。これから?ウィンドウ・ショッピングとか・・・。電車に乗って、ちょっと遠くまで行ってみません?映画?それもよろしいわね。なにかおすすめのもの、ございまして?)
 ばかばかしい。つまらない、口上だ。こんな誘い文句では誰だって出てくる気になんてなるわけがない。少なくとも、私だったら即お断りだ。
 私は、クラスでも、部活でだって、浮いているんだから。好かれていないんだから、少しでも面白いことが言えなくてはダメ。ウィットに富んだこと、気の利いた言い回し、そんなのができない子供のうちは、どっちの方向に走ったっておんなじ。つまづいて転ぶだけ。
(ホントに嘘つきだね、瞳子は)
 また、乃梨子さん。おかっぱの下で揺れるのは、空も雲も映さない、ちょっと沈んだ色の瞳。
 あんな顔を彼女にさせたのは、私。
 ホームの売店で、絆創膏と、ペットボトルの紅茶を買った。大きなデパートの袋をさげたおばさま方、にぎやかに笑いさざめきながらエスカレーターの方に歩いていく。ホームに銀色の電車がすべりこんでくる。
 何処へ行こう。



 きらいなものを、きらいとはっきり言うように。
 あの人のことを、悪者にするのは、やめようと思う。

 電車は休日の割に混んでいる。もっとも山手線なんて普段乗らないからわからない、こういうものなのかもしれない。
 扉の上についた細長いスクリーンの中でこの電車は、丸く閉じた路線図の、へしゃげたへりのあたりを、下の方に向かう矢印となって示されている。
 東京を下る。南下していく。
 背中合わせに立った乗客の、かばんの先なのか肘なのか、私の腰のあたりに一度、こつりと触れる。
「ごめんね」、低くて太い声が聞こえて、私は軽く頭をさげてドアの傍に寄りかかる。
 建物をくり抜いて作ったような駅にたどり着こうとしている。そびえる灰色の壁面に、映画のポスターが所狭しと並べられていた。
 白人の男の人と日本人らしい女優が見つめあうもの。昔のヨーロッパの鎧をまとった剣士が立っているもの。黒一色に塗りつぶした中に映画のタイトルと、犬なのか猫なのか、こちらを見るともない瞳が白いシルエットになって浮かび上がっているもの。
 後ろでドアが開く。乗り込んでくる人たちの、服やかばんのこすれる音。
 こんなにも、好きなのに。
 ぽっかり、開きっぱなしになっている気分が怖くて、教科書を音読するように、そんな言葉を思い浮かべてみる。
 ため息をひとつ吐いて、電車はまた走り出した。
「祐巳さまの妹になりたいと思ってる?」
 乃梨子さんにそう聞かれたのはつい数日前。ずっとずっと、いつかは聞かれると思っていたし、聞いてくるのは乃梨子さんしかいないと思っていた。 
 それなのに、実際に聞いた言葉は・・・、いや、あれは声なんかじゃない。暴力か、あるいはもっとどぎつい色をした何かだ。
 魔法をかけられたみたいに、かちんこちんになって、粉々になったとしても、恥ずかしく思うことはない、そうでしょう?
 目を戻した車内はさっきより人が少なくなっていた。座席にかけた膝にノート型のパソコンをひろげている男の人を見て、劇の舞台で失敗したときの気持ちを思い出した。妹、スール、そんな言葉の響き、きっとここにいる人たちには何の縁もない音なのだ。
(おかしいですわね、乃梨子さん)
(そうだね、瞳子。・・・)
 めずらしくすんなり、乃梨子さんは同意してくれた。
 いくつか並列した線路の間を、電車は走っている。向かいを行過ぎる青い車体の電車は、不思議なほどに何の音も立てない、おとぎ話の乗り物のよう。
 今私は、歩くよりもずっと早いスピードで、リリアンからどんどん遠ざかっているのだ。妹になる、ということはリリアンでは特別なこと。けれどそんなこと、ここでも、窓から見える世界でも、たいした意味はない。そして今も私は遠ざかりつづけているのだ。
(でも明日になったら、月曜になったら、学校行くでしょ?)
(もちろんですわ)お節介な乃梨子さん。
 窓を流れる風景、秋の午後の色に一緒くたにとけていく中に、白く咲く花が見えた。それはよくみれば、沿線のフェンス越しに立つ女の人が穿いたジーンズのもものところに刺繍されている花で、私は祐巳さまの、後ろから見ると良く動く頭のかたちを思い出す。
 それから、手を握られたときに感じた彼女の指の長さと、首筋の生え際でちょっと空を向いて反り返った後れ毛と。
 生暖かい熱にゆるんで、遠ざかっていく。



  *



 新幹線を追い抜いて止まった駅で降りた。ホームから階段を上がり、右に左にと通路が開けた高い天井を見上げてちょっと迷う。 
 連絡している他の鉄道の路線図を眺めていると、「○○海岸」という駅名を見つけて、乗り換えの方法がわからなくて、窓口でたずねて切符を換えてもらう。
 赤い車体の電車は、駅を出たらすぐ高いところを走り始める。でこぼこしたビルの先端は山並みのよう、そんなことを思う。
「私、東京の海って、見たことないんだよね。東京にずっと住んでるけど」
 つい昨日、土曜の放課後、遅い時間。下校する生徒ももうまばらの昇降口で、靴箱の向こうから聞こえてきた祐巳さまの声。
 一番最近聞いたあの人の言葉。
 私はしゃがんで、靴をはくフリをしながら聞いていた。祐巳さまの声に相槌をうっていたのはたぶん、由乃さま。
「湘南には行ったことがある。けれどあれは神奈川」だよね、そんなふうに祐巳さまは続けた。
 そこで由乃さまが何か聞き返した。けれどなかなか返事は戻らなくて、うす寒い簀の感触にじりじり耐えながら、私は待ったのだった。
 神様のお告げを待つ信者みたいに。
「たまに、不思議に思わない?」
 祐巳さまの声は、ちょっと遠くから聞こえた。
「この地面がずっと続いていて、川はずっと流れていて、海につながってる、っていうこと。ほんとにそうなのかな、とか考えたり、しない?」
(しない)
 反射的に私が思い浮かべたのと同じ返事を、由乃さまも返した気がする。それで、祐巳さまは笑った。きっと私もよく知っている、自分と相手に交互に笑いかけるみたいな、あいまいで押しの弱い表情で。見てはいないけれど、きっとそうだったはず。
 トートからペットボトルの紅茶を出して、ひと口含んだ。ストレートの紅茶は、口の中を異物みたいに落ち着かなく、喉にむかって固まりのまま流れていく。
 座席はあちこち空いていたけれど、私はまた立っている。線路の左右にわたって、お墓がひろがっている。背の低いビルの谷間から、小さな鳥居が見えた。
 祐巳さまのあんな言葉を聞いたから、今私は海を目指している、のだろうか。
 いつからそのつもりだったのだろう。赤い電車に乗る前から?新宿にいたときから?自分のことなのにわからない。
(いいえ)
 違う。
 昇降口で声を聞いたのは、偶然だけど、土曜日の夕方おそくまで学校に残っていたのは、そうじゃない。
 聞きたいと思ったのも、そんなことじゃない。
 昨日の放課後に、祐巳さまは「茶話会」に出た。由乃さまの妹さがしに端を発した、いわばお見合い。
 結果は知らない。知りたいと思わない、と言えば嘘になるけれど、私があの昇降口で、祐巳さまの口から聞きたかったことは、そういうことじゃなかった。
(そうやって、ひねくれてるといいよ、瞳子は)
 ひねくれてるけれど、嘘じゃない。 
 ゆるい谷のように開けた街の向こうに、階段みたいな形のマンションが見えて、そのさらに向こうを硬質な雲みたいなものが通り抜けていく。
 飛行機だった。空港が近いんだ、とわかった私の中で、ひどく抽象的な熱意みたいなものが勝手に盛り上がって、もう一口、紅茶を飲んだ。



「海岸」と名のついた駅、駅から一歩出るとびゅんびゅん車の行過ぎる大きな通り、見下ろすようなビルに囲まれて、無関心な西日があたりを照らしているばかりで、せいぜい陸橋の階段の下に水族館の看板が出ているくらい。波の音も、潮の香りも、ない。
 とりあえずその陸橋を渡る。細い橋の上で太陽を正面から見て目がくらむ。反対側の歩道に下りて、さっき飛行機の見えた方角に見当をつけた。
 ひ弱な枝を伸ばした街路樹は、それでも赤く色づいた葉をつけている。ギザギザの葉は風にはためいている。
 適当な小道に入り込んでみたけれど、行き止まりの向こうに大きな野球場か何かのようなものが見えるばかり。また大通りに引き返す。
 高い高いマンションの足元の広場で子供たちが遊んでいる。女の子も男の子も一緒になってボールを蹴っている。
 通りの先に青い標識がみえた。左に曲がると「平和島」に向かうらしい。だからって本当に島なのかわからないし、ただの地名なのかもしれないけれど、いいかげんこの正面の風が強くて目に痛い。
 車のための標識だから、示されている交差点にたどりつくのも時間がかかった。直角に折れて日の光に背をむける。私の影の落ちた道の眺めは、ここまでの大通りとたいして変わらない。地の果てまでつづくような真っ直ぐの道。日本が狭いなんて、嘘なんじゃないかしら。
(なにをやっているのかしら、私。もう三時すぎ、帰れなくなりますわよ)
 以前、お父さまの書斎で読んだ本のことを思い出した。砂丘に足を踏み入れた人が行方不明になる、とかいう話。
 今、私はリリアンからも、家からもかなり遠いところに立っている。休みなく足を動かしている。
 スカートをはいてこなくてよかった。履きなれていないブーツが怖いけれど。
 足が痛くなったらすぐ引き返そう。
 からからに干からびて丸まった落ち葉が、足元を転がっていく。歩道の先に、人影はない。

 喉の渇きみたいに胸が痛む。
 髪がかさかさになっているのもわかる。
 だから私は、こんなところに来てしまったのだろうか。
 手入れされていない感じの街路樹の下をずいぶん歩いたけれど、「東京の海」はさっぱり見えてこない。
 広い車道にはひっきりなしに車が通るけれど、歩いてすれ違ったのはほんの数人だけだった。
(祐巳さまったら。全部あの方のせいですわ)
 海というより海水みたいな人だ、祐巳さまは。脈絡もなく思う。その心は・・・。
(飲めば飲むほど喉が渇くんだね、瞳子。あっははははは)
 何がそんなにおかしいのか、乃梨子さんはずいぶん長く笑っている。目の前でやられたらくってかかるところだけど、思い出す彼女の笑顔は、気持ちよくて、なつかしい。
 また紅茶を出して、男の人みたいに横を向いて飲んだ。
 広い車道の、真ん中の車線だけがもちあがって、ゆるいアーチをえがき、正面に横たわる大きな通りをまたいで、反対側に降りている。影になった歩道の脇には一列に車が並んでいて、横を通るとエンジンのかかっているのもある。車内の暗がりを視線の端に感じて、足早に行過ぎる。見知らぬ大人と目が合うのが怖くて、早く日なたに戻りたかった。
 次の交差点に、信号はついていない。ちょっと離れたところにある、階段ではなくてスロープになった歩道橋に登る。自転車に乗ったまま降りてきた男の人とぶつかりそうになり、なんとか身をひねる。いぶかしげな目つきで私を見上げた視線と一瞬目があって、どきりとした。
 歩道橋の上に立つと、ぽっかり空が開ける。足元の広い車道を、ベルト・コンベヤーに乗るみたいに、大きな箱のような車がどんどん駆け抜けていく。
 青い空は輪郭がぼんやりして。彼方に並ぶ豆腐みたいにのっぺりした建物には血色のいい日の光がいっぱいにあたって。なのに、この橋の上は影になっている。
 紅茶の残りを飲みほした。うっすら浮いた汗をハンカチでぬぐった。手のひらも首筋も、なんだかほこりっぽくてねばついて、気持ちが悪い。
 歩いてきた方角に目をやると、道の角からこんもり盛り上がった木々の影の上に、やさしげな色にかわった太陽が輝いている。
(もう、引きかえしなよ、瞳子)
 気遣わしげに、乃梨子さん。
(おなか空いたでしょ?足も痛いでしょ?献血の後は運動しちゃいけないって言われなかった?帰りにも同じだけ歩かなきゃいけないんだよ、わかってる?)
 おせっかいに飛びまわり、頼みもしないのに私のあちこちを点検してまわる。
(きっと、どこにもたどり着けないんだからさ)
 ・・・率直すぎるのが、玉に瑕。
 それでも、今彼女が実際隣にいて、そう言ったなら、一も二もなく私は従うだろう。そして、乃梨子さんがここにいるわけはないのだ。
 私が自分で遠ざけたのだから。その他大勢の見知らぬ生徒たちの中に、彼女を押し戻そうとしたのだから。
 そのとき、めぐらした視界の中に唐突に、さっきよりずっと大きな姿で、飛行機が飛び込んできた。大きな白い鳥のようにおおらかに、水に浮いているみたいに音もなく、私の目の中を左から右へ、高度をさげていく。
 もうちょっとだけ行ってみよう、そう思えた。反対側のゆるいスロープを降りると、道の上を風が舞い上がって、あたりに一気に光が満ちる。黄色く暖められたアスファルトの表面から、足の裏にまで熱が這い上ってくる気がした。
 大きなコンテナを背負ったトラックを、タイヤを鳴らしながら追い抜いていった黒い車の、開け放した窓から、ボーカルの声も何も引き剥がした足踏みみたいな大音響が撒き散らされて、またすぐに遠ざかっていく。
 そうだ。ここはもう、リリアンからずっと離れている。乃梨子さんも、遠巻きに私に微笑むクラスメートも、秘めやかな感情のこもった制服姿の群れも、白い衣のマリア像も。
 すべて、私の背後にある。私は、風をうけて一人、馬鹿みたいに東か南かに向かって、進んでいる。水滴が下に落ちるみたいに、何を考えることもなく。
「妹」とか。そんな言い方すら、言い訳なんだとわかる。
 祐巳さまが好きだ。あの人に、私のすべてを見て、認めてもらいたい。
 私を、許してほしい。



  *



「どこ行くの?大丈夫?」
 歩道に寄せて停めてある、電車の車体のように長いトラックのお腹の横を歩ききったとたんに、声をかけられた。赤ら顔をしたトラックの開け放したドアから、もじゃもじゃと口ひげを生やした男の人が、身を乗り出している。
「いえ、大丈夫ですわ。ありがとうございます」
 ひどくびっくりしたけれど、ちゃんと返事をしないと怪しまれる、そんなふうに思って、とっさに笑顔をつくった。つばのある帽子を逆にかぶった男の人は、私と目が合うと、にっこりした。
「送ってこうか?」
 親類の叔父さまにちょっと似てる、そう思いながら私は笑顔を維持する。
「いいえ。もうちょっとですので。わざわざすみません」
 頭を下げると、今度は愉快そうに男の人は笑って、頷きながら運転席によじ登っていく。
 しばらくは心臓がどきどき、鳴り止まなかった。
 ゆるやかで長い橋を渡る。車道をトラックが通るたび、橋全体がぐらぐらして、ゴーッと音を立てる。下を流れる水路は幅の広い川かと思っていたけれど、カーブをえがいて陸地の端に消えていく先には広がりを感じさせて、さっきでまかせに口にした「もうちょっと」もはずれではないのかな、と思う。坂を下りる背を横殴りにする風には海のにおいは混じっていないけれど。
 また飛行機が、音を立てずに下りていく。羽についた赤いマークまでくっきり見える。
 トラックばかり並んで待つ信号を渡る。見上げる車の顔はごつくて、いかつい。横断歩道の上には私だけ、背中をせっつかれてるみたいで、最後は小走りになった。
 また一直線で、広い歩道。右側の広がりは公園か植物園か、看板があったけれど読まなかった。歩道の方にまであふれた木々の葉は濁った緑色。ところどころ、まわりと不釣合いなくらい色づいた葉があったり、小さな赤い実がぶらさがっていたり。
 どこからも人の声は聞こえない。車の通り過ぎる轟音は途切れることがなくて、逆に音のように感じられなくなる。私の頭の中にまで入り込んで、薄い膜を張りめぐらしていく。私は追い込まれ、しゃがみこむこともできない狭いところに取り残されて、あえぐ。
(乃梨子さん)
 彼女を思い浮かべようとしても、もう上手くいかない。自分のつま先だけ見下ろして、歩く。ブーツはだいぶ、白いほこりをかぶって汚れてしまっている。
 歌が聞きたい。そう思った。けれど、いつも歌詞のついた音楽はあんまり聞いていないから、思い浮かんだのは「マリア様の心」だけ。
 声を出してみようとしても、口の中がかわいて、声になる前に消えてしまう。
「マリア様の心 それは――」
 白いワンピースを着て、祐巳さまは歌った。
 夏、祥子さまと別荘に来て招かれた、意地の悪い人たちが西園寺の曾おばあさまの誕生日にかこつけて仕組んだ催しで。祐巳さまが楽器のできないことを見越して、恥をかかせてやろうとしたのだった。
 私は、忠告していた。いやらしくおぞましい人たちが、祐巳さまが知らないであろう、お金と人のつながりを持ち、自分たち以外の世界を見下している人たちがいるということを。
 けれど、祐巳さまは恐れずにやってきて、歌い、曾おばあさまを喜ばせた。結果として鼻をあかされた人たちのことを、そのときの私は見る余裕すらなかった。
 思い知らされた気分だった。偉そうに気取って、祐巳さまに「せいぜいご用心を」なんて振舞っていた私もまた、つまらない意地悪をした人たちの仲間でしかなかった、ということを。
 どちらからも距離を置いて、澄ましていたつもりが、結局のところ私は、「いやらしくおぞましい」人たちを背にしないと、何も語れなかった。「あなたの知らない世界」があるんですよ、ということを祐巳さまに教えただけで得意になっていた。あまつさえ、尊敬してもらおうと思った。
 ・・・いや、許してもらおうと思っていた。
 長い長い一本道の歩道が終わると、これまでに増してびゅんびゅんトラックの行き過ぎる通りに出た。信号を渡った先は広々と空き地が開けて、その向こうには色とりどりの紅茶の箱みたいなものが積んである。同じものをぐいぐい引っ張って目の前をトラックが横切る。コンテナだ。
 信号待ちで、正面と左右の道の先を見て悩んで、悩んで。渡ったところで右に折れた。海の方向なんてさっぱりわからない。ただの、勘。
『東京の海って、見たことないんだよね』
 祐巳さまの声って、こんなのだったかしら。

 七ヶ月。高等部に上がってからそのくらいになるだろうか。
 早かった。こんなに時間の経つのが早い、って思えたことは今までにないと思う。
 道の左手、盛り上がった土手に積まれた真っ赤なコンテナにのしかかるように、白いお腹を見せて飛行機があらわれて、流れていく。また何の音もしない。いや、周囲に満ちた轟音の中にまぎれているだけなのかもしれない。そのくらい切れることなく、私のすぐ右側はトラックが数珠繋ぎ。いちいち生暖かい息を、重々しい車体の横から吐き出して、私を置き去りにしていく。黒々とした影と、まばゆい夕方の光が、規則正しく私に降りかかる。
 だいぶ前からつま先が痛い。足首から下がかちこちに固まって、一歩下ろすごとにひび割れたガラスの上を歩いているみたいな反動が返って来る。
 喉が渇いた。紫色に変わりつつある空の、高いところにうすい雲が筋を引いている。
 けたたましくベルを鳴らして、自転車が続けて二台、私を追い抜いていく。
 こんなに臆病じゃなかった、私。乃梨子さんに会い、祐巳さまと出会った頃の松平瞳子、暗闇でも目が見える気でいたじゃないかしら?
 祐巳さまのことでもなんでも、知っている気でいたのだ。世の中の人はみんな私より単純に出来ていると思っていた。指でつまんで持ち上げれば、裏側でも底でも、簡単に見ることができるはずだった。
 現実、っていうのは出来のわるい役者ばかりの演劇なんだ。そう思っていた。セリフをとちったら退場。思ったような演技ができなかったら退場。役割を果たせなかったら退場、はじめからやりなおし。
 だから。
 祥子さまを思い慕うだけの役目ができなくなったら、祥子さまを憎んでしまったら、泣いてしまったら――。退場して、いなくなるはずだったのだ、あの人は。
(祐巳さまは)
 いきなり、赤い電車や山手線の彼方に遠ざかっていた祐巳さまの気配が、彼女の体をつつんでいるぬくもりが、私の袖口や肩に触れた彼女の指先が、生々しくよみがえって、舌がふるえた。足がふらついた。街路樹の支え木に手を添えて、息を吐いてこらえた。細かな砂をかぶったアスファルトの表を、全力でにらみつけた。
 祐巳さまはいっとき、実際に祥子さまとうまくいかなくなった。でも、彼女はいなくならなかった。私は、わからなくなった。わからなくなっていく祐巳さまを、どうにかして、わかりたかった。あの夏の日に、それがはっきりわかった。
 それから先の私は、かつての私を、毎日毎晩、ちりとりにあつめて、ゴミ箱に放り込んでいる。かつての私を知っている人たちのことも、まとめて。乃梨子さんがいちいち拾ってきてくれるけれど、私にはもうそれが、私だったものだということすら、わからない。
 私は、私を捨て続ける。ずっと、そうするんだ。私の血も肉も、白い骨のひとかけらまで、すっかりなくなってしまうまで。なくなってしまえばいい。
(駄目だよ、瞳子)
 また、そんな声を出させて。一体どこまで乃梨子さんに頼ろうというのだろう、私は。
 卑怯者。
 また橋が見えてきた。水面に向けて開けていくあたりに車の音がこだまする。
 黄金色の風が正面から叩きつけてくる。橋を渡った先は本格的に島のよう、建物の間がすっぽり抜けて、その向こうに何もないのがわかる。のっぺりした窓のない壁面の建物は倉庫かなにからしい。だからこんなにトラックが行きかうのだろう。
 たぶんこの先にある海なんて、コンクリートの岸壁でがちがちに固められて、ろくに近づけるようなものじゃないだろう。トラックの排ガスのにおいしかしないに違いない。波の音だって聞こえないだろう。
 でも、いいんだ。それが、東京の海、なんだ、きっと。
 たどり着いてみせる。
 もう一度、太ももに力をこめる。風に抗って、前傾して歩く。
 橋にさしかかる。錆びの浮いた白い手すりを、伏せた目の端に流して、進む。
 風が一層強くなった。頭の両脇に巻いた髪が、首筋を叩いてまわる。トラックのタイヤが橋のつなぎ目を踏んで、私の体はそのたび持ち上げられる。
 力任せにこじあけて歩く風の壁に、一瞬、水滴が混じったのを感じた。
 思わず顔をあげる。川と呼ぶにはあまりに広い掘割だった。ずっと向こうに、こちらを向いて黄色い船が泊まっている。
 側面にブルーのラインの入った飛行機が、今日一番の大きさで目の前に現れた。夕日に縁取られた翼を立てて、この世界に何も恐れるものはないというふうに、飛行機は私の目の前、ちょうど船の真上あたりで、ゆっくりと身をひねって、下にぶらさがった二つのエンジンを見せつけていく。
 はげしい軋みが空気をふるわせた。油をさしていない巨大な歯車がぶつかりあうような音が地面を圧倒した。
 お腹の底からわきあがるものがあった。膝に熱が通った。自らの立てる音をしっかり抱え込んで、鉄の鳥は降りていく。カーニバルの鼓笛隊みたいに、自信たっぷりに胸をはって、茶色く薄っぺらい人工の島の向こうに、遠のいていく。 
 はるか前方、橋を渡りきったところ、誰も待っていない信号が、点滅している。
 青緑の光が、にじんだ。



 百聞は一見に、とは言ったものだと思う。
 砂浜があるなんて、思わなかった。
 打ち寄せる波は、私がこれまで見た海の中で一番、穏やか。慎ましげな白い手形をつけて、ねずみ色の砂の上から沖合いへと、引き返していく。
 波打ち際から振り返ると、石垣を組んだ遊歩道から砂浜に入ったあたりで、のろのろとジョギングをしているジャージ姿の男の人。砂浜から斜めに突き出した低い堤の上に、カップルが一組。
 橋を渡って、二つばかり信号を越えると、あっさりと島の反対側についた。キャンプ場の看板の下がった向こうに、まばらに車の止まる駐車場。その向こうにはたぶん、島のいちばん外の輪郭にそっているだろう遊歩道があって、スピーカーのついた柱のたもとの出口を抜けると、砂というより細かな砂利を敷き詰めた浜が、半円をえがいて海に突き出している。
 緑やオレンジの光にピカピカ照らされた工場だの、コンクリートを運ぶトラックがうんうん音を立ててふくらんだお腹を回しているのとか、迂回してきてすぐだったから、なんだか私は、狐につままれたような気分だった。
 足の先がひんやりした。押し寄せた波は、私のブーツをぬらすことなく、つま先の底まで来てもどっていった。
 ふんわり、真っ白な気持ちが解き放たれる。私は、波を受けて砂の色の変わったあたりを歩いた。さくりさくりと音がする。
 人工の砂浜なのだろう。私の足でも10分かからず端から端まで歩けそうな、狭い空間。
 でも、歩いてきてよかったと思えた。嬉しいというより、今まで味わったことのないほど、落ち着いていた。祐巳さまなら、この場所を見て、どんな感想を持つのだろう。
 どんなのでも構わない。だって、ここには私が、先にたどり着いたんだから。
 水平線の広がりもまた、意外だった。東京湾っていうくらいなんだから、半分くらい山や街の稜線が食い込んでいるのか、と思っていたのに、広大に水が広がっているばかり。赤や黄色のブイがぷかぷか浮かぶ先に、色とりどりのコンテナを満載した大きな船が、じっと見ているとわかるくらいのスピードで、のんびり進んでいく。波の上に立った皮膜の上に乗っかって見える黒い船体は、海の上を浮遊しているよう。
 たまに押し寄せる大きめの波は、沖を通る船が蹴立てたものなのかもしれない。さあっと足元に寄せたところで、すばやくしゃがみこんで指先を伸ばす。人差し指と中指をちょっとぬらしただけの海水は、思ったよりも温かかった。
 数歩入った海の中には遊泳禁止の看板。顔をあげて右手の陸の方を見やると、何に使うのか、赤い鉄骨で出来たパイプみたいなものが、ずいぶん長く海の上に突き出している。
 また金切り音。島に振り返ると、太陽の強い光に真っ黒になった建物の上から、車輪を出した飛行機がのそりと姿をあらわす。翼の先とか、あちこちに赤いランプが灯っている。
 砂浜を跳び越していく姿を目で追うと、空の青みが終わるあたりに、光の粒がにぎにぎしく、海の上でたった一つのお祭り会場みたいにさざめいている。白い機影は、なんとなく嬉しそうに、ずいぶん小さくなった背中を向けて、光の中に消えていく。
 飛行場だ。
 (さあ、帰ろう)
 砂浜を戻りながら、木蓮の花びらみたいな貝殻を一枚だけ、拾った。駐車場を横断しているとき、砂浜に向けたスピーカーが小さくチャイムを鳴らして、くぐもった声で何か放送を始めていた。



 帰りは、タクシーをつかまえてもいいな、あるいは家に連絡してどこかに迎えに来てもらっても。そう思っていたけれど、思いのほか体は元気で、ふくらはぎが張っている足もよく動いて、私は、色を失っていく昼の光をめざして、来たときよりも早いペースで、どんどん歩いた。
 ようやく見つかった自動販売機でスポーツドリンクを買って、次の信号に着くまでに飲みほしてしまう。街灯の灯りはじめた車道を走る車は相変わらず多くて、すごいスピードだけど、大きなトラックはいくぶん減った気もする。刺激的な音と光を曳いて、車たちはどんどんどこかに、帰っていく。
 入り口に大きなモニュメントの立った工場なのか会社なのか、そのあたりを過ぎるころに日が暮れた。
 遠い街明かりを水面に映す橋の上には、昼間とうってかわってつめたい風が吹いている。エンジンをかけたトラックが弓なりに並ぶのも気にしないで、私は、今度こそ大声を張り上げて、歌った。
「マリアさまの、こーころっ!」
 樫の木、ウグイス、山百合、サファイア。ほとんど怒鳴りつけるように、風の横っ面をひっぱたくように。

 赤い電車の駅まで戻るにはさすがにくたくたになっていたころ、目の前をモノレールが通過して、すぐ近くに駅も見つけた。レールがコンクリートの「棒」みたいで目立たないから、来たときには気がつかなかったらしい。
 切符を買ってホームに上がると、間髪いれずやってきた電車に乗り込む。空港帰りの車内の荷物置き場には、ぱんぱんにふくらんだトランクや紙袋でいっぱい。乗りあわせた人たちも旅の出口から出たばかりでしゃっきりして、私はとたんに、自分の格好が恥ずかしくなる。
 ドアの方に寄りかかって、ガラス窓に顔をうつす。思ったとおり、髪のロールはほどけて、服の襟は裏返っている。額や頬もなんだか、砂をかぶったみたいに粉っぽい。
 みっともないとは思いながらも、服を払って顔をぬぐった。髪はどうしようもないので、指をいれてリボンとゴムをはずして、ほどいてしまう。窓に映った乗客たち、誰も私を見ていないのに、ぬぐった頬のあたりが、熱をおびていく。 
(そういうときはね、瞳子。とりあえず、目をつむってみたら?)
 乃梨子さんのアドバイスどおり目を閉じると、まぶたの奥でふらふら、まばゆい光を放つ風船みたいなものが駆け回る。じっと我慢をしていると、ちりぢりになっていた心のパーツが、ひどくゆっくり、順序だってならんでいくような気がする。次第に静まっていく気持ちの底で、ついさっき橋の上で歌った熱が、胸の奥でかすかに、今はもう地平の彼方に去った夕日のようにあかあかとしているのが、わかる。
(それにしてもあの歌。どうして、サファイアなのかしら?)
 ふっとそんなことを思う。今まで何度も歌ったことがあるのに、はじめての疑問。
 がくん、と車体が小さく揺れてモノレールが減速をはじめた。早くも重くなるまぶたを押し戻しながら、うすく見開いた窓の外はもう真っ暗で、ビルの影に切り取られた街の明かりが遠く近く、夜咲く花の野原みたいに広がって、私を受け止めたのだった。










<了>

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