スイング・バイ







 澄み切った夜を、瞳の底までとどくように輝く月の表を。
 裸足の少女は、音もなく飛び越えていく。
 青い影は地上を瞬く間にすぎ、重い足取りで家路に着く人々は誰一人、頭上のその奇跡に気がつかない。
 冷酷とも思える笑みを浮かべ、彼女は鉤爪のように曲げたつま先で優雅に蹴って、また次の空へと駆けていく。


 サンダルの底が、乾いたアスファルトをこすりあげて、からから音をたてる。私は、はじまったばかりの夜の空気に、白い粉をまぶしたような光がこもっていることに気づく。
 立ち止まると、シャツが起こした風に、さっきまで居た令ちゃんの家の玄関のにおいが、うっすら混じっていることに気がついた。
 昨日、分けてもらった、令ちゃんのお母さん自信作だという、昆布のお煮しめの皿を返しに行ったのだ。
「美味しかったです」
 なんて言ってみると、いつもは似てないお母さん、にっこり笑って令ちゃんそっくりの顔になる。
「由乃ちゃんの口にはちょっと合わなかったでしょう。お父さんが喜んでくれたと思うんだけど、どうかな」
「あ、はい、そうです」
 実を言えば私は一口しか食べなかったのだ。誤魔化すこともできないで頷くと、お母さんの後ろに居た令ちゃん、腕を組んでそらみろと笑ったのだ。言い返そうとして笑ってしまって、むせたみたいに、私は前かがみになってしまう。
 息をついていたら、すっぽりと肩を抱かれて、ストライプの袖は令ちゃんのお母さんのだった。
「由乃ちゃん、元気になって本当によかったわ」
 すぐに手は離れて、私はやさしい指で押されて玄関から出されて、「気を付けてお帰りなさい」と黄色い玄関灯の下でお母さんは手を振り、なぜか令ちゃんは少し恥ずかしそうにしていた。
 玄関を出て階段を下る、私の膝はカンガルーのようにリズミカルに跳ねた。
 振り返ると、二階の令ちゃんの部屋に明かりが灯いている。そのまま横に視線をずらしていくと私の家の屋根、とんがっている分だけちょっとだけ背が高い。
 アスファルトにはくりぬいたように私の影が落ちている。夏の終わりの夕日は、まだ往生際も悪く、遠い空にしがみついているらしい。――私は、ちょっと馬鹿にしてやろうとうきうき顔を上げたのだ。
 西も東も勘違いしていた。見上げた空は、小判のつまった宝箱みたいににぎやかに輝き、その真ん中にぽっかり、猫の目のような月が、こちらをねめつけていた。
 闇に開いた瞳孔のように、私がそこに居ることに驚くように。
 ぞくりと、私の首筋がふるえた。生暖かい風が吹いている。生々しいにおいの混じるそれは、肌に直接まといつくようで、まるで服を一切着ていない裸でいるようで、誰もいない道の上で、私はたまらなく恥ずかしくなる。
 知らず高まる動悸に、おさげの髪を何度もなでつけた。
 ちょっとぐらいなら、散歩に行っても大丈夫かな。
 私はそう思いついたことにする。わけもなく盛り上がる正体不明の高揚感に、他の名前がつけられなかったからだ。
 自宅の玄関柱にかけた手で、私は自分の身体を、もう一度道の上に送り出す。

 街の影は青く、道の表面は濡れたようでつやつやとして、サンダルの足裏が滑る幻想に、私は何度もとらわれる。
 コンビニのある角を曲がり、幅の広い車道に出る。窓をあけて音楽を鳴らした、背の低い車がゆっくり過ぎる。
 てかてかした赤いポストの影から、小学校低学年くらいの男の子が、ひょっこり歩道に出てくる。珍しい青いランドセルは昆虫の羽のようにきらりと輝き、小さな唇が、何か言いかけたように動いて、聞き取ろうとして立ち止まった私から、顔をこちらへ向けたまま、その子は遠ざかっていく。不思議なものを見るような目つきだった。私は、高ぶったままの気持ちが、蛇みたいに身をよじるのを感じる。
 自転車にまたがった大人たちが、のんびりした競争のように立て続けにすれ違っていく。ピンクのスーツ姿の、膝を内側へたたんで器用に漕いでいく女性が通り過ぎ、夜に咲く花のように強い匂いが立ちのぼる。信号の変わるのを待ちながら、私はそれを、自分の体の底からにじみ出たもののように、しばらく勘違いをしていた。
 空のてっぺんをふりあおぐと、だいだい色の雲が煙のように地平線へたなびいていく。月はそれよりは赤みを帯びて、夜の海で呼吸するサンゴのように、ふっくらと瑞々しく、建物の屋根から屋根を飛び移り、私を見おろす。
 見ているぞ。そう言っているようだった。逃げられないぞ、と。
 ――望むところよ。
 私は胸を張り、息高く、ふくらはぎに力を入れて、月から目を離さず進む。
 ガードレールを隔てて、大きな大きなトラックがすごい速さで駆け抜け、遅れてきた風に叩きつけられ、それでも笑ってみる。
 歩道橋を駆け上がった。途中の段に捨ててあったビニールに足をとられて転びそうになる。サンダルを脱ぎかけながら、なんとか上までたどりついた。
 見おろした街はでこぼこして、人の住まない荒れ果てた岩山のようだった。足元を走る車はとめどなく、砂漠を渡る風のようにあたりをふるわせ、私はそこに、かぼそい悲鳴のような、泣き声のような音が混じる気がした。
 月はどこかに隠れている。歩道橋の上には標識のついた太いパイプ、その隣には信号。手すりを乗り越えて、それらを飛び移って、それからどうしよう。赤信号で止まったトラックの平べったい背中、それから街路樹の銀杏の枝をつたい、覆いかぶさるようにそびえる背の高いマンションの外付け階段、あそこまでジャンプして届くだろうか。――忍者みたいに、マンションのでこぼこした壁を駆け上がり、いよいよ飛び出すのだ、空へ。夜の空へと。
 空へと着いたら、サンダルは捨てよう。雲の真っ白な下草を踏んで、遠慮のない声で歌い、大好きな人の名前を一つ一つ思い出せば。そうすれば、私の中の、今のこのもどかしさは、くすぐったい思いは、消えてなくなってくれる。間違いなく、そのはずなのだ。
 いつの間にか閉じていた目を開けると、マンションの高い階の、明かりのついたベランダから、じっとこちらを、歩道橋で立ち止まった私を見おろす男の人の目にばったり出会った。気づかない振りをして、何食わぬ顔をつくって、私は階段を下る。


 帰らなくちゃ、と思った。今ならまだ、お母さんも気づいていない。せいぜいお父さんが「由乃、何処行った?」と聞いているくらい。令ちゃんだってもちろん気づいていないだろう。あの黄色くあたたかな灯りにつつまれて、令ちゃんのお母さんと並んでご飯の支度をしたり、宿題の続きか、読みかけの本を開いたり、しているはず。
 そんな気持ちが、狩人みたいに背中から追いついてくる。なのに私の足は、見知らぬ路地を見つけるとそこへもぐりこもうとする。私自身も狩人で、何かを追いかけているみたいに。
 さわがしく声を上げながら、大きな黒い袋をさげた、中学生くらいの男の子たちが、角を曲がってあらわれて、私に気づかないで歩いていく。
 野球部かな、と思う。背の高い彼らはそろって同じくこんがり日焼けして、白いシャツから出たこげ茶色の二の腕は、きっと私の同じ箇所よりずっと熱を持っていそうだった。
 いきなり手のひらをくっつけて「熱いね」と言えば、彼らはどんな顔をするだろう。出来もしないと分かっているのに、遠ざかる男の子たちを追いかけたい衝動が湧き上がるのを、私は何度も押さえ込む。
 だんだん、心が大きくはっきりと二つに割れていくようだった。わくわくする予感めいたものと、ぞくぞくと自分の足音すら怖がる気持ち。どちらを信じて、今たどるべき方向がわからない。
 子猫が迷子になるのって、こういうことなのかもしれない。強い猫に追い立てられて迷う、そう聞いたことがあるけれど、本当は違うんじゃないだろうか。探しても見つかりっこないものを、その角を曲がれば、その塀を越えればと、あと少しあと少しと進んで、気がつけば戻れなくなっているんじゃないだろうか。
 見晴らしのいい角に立って振り返ると、やや上りになった道の向こうに、月だけがついてくる。
 空だってきっと飛べる。だから、その気になれば、すぐに引き返せる。――それでもまだ私は、どこかでそれを信じている。


 有名な音楽家が亡くなって、大きな選挙でテレビや新聞が賑やかだった年だと思う。
 しばらく病院に入っていたとき、子供向けのアニメの上映会があった。男の子向けのロボット物のあと、ヒラヒラした服を着たヒロインたちが魔法で悪いモンスターと戦うという、近頃女の子の間で人気の番組が流された。
 ヒロインの一人、黒い服を着た、夜を司るという少女に、私は強くひかれた。物静かで影があって、でも持っている「魔法」は一番強い。怪我を治したり敵が眠る音楽を鳴らしたり、という他のメンバーのおとなしさもおかまいなく、彼女は落ち着いた声で呪文を唱え、持っている二股の杖から炎だの雷だのを容赦なく落とす。
 いつもは子供向け番組はあまり見ないようにしていたから、お母さんや令ちゃんには続きを見たいなんて言い出せず、結局彼女の活躍を見たのはその一度きりだった。想像の上で私は、何度も彼女になりきって遊んだ。
 そのうち細かいところは忘れて、彼女は私自身になる。私の声で喋り、空を飛べるなんて能力も勝手に追加される。
 微熱のつづく長い晩、白く居心地の悪いベッドで寝返りをうちながら、窓の向こうで輝く月を見て、私は何度、夜空へと舞い上がったことだろう。影法師になったビルからビルへ軽やかに飛び移り、いちばん高い雲のてっぺんまで駆け上がる。
 星の海みたいに静まり返った街並み。私はその中に、布団に入って眠る令ちゃんや、クラスメートの誰それの姿をつぶさに見ることだってできた。
 そして私は月を背にして逆光の中、慈悲深くつめたい笑いを浮かべるのだ。持っている杖を振るえば、世界は瞬く間に炎に包まれるのに、それをしないでいる、ということ。
 快感だった。たとえ朝になれば、夢よりもはかなく思い出せなくなる気持ちだとしても。
 そして体調が回復して退院しても、私はそのもう一人の私を、しばらく忘れることができなかったのだった。彼女は、何かの拍子にひょいとあらわれ、私を自信満々にした。
 

 何が目印になったのかわからない。あ、来たことがある道だと思った。
 見かけた大きな鳥居か、その傍のひどく曲がった桜の木か、どれかの家か標識か。とにかく私は、はっきりしない予感にしたがって歩いて、やがて道が突き当たって階段になり、登るとそこは川の堤防だった。
 オレンジのまばゆい街灯が立つ堤防の上の道に立つと、昼と勘違いした蝉がかぼそく鳴いている。
 向こう岸までつづくだだっ広いくぼみは、ほとんど草原のようで、丈の高い草がするどい葉先をおびただしく風に散らしているばかり、いったいその中のどこを川が流れているのか、わからない。
 自転車に乗った人や犬を連れた人、堤防の上は意外と人通りがあるようだった。さくさくと草を踏み、堤防を下る。とんがった下草の葉がサンダルの隙間から入り込み、私のかかとや足の腹をくすぐった。
 下流にかかった橋の上に、月はさっきより高くなっている。
 
「月ってね。地球から、どんどん遠くなっているんだよ。令ちゃん、知ってた?」
 わざと意地悪い声でそう言っても、令ちゃんはきょとんとして、私の顔を見上げるばかりだった。
「知らない」
 すんなりと返されて、私は自分の間違いに気づいた。私は、令ちゃんを怖がらせようとしたのだ。
「あらそうなのー。由乃ちゃん、物知りね」
 あげく、令ちゃんのお母さんに頭をなでられ、「はい」と水筒のキャップに入ったお茶を渡され、私はちょっと膨れたまま、黙るしかなかったのだ。
 夏の暑さがぶり返したような秋の午後だったと思う。私と令ちゃんは、堤防の下の木陰にシートをひいた上で、おままごとのようにして遊んでいた。
 バスケットに入ったサンドイッチも、タッパーに入ったサラダも、令ちゃんのお母さんが作った本物。カラフルなプラスチックの食器は、花の刺繍の入ったハンカチの上に並べられて、令ちゃんはその横でにこにこ、そのあたりで摘んできた花で輪っかを作ったりしていた。
 目の前の、川原につくられた小さなグラウンドで、サッカーをしている男の子たちが居て、そっちに混じりたくて私は、機嫌が悪かったのだ。
 病院でアニメを見た、しばらくあとだった。退院後めずらしく、体調のいい時期が長くつづいて、そうなると私は、外で遊びたくて駄々をこねる。令ちゃんと、あとどちらかのお母さんが一緒に行くことで、ようやくオーケーが出るのだ。
 ボールを投げたり、虫を追いかけたり、本当はそういう遊びがしたかったのだけれど、お母さん達も令ちゃんもそういうことはしたがらなくて、結局私はたいてい、ふくれっ面で座っていることになる。
 令ちゃんのお母さんがちょっとの間いなくなった隙に、「あーあ」と声をあげ、私はその場に仰向けに倒れこんだ。
「大丈夫?由乃。気分でも悪いの?」
 薄目にあけた視界の中で、案の定令ちゃんは心配げに覗き込んできて、その後ろには大きな向日葵の花が見えた。
「月が遠くなっても、令ちゃんは平気なんだね…」
「え?」
「そうでしょ?」
「だって、関係ないじゃない…」
 なぜかしおらしい顔をした令ちゃんに、私は悔しくなる。月が遠ざかっている、という話を雑誌の片隅で読んだとき、私は無性に悲しくなってしまった、そのことを思い出したから。
「令ちゃん、薄情」
「そんな」
 何か言いかけたのもおかまいなく、私は起き上がって、ほとんど掴みかかるように令ちゃんの上に身を乗り出した。
「じゃあ知ってる?」
「なにを?」
「人の体の中って、実はとっても綺麗なんだよ。胃とか腸とか、すごくカラフルで色鮮やかなんだって。私、手術した人から聞いたんだから」
「やめて」
 今度ははっきり、令ちゃんは私を遠ざけるような手つきをした。あっさり私は得意になり、ほとんど押し倒すようにして令ちゃんを見おろした。
「肉は赤いし、骨は白いし、なんだっけ、黄色いところもあるんだって。においもあるらしいけれど、とにかくね」
「やめてったら」
 勢いよく顔を伏せた令ちゃんの前髪に押されて、傍にあった水筒のキャップがひっくり返り、お茶がこぼれてシートのくぼみに沿って流れる。
「やめてったら、由乃。どうしてそんなこと言うの……」


 しばらく歩くと、街灯の明かりから離れた川べりは暗くなり、水の流れる音が聞こえてきた。目をこらすと、何重にも交わった草の根元に、きらきら光る水面が見えるように思えた。
 蚊が刺したらしい、スカートの中の膝がじわじわ痒くなってくる。
 上流に向かって、川は左にゆるく曲がって、その角のところには小さな水門があり、どこからか集めてきた水をか細く足元へ落としていた。
 堤防に戻りかけると、小道にさしかけるように、群れて咲いた向日葵が、ややくたびれた花をうつむけている。猫背になった細い茎にさわるとそこは、汗をかいたように濡れていた。
 ここが令ちゃん、それから令ちゃんのお母さんと一緒に来た場所なのかは、わからなかった。風景は似ているような気がするけれど、男の子たちのサッカーをしていたグラウンドはどこにもない。そもそも、もっと大きな川だったような気もする。
『どうしてそんなこと言うの』
 お母さんが戻ってきても、令ちゃんは泣き止まないで、シートを抱えて家へ戻る道すがらも、そのままずっとうつむいていた。令ちゃんのお母さんは事情は聞かないまま、令ちゃんの手を引いて歩きながら「しょうがないわねえ」と笑うばかり、私は一番後ろを歩きながら、後悔と得意が混じったあやふやな気持ちで、ずっと落ち着かなかった。
 それは、魔法を使うヒロインになって高い空から地上を見下ろした気分に似ていた。空は気持ちよく広く、私はどこまでも自由で――そして一人きりだった。魔法の杖をくるくる回し、いつでも炎を出せるんだから、燃やさないでいてあげてるんだから、なんて、静かな街に向かって声高に叫んで、そして言いたいことはたぶん、そういうことじゃないのだ。
 あるいは。私は本当に、炎を落として喜んでいたのかもしれない。シートに座って、泣き出した令ちゃんの背をさすっていた私の右手は、真っ赤に燃えていたのかもしれない。私の顔はそのとき、優雅とは遠い、みにくい笑いを浮かべていただろう。
 背中を押していた狩人みたいな気持ちは、もうどこにもなかった。急に疲れをおぼえて、ぎくしゃくと私は、向日葵の根元にしゃがみこむ。
「由乃」
 そのとき、声が聞こえた。

 

 見ていると、水門のある橋のたもとに、令ちゃんが駆け上がり、きょろきょろ辺りを見渡している。
「れ……」
 答えかけながら、私は顔を伏せてしまう。青い草のにおいが鼻につく。乱れたスカートから出た膝小僧に、赤く蚊の刺したあとがあって、私はそっと、そこに口づけた。
 かかえた腕の裏が汗でぬれて、やんわりと広がる、身体の底から撫でられるような甘やかな感覚に、私はたまらなくなる。地面と一体になったような、諦めに近い気持ちが、全身に錘のように、ぶら下がる。
 心配しているかな。――なぜかいきなり、私のお母さんの顔が浮かんだ。隣家に皿を返しに行っただけの娘が戻らなければ、それは心配するかもしれない。今さら、私の心は小さくふるえた。そのくせ、向日葵の陰から立ち上がれない。
「由乃」
 もう一度、今度はさっきより近くで聞こえた声は、ちょっと不安げだった。令ちゃん、当てずっぽうにここを探しに来たのかもしれない。あの秋の日、三人で来た場所がここだとしても、令ちゃんが私よりそのことを覚えているか、自信はなかった。
 ジーという虫の鳴き声が静まり、足音が聞こえた。令ちゃんの姿をした、何かあらあらしいものが、私を乱暴に捕まえようとあたりをのし歩くさまを想像する。巨大な手が、私を押さえつけて、見おろしてくるさまを。
 令ちゃんがそんなことをするわけはない。それは分かっていた。なのに私の背中にこびりつくように、一面だけ火にあたって暖めれるように、見返すだけで凍りつくような視線が向けられる、そのことを望んでいる気持ちがあった。
 私は自分の膝と、サンダルから突き出した裸足のつま先だけを見ていた。男の子のように軽快な、令ちゃんの足音。数歩行っては立ち止まり、またざくざくと進み出す。そしてまた静けさ。今度の休止は長い。と、急に動いた足音は、すごい早さで私から遠ざかろうとする。
 私はほとんど必死になって、飛びあがるように立ち上がろうとする。
「令ちゃん!」
 搾り出した声は、私のものじゃないような気がした。
 頭を垂れた向日葵の向こうで、振り向いた令ちゃんが一瞬、あきれたように口を開け、両手を広げてゆっくり回りこんでくる。
「もう、由乃ったら。何してるのよ、そんなところで」
 何を言わずに見上げた目を見つめ、すぐに令ちゃんは、手を伸ばして私の肩を包んだ。
 大きくため息が聞こえて、令ちゃんの喉もとが上下する。
「いったいどうしたの?」
 顔を近づけてきたから、ちょっと横を向くと、ずいぶん高くなった、斜にかまえた白い月と目があって、私は電流みたいな恥ずかしさが胸を通り過ぎるのを、じっとこらえた。不思議と、それが引いたあとは、朝方に吹く風のような爽やかなものが、ゆっくりと満ちてくるのだった。
 額の汗をていねいに令ちゃんが拭いてくれて、促されて上った堤防から振り返ると、向日葵の花はもうどこにも見えなくなっていた。
「ごめんね」
 やっと言えた私のどこかに目をやり、令ちゃんはややぶっきらぼうにうなずいた。
「うん」
 手を引かれて歩き出して、反対の手でそっと触れると、シャツ越しに動く令ちゃんの背中は、びっくりするほど熱かった。


「私はね。ああやって由乃が家に来たときは、ちゃんと由乃が自分の家に戻るまで、二階からずっと見ているのよ。いつもじゃないけどね。――過保護すぎて、嫌になるでしょ?」
 どうして、と聞くと、令ちゃんは照れくさそうに笑って頭をかいた。
「もっとも、すぐに見失っちゃったから、ずいぶん焦ったけれど。ただこっちの方ってお店とか少なくって、だから由乃がもし歩いて行っちゃったら一番危ないかなって思ったの。川まで来てるとは思わなかった、ずいぶん歩いたのね」
 頭をなでられて、その手の起こす風すら感じ取れて、私は令ちゃんのシャツをつかんだまま、崩れかけのパズルみたいになった気持ちを抱え、ただ何度も頷くばかりだった。
「どうした?魔法でもかけられちゃった?」
 令ちゃんが笑って覗き込んできたときも、目も合わせることも出来なくて、たぶん赤くなっているだろう頬っぺたを、怒っているわけじゃないとゆるめようとして、一所懸命だったのだ。
「ずいぶん歩いた」つもりだったのに、令ちゃんと引き返すとすぐに馴染んだ町角が現れ、ほどなく、私と令ちゃんの家の二階の明かりが見えてくる。
「ほら、着いたよ」
 空を見上げて令ちゃんは微笑む。
 ほとんど満ちた月のようなそれと、同じ顔をした存在が、透明でうつくしいつま先で軽やかに飛び越えていく、そんな姿を、私は近づいてくる私たちの家の屋根の上に、確かに見たような気がしたのだった。







<了>



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