探偵白薔薇さま・第一話





 白く輝く夏をいとおしく思うのは、いつも夏が過ぎてから。

 数年ぶりに、とテレビで言われるくらい雨の少ない八月だったという。前に降った夕立のことも思い出せないほど乾ききっていた空は、月がかわったとたんにがらりと変わる。まるで目にも見えないはるか空の高みでゆっくり餌を食んでいたかのような、たっぷりと成長した滴の雨が、数日の間絶え間なく降り注ぐのだ。
 土曜日に始まった新学期、明けた水曜に一日晴れただけで、朝から空を覆いつくしていた雲が目に見えて厚みを増してきた木曜日の放課後。
 委員会に入って一週間、一年生の彼女は、はりきっていた。二学期のクラス委員・各教科係・いくつかの委員会活動など、順繰りに決めていく黒板の端っこで、立候補がなく余りものとしてぶら下がっていた環境整備委員会のひょろ長い文字。半ば強制として彼女の名前がその下に記されたときには声をあげて抗議したけれど、その翌日、得意満面に教室に現れた彼女の報告に、今度はクラス全員が彼女に抗議することになる。
 クラスメートはみんな知らなかった。あるいは失念していたのだ。リリアンにおける生徒会、全校のあこがれの視線を集める山百合会。その会長にあたる三人の薔薇さまの内のお一人が環境整備委員会の二年に所属している、ということを。
 白薔薇さまこと、藤堂志摩子さま。実際に間近で見る彼女は、中等部にまできこえていた尾ひれのついた噂でも物足りないほどきれいで気品があって、委員会の上級生下級生を問わず注目の的。彼女にねぎらってもらいたいがため、自分の当番でもないのに頑張ってしまう委員の多いこと。
 彼女もまた、その例に漏れなかった。分担ではない中庭の花壇の見回りを終えて、月に一度、二年生が見ることになっている古い温室に足を向けたのも、志摩子さまの「ご苦労さま」の言葉にありつこうという魂胆があったからに他ならない。
 日暮れまでまだまだ余裕のある時間にもかかわらず、手を伸ばせば届きそうなほど低い空は、濁った水面のように陰鬱な渦を巻いて、校舎や中庭を灰色の影に押しこめている。裏門の方へ歩くにしたがって少なくなる人影に、ちょっとビクビクしながらたどりついた温室の扉を引くと、なま暖かく湿度を含んだ空気がそろりと這い出てくる。彼女はここに来るのははじめてだった。
「え・・・なに、これ?」
 思わず口をついた言葉は、驚きに押し出されたものだった。
 海底を思わせる暗さ。曇っている上、明かりが点いていないのだから、外よりも明るくなるわけはないのだが、ガラス張りの光あふれる空間をなんとなく思い浮かべていた彼女の想像の落差は大きい。
 ドーム状に建物を形作るぶ厚いガラスは古びて、ところどころ、海からひきあげたガラス瓶のように緑色に染まっている。鉄枠で区切られたガラスはひびが入っていたり、割れている箇所もあって、外に通じる穴がぽっかり口をあけているのに、温室にたちこめた空気は、まるで人の立ち入ったことのない遺跡の石室の中のようによどんで感じられた。
 床に敷き詰められた煉瓦もところどころ盛り上がり、隙間からは黒い土が荒々しく露出している。温室の真ん中、丸く切り取られた地面からはひょろっとした弱弱しい幹が伸びて、はるか天蓋に届く前に力尽きて枝葉を広げていた。壁面には不規則な間隔で白木の棚があつらえてあり、サイズも種類もまちまちな鉢植えが置かれて、旺盛な蔦を垂らしている。通路の両側にも直植えや鉢植えが並び、花をつけているものもあったけれど、いよいよ雨が降り出したのか、いっそう暗くなった室内で、それらはまるで侵入してくる人間を悪意をもってじっと見つめているようだった。
 遠くで雷の音まで轟く。
(一回りだけして、すぐに出よう)
 そんなふうに、すっかり縮こまった足を励まして、なんとか温室の真ん中まで進み、精一杯の義務感を発揮してあたりを見渡した彼女の目が、一度通り過ぎた正面の棚に奇妙なものを見た気がして、戻る。
 神話に聞くゴーゴンの首のように、緑の濃い葉の枝を長く垂らした二つの鉢植えにはさまれたところ。そこに、それはあった。
 ちょうど植木鉢二つ分くらい開いたところに、一番小さな鉢の半分くらい、手のひらに乗るくらいの置物のようなものが三つ並んでいる。それぞれ大きさは微妙に違っていたが、軽く「く」の字を描くようにいびつに曲がった全体のフォルムは共通していた。お父さんのお酒の徳利を逆さにしたみたい、と彼女は思う。
 及び腰になりながら近づいてみると、木か石か黒っぽい素地の、上部の丸みを帯びた部分に表情のような陰影が刻まれていることに気づく。
 そして、その光を吸い込むような質感が、表面がびっしりと濡れているからだ、と気づいたとき、屋内にあるにもかかわらず置物の周辺だけ水溜りの出来ていることに気づいたとき――もう一度、さっきより近くで雷が轟いた。
 そのとたん、呪文が解けたように自由になった分、いきなり新鮮によみがえった恐怖にはじかれて、彼女は逃げ出した。温室の扉を突き飛ばして飛び出し、雨に霞みはじめた校舎へと一直線に急ぐ。まばらに落ちかかってきた雨の滴が、走る勢いで目に飛び込んでくるのも構わず、彼女は走った。かすれたような悲鳴をあげて渡り廊下の屋根の下に走りこんだとき、あたりの暗がりを割って突っ切るように稲光がはしり、間髪入れずに轟音が空を埋めた。
 荒い息をはきながら振り返ると、本格的に落ち始めた雨をうけて、王冠のように丸屋根のぐるりに白いしぶきを立てた温室のガラス越しに、ちらりと黒い影の動いた気がして、ふたたび悲鳴をあげて校舎に逃げ込んだ彼女は、自分の教室に戻るまで、後ろを振り返ることができなかったのだった。
  
 

「第一話:並木道」



 滝のような豪雨が夜半まで降り続いた翌日。
 うってかわって降り注ぐ透明で強い日差しに手をかざして、志摩子は背の高い校門をくぐった。
「ごきげんよう」
「ごきげんよう、白薔薇さま」
 同じく眩しそうにしながら挨拶をしてくる生徒たちに会釈を返しながら、分かれ道のマリア像の前まで進む。
 手をあわせて目を閉じると、体の片側にあたった日の光が、くっきりあたたかく感じられた。
 マリア様。今日も罪深い私たちを、どうぞ見守っていてください。
 昨夜も、世界のあちこちで暗いニュースが駆け巡った。今この瞬間にも、耐え難い苦痛と悲しみに目を覆う人々が必ず存在するであろう現実。こうやって手をあわせることで救われる気になるのは、所詮自己満足にすぎないとわかっていても。
 そもそも、救われるべきは誰の心なのか。
 私はただ、自分のためだけに祈っているのではないのか。
 すがるように見上げた志摩子を、マリア像は眦に硬質な光をたたえて見おろしている。
「志摩子さん」
「は、はい」
 ふわりと、熱情のように浮かんだ心地から引き戻されたきまり悪さで、うわずった声が出てしまう。聞いた瞬間誰のものかわかった声の主は、志摩子の横顔を覗き込むように体をかがめて、笑いかけてきた。
「ふふ、どうしたの志摩子さん」
「乃梨子」
 志摩子の隣に立った乃梨子が、ややせかせかした動作でマリア像に手をあわせる。彼女のまとってきた空気が志摩子を取り巻いて、晩夏の朝に溶け込んでいく。
 わずか2,3秒で顔をあげた乃梨子が、そのまま高い空を見上げて笑みを漏らした。
「なあに、乃梨子」
「あ。ううん、・・・こういうとこでは志摩子さま、だったかなあ、って思って」
 おっかしいなまだ慣れてないな、そう呟きながらきびきびした足運びで歩き出した乃梨子の後について、志摩子も校舎につづく石畳の道に進む。夏の盛りを過ぎても銀杏の葉影はまだ充分に濃密で、道の上はどこか涼しい空気が流れている。
「別にいいのよ、どう呼んでくれたって」
「夏休みの間にね。これでも特訓したんだよ。鏡にむかってさ、こう、表情をつくってね」
 振り返って、下唇を噛んでいかめしい顔つきをつくった乃梨子に、たまらず志摩子は笑い出してしまう。口元を押さえながら細まった視界の中で、乃梨子のつやつやした黒髪や、まだ新しい夏服のカラーが、木漏れ日の下でかがやくさまが、いちいち印象的に志摩子の中で残像をひく。
 ちょっと照れくさそうに前を向いた乃梨子の背に、彼女があらわれるまで自分の中にあった熱っぽく寂しい感情の名残りを思い出し、わずかの間にすっかりとそれを忘れていたことを、志摩子はこそばゆい思いで噛み締める。
 かすかな後ろめたさと、何倍もの心地よさ。
「うん。そう、そうだよね。」
 顎の輪郭を切り取って揺れる髪の下で、乃梨子の唇がひとりごちる。
「どうしたの、乃梨子」
「ちゃんと言うのってはじめてかな?」
 わざわざ小走りに距離をとって、くるりと振り向いて大げさに深呼吸をした乃梨子が、追いついてきた志摩子に向かって深々と頭を下げた。
「ごきげんよう、お姉さま」



 乃梨子とは、夏休みの前にロザリオを渡して、正式にスールの契りを結んだ。
 彼女とは、春、桜の下で出会った。
 銀杏の群れの中に独り咲く桜に、志摩子の気持ちをなぞらえた彼女の言葉は、今は乃梨子の首にかかるロザリオの代わりに、志摩子の心にかかっている。
 出会ったそのときから、不思議と何でも、心に垣根をつくらず話すことができた相手。だから、急いでロザリオを渡そうとは思わなかったし、渡したところで何かが変わるなんて思わなかった。
 乃梨子と私。そう、何も変わらない。姉妹とか、そういうこととは無関係に、自分を理解してくれる、あるいは理解しようとしてくれる彼女とは、ただ穏やかな気持ちで手をつないで歩いていくだけでいい。心が浮き立って、どこかにさまよい出していくことなんて心配しなくてもいいのだ。
 そう思っていたのに。
 予想は裏切られたのかもしれない。志摩子はむしろあっけにとられたような心地だった。
 こんなにも毎日が新鮮に思えるなんて。



  ***



 その日の放課後に開かれた環境整備委員会の会合にて、ひと波乱があった。
 裏門にほど近い古い温室を見に行った一年生の委員が、「お化けを見た」と騒ぎはじめたのだ。
 お化け、というのは彼女の弁で、くわしく聞いてみると何か不気味な置物のようなものが置いてあったということ。
 今朝方にもう一度見に行ったら無かったというところまで聞いて、誰もが見間違いでしょうととりなしたものの、彼女の態度があまりに真剣だったのと、
「雨の降る前だったのに、それ(置物)だけびっしょり濡れていた」
「今朝見たときにも跡が残っていた」
などと細かいところまで持ち出してきたものだから、折から日の傾きかけた教室の中は変な雰囲気になって、見かねた委員長のおずおずと切り出すまで、しばし騒然となってしまう。
「それでは・・・志摩子さん、もしよろしければ、一度見に行ってくださると、助かるのだけれど」
 それで周りの生徒が一斉に注目したものだから、志摩子は思わず「はい」と答えてしまったのだった。
 散会して、一人残った委員長に近づいていくと、彼女はうすい頬に苦笑いをうかべて志摩子を出迎えた。
「あの。望美さま。どうして私だったんでしょうか」
「ええ、そうね・・・。ごめんなさいね、志摩子さん、押し付けちゃって」
「いえ・・・」
 今学期で委員長の任を二年生に明け渡す望美さま。ちょっとかすれたその声を、志摩子は気に入っている。
「白薔薇さまは、お寺の娘さんでいらっしゃるのよね?」
 手元の書類をそろえながらの望美さまの言葉に、志摩子はかすかに動揺した。
「お寺の娘さんだからって、お化けが平気なんて思わないけれど」
 望美さまがそう続けたから、彼女がどういうつもりだったのか、理解して安心できた志摩子は「ええ」と相槌をうった。
「あの、望美さま。まさかほんとに『お化け』だなんて・・・」
「そんな、まさか」
 くいっと眉根をよせて笑って、望美さまは何度も、もうきっちりそろっている紙の束を机に打ち付けている。
 とんとん、とんとん。
「望美さま」
「ごめんなさいね。私も実はちょっと苦手なんです、そういうの」
 止めた手から顔をあげた望美さまは、毒の無い目つきで志摩子を見た。
「あの温室、古くてあちこち壊れていて、少しだけ気持ち悪いでしょう。そう思わない?」
「そうでしょうか」
「あら。志摩子さんのお気に入りの場所だったかしら?それならごめんなさいね」
「私、は――」
 志摩子が答えかけたところで、派手な音を立てて教室の後ろの扉が引かれて、二人とも弾かれたように顔をあげた。校舎に残っている生徒はもういないのでは、と思える静けさが続いていたところだったので、自分でも思いがけないほど、驚きが大きい。
「やあやあ。委員会のお仕事、ご苦労さまです」
 朗らかに通る声の主は、教室に居る二人の姿を見てもいっさいのためらいなく近づいてくる。現黄薔薇さま、支倉令さまにならぶくらいの背の高さで、短く切った髪形までよく似ていた。 
「あら。またサボっていらっしゃるの?」
 望美さまが細い腕を組んで、入ってきた彼女にあごの先を差し向けて笑った。くだけたその口調と声音からみて、どうやらお二人はお知り合いらしい。志摩子は鞄をとりあげた。
「望美さま。お話の件は承りました。お先に失礼いたしますね」
「あら」
 望美さまの机の前まで来た彼女が、一礼して踵を返そうとした志摩子に向かって大げさに手を広げた。
「気を使うことないのに」
「いえ。そろそろ薔薇の館に行こうと思いますから」
「あ、そうそうー」
 破顔一笑、というのはまさにこんな笑いのことなんだろう。丸めた紙を一気に広げたように顔をほころばせた彼女は、ドアのところでもう一度頭をさげた志摩子に、腰に手をあててうんうんと大きく頷いてみせた。
「そうそう。白薔薇さまだ。山百合会の人だ」
 彼女と並んで立つと望美さまの体つきはなんとも線が細く見える。机に椅子をしまい込んでいた望美さまは、彼女の台詞にくりっと目を見開いた。
「なあに、あなた。三年生のくせして白薔薇さまの顔を知らなかったわけ?それはリリアンの生徒としてどうかと思うわ」
「ねえ。自分でもどうか、と思うわ。ごめんなさいね。藤堂志摩子さん」
「はー、信じられないわ」
 また腕組みでふ、と息を吐いた望美さまの隣で、大柄な彼女は神妙にこうべを垂れている。
「お気になさらないで」
 もう少し気の利いたことは言えないものだろうか。そう思いながら、志摩子は廊下に出て、後ろ手にドアを閉めた。
 ひととき気がかりに指を離しあぐねたドアの向こうから、ほどなく聞こえてきた笑い声は屈託なくて、志摩子は安堵する。ドアをはさんだ向こうに、黄金色にかがやく心地よい世界が広がったような、かすかな離れがたさを覚えながら、志摩子はドアの表面を押すように、その場を離れたのだった。



「あー、でも確かに。古い温室だからね」
 テーブルの向こうでノートを開いていた祐巳さんが、身を乗り出して言う。
「そうね。特に一年生なら、ね」
 志摩子のためのお茶を淹れている由乃さんが背中で答える。
 薔薇の館の二階。今日の放課後は二年生三人だけ。遅れてやってきた志摩子が目で尋ねると、「お姉さま、今日はお家の用事で先に帰ったから」と祐巳さん。
「令ちゃんは剣道部。今日は大した仕事はないからいいだろう、って」
 椅子を立ちながら、こちらは由乃さん。
 そこで「委員会だったの?」と祐巳さんに聞かれて、二年生だけの気安さもあって、志摩子は今しがた望美さまに頼まれたことを簡単に話したのだった。正直、どうしたものだろうか、という戸惑いもあってのこと。「お化け」は見間違いとして、志摩子が温室を見に行って「何もありませんでした」で済むのか、という不安が少しだけあったのだ。
 乃梨子が薔薇の館にいないのは、志摩子は知っていた。今日の午後、一年生の半分は「校外学習」の一つとして、都心にある大きなカトリック教会を訪ねているのだ。
 志摩子も去年訪れたその場所。大きなパイプオルガン、特徴的なステンドグラスから差し込む日の光・・・。リリアンのお御堂とは比べ物にならない荘厳でゆかしい雰囲気の中、あの乃梨子がどんな顔で高い天井を見上げているのか、と思うと少しおかしくなる。
「あ、志摩子さん。今乃梨子ちゃんのこと考えていたでしょう」
 身を乗り出したままの祐巳さんが指を立ててにっこり笑う。「百面相」とあだ名される彼女に見事に切り込まれてしばらく言葉を見失っていると、とたんに祐巳さんの表情がいぶかしげになったから、あわてて志摩子は「そうね」と答えた。そういえば、そのあだ名をつけたのは卒業したお姉さまだったろうか。
「乃梨子ちゃんならそれこそ。お化けとか幽霊とか、平気そうね」
 はい、と由乃さんが志摩子の前にティーカップを置いた。深い赤みのある液体からたちのぼる軽やかな香り、オレンジペコ。
「ありがとう」
「それどころか、数珠を片手に率先して突っ込んでいきそうよね。お化け退散、ゴーストバスターズ!ってね」
 由乃さんが自分のカップを寄せて志摩子の隣にかけて、広いテーブルの真ん中あたりに二年生三人がまとまって座るかたちになる。
「そうかしら」
 どう答えていいのかわからないので、志摩子は紅茶の水面を見おろして微笑んだ。背筋を伸ばしてカップを口に運んだ由乃さんが、ちらりと志摩子を見る気配。
「でも、志摩子さん大丈夫?お化け退治」
「お化け退治、って」
「お化けなんていないよお。リリアンには、マリアさまがいるし」
 テーブルの向こうで、首を縮めて祐巳さん。
「なんだったら、私も付き合うわよ。もちろん祐巳さんもね」
 由乃さんは何を思ったのか豪快に竹刀を振り下ろすポーズをしている。振り下ろされた先の祐巳さんが「えぇっ、私も?」と小さく叫んで頭をかばうふりをする。
「なによ。祐巳さん、お化けはリリアンにいないんでしょ?」
「そ、そうは言ったけどさ」
「うふふ」
 志摩子が笑い出したのにつられて、祐巳さんも由乃さんも笑う。天井に立ちのぼるその朗らかな空気を、志摩子は満喫する思いだった。
「ありがとう。でも、私だけで行くわ。山百合会のメンバー三人が連れ立って、なんて、それこそ他の生徒が何事かって思うでしょうから」
 もちろん由乃さんもそのつもりだったのだろう、「ん」と軽く頷いてみせて、くいっとカップを傾ける。
「そうだね。新聞部・・・っていうより真美さんとか。さっそく飛びついてきそう」
「『リリアンかわら版』にネタを提供するにしても、『お化け』はいただけないわね、祥子さま、嫌な顔をしそうだわ」
 由乃さんが指を立てて言い、祐巳さんが大きくそれに頷いた。
「志摩子さんがちらっと見て『何もありませんでした』で済むと思うわよ。志摩子さんの発言って重みがあるんだから」
 空になったカップを持って立ち上がりながら、由乃さんは志摩子の横から言う。
「そうなのかしら」
「ま、あんまり自覚はないかもしれないけれどね」
 そのまま流しに歩いていって、由乃さんのひねった水道の音を聞きながら、ふと志摩子は、ついさっきわずかに感じた疑問を思い出した。
「ねえ、祐巳さん。どうして『あっちの』温室だ、って思ったの?」
「え?」
 自分の紅茶に口をつけたところだった祐巳さんが勢いよく顔をあげた。彼女の上唇から一滴、紅茶のしずくがカップに戻るのを、志摩子は気がつかないふりをすることにした。
「リリアンには温室が二つあるでしょう。私はさっき、どっちの温室とは言わなかったのだけど」
「ああ・・・そうだね。うん。どうしてだろう」
 祐巳さんはふっくらした頬に手をあてて志摩子の手元のあたりに目を落とした。リリアンにはもう一つ、大学部との境に近いあたりに新しい温室があって、生徒同士はわからないけれども――そもそも、「温室」が生徒の話題になることは少ない、と思う――、先生方やシスターが何もつけずに「温室」と呼ぶのは普通はそちら。やや傷みかけた裏門に近い方、今回の「お化け」騒動の舞台となった方は大抵「古い」温室、と呼ばれる。去年のヴァレンティーヌスの日に行われた志摩子たちつぼみ三人のカードを探すイベントでも、そうだった気がする。
 そのイベントでは、祥子さまの紅いカードは「古い」温室で見つかった、そう聞いている。だから妹の祐巳さんにとっても身近な温室はそっちの方なのかもしれない。
 眉をしかめた祐巳さんの唇がかすかに動き、言葉を紡ぎだすより先に、カップを洗い終わったらしい由乃さんが「さて!」と明るい声を出した。
「じゃあ私も、部の方に行っていいかな。今日はもうなんにもないよね、することは」
「そうね。・・・じゃあ私たちももう帰りましょうか、祐巳さん?」
「あ・・・、うん。そうだね」
 祐巳さんは何か言いかけていたのかもしれない。ちょっと悪いことをした、と思いながら、志摩子は祐巳さんの飲み干したカップを受け取って流しに向かった。

「それじゃあ、ここでねー」
 薔薇の館を出たところで手を振って小走りに道場の方へ向かう由乃さんを、祐巳さんと二人並んで見送る。剣道部に入ってまだ二ヶ月あまり、由乃さんの背中には生き生きした緊張がみなぎって見えた。
「じゃあ今日は一緒に帰りましょうか」
「うん」
 今朝方乃梨子と歩いた並木道を、祐巳さんと引き返す。朝には銀杏の葉を刺し貫くばかりに眩しくはじけていた日の光も、今は空全体に風に舞う羽毛のように流れた雲の向こうから、黄色くあたたかくあたりを照らしているばかりだった。
 半そでの制服では、もうちょっと寒いかもしれない。そう志摩子が思ったのにあわせて、隣の祐巳さんがそっと二の腕を包むようにしたので、志摩子はくすりと笑い声をたてた。
「あ、志摩子さん、また乃梨子ちゃんのことを考えていたでしょう」
 志摩子の笑いに気づいた祐巳さんが、得意げに顔を反らして言う。
「今度ははずれよ、祐巳さん」
「あちゃ、しくじったか」
「今はね。祐巳さん、あなたのことを考えていたのよ」
 風が吹いて、髪をかきあげた志摩子に、祐巳さんはちょっと照れたように黙り込んで、鞄を中心に歩きながら体を回した。くる、くる。
(もう今年の夏も終わってしまうのね)
 かすかに感じた肌寒さか、それとも空の向こうに遠のいていく昼の光が思わせたのか、うっすらにじんだ寂しさのようなものを、指先にとらえかねて、やり場のない視線を祐巳さんに向けたところだった、というのは本当のこと。夕日に照らされて溌剌と跳ねる祐巳さんの手や足を見ていると、志摩子の気持ちもどこか、その奥底から気持ちよくかき混ぜられていくようだった。
 私は、なんと弱い心の持ち主なんだろう。
 淡々と、そんなことを思う。
 マリア像の前で手をあわせたあと、思っていたより迫っていたバスの時刻に気づいて、二人とも小走りになる。
「ところで、温室にはいつ行くの、志摩子さん?」
「明日の朝、学校に来たときでも行ってみようかと思っているわ」
 バス停にたどり着くまで、二人の間で交わした会話はたったそれだけだった。






<続く>

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