探偵白薔薇さま・第二話「温室」







 土曜というのは、週のはじめの日。ずいぶん前から、志摩子の中でなんとなく生まれた思いだった。
 半日の授業が済めば日曜のお休みが控えている土曜日。むしろ一週間のおしまいの一区切りと考えている人の方が多いことだろう。
 理由はその前日にあると思う。金曜日、と聞いて志摩子の中に浮かぶイメージ、それはもう何年も前から変わっていないのだ。
 ずっと遠い夜。訪れたことのない路地裏。そんな暗いところで、焚き火の燃え残りみたいな小さな火がチロチロ燃えている。やがてその火は色うすくなり、形がぼやけて消えて、世界はまったくの闇になる。馴染んだ人も町も、いっさいが夜の向こうに掻き消えて、取り残される。映像ともつかないフラッシュバックみたいなもの。
 子供の頃の体験なのか読んだ本の知識なのか、志摩子にもわからない。かすかな恐怖感を越えてやってくる土曜日は、だから何かが始まる日。音もなく光もなく静かに、古い皮を脱ぎ捨てて、すべてが新しく生まれ変わる日。
 朝靄がたちこめている。
 いつもより30分早いだけで、見慣れた風景もずいぶん変わるものだ。新鮮な驚きを感じながら、志摩子は校舎の脇の小道を歩いた。校門前の警備員の詰め所を通ってから、ほとんど誰とも行き会わない。つやのない舗装は、しっとり濡れているかのように、志摩子の足音をやわらかく吸い込んでいく。
 誰もいない教室に鞄をあずけて、校舎の影に覆われた中庭に降りた。木々の向こうに、白い光に包まれて、お聖堂の灰色の屋根が見える。
 そのまま誰とも行き会わず、古い温室までたどり着いた。冷たい取っ手を握って扉を引くと、朝の短い時間にたくわえられた光が、ほのかな熱になって志摩子の体を包んだ。
 中に入って天井を見上げると、緑色に透けて見える空のてっぺんの雲が晴れつつある。温室の天井で組み合わさった鉄枠にとまった黒い鳥が、羽に顔を突っ込んで毛づくろいをしていた。
(私の部屋の二つ分くらい?もう少し大きいかしら)
 委員会の仕事でたまに覗いたことはあったけれど、何の用事もなく来たことがあったかどうか。見渡す室内は思っていたより狭くって、殺風景だった。背の低い木々や植え込み、植木鉢の密度も薄い。植物の名前を書いたプレートなどもなかった。
(お化け)
 そう言った彼女が見た棚の上というのはどこなのだろう。壁にそって、ゆっくり歩いてみる。志摩子が来るまで邪魔されずにまどろんでいた室内の空気が、歩みにあわせて重い腰をあげる。
「ふう」
 半分ほど温室を周って、思わず声が出てしまったのは、なんとなく感じていた後ろめたさなのか、それとも志摩子もどこかで「お化け」を怖がっていたからなのか。
(ふふふ)
 なんとなく可笑しくなった。人間よりも怖がらなくてはいけないものなんて、きっとないはずなのに。
 しゃがみ込んで、斜めになっていた鉢植えを直した。奥の壁際でオレンジ色の花が咲いている。薔薇の品種で、名前は確か「万葉」。
 見上げる棚から降りてくる蔓というか枝というか、それも薔薇のはずだけど、名前はわからない。
 左右に伸びた蔓を目で追いながら立ち上がると、鉢と鉢の間に隙間があいていて、これが委員会の彼女の言っていた「お化け」のあった場所かと思う。
 白木の表面はきれいなもの。目をこらしても何の跡も志摩子には見つけられなかった。
 そのまま一周して、また同じ棚の前に戻った。思い当たるような場所はそこしかない。
(どうしたものかしら)
 やはり、このまま引き返すしかないのか。思案しつつ振り返ると、枝の端に赤いふくらみをつけた薔薇が、小ぢんまりと佇んでいる。花はまだつぼみだ。
 扉の近くでかすかな音がした。隣に立つ低木の幹と同じ色の水道管がのびていて、思い出したような間隔で水が滴っている。
 蛇口を閉めなおして見ると、水道管の足元を囲う木の枠からするどいささくれが飛び出している。刺さないよう慎重に折っておく。
 温室の外に出ると、朝靄はすっかり遠のいて、校舎の屋根がくっきり空を切り取っていた。裏門からちらほらと生徒が現れ始めている。
 校舎の方に戻りながら、志摩子は肩越しに温室を振り返った。光の具合なのか、ガラスに覆われた天蓋の下は、他の場所より明るく見える。
 と、視界が斜めになる。
「危ない、志摩子さん」
 いや自分が何かにつまづいたんだ、と気づくより早く、横合いから声が聞こえて、左腕の肩に近いところをぐいっと握られる感覚。
「真美さん」
 身を起こすまで支えてくれていた真美さんが、振り向いた志摩子にかすかに微笑んで手を離し、脇にはさんでいた鞄を持った。今登校してきたばかり、という雰囲気の彼女の、くっきり分けた下の額は上気して、うっすら汗ばんでいる。
「ここ。ほら、この前の雨でね、ぬかるんだ跡がそのままになっていて、危ないのよね」
 真美さんは靴の先で地面の盛り上がりを軽く突いた。確かに、地面の一角が自転車か車が通ったあとみたいにでこぼこになって、そのまま固まっている。波のように盛り上がったところに、志摩子は足をひっかけてしまったらしい。
「ごめんなさい。助かったわ」
「ううん。そこ、危ないって知ってたから。志摩子さんが歩いてくるのが見えて、ひょっとしてつまづくかな、と思ってたら案の定――」
「知ってた?」
「あっと・・・しまったかな」
 真美さんはくるりと背をむけて校舎に向かって歩き、すぐに振り向いた。
「ううん。別に秘密にしようっていうわけじゃないし。まあいいかな。あのね、志摩子さん」
「ええ」
 促されて志摩子が寄った校舎の壁際で、振り返った真美さんがまっすぐ指を伸ばして指し示した。
「あの温室でしょ?『お化け』が出る、っていうのは」
 耳が早い。志摩子は、彼女について話すときの祐巳さんや由乃さんの、尊敬半分残りは辟易、といった表情を思い出す。山口真美さんは新聞部、それもいまや実質的リーダーなのだ。

「といっても、私から何かして見つけたネタじゃないんだけどね。一年生部員の一人が、クラスメートからそういう話があるからぜひ新聞部で調べて、ってお願いされたんだって。それもかなり強引だったみたい」
 素直に賛辞を口にすると、真美さんはちょっと苦笑いして上目づかいに志摩子を見た。
「でね、昨日の放課後、その子がお姉さまと一緒に部室まで来たもんだからさ。しょうがないからこの温室まで付き合って、話を聞いたの。そのときその子がね、今の志摩子さんと同じようにそこで転びそうになったってわけ」
 例の彼女が新聞部まで足をはこんでいたとは思わなかった。志摩子は、委員会で熱弁していた彼女の横顔を思い出した。なかなか皆に信じてもらえなかったから、むきになっているのだろうか。ちゃんと聞いてあげればよかったかもしれない。
「でも、記事にはならないと思う。少なくとも、現段階ではね。温室の中を見ても何も見つからなかったし、体育祭までの間、確かにネタは足りないんだけど、ね」
 黙りこんだ志摩子に気を使ったのか、真美さんはやや早口で付け足した。ひょっとして話しづらい印象を与えてしまっていたのかもしれない。考えてみれば、真美さんと二人きりで話すのは、珍しい。
 新聞部の発行する「リリアンかわら版」に載せられたからといって、「お化け」の記事に関心を持つ生徒がそんなにいるとは思えない。けれど、騒ぎにならないならそれにこしたことはない。そう思って、志摩子は真美さんに小さく頷いてみせた。
「ま、お姉さまだったら、三文小説にでも仕立てて無理に記事にしたかもしれないネタだけど」
 あの人ならやりかねない。真美さんは胸を張ってうんうんと頷いてみせる。
「でも三奈子さまは、部長でいらっしゃるから――」
「二学期の最初に引き継ぎをいたしまして。今は私が、新聞部部長です、白薔薇さま」
「あら。それは、失礼しました」
「いえいえ」
 同じタイミングで頭をさげて、二人してくすくす笑った。顔をあげた真美さんはどこか遠くを見ているようで、どこか寂しげにも見えた。
「ちょうどこのへんかな」真美さんが数歩前に出て、もう一度温室を指差した。「振り返ったら怪人が動いていた、って主張するのよ。お化けはどこ行ったのよ、って感じよね」
 志摩子は真美さんの隣に立った。温室から校舎の方へ、まっすぐ駆けてくるとちょうどこのあたりになるのだろうか。
「ドアのすぐ近くで、もわ〜って、黒い煙みたいに、動いていたんだってさ。人影が。その子のお姉さまも一緒になってね、この子が嘘をつくはずがない、って」
 鞄を持っていない手を軽く広げて、真美さんが校舎へ歩き出す。後について校舎へ入りながら、志摩子はもう一度振り返った。
 扉をこちらに向けた温室の屋根から、鳥が飛び立っていく。



 結局、土曜日の放課後には、花寺の学園祭についての詰めの準備などで忙しく、志摩子は望美さまに会うことができなかった。
 家に戻ってから電話すると、塾から帰ったばかり、という望美さまは『ふぅーむ』と長く唸った。
『じゃあ今日中にでも私から電話して、志摩子さんが見てきて何もなかった、ということを伝えておくから』
「すみません」
『いいえ。新聞部にまで行ってしかも、自分のお姉さまを引っ張り出すんだから、結子ちゃんきっと思うところがあったのでしょうね』
 結子ちゃんというのが、かの「お化け」を言い出した彼女の名である。望美さまの声は、同情的だった。
『こちらこそ、忙しいでしょうにこんなことで時間をとらせて。ごめんなさいね、志摩子さん』
「いえ」
『しかし。謎は残ったわね・・・一体彼女は何を見たっていうのかしら』
 ふぅむ、ともう一度唸ってから望美さまは電話を切った。
 望美さまはまったくのでたらめとは思っていなかったのかもしれない。受話器を置いて部屋に戻りながら志摩子は思った。
(それにひきかえ私は、たぶん『お化け』のことなんてかけらも信じていなかった)
 それは当然なのかもしれない。けれど、だとすれば志摩子は、結子さんのことをただの嘘つきだと思っていたことになるのではないか。望美さまに頼まれたままに見に行った自分、その性根を思うと、なんだか嫌らしい感触がして、部屋に戻ってからも志摩子の中で、しはらくもやもやとした気分が尾を引いたのだった。 


 
 明けた月曜日。
「間に合ったー」
 4限が終わって、弁当の入った袋を手に廊下に出たとたんに、扉の陰から乃梨子がひょっこり現れたものだから、志摩子は驚いたのだった。授業の終了のチャイムが鳴ってまだ1、2分も経たない。一年の教室からどんなに急いでも、間に合うとは思えなかった。
 乃梨子は、志摩子の表情にすぐに気がついて、小さくかぶりを振った。
「あ。別に、授業を抜け出してきたわけじゃないよ。美術で使った教材を置いてくるように頼まれて、そのまま授業終了していいからって先生に言われたから、じゃあ遠慮なく・・・ってね」
「でも、乃梨子。お弁当箱を持ってるじゃないの」
「うん。だから、じゃあ遠慮なく・・・って」
「乃梨子ったら」
 廊下を歩きながら交わしたそんな会話が、思い出すだけで楽しくてたまらない。
 晴れてはいたけれど、風が乾いていたから外へ出てみた。正解だったと思う。銀杏の葉陰に半身を浸していると、むしろ涼しいくらいだった。
「志摩子さん、ここ。座って?」
 先に腰をおろして、自分の隣にハンカチを広げた乃梨子が、志摩子を見上げてその表面をたたく。
「ありがとう、乃梨子。いいの?」
「うん。ハンカチ、まだあるし。あ、でも今日は薔薇の館、行かなくていいのかな」
「別に、お昼に集まるって決めてるわけじゃないから、大丈夫よ」
 そのまましばらく、緑の並木の上に見える街の屋根を眺めながら、二人とも黙って、お互いがつかう箸の音を聞いていた。
 黙っていることが苦痛じゃない。志摩子は、ちらっと乃梨子の横顔を見やった。彼女もまた、そうであるならどんなにいいだろう。
「?」
 気づいた乃梨子が首を傾げたから、志摩子は話題を探した。
「今は何をやっているのかしら、乃梨子たちは。美術の時間」
 週に2時間、その2時間は連続なのだが、選択式になった授業があって、美術、書道、音楽の三つから選ぶようになっている。ちなみに、志摩子は書道だ。
「グループ分けしてね、共通のテーマで彫刻とか絵画とか、二学期中に作成するの。ちなみに、テーマは『南国』」
「南国・・・」
「そう。でも、皆適当なイメージでやってるから、めちゃくちゃなのね。いきなりトーテム・ポールみたいなのを絵に描き出したり、アフリカ象を粘土で作り始めたり」
「あら」
「でも先生がそれでいいって。最初に思いついたものをどんどん作って、後から皆で恥をかこう、って」
 上を向いた乃梨子の顔の横で色の濃い髪が揺れている。同じくらいの背のはずの彼女が、なんだか大きく見えた。
「志摩子さん、お箸が止まってるよ。食欲ないの?」
「あ、そうね・・・」
 いきなりこちらを向いた乃梨子と目が合って、少し慌てた。弁当箱の中に目を戻したところで、乃梨子が「つ・ぎ・は・玉子焼きかな〜」と妙なフシをつけて歌う。
「もう。食べにくいわ、乃梨子」
「あはは、ごめんなさい、お姉さま」
「そういえば、乃梨子。先週教会に行ったのよね」
「うん」
「どうだった?」
 先に食べ終えて、弁当箱を包みなおしていた乃梨子は、「うーん」と唸った。
「ごつごつして、重々しくて。ちょっとだけ、怖かったかな」
「ふふふ」
 思わず漏らした笑いに、乃梨子は心底不思議そうな顔をした。
「ちがうよ。興味がない、とかじゃなくって、なんていうのかな。一筋縄じゃいかない、って気がした。仏像見てるときの気持ちとそんなに変わらない・・・かな」
「そういうものかもしれないわね」
 と、答えてはみたものの、乃梨子の発言の正確なところはわからない。
 小学校のときの将来の夢が「仏師」という乃梨子。今も仏像の鑑賞が趣味で、それは素晴らしいことだと思いながら、なぜそうなのか、彼女は仏像の何が好きなのか、深く考えてみたことがないことに志摩子は気づいた。
(昔からそうね、私は。私という人間は)
 けれど、周りの人たちが、いつもそんな志摩子を望むとは限らないのだろう、たぶん。
「でも、怖いって、幽霊でも出る気がしたの?」
「まさか」
「そうよね。ちょっとリリアンでそんな騒ぎがあったものだから――」
「リリアンにお化けが出たの?どこに出たの?」
 間髪いれずそう差しはさんだ乃梨子の瞳は興味深々。志摩子は思わず苦笑した。
「そうじゃないのよ。ただ何か、そういうものを見た、って生徒がうちの委員会でね、発言したものだから」
「そうだよねえ。マリア様がいらっしゃる学園なんだものね、ここは。そんな――」
 喋りかけた口をつぐんだ乃梨子が、弾かれたように立ち上がった。目を上げた志摩子の動きより早く、日の照る地面に駆け出していく。
「瞳子」
 声は遅れて聞こえた。正面をやや斜めにはしる並木道を歩いてくるのは確かに瞳子ちゃん。夏休みの前に山百合会の手伝いのため薔薇の館に来てくれていた彼女、祥子さまの復帰にあわせて来なくなり、姿を見るのは久しぶりだった。
 乃梨子が声をかけるより早く、ずいぶん離れて立ち止まった瞳子ちゃんが、遠慮がちに志摩子に会釈をしてくる。彼女が顔を上げるより先に、あっという間に乃梨子の背が重なる。二人はそのまま、小声で何かを話し始めた。
「あ」
 思わず小さな声が出てしまった。乃梨子が両手で、瞳子ちゃんの手をとったのだ。ダンスに誘うように腕を引いた乃梨子から、わずかに身じろぎして、瞳子ちゃんが手を振り解いた。けれど、その顔は笑っているように見える。
 乃梨子もきっと笑顔だ。後姿だけど、志摩子にはわかった。
 気がつけばかすかに汗ばんでいた自分の手のひらを気にしながら、志摩子は乃梨子の弁当袋も重ねて持って立ち上がり、ゆっくりと二人の背中に向けて歩き出した。
 志摩子に気づいた二人が、同時に目を向ける。そのとき、どちらからということではないけれど、それまでしていた会話にさっと幕を下ろしたような不自然さを、志摩子は感じた。
「ごきげんよう、白薔薇さま」
 瞳子ちゃんはもう、落ち着いた声をしている。気のせいだったかな、と思いながら、志摩子はあえてかまをかけてみる気になった。
「ごきげんよう。話の腰を折ってしまったかしら?」
「いいえ、そんなこと」
「大丈夫だよ、志摩子さん」
 立て続けに戻ってくる返事に、また小さく引っかかりを感じた自分の心を、志摩子は密かに戒めた。



   ***



「志摩子」
 1階と2階の間の踊場まで降りて来たところで、下から声をかけられた。分厚い辞書くらいのプリントの束を抱えて、顔を傾けて見上げているのは、祥子さま。
 返事は返さず、志摩子はすぐに階段を下りて駆け寄り、プリントを半分取り上げた。
「ありがとう。別に重いわけではないのだけど、この後教室に行って、これを皆の机の中に入れるのを、手伝って欲しいのよ」
「はい」
 祥子さまは先を立って、三年生の教室のある廊下を歩き出した。荷物を持っていてもその背筋はしゃきっと伸びている。
 放課後の早い時間だったけれど、三年生は受験の準備などで帰りが早いせいか、廊下にも教室にも、人影はまばらだった。でこぼこに窓枠で切り取られた夕陽の色が、廊下に奇妙な模様を作っている。
「乃梨子ちゃん、大丈夫だった?」
 唐突に聞こえた祥子さまの問いを、志摩子は意味がわからず受け止めかねた。乃梨子が大丈夫、ってどういうことだろう。
 返事がないのをいぶかった様子の祥子さまが振り返り、あら、という顔になる。
「先週の放課後だったかしら、祐巳と二人で薔薇の館にいたとき、乃梨子ちゃんが来てね。絆創膏か何かありませんか、というのよ。保健室、先生がいないとかで、なんだか雨に濡れてるし、慌しい雰囲気だったから」
「先週、ですか」
 志摩子はほっとする。昼休みに会ったばかりとはいえ、その後何かあったのかもしれない、という可能性も考えていたからだ。
「いいえ、別段変わった様子はありませんでしたけれど」
「なら、いいわ」
 話を切った祥子さまの足が、ふと立ち止まる。
「覚えてる?志摩子」
 豊かな髪をさっとなびかせて、祥子さまは肩口で微笑み、小さく顎をまわしてあたりを示してみせた。
「去年までこの廊下の並びに、お姉さま方がいたことを」
「そうですね」
 頷いたものの、志摩子はお姉さまと、教室で会った記憶はあまりないのだった。
 まっすぐ伸びた廊下は蜂蜜色に輝いて、突き当たりで渡り廊下へ開けている。もちろん祥子さまも、言葉の通り志摩子がお姉さまを覚えているか確認したわけではないのだろう。
 もう一度、不思議な笑顔を志摩子に投げてから、祥子さまは松組の教室に入っていく。
「あ、お手伝いさんが現れたんだ、やっぱり紅薔薇さまは得ですねぇ。いや、美人だからか」
 祥子さまの後から教室へ入っていくと、黒板の近くの席から立ち上がる人影があって、志摩子が小さく会釈すると同時に、そんなセリフが返ってきた。もしや、と思って顔を上げると、見覚えのあるショートの髪の下で夕陽の影になった顔が笑っている。先週委員会の後で望美さまと話していたとき、現れた彼女だ。
「そんなこと言ってる暇があったら、手伝ってくださらないかしら?滝口さん。一応同じクラスなんだから」
「一応って・・・。ひどいなあ、祥子さん」
 それでも、お互いゆるめた口元に、本気で言ってるんじゃないんだと分かる。クラスメートとはいえ、祥子さまに遠慮のない口調で喋る生徒がいることに、志摩子は驚いた。
 祥子さまと「滝口さん」、三人で分けて二枚つづりになったプリントを机の中に入れていく。真ん中の列から始めた志摩子と後ろの方の机で鉢合わせた「滝口さん」が、「わ、あれ、白薔薇さまだったのか」と驚いたような声をあげた。
「なに?知り合いだったの?」
 窓際の席でちらりと見上げた祥子さまに、曖昧に頷いた志摩子の隣で、「だって、白薔薇さまじゃないですか、それはもちろん知ってますとも」と「滝口さん」は胸を張る。数日前まで自分の顔を知らなかったことを持ち出して欲しいのかな、と思いながら、志摩子は黙っていた。
「もう一度職員室に行かなきゃいけないから。薔薇の館には遅れて行くわ」
 プリントを入れ終え、自分の机に戻って鞄を取り出した祥子さまが、手鏡を出して顔の横の髪を気にしている。
「分かりました、先に失礼します」
 松組の教室を出てちょっと歩いたところで「待って、待って」と背中に声がかかった。
 背の高い「滝口さん」は志摩子の隣に立って、狐みたいに目を細めた。

「滝口・・・さま?」
「うん。滝口満。満足の満。ああ、そうか」
 昇降口の靴箱から自分の革靴を取り出しながら、「滝口さん」は鞄を乱暴に肩に担ぎ上げた。
「名字で呼ばれるのって珍しいものね」
「はい」
「いや、ミツル、なんて名前の女の子そうそういるものじゃないでしょう?でも松組にはもう一人いるのよ、ミツルさんが。そっちのミツルさんは後ろに流れる、って漢字がつくんだけどね。だから区別しやすいように、私の方は滝口さん」
 靴のかかとに彼女が足を入れおえるまで、志摩子はちょっと逡巡した。
「じゃあ私は、満さまで」
「おお。私のことをそう呼ぶ女はアンタで二人目だっ!とかなんとか言っちゃったりして」
 満さまは、ピストルを撃つようなポーズで指先を志摩子に向け、にっこりした。ちょっと冷たいようにも見える細い目が、笑うとあたたかな印象になることに、志摩子は気づいた。
「祥子さまと、同じクラスでいらしたのですね」
「うん。三年から一緒になった。紅薔薇さまにはいつもいつもビシビシしごいてもらっています、あ、それは志摩子さんも同じかな?」
「そんなこと」
 昇降口の向こうに、いきなり明るい光が満ちてくる。日をさえぎっていた雲が流れたのだろう。
「先週会ってから志摩子さんのこと、けっこう勉強したんだよ」
 靴のつま先で床を一度とん、と蹴って、満さまは明るい目つきをした。
「もう妹がいるんだよね。一年の二条・・・乃梨子さんだっけ」
 志摩子が二年なんだからそれは妹は一年生だろう。そもそも乃梨子とのことについては春のマリア祭のときにも話題になったはずで、知らないでいた生徒がいることがむしろ、志摩子には意外だった。
「満さまは、妹はいらっしゃるのですか?」
「ああ、私?私は、これ」
 無造作にスカートのポケットに手を突っ込んだ満さまが取り出したのは、小ぶりなロザリオだった。
「卒業されたお姉さまが、いらっしゃるのですね」
「と、思うのが普通の想像。これが証明するのは、私が妹を持っていないことでもなく、私がクリスチャンである証でもなく、ただ私がロザリオを持っている、ということだけ。違う?」
 出したときと同じようにポケットに手を入れた満さまは、鼻先に指をあてて愉快そうに笑った。そのとき、志摩子は気づいた。
「満さま、タイが」
 思わず手が出て、肩の上で裏返っていた満さまのタイを志摩子は直した。「え、ああ」と呟いて見おろす満さまの目線を意識すると、じわじわ恥ずかしくなってくる。
「ありがとう、志摩子さん」
 志摩子の直したあたりに目を落としていた満さまが顔をあげ、両手で鞄を胸にかかえて「じゃあ、また」と軽く上体を傾けてみせた。
 志摩子は靴箱から一段高い廊下に戻る。
「私は、薔薇の館に寄りますので、ここで」
「あ、ごめんなさい、付き合わせたみたいで。ごきげんよう、白薔薇さま」
「ごきげんよう」
 志摩子が言い終わるのを待たず、長身の影は弾むように日差しの中に走り出ていく。
 


 薔薇の館に荷物を置いて、すぐにまた飛び出さなければならなくなる。今日中に届けておいて欲しい、と連絡したはずのいくつかの部にその知らせが行ってないことがわかって、直接プリントを持って回らなければならなくなったのだ。
 乃梨子に留守を頼んで、祐巳さん、由乃さんと手分けしてクラブハウスを回る。そういえば、最初にその連絡を引き受けた一年の可南子ちゃんが、先週の後半から薔薇の館に来ていないことに志摩子は思い当たった。祐巳さんに特別の感情があるように聞いていた彼女、何かあったのかもしれないけれど、祐巳さんの様子に変わったところは見られなかったし、込み入ったことにはなっていないのだろう。
 自分の分の部を回って、クラブハウスの暗い廊下を出ると、れんげの花びら色に染まった低い雲の下で、校舎にはまばらに明かりがついて、静まり返っている。
 薔薇の館への帰途をたどりかけ、ふと思い立って志摩子は、第二体育館へ向かう小道に足を向けた。ほどなくして見えた古い温室は、てっぺんにだけ日の光を、帽子のようにかぶっている。
 と、志摩子はそこで、校舎の方から現れ、自分より先に立って温室へ向かう人影を見た。細い背中は迷いのない早足で、どんどん温室に近づいていこうとする。
(あ)
 思い出して、志摩子は同時に走り出した。それでも、肩をつついて止めるには、間に合いそうもない。
「待って、瞳子ちゃん」
 幸い、志摩子の声が届いた瞬間に、瞳子ちゃんはピタリと急停止した。振り返った縦巻きの髪の間で、驚いたような表情が、志摩子を迎える。
「白薔薇さま」
 そのまま、瞳子ちゃんを追い抜いて、志摩子は足元の地面を確認する。
「どうなさったんですか」
「ほら、ここ。まだけっこうでこぼこしてるわ。危ないでしょう」
 志摩子が真美さんに助けられたぬかるみの跡は、週のあけた今日にもほとんど変わらない険阻ぶりで、温室へ向かう道をさえぎっている。
 志摩子の後ろから覗き込んだ瞳子ちゃんが、「ほんとだ」と呟いた。
「すみません、助かりました」
「いいのよ。私がここで転びかけたものだから。――温室に用事だったの、瞳子ちゃん」
「ロサ・キネンシスがもう咲いたかな、って。あ・・・」
 慌てたように口をつぐんだ瞳子ちゃんは、目線を志摩子から外してリリアンの塀の外に立つ街路樹の先っぽあたりを見ている。
「ロサ・キネンシス?ああ」
 そこで志摩子は、土曜の朝に温室で見た赤い花がそうだったのか、と思い至った。瞳子ちゃんはばつの悪そうな顔をしたままだ。
「よく知っていたわね、薔薇のこと」
「ロサ・キネンシスのことは以前祥子さまに、でも・・・」
「私の言ってるのは名前のことではないのよ」
 志摩子の言葉に、瞳子ちゃんは不思議そうに見上げてくる。志摩子は、瞳子ちゃんと向き合って立った。片頬を赤く照らされた彼女は、いつもより大人びて見えた。
「あの」
 胸の前に両手を当てて、そう言いかけた瞳子ちゃんの口は、閉じきらないまま固まってしまう。志摩子は、何ヶ月も前のマリア祭の日のことを思い出す。祥子さまたちと組んで、志摩子と乃梨子を見事に騙してくれた彼女、あのはじけたような活発さは、どこへ行ってしまったのだろう。
「ね、瞳子ちゃん。先週のことなんだけれど、乃梨子とあの温室へ行かなかった?」
 自分のどこから出た言葉なのか、そう口にした瞬間に、志摩子の中でいろいろつながる部分があるように思えた。「え?」と口を丸くした瞳子ちゃんが、小さく後ずさりを始めるのを、志摩子はゆっくりと追いかけてみる。
「別にあなたを責めたりするわけじゃないから」責める、というのも適切じゃなかったな、と思いながら志摩子は微笑んでみせた。「ただわからないこともあるの。ちょっとだけ、聞かせてくれないかしら」
 後ずさるのをやめた瞳子ちゃんは、子犬のように頷いた。

 薔薇の館に志摩子が戻ると、由乃さんは先に帰っていて、ほどなく祐巳さんが、迎えに行っていたらしい祥子さまと連れ立って現れた。剣道部の練習に出た令さま以外のメンバーで6時前まで雑用を進め、めいめい姉妹ごとに昇降口へ向かうころには、すでにとっぷり暮れた空のどこにも、夕焼けの光は残っていなかった。
 乃梨子と二人で、ガラガラに空いたバスの後ろで、体育祭のことや修学旅行のことを話しつつ、志摩子は窓外に過ぎる街の明かりの上に、温室の前で見た瞳子ちゃんの表情を思い出していた。
「乃梨子」
 M駅での別れしな、改札へ向かいかけて引き返してきた志摩子に、乃梨子は可愛く眉を寄せた。
「温室で、瞳子ちゃんに見せたもの、明日持ってきてちょうだい」
 それだけ告げて改札を抜けて振り向くと、耳元で志摩子がささやいたときの格好のまま、乃梨子は口をぽっかり開けて、行きかう人たちの中で立ちつくしていた。



  ***



 翌日の昼休み、昼食をそそくさと済ませ、志摩子は教室を出た。
 中庭を抜けて、お聖堂の前を通ると、かすかに歌声が聞こえてくる。確か今日は、月に何度かシスター達だけで集まって「お祈りの時間」を持つ日なのだ。
 古い温室の前には、すでに乃梨子に瞳子ちゃん、それから真美さん、望美さまに「お化け」の結子ちゃんまでそろっていた。
「真美さん」
 志摩子が連絡をしたのは乃梨子に瞳子ちゃん、それに望美さまだけだった。結子ちゃんは望美さまが連れてきたのだろうが、真美さんはどうやってかぎつけてきたのだろう。
「鼻はきくのよ、いろいろとね。まあ私としても、ちょっとだけ乗りかかった船だし」
 志摩子が何か聞くより早く、真美さんはVサインを出してみせた。
「志摩子さん」
 駆け寄ってきた乃梨子が、遠慮がちに志摩子の袖口にそっと触れた。
「お待たせ、乃梨子。じゃあ皆さん、温室に入りましょう」
 志摩子がそう言い、真美さんが扉を開けて、ぞろぞろと中に入る。6人で入ると、あらためて温室の狭さが実感できた。
 前を通りかかった生徒が、めずらしく賑わった温室に何事、と目を見開いて通り過ぎていく。
「結論として言えば、結子ちゃんの見た『お化け』はこの二人なんです。そうよね、乃梨子、瞳子ちゃん」
 志摩子に招かれて、温室の壁際に立った乃梨子と瞳子ちゃんが声をそろえて「そうです」と言う。
「え、でも――」
 望美さまの隣で、結子ちゃんが口をとがらせた。
「乃梨子」
 志摩子が促すと、乃梨子がうん、と頷いて手にした小さな巾着袋を探る。
「結子・・・さんだっけ?あなたの見たオブジェみたいなの、って、これでしょう?」
 袋から出して、乃梨子が温室の棚にならべ始めたものを見て、結子ちゃんは「あ」と両の手のひらを持ち上げた。
「そうそう、これです、これが並んでたのー!」
 結子ちゃんは声をあげ、まだそれが「お化け」であるかのように2、3歩後ろに下がった。
「これはね。瞳子に言われて持ってきたの。美術の授業でやる課題にさ、参考になるかもって」
「私がぜひ、って乃梨子さんにお願いしたんですわ」
 志摩子は、棚の上に三つ並んだ像のようなものの一つを取り上げた。じゃがいもくらいの大きさのそれはやや傾いて細長く、よく見ればその半球をえがいた先端に、顔のような凹凸が彫り込んであるのがわかる。色の深い表面に走る年輪のあとは白い波形で全体を覆い、指で触れるとわずかに盛り上がって感じられた。
「でも、どうしてこんなところで見せたのかしら?あの日は天気も悪かったのに」
 黙ってメモ帳にペンを走らせている真美さんの前に進んで、望美さまが言った。
「それは」
 志摩子は温室をぐるりと回って扉の近くに立った。ひょろりと伸びた水道の蛇口に手をかけてその足元を見る。
「たぶん、これのことよね?」
「ええ」
 望美さまと結子ちゃんの間を抜けてきた瞳子ちゃんが、志摩子の前にしゃがみ込んだ。「ふむ?」と唸って覗き込んだ望美さまの横から、例の三つの像を持ってやってきた乃梨子が、瞳子の前にそれをならべていく。
「それが?」
「瞳子が指差している、床に埋まった木の枠なんです、ええと」
「望美よ」
「望美さま。それは、鉄道の枕木なんですよ。そして、私の持ってきたその三つもやっぱり、もとは枕木なんですね」
 乃梨子が指差し、瞳子ちゃんが手を置いた木の枠は、三方から水道の管を取り巻くように並んでいる。
「瞳子ったら」身を起こした乃梨子は腕組みをした。「枕木、っていうものをなんだかわかってなくって。線路の下に置くものが木で出来てるなんてありえない、って言い張るものだから。私以前にここに来て、一目でこれが枕木だな、ってわかっていたから」
「なんですの、乃梨子さんたら。お父さまに聞いたら今はもうあんまり木は使われてない、って仰っていましたのよ」
「私の持ってきたこれも枕木だ、というのを飲み込めないものだから。実際に校内にもあるよ、って言ったら見せろって言うものだからさ」
 笑みを浮かべた乃梨子に、ぷうっと膨れてみせた瞳子ちゃんの隣にしゃがんで、志摩子は枕木の表面を撫でた。砂利に埋まりかけたその先あたりに、かつてボルトが刺さっていた跡らしい穴が見える。
「それで、ここから出ていたトゲで、怪我をしちゃったのよね、瞳子ちゃん」
「怪我?どこに?」
 志摩子の言葉に、一番後ろにいた真美さんが、伸び上がって声をあげる。
「たいしたことなかったのに。乃梨子さんたら慌てて、保健室に行こう、って、それで保科先生がいらっしゃらなかったから、薔薇の館まで私を連れ出して」
 瞳子ちゃんは片手を持ち上げて皆に見せた。中指のお腹のところにうっすらと色の変わった部分がある。
 たぶん薔薇の館に行ったとき、瞳子ちゃんは館の前か、1階で待っていたのだろう。志摩子はなんとなくそう思った。乃梨子に聞いたかぎりでは瞳子ちゃんは、近頃薔薇の館に手伝いに来ていた可南子ちゃんと仲がよくない、ということだったから。木曜の午後には可南子ちゃんは来ていなかったはずだけれど。
「ええっと・・・。よくわからないんですが」
 結子ちゃんが口に指をあてて瞳子ちゃんと乃梨子を交互に見た。「私がここに来たとき、お二人のどちらもいらっしゃいませんでしたけれど」
「だから、二人が薔薇の館に行っている間だったのね。結子ちゃんが来たのは」
「なるほど」
 志摩子の言葉を引き継ぐように、真美さんがペンを額にあてて進み出た。
「ちょうど入れ違いになったということね。じゃあ結子ちゃんが見た、『びっしょり濡れていた像』っていうのは・・・」
「私が怪我した指で触ったから、血がついてしまって。とりあえず水で流して、そこに置いておいたんですわ」
 立ち上がった瞳子ちゃんが、乃梨子の像が置いてあった棚の上を指差す。
「そうね。で、温室から飛び出した結子ちゃんと、たぶん乃梨子たちは入れ違いになったんでしょう。温室から離れて振り返った結子ちゃんの見た黒い影、というのはきっとこのあたりの場所に見えたはず」
 志摩子は水道の正面に立って、まっすぐ校舎の方へ伸びる小道の方を向いた。
「あ、そうかも・・・しれません」
 志摩子の後ろに立った結子ちゃんが、同じ方向を見て頷いた。
「うん。祥子さまに絆創膏をいただいて、瞳子の指に貼る前に、ここで傷口を洗っていたんだよね」
「それが、結子ちゃんの見た『怪人』なわけね――」
 大げさに頷いてみせた真美さんの隣で、望美さまがまた「ふうむ」と呟き、二人の間に立った結子ちゃんは、恥ずかしそうに頬を染めてうつむいたのだった。



「すみませんでした、白薔薇さま、乃梨子さん、瞳子さん。私、勘違いしてたんですね」
 三人にかわるがわる頭をさげて、返事も待たずに校舎の方へ戻っていく結子ちゃんを、苦笑しながら望美さまが追いかけていく。
「志摩子さん。ひょっとしたら今週末に出す『かわら版』に小さく載せるかもしれないから。結子ちゃんのコメントだけでもね。一年生の間ではけっこう噂になっちゃってるから、火消ししといた方がいいかもしれないし」
「そうね。お任せするわ、真美さん」
 真美さんはペンを左右に振って、メモ帳をぱたんと閉じた。
 温室の扉を閉めてきた瞳子ちゃんを待って、志摩子はゆっくりと校舎に向けて歩き出した。隣に並んだ乃梨子が、前を向いたまま「志摩子さん」と呼ぶ。
「瞳子の話で気がついたんだよね」
「なんとなくね」志摩子は黙ってついてくる瞳子ちゃんを振り返ってから、前方を指した。「そこにぬかるみの跡がある、って知らなかったのよね、瞳子ちゃん」
「ええ。そうですわね」
「そうか。だからたぶん、瞳子ちゃんが温室に来たのは雨の降った木曜より前か、その当日ということになるのね」
 ちょうどその場所にさしかかった真美さんが、ぬかるんだ跡を避けながら言った。
「それなのに、ロサ・キネンシスがつぼみで、咲きそうになっていることを知っていたから。どうかしら、瞳子ちゃん、今は咲いていた?ロサ・キネンシスは」
「み・・・見ていませんでしたわ」
 瞳子ちゃんは歯切れの悪い口調で、あらぬ方を見ている。
「そっかー。これを見てくれてたわけじゃないんだね」
 悪戯っぽく笑って、真美さんがポケットから出した四つ折の『かわら版』を開いてみせると、乃梨子と瞳子ちゃんは一斉に「あっ」と声をあげた。最新号のその表には、『シリーズ・薔薇の名前』と大書きされ、つぼみのロサ・キネンシスの隣に立った祐巳さんの写真。ちょっと硬い笑顔をした彼女の隣で、明るい日差しに包まれたロサ・キネンシスは心からくつろいでいるように見えた。
「今号の特集。これ知っていれば、言い訳にできたのにね」
「別に、隠そうとしていたわけじゃありませんわ」
 ちょっと顔を赤らめた瞳子ちゃんが、胸の前で手を握りしめる。
「うんうん。まあ別にやましいことをしていたわけじゃなし、志摩子さんに隠す理由がないものね」
 渡り廊下の影に入って、真美さんはあははと笑った。

 クラブハウスに寄るという真美さんと別れ、志摩子は瞳子ちゃん乃梨子と連れ立って中庭を戻るコースを歩いた。あと5分くらいで午後の授業の始まる予鈴が鳴るはずだ。
「真美さまにはああ言いましたけれど」
「うん」
 フリージアの花壇を見下ろして立ち止まった瞳子ちゃんの呟きに、乃梨子が頷いて、巾着の中の像のうち一番小さいものを取り出す。志摩子も立ち止まって、乃梨子の手から像を受け取った。
「これ。仏像なの?」
「ううん、そうじゃない。特に何を意識して彫ったものじゃないんだ、これ。でも」
 志摩子が日にかざすように持ち上げた彫像をまぶしそうに見上げて、乃梨子は目を細めた。
「思い出の品なんだ。仏師になりたい、とか学校で答えたのって、ちょうどこれを作ったあとくらいだったかも」
「そう」
 志摩子は、手の中の乾燥した木の感触を味わった。乃梨子の思い出の話には、まだ続きがあるのかもしれない。
「でも、誤解されそうなものを持ってきて。私、志摩子さんに申し訳なくって・・・。隠そうとは思ってなかったんだけど」
「ええ、わかっているわ」
 志摩子は明るい中庭を見渡した。昨日の昼休み、志摩子たちのところへやってきた瞳子ちゃんと乃梨子が話していたのはたぶんこのこと。瞳子ちゃんの怪我の治り具合の確認もしていたのだろう。
「マリア祭のときのこと。気にしてくれたのよね、二人とも。そうよね、瞳子ちゃん」
「・・・ええ」
 後ろ手に前かがみになった瞳子ちゃんが、志摩子に歩み寄った。
 マリア祭に集まった大勢の生徒の前で、志摩子が自分から、心の中の秘密をさらけ出すこと。それが、祥子さま達の考えた「作戦」だった。そのため、乃梨子に見せようと持ってきていた数珠を盗み出し、皆の前で志摩子達にそれをつきつけて追い詰める芝居をうったのが、瞳子ちゃん。
 あのとき志摩子自身後ろめたい思いで持ってきた数珠。それほどはっきりしたものでないにせよ、象徴的なものと捉えかねられない木の像を持ってきた乃梨子、持ってこさせた瞳子ちゃん。温室でのことが騒ぎになってるなんて知らなかった二人が、「なんとなく」志摩子に言い出せなかったのは、わかる。ことに瞳子ちゃんは、マリア祭でのことが、志摩子を傷つけた、と思っているのかもしれない。
(でも、ちゃんと考え直してみたことがないのよね。あのときのことは)
 カトリックの学校に通い、シスターに憧れる自分が、寺の娘であること――。それが志摩子の秘密だった。祥子さまが一笑に付したように、今になって思い返すと志摩子自身、どうしてあそこから一歩も進めなくなっていたのか、わからなくなるときがある。もっと根本的に、人との距離のとり方であるとか、どこまで人を信じていいのか、というあたりで悩んでいたような気もするのだ。
「でも私」
 瞳子ちゃんが言いかけたところで、中庭を取り巻く校舎のあちこちから、くぐもった音の予鈴が、重なりあって響いてくる。
「間違ったことをしたって思っているわけじゃないんです」
「ええ」
 瞳子ちゃんと乃梨子を先に校舎の方へ促して、その背中に志摩子はささやいた。
「私は感謝しているのよ」
 何が変わったということでもないのかもしれない。耳元で鳴り響いた大きな音に驚いて、私は、ずっと見続けていた足元の地面から顔を上げて、周りを見回すことができた。だから、この言葉に嘘はない。
 あらためて見た世界は輝いていて、そして――。
 志摩子の言葉が聞こえたのか、ぽん、と元気よく振り向いた瞳子ちゃんが、深々と頭を下げて、先に階段を昇って、踊り場の向こうへ消えた。
「それじゃあ、乃梨子、また放課後にね」
 瞳子ちゃんに続いて階段を昇って、二年生の教室のある廊下に出た志摩子は、乃梨子に向かって小さく手を上げた。乃梨子はといえば、そんな志摩子の顔をちらと見たきり、階段の方へも行かず、腰に手を当てて黙っている。
「どうしたの、乃梨子」
「それにしてもさ、志摩子さん」
「はい」
「瞳子から話を聞いていたなら、昨日帰り際に言ってくれたらよかったのに。いきなり『明日持ってきて』だけ言って行っちゃうもんだから、私、心臓がとまりそうになったよ」
 ちょっとふくれ気味の頬の上で、それでも乃梨子の瞳は微笑んでいる。握ったままだった木の像をそっとさしだして、手を出してきた乃梨子の指に、志摩子はそっと触れた。
「ちょっと、ヤキモチをやいていたのよね」
「え?」
「乃梨子と瞳子ちゃん、あんまり仲よさそうに見えたから、私」
「ばっ・・・」
 馬鹿だね志摩子さん、とでも言おうとしたのだろうか。巾着袋を丸めるように持って、「ごきげんよう、お姉さま」と声を上げた乃梨子は、後ろ足を軸に綺麗な回れ右をして、階段を駆け上がっていった。
 彼女の髪の端が、階段の上からさす金粉みたいな光の中に消えるのを見届けてから、志摩子は自分の教室へ向けて歩き出した。



  ***



 その週末。校内のあちこちに張り出された「リリアンかわら版」特別号には結子ちゃんの、温室の「お化け」についての記事はなかった。
 それでも志摩子の周囲は俄然慌しくなる。「お化け」などではない、はっきりと実体を備えたなにものかの意思が、リリアンに存在することを示す記事が掲載されていたからである。








<続く>


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