探偵白薔薇さま・第三話「中庭」









 黒いテーブルに薄紅色の光がさしている。味噌汁の椀に口をつけながら、志摩子は正座した足につたわる畳の冷たさを快く思う。テーブルの上ではしずかに使われる箸と茶碗の音がするばかり。基本的に、藤堂家の朝は静かだ。
「志摩子。玉子焼き食べるか」
 ――ぐいと突き出された平皿は、無骨な太い指に支えられ、玉子焼きが三切れ乗っている。
「いえ。さきほど一つ、いただきましたから」
「ん、そうか。なら、こっちの柳葉魚はどうだ。うまいぞ」
 どこか神妙な顔で、自分の前の皿を押し出してくる父を、隣の母がちらりと見る。
「あ、いえ。もうお腹一杯ですから」
「そうか」
 父はこういうとき、心底残念そうな声を出す。いけないことを言っているのだろうか、そう思いながらも、志摩子にはどうすべきかわからない。
「小さな口で、ぼそぼそ食べているものだから。どうもお前も母さんも、しっかり食べているのか気になってなあ」
 などと喋りながらも、父の皿のご飯は瞬く間になくなっていく。水玉模様のパジャマにナイトキャップといういでたちは、とても僧侶には見えないが、これでも家族の中では一番の早起きで、志摩子が起きる頃にはいつも、遠くから朝の読経を聞かせている。寺男さんに率先して、本殿の掃除をしていたりもする。たいていはこのパジャマ姿のままで。だから真面目なのかどうか今ひとつわからない。
「お父さま」
 母が席を外し、父が食後のお茶をすすり出したのを見計らい、志摩子は声をかけた。
「ん?どうした志摩子。そろそろ学校へ行く時間じゃないか?」
 それでも、父は聖職者なのだ。志摩子は、ずっと言い出しかねていたことを聞いてみる気になる。中庭の木々を照らす朝日を背に受けて、ゆったり目を細めた父の姿は、神々しくさえあった。 
「人はどうして、罪を犯すのでしょうか」
 その父の、柔和な影の輪郭が、志摩子の言葉を聞いたとたん、ぎくりと静止した……ように見えた。
「罪。罪か……ふむ。それは、どうしても今聞かなければいけないことなのか?」
「できましたら」
「そうか。……これは、手厳しいな、朝から。ははははは……」
 ふすまを開け放った母屋に、屋根を飛び越えていく鳥の声がこだまして。
 志摩子は、自分がまた何か間違ったのかもしれないと思ったのだった。
 


 臨時に発行された「リリアンかわら版」に温室の、ただし志摩子たちの「怪談」さわぎではない記事が載った週明けの朝のホームルーム、それぞれのクラスでは簡単な事件のあらましと、漠然とした注意が生徒に伝えられる。どの程度の深刻さでとらえていたのか、とりあえずほとんどの教師たちはそれほど熱を入れて話題にしなかったから、生徒の大半もまた、ことさら重大なことと受け取りはしなかったのだった。
 ごく一部を除いては。

 火曜日の朝、乃梨子が彼女を追いかけたのは、その横顔に浮かんだ表情を見逃せなかったからだ。それまで二人で、会議室の掃除をこなしながらにこにこ、間近になった体育祭がどうのと、そんな話題を振ってきていたのに、ビスケット扉を先に立って抜ける瞬間、乃梨子から見えないと思ったのか、廊下の奥へ向けた彼女の顔つきははじめて見るようなものだった。
 その人が、そんな感情を持っているなんてことにはじめて気がつかされたようで、乃梨子はほうっておけなくなる。
 彼女が教室へ向かわず旧温室へ入っていくのを目で追いながら、乃梨子の頭の中には二通りの選択があった。
「失礼します」
 声をかけて入ると、円形の温室の真ん中にしゃがんでいたその人が、はじかれたように立ち上がった。
「乃梨子ちゃん……」
 しばたいた瞼の端に、小さく光るものを見て、乃梨子はあわてた。予想していなかったわけじゃなかったというのに。
「祐巳さま。ごめんなさい、後をつけてしまいました。なんとなく、気になって。元気がないような気がして」
 頭をさげると、しばし目を丸くして乃梨子を見ていた祐巳さまは、ううん、と首を振ってはにかむように笑った。
「気をつけていたんだけど、やっぱ顔に出ちゃったか」
 その笑顔はやわらかくて、自分が山百合会を居心地よく感じているのはこの人のおかげでもあるんだな、なんて乃梨子は無関係なことを思い浮かべたのだった。
「あの。まさか、可南子さんと何か?」
 乃梨子は考えていた二通りのうち、片方の道を選択してみる。祐巳さまはゆっくり首を振る。ちょっと前に祐巳さまは、乃梨子のクラスの細川可南子さんと何かあったらしい、というのはうすうす気づいていたことだった。
「可南子ちゃんのことはね、私はもう大丈夫だから」
「じゃあ、やっぱり」
「うん」
 祐巳さまは静かにしゃがみこむ。その前に、乃梨子の予感したもう一方の可能性があった。花壇の一部の土が、水を撒いたように黒く盛り上がっている。
「ここが?」
「うん。そうみたい。ここに植えられていたのが、なんて名前の花だったのか、それはわからないけれど……」
 可哀想にね。黒い土に手を置いて祐巳さまはぽつりと言った。
「それでね、これが」
 祐巳さまが膝をずらすと、その向こうに小ぢんまりと、しゃがんだ目の高さくらいの茂みがあって、つつましい赤い花がいくつかついている。
「これが、ロサ・キネンシス」
 あ、と乃梨子は思わず声をあげた。事件について、新聞部の山口真美さまが薔薇の館で説明をしたとき、みるみる青くなった祐巳さまの顔色のわけが、くっきり理解できたのだ。そういえば、この前の「リリアンかわら版」にも、温室のロサ・キネンシスのことについて、記事が出ていたんだっけ……。
 それきり、二人とも何も言わずにしゃがんだままだったけれど、その沈黙を乃梨子は、何か大切なものを共有できたようなかすかな喜びと、小さな切なさのあらわれのように受け取ったのだった。
 しばらくして、先に戻ろうとする乃梨子に、祐巳さまは「もう少しここにいるから」と、いくぶん強い目の光で微笑みかけた。乃梨子だけでなく薔薇の館の面々に、心配しないで、そう言っているように思えた。
 昼休みに会った志摩子さんに、乃梨子はちょっと迷いながらその話をする。志摩子さんは「そう……」と目を曇らせ、しばらく空を見ていた。まるでその朝、祐巳さまが抱いたのかもしれない気持ちを、何処か遠くから引き寄せようとするかのように。



 ロサ・キネンシス。リリアンではもっぱら、特定の一人の生徒を指すその言葉を、今はじめて聞いたかのように、乃梨子は志摩子の目を見ながら、ゆっくり二度もくりかえしたのだった。
 古い温室のこと、乃梨子にきちんと話したことはなかったかもしれない。かく言う志摩子も詳しいことはわからない。そこにロサ・キネンシスが植えられているということと、祐巳さんと、それからおそらく祥子さまにとって、あの場所が特別なものなのだろうということを。
(祐巳さん)
 二年になってクラスが別れてしまった。教室の黒板の向こう、先生の立つ後ろの壁を透視するような気持ちで、志摩子はその先に居るはずの彼女の横顔を思う。
 先週の終わり、たぶん金曜の午後から放課後にかけて、なにものかの手によって、旧温室に植えられていた花、それも薔薇らしい――が根元から抜かれて、そのまま放置されていた。加えて、近くのガラス窓に、たぶん授業で使う絵の具と思われる赤の塗料が、べったりと塗られていたらしい。らしい、というのは真美さんもその様子を見たわけではないから。最初に発見したどこかの生徒と、一部の先生方が様子を見た直後、土曜日の朝には、花壇は丁寧にならされ、絵の具は落とされていたというのだ。
「すごい早業。金曜の夜に部員からその話を聞いて、朝一番に行ったんだけど、もう跡形もなかったんだもの。かわら版の内容を差し替えるため確認をとるまで、ちょっと信じられなかったくらい。まあ、不自然に空いたスペースがあったからね、ロサ・キネンシスの隣に……」
 土曜の放課後、薔薇の館へやってきた真美さんは、志摩子たち二年生トリオの前でひとしきりまくしたてたあと、そのときも温室へと飛び出していった祐巳さんを気遣うように、声をかがめたのだった。
 心ないふるまいをした人物同様、温室をすぐに元の状態に戻したのも、誰だかわからないらしい。
「『温室の妖精』がやった、っていう話ではあるけれど」
 乃梨子とお昼を過ごして教室に戻る途中、ミルクホールから歩いてきた由乃さんと祐巳さんと連れ立っていると、いつの間にか加わっていた真美さんが、声をひそめて言った。
「妖精?」
 首をかしげたのは由乃さんだった。
「古い方の温室って決まった管理者が居ないらしいのよ。それを、誰とも知られないままずっと目を配っている存在がいるんだっていう話よ」
「我、影となりてすべてを護らん、みたいな?格好いい!」
 由乃さんが時代劇みたいな口調をしてから、くふくふ笑う。
「ねえ、志摩子さんは知ってるんじゃないの、その『妖精』の正体。環境整備委員会だし」
 真美さんが目をらんらんとさせる。
「え?知らないわ。その話自体、初耳だし」
「案外、志摩子さん自身だったりしない?」
 おかしな形に指を組んで、由乃さんが言う。何のつもりなのか、志摩子はしばらくわからなかった。
「ああ、忍者だったのね。どろどろどろ〜って、あれ?」
 しばらく、別の話をしながら教室の前まで来たところで気がついた志摩子に、一瞬まじまじと見入った由乃さんが、あははと笑って祐巳さんの手をひいていく。
 つられたように、由乃さんの肩越しに志摩子を見た祐巳さんが、くすりと笑った。



 それでも祐巳さんは、ちょっと時間があるとどこかへ行ってしまう。薔薇の館でも手すきが出来れば、すぐに姿が見えなくなる。確かめたわけではないけれど、温室の様子を見に行っているのだろう。
 誰がどうして、こんなことをしたのだろうか。志摩子にとっては、不可解な気持ちが強かった。その目的とするところは、わからない。けれど、どんなことだったにしても、祐巳さんが傷つかなければならない理由には、ならないはずなのだ。
 人はなぜ、罪を犯すのでしょうか。
 週の半ばの昼休み、講堂の近くで居合わせた一人のシスターに、父と同じく唐突なかたちで投げかけた問いに、志摩子と大して変わらない歳にみえる彼女は、快活に笑った。
「そうね。でも、人が罪を犯す存在だからこそ、私たちはここに居るのかもしれない」
 それは、父の答えたことと大体似通っていて、志摩子は少し驚く。
「白薔薇さま。あなたは、自分だけ罪を為さないでいられるかしら?」
「いいえ、とんでもありません」
「そうよね。そうなのよ。もちろん、許されない罪はあるわ……。想像してごらんなさい、人の罪というものを、もっと詳しくね。でも、あまり近づきすぎちゃ、駄目よ」
 小柄なシスターの後姿を見送りながら、志摩子は彼女のフランクな口調を新鮮に思う。すべてではないが、シスターの何人かは、生徒に対してももっと慇懃な話し方をする。
 彼女のちょっと高い声は、乃梨子と二人、薔薇の館で昼食をとっている間も、志摩子の頭上をくるくる輪をかいて立ち去ろうとしなかった。志摩子の気持ちを知ってか知らずか、あまり話しかけてこようともせずに箸を動かす妹の横顔に、志摩子は思う。たとえば罪という言葉にしたって、乃梨子と私、まったく同じものとしているのだろうか。
 そろそろ予鈴が鳴るからと館を出て、校舎へ戻ろうとすると、「やあ」と背中から声がかかる。薔薇の館の、昼過ぎて唯一日の光が当たった壁に寄り掛かっていた影が手を上げていた。
「満さま」
 背の高い彼女の髪のてっぺんにはきらきら光が散って、麦畑みたい、そんなことを思う志摩子に、満さまは目を細めて近づいてくる。
「ごきげんよう白薔薇さま。……うーんと」
「妹の乃梨子です」
 乃梨子が小さく頭を下げると、満さまは大げさに頷いて、細い目はさらに薄く、笑っているのか困っているのかわからない、ユーモラスな顔つきになる。
「そうだよね。志摩子さんの妹だよね。私って本当に疎いですわ」
「こちら、滝口満さま。祥子さまと同じクラスなのよ」
 乃梨子はもう一度、頭を下げた。そうしながら、まじまじと満さまの顔を見ている。どうしたのかと志摩子が思っていると、予鈴が鳴った。
「満さま。祥子さまに用事でも?今日はいらしていませんが」
「あーうん。違う違う、日向ぼっこしてただけです。もう午後の授業かあ。面倒くさいな」
 渡り廊下の屋根の下で、満さまは制服の背中を軽く払った。
「月を眺めてお酒を飲んで、そういうことばっかりの人生を送りたいのよね、私は」
「李白ですか」
 乃梨子が振り返って言う。
「そうそう。杜甫よりは李白ですよ。それで、月を見とれて池に落ちて、それで終わっちゃうわけ」
「でも、その逸話って俗説で、本当は違うってことじゃありませんでした?」
「うん。乃梨子ちゃんの言うとおりだったかも。そして私は、俗なものが好きなのよ」
  独特な目つきを満さまに投げてから、乃梨子は志摩子に手を振って一年の教室へと戻っていく。それはかつて、薔薇の館へ来たばかりの頃、祥子さまや令さまに向けていた眼差しに似ていた。
「ところで、白薔薇さま」
 階段を登りかけた志摩子に、満さまがぽつりと声をかける。
「さっき、シスターと何を話していたの?」
 その口調は淡々として、それまでの声とかわりなく、けれど志摩子はかすかに緊張する。それはそうだろう、シスターと言葉を交わしたのは薔薇の館へ行く前だったのだから。
 満さまはそのあと、志摩子の後をつけて薔薇の館へやってきたのだろうか。
 志摩子が黙っていると、満さまはあわてたように手を振った。
「ごめんなさい、なんだかストーカーみたいだよね、こんな聞き方したら」
「いえ」
「そうじゃないんだ、そうじゃ……。ちょっと見かけただけなの。志摩子さんとシスター、なんだかとっても綺麗な組み合わせに見えてね。それで、いったいどんなことを話していたのかなって」
 綺麗な組み合わせ。そのイメージに親近感を持てず、志摩子がさらに黙っていると、「ごめんね、変なこと聞いて」と手をあげて、満さまは先に立って階段を駆け上がっていってしまう。
 
 

   ***



「気は進まないけれど」
 そう言いながら、真美さんは朝、マリア像のところで志摩子が持ち出した頼みをきいてくれた。
 午後の授業が終わるまで、いったいどこでどうやって時間をつくったのか、放課後に真美さんが持ってきたリリアンかわら版のゲラは、もうびっしりと記事で埋め尽くされていた。その中に踊る「妖精」の二文字。
 志摩子が持ちかけたのは、温室事件の続報を載せることで、「温室の妖精」の存在をアピールするような記事にならないか、ということだった。
「これで、少しでも温室へと人の目は向くかもしれないけれど。でも、いたずらをした人間が何を考えているのかわからない以上、逆効果かもしれないよ?」
「ええ。わかっているわ」
 それでも、二日続けて昼休みに薔薇の館へ現れなかった祐巳さんのことを思い、志摩子は何かしないではいられなかったのだ。「妖精」のような存在が居ることを大きく知らせることで、結果的に温室でこれ以上何かが起こるのを防げるのではないかと思ったのだ。
(『妖精』さんにとっては、きっと迷惑でしかないのだろうけれど)
「それからね。基本的には、新聞部は誰かの頼みを聞いて記事を作ったりしないの。今回は特別、こちらで考えていた記事と、志摩子さんの頼みの内容が近かったからよ。そこのところ、承知しておいてね」
 真美さんが胸を張って告げたのは、部長としてのけじめだったのだろう。りりしいその声とちょっと怒ったような顔を、志摩子は美しいと思う。
「ありがとう」
「いいの。――ちょっとね、新聞部としても申し訳なかったかな、って思っていたところだから」
 最後は照れたように笑って、真美さんは志摩子の教室から出ていく。彼女が言うのは、ひとつ前のかわら版の記事についてだろう。ロサ・キネンシスについての記事だったから、多少なりともそれが今回のことに関係しているのかもと、気にしているのだ。
「ふう」
 誰もいない教室を見渡すと、大きなため息が出て、志摩子は首を振った。いけない。ため息はそれだけで人を傷つけると教えてくれたのは、父だったろうか。
 志摩子は鞄を持って、昇降口には向かわず、非常階段のある廊下の行き止まりまで歩く。その窓からは、遠目に古い温室が見下ろせる。
 薄暮の下で、温室に動くものはなかった。祐巳さんらしい姿もない。たっぷり数分もそうしてから、薄暗い廊下を、志摩子は引き返した。






<続く>



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