(3)



 昼の空の反転フィルムのように、雲とその切れ間の明るさがひっくり返りつつある。カメラのレンズにキャップをして、遊歩道を抜けた押しボタン式信号の下で通りの向こうを見やっている可南子ちゃんに、私は声をかけた。
「さて帰ろうか可南子ちゃん。さすがにもう無理だわ」
「あれ、なんでしょう、蔦子さま」
 まっすぐさした自分の指先に引っ張られるように、可南子ちゃんはするする歩き出した。
「え、なに?」
 かつかつと硬質な足音で進む可南子ちゃんの背中に二分された光が、ゆるく下った道の行き止まりにこぼれている。可南子ちゃんに牽引されるように近づいていくと、スピーカーの雑音まじりの笛の音と、これは生々しい人の声の集まりが、足元を低く流れてくる。私には、それが地面そのものから湧き上がってくるように感じられた。
「お祭りだ」
 追いついた可南子ちゃんの背中がつぶやく。
 薄暮に慣れた目に、赤や金色の光がとげとげしい。枝の落ちた木々と街灯の鉄柱とに張られた紐に、葡萄の房のようにこんもりとくくりつけられた提灯の明かりだ。どこか煙って見える空気のせいか、ゆるやかに吹き始めた風のせいか、微妙に明度を変えながら、光の列は私の正面からゆるいカーブを描いて左右に消えていく。
 そこは、普段は小洒落た、家壁の綺麗な屋敷のならぶ中を通る幅の広い歩道といったところなのだろう。真ん中に一列に並んだ花壇をはさんで、原色に塗りたくった板を組んだ出店が並んでいる。幅を利かせた店先と花壇に挟まれた間を、意外なほどたくさんの人がゆっくりゆっくり流れる。夜店の屋根についた強烈な明かりに照らされた人なみは肩口から下をすっぽり濃い灰色に覆われて、地面に落ちた彼ら自身の影に溶け込んでいる。
「お祭りですね」
 無意識にまたカメラを取り出していた私の隣で、可南子ちゃんがもう一度言った。
 横道にまではみだした人の列に引き込まれるように、私と可南子ちゃんも提灯の下を歩き出す。いざ列に加わってみると思っていたより窮屈ではなかった。
 ひそやかに交わされる、通り客たちの声はどこか遠く、両端の夜店の店員の声ばかりが斜めに飛び交っていく。焼きソバ、綿菓子、おでんにおもちゃ・・・ところどころまだ設営中の店もある。お祭りはまだ始まったばかりらしい。
「珍しいね」
 何の気なしに感想を口にしてから、私は感じていた違和感について思い至る。
「そういえば、そうですね」
「うん。冬のこの時期にお祭りなんてね、あまり見ない気がする。秋のお祭りって昔の収穫祭の名残りだったりすることが多いから、もっと早い時期が多いよね、9月とか10月とか」
 なにかの本で読んだうろ覚えを並べると、焼物の煙でも吸ったのか、咳き込みながら可南子ちゃんは何度も頷いた。
 おそろいのダウンジャケットで上半身をふくらませた小さな兄弟が、黒茶けた土がむきだしの花壇を踏み越えてジグザグに走っていく。12月だけあって、浴衣や法被姿の人はほとんどいない。最初に聞こえた笛の音もやんで、カメラを持つ手元に頭を垂れて歩いていると、貝殻を耳にあてたときのようなくぐもった響きが、もわもわとたちこめてくる。
 可南子ちゃんは絶えずきょろきょろ首を左右に動かしている。
「可南子ちゃん、お祭りが珍しい?」
「小さい頃にはけっこう来てましたけれど。いつもお父さんの肩車で」
 とうもろこしを焼いている屋台の、コンロから派手に立ちのぼった炎を瞳に映した可南子ちゃんを、素早く私はカメラのフレームに捉えた。
「それはずいぶんと高い肩車だったの、では」
 何か言わないとと焦って口走り、あわてて制服の方に口を埋める。可南子ちゃんのお父さんの背格好については聞いていた。 
「本当に失礼な人ですね」
 可南子ちゃんは、俯いてくつくつ笑った。
「うん。ごめん」
「小学校に上がるまでは、私すごく小さかったんですから。一、二年生のころまでは並び順でも小さい方から数えたほうが早かったし、たぶん」
 小さな円形の広場のようなところにさしかかる。真ん中に小さな噴水があって、一方に紅白の布を巻いた丸木で組んだ枠が立ち、隙間にびっしりと、白い提灯が詰め込まれて灯っている。提灯のすべての表には人やお店の名前が太い墨文字で書かれている。たぶん、お祭りの出資者たちなのだろう。
 白提灯の前には、そろいの赤茶色の法被を肩にひっかけた大人たちが集まっている。敷かれたシートの端に立って通りがかる人たちに挨拶しているおばさん、奥にどっかり座ってお酒らしいコップを傾けているお爺さん。みなまちまちに、騒がしく動き回っている。噴水寄りに集まった若い男性中心のグループは、法被の下に裸の手足がむき出しにして、声高く笑い合っている。するといきなり、彼らの数人が、低い声で唸り始める。
 ウー。ウー。
「なに?」
 いつの間にか私の後ろに立った可南子ちゃんが、制服の背中をつまんでくる。
 ウー。ウー。
 男の人たちは次々と、輪唱のように声を重ねていく。特別、踊りのような動きもなく、思い思いの姿勢で懐手なんてしながら声を出しているだけだ。通りがかる人たちが、彼らを遠巻きにして立ち止まりはじめる。
 カン、と拍子木が甲高く鳴って、広場にうず高くそびえていた唸り声が唐突に止む。照れたようにあたりに目をやった男の人たちが、ぞろぞろと白提灯のある方、飲み物や食べ物を置いてあるらしい台のあたりに散っていく。
「何だろうね、練習みたいなものだったのかな」
「気味わるかったですね」
 可南子ちゃんは、嫌々と首を振った。その指がまだ、制服をつまんでいる感触があって、私は彼女から見えないように笑いをこぼした。
「でもお祭りなんて、けっこう変なものが多いのよ。よくは知らないけど、大の大人が鬼ごっこするようなのがあったりするらしいし」
「鬼ごっこ?」
 やっと気がついたのか、可南子ちゃんの指が離れる。煙草をふかした、可南子ちゃんよりも背の高い二人連れの男性を先に行かせて、私は広場から出て行く人の流れに乗る。
「うん。図書館にあった本に載ってた。『神さま』の乗り移った人、っていうのが鬼の役になってそこらへんの人を追い掛け回すんだって」
「神さま・・・」
「憑依っていうのかなあ。とにかく、不思議な精神状態になったその人が追いかけてくるから、周りの人は全力で逃げる、もし逃げ切れずに捕まってしまったら――」
「どうなるんですか?」
 私は、もうけっこう遠ざかった広場にぐるりと首をむけた。
「さっきのおじさん達の本番、見てみたかったね。何するんだろうね、あんな声出して」
「嫌ですよ。興味ありません」
 可南子ちゃんは宿題のプリントのように味気ない顔色をしている。
「嘘嘘。いい加減長居はできないものね。可南子ちゃんそろそろ帰らないといけないでしょ」
「そうですね・・・」
 終点が見えてきた。小ぶりな鳥居の立つ両脇に、裸の竹を何十本もまとめた太い筒が立ち、それぞれの手前に小さな松明が灯されている。鳥居の向こうはいきなり暗くなって、覆いかぶさるように枝を広げた下に突き出した屋根の庇に、松明の朱い色がほのかに映り込んでいる。
「さっきの話だけど」
 急ににぎやかさを増したあたりの人のざわめきに負けないよう声を張り上げた私に、可南子ちゃんが首を傾けてくる。
「『神さま』になった人から逃げ切れれば、その一年病気にならないとか、そういうことだった気がする。逆に言うと捕まってしまうということは・・・わかるよね」
「死んじゃったり?」
「そこまではどうかなあ。でも、その後何かあったら捕まったことに結び付けて考えちゃうよね、やっぱり」
 松明の熱気に押されて見上げた空は鳥居の白いお腹に断ち切られている。



 神社、と呼んでいいものなのか、鳥居をくぐった先には人一人も入れるかわからない小さなお堂のようなものがあるばかりだった。ほとんどの人は鳥居の手前でUターンしていくようで、でこぼこした飛び石をお堂と直線で行き来するまばらな人影のほか、雑木の生い茂った暗い境内は静まり返っている。
 可南子ちゃんと歩いてきた参道は、お堂の影の向こうで宝石箱のように輝いていた。
 お堂の背側の境内は空に向けて開けている。丸木を組んだ細い道がまばらな林の間に垂れ下がるゆるい斜面になっていて、浅い川底のようなカーブに沿って、夜の町並みが、反対側の岸辺に向かって目の高さまでせりあがっている。
 斜面の際に立つと、向かいの丘からまっすぐそびえる紅白のアンテナのてっぺんに、赤いライトが点滅している。地上の光を反射した雲は赤黒く、夕方よりも低くなっている気がした。
「そうか。さっき聞こえた花火、このお祭りの合図だったんだね、きっと」
 近所で祭りや学校の運動会があるとき、私の家の傍でも花火が鳴らされることがある。正確にはそれが花火なのか、単に音を立てる何かなのかはわからないが。それを思い出したのだが、横にいる可南子ちゃんは馴染みのないことなのか、黙っている。
「星、見えませんね」
 別の返事が帰ってきた。
「そうだね。・・・何時?」
「6時過ぎました」
「もう真っ暗だね。やっぱり、日の沈むのが早いなあ」
 私の中に、一つのイメージが生まれる。夜道をせかせかと、急ぎ足で帰っていく可南子ちゃん。それはひょっとして、祐巳さんの後をつけていた頃の彼女の姿なのかもしれない。あの頃、バスケットを始めていなかった可南子ちゃんは、けっこうな時間を放課後、そのために費やして、それからお母さんに不審がられないよう、急いで家路についていたのだろうか。
「可南子ちゃんさ」
 首にかけたカメラのバンドを指にからめて、私は聞いてみることにする。
「はい」
「祐巳さんをこっそりつけていたとき、楽しかった?」
「いいえ」
 答えは即座に戻ってきた。どちらかの革靴に踏まれた砂利交じりの土が、みしりと音を立てる。
「あのさ」
「はい」
「そのときって。見つかりたくないって思ってた?それとも、気づいて欲しいって?」
 今度真っ先に返ってきたのは、沈黙だった。祐巳さんを追いかけながら、彼女の見ていたものはなんだったのだろう、祐巳さんの髪、制服の陰影、揺れるカラー。祐巳さんは被写体として面白い人だけれど、たとえばそれらを写真に撮るだけでは、私ならきっと満足できないだろう。
「あの」
 可南子ちゃんが口を開きかけたときだった。
 どうん!
 背中のすぐ後ろで、大きな水風船が破裂したかと思った。強烈に膨張した圧力に押されて、私はあやうく一段下の斜面に足をすべらせかけた。
 それが太鼓の音だ、と気づいたのは、振り返ってお堂の柱にさえぎられて、ばちを振り上げる人の腕が見えたときだった。
 つい今しがたまで人気の無かった境内に、次々と人が走り込んでくる。通りの明かりを受けて、彼らはみな影絵のように地面から生えている。
 刷毛で掻き出したように、私の傍で空気が動いた。
「蔦子さまっ」
 耳の後ろにひっかかった可南子ちゃんの声は、怒っているようにも聞こえた。
 暗がりにも黄色く色づいた葉が低くかぶさった下を、影法師の一人がお堂を回りこんで走ってくる。足元が草履なのかバタバタと耳障りな音をたてて、くるりとこちらに背を向けて急停止したのは、さっき見たそろいの法被を着た男の人だ。鳥居の傍に集まった黒い影、どうやら人だかりからこちらに向け、かぼそい声が投げかけられる。と、いきなりその男の人が、しわがれた大声で笑い出した。太鼓の音に負けないくらいの大音声だ。
 背中で足音が聞こえた。
「可南子・・・ちゃん!?」
 私が振り返ったとき、可南子ちゃんはすでに見下ろした先、二段下の小道を駆け下っていた。
「待って」
 カメラを胸元にひきつけて、私も斜面に飛び降りる。
 どうやら丸木に似せているらしいコンクリートの円柱で組まれた下り道は、ごつごつと革靴の底を跳ね返して走りにくい。転ばないよう、足元ばかり見て、ジグザグに切りかえしながら何段か下ると、明かりの弱い街灯が一本だけ立つ下で、道が分かれている。覗き込んだどちらの暗がりにも可南子ちゃんの姿はない。
「可南子ちゃん」
 白い蛍光灯を見上げて中途半端な声を出してみても返事はなかった。ままよと一方の道に駆け込む。落ち葉が厚く積もった階段をがくがくする膝をこらえて下りていると、ずっと上の方で、二度目の太鼓が鳴った。
「あ」
 顔をあげた隙に足を踏み外して、つんのめりかかったかかとで蹴って、数段下の階段のたもとに着地する。足首の上までもぐりこむ落ち葉の層に手指で触りながらなんとか踏みとどまり、鞄を杖にして身を起こす。
 暗かった。月のない真夜中でもこんなに暗くならないだろうと思った。目をこらすと、まばらに植わった成長の悪い木々の向こうに、道をはさんで停められた車と、王冠のようなシルエットのマンションに、細々と黄色い明かりが灯っているのが見える。
 乾いた落ち葉をつま先で跳ね上げるようにして、少し進んだ。右手に覆いかぶさるようになった背の高い竹林のおかげで、駆け下りてきた斜面の眺めはさえぎられている。一応公園ということになっているのか、黄色い金属の手すりの内側に半分埋め込まれたタイヤが黒く並んでいる。
 花の終わりかけた秋桜が揺れている。耳の傍で丸めた紙を広げるような音が、後ろから聞こえた。
「蔦子さま」
 私が降りてきた階段の、一列の最上段に可南子ちゃんの姿が見えた。
「可南子ちゃん、こっち」
 聞こえたかどうかはわからないが、可南子ちゃんは一段飛ばしに階段を下りてくる。あたりを塗りつぶした夜の色彩の中で、白いカラーだけがひらひら踊っている。せり出した木の根に気をつけながら手を上げて近づいていくと、まだらになった木陰を抜けた一瞬に、霧のような夜明かりが可南子ちゃんの上に落ちた。
 ほとんど反射的にカメラを持ち上げた私は、当たりもつけずにシャッターを切っていた。
「蔦子さま」
 階段を降りた可南子ちゃんが、ふかふかの落ち葉に足をとられながらまっすぐ私のところまで走って、そのまましがみついてきた。押されて、私は尻餅をつく。
「可南子ちゃん」
「御免なさい、私びっくりして。夢中で走ったらいつの間にか蔦子さまがいなくて、それで」
「うん」
 痛いほど私の肩をつかんでいる可南子ちゃんの体重をこらえて、後ろに倒れこまないよう腹筋に力をいれる。カメラから離した手でそっと触れると、可南子ちゃんのお腹の横は細かく震えていた。目を閉じる。ひっきりなしに私に触れて離れる制服の感触、荒く上下する息、指に伝わるぬくもりの向こうに、今しがた目とフィルムに刻んだ可南子ちゃんの顔が浮かんできた。
 たぶん、としか言いようも無いけれど、これがきっと、可南子ちゃんの望んだ一枚のはずなのだ。
 耳もとの息遣いはなかなか鎮まらない。
「もう大丈夫だから」
 可南子ちゃん、あなたはずっと、怖かったんだね。



   ***



 H駅のホームは白い明かりが煌々として、人の姿は少ない。
「撮れたよ。ご希望の一枚」
 上りの電車を待ってベンチに座った可南子ちゃんの目尻はまだちょっと赤かった。
「といっても、たぶん何にも写ってないけどね。あの暗さだったから。だから信じるかどうかは可南子ちゃん次第だけど」
 大きな背中を丸めて、私の差し出した缶コーヒーを受け取った可南子ちゃんは無言のまま口をつけ、それからスカートのポケットに手を入れた。
「なに?それはオゴリだから、代金なんて――」
 可南子ちゃんのサイフから突き出した四角い端っこを見て、私は言葉を切った。
「まさか、それ」
 黙ったまま、差し出されたそれはやはり、一枚の写真だった。写っているものは予想どおり・・・。
「・・・じゃない。これ、私の撮った写真じゃない。なに、これ、鏡じゃないの」
「ご名答です。さすがですね」
 身を起こした可南子ちゃんは、にっこり笑った。
 ご丁寧にセロテープの跡まで残ったそれは、推理するまでもなく「あの写真」だった。やや頭のてっぺんが切れたアングルで写った祐巳さんの、ほんのすぐ隣に小さく可南子ちゃんが写っている。
「それ、私の撮った写真なんです」
「・・・みたいね」
 写真の中の可南子ちゃんは、使い捨てカメラを握っていた。
「祐巳さまのあとを歩いていたら、いきなり自分の姿が見えて。びっくりしたんですよね」
 どうやらM駅前のアーケードで撮ったらしい。祐巳さんの前にあるのは正確には鏡ではなく、ショーウィンドーの半分を占めるピカピカの金属板だった。可南子ちゃんが意図したのか偶然なのか、上手い具合に天井や向かいの店が自然にそこにあるように映り込んでいて、一見しただけでは確かに、それが壁だとはわからないかもしれない。
「にしても、祐巳さんならともかく乃梨子ちゃんが引っかかるなんてなあ」
 仕返しの相手をさらし上げるように、駅のまぶしい白い蛍光灯に、私は写真をかざしてみせた。
「ひどい顔してるでしょう」
 私の腕に顔を寄せた可南子ちゃんが写真を見上げる。
「なんで撮ったのよ」
「あんまりひどいから。私、こんな顔してるのか、って」
 鏡の中の可南子ちゃんは、その世界のたった一人の住人のように、そのことに気がつかされたことを憎むように、つやのない皮膚の上から深海のような瞳で、祐巳さんを追っていた。さっき私をめがけてきたときの表情と、それは似ているようで、まばたきすれば似ていないようにも思える。むしろゆるやかに落ち着いていく感情をおぼえて、私は写真をさしだした。可南子ちゃんは再び財布にそれを仕舞いこんだ。
「『写真部アルバム』に貼られた私の写真。たぶん体育祭のときだと思うんですけど、笑ってるんですよ。私、全然そんな覚えなくって。昨日の夕方に見て驚いて」
「うん。でも、写真だからね」
「なんだか気持ちが悪くて。嘘をついているような気がして。朝早く来て、この写真を重ねてみたんです」
「誰かに見られてもよかったの?」
「すぐ剥がすつもりでした。でも、一人二人ならいいかもしれないって思ってはいたんですけど」
 反対側のホームに電車がすべりこんでくる。騒音の中で、可南子ちゃんは小さく頭を下げた。
「私という人間は、きっと変わっていないんです。でも、蔦子さまにはご迷惑を」
 可南子ちゃんの前髪が、発車していく電車の起こした風で揺れた。顔を上げた可南子ちゃんの瞳はまたかすかに潤んで見えて、私の中で多弁な花のように開いた言葉の端はしが、泡となって消えて、ただうなずいた。
 目もとをそっと押さえた可南子ちゃんに、私は最後の一枚のフィルムを使う。シャッターの音に、可南子ちゃんは目を開けた。
「私、泣き虫なんです。人に泣いてるところ見られてばっかり」
 暗い斜面を、私に手を引かれて登りながらずっと、可南子ちゃんは嗚咽をもらしていた。にぎやかさを増した祭りのさ中を駅へと引き返しながら、私たちは一言も口をきかなかった。
 ホームに上り電車のアナウンスが流れ始める。
「今の泣き顔、『アルバム』の写真と差し替えてもいい?」
 意地悪い顔をつくって立ち上がった私を、可南子ちゃんは血色のいい頬で見上げてくる。
「別に構いません。ちゃんといい写真で、蔦子さまもそう思うのなら」
 ホームに入った電車が、窓明かりを撒き散らして減速するのを眺めながら、私は母の顔を思い出していた。彼女の写真、撮ったことがあっただろうか。自問するまでもなく、NOと言える。家に帰ればファインダーを覗くことすらほとんどないのだ。
 もし今朝、私が謝るのではなく「写真を撮らせて」と言ったなら、母はどうしていただろう。


 
    **



 それでも結局、私の写真の管理に問題がなかったのかと言えばあやしいものだ。
 次の週の水曜、できあがった可南子ちゃんの写真の束を、部室の机の上に放り出したまま授業を受けて昼休みに戻ると、なんともいえない雰囲気をまとった笙子ちゃんが、私を出迎えた。
 有体に言えば笑っているのだが、視線も足取りも口調も、どこか硬い。まるで笙子ちゃんそっくりにつくられた精巧な人形と話しているように。
「蔦子さま、大変ですね。祐巳さま以外にも集中して撮りたい方が、どれだけ学園内にいるんですか?」
 可南子ちゃんの写真が広がったままの机に手をついてため息をつき、充分タメをつくって振り向いた笙子ちゃんは、とても可愛くふくれていて、鈍い私はそこでやっと「あ」と気がついたのだった。
「ごめん」
 精一杯、私は謝っている。
「いえ」
 それなのに、彼女は素っ気無い。









<了> 



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