口角泡を飛ばす。そうそう、そんな言い方をするんだっけ。探していた表現が見つかって、私は耳から、頭もう一つ分くらい離していた受話器をまじまじと眺める。丸く穴のあいたスピーカーから、甲高い声のさらに上澄みだけ、水の漏れる蛇口のようにしつこく、しつこく垂れ下がっている。
 どうせ、いつもと同じ内容なのだ。それにしても今日はちょっと熱が入っている。本当に唾のしぶきが飛んでくるかのような勢いだ。私のこのうんざりした目つきも、受話器越しに伝わればいいのに。
『聞いてなかったでしょ!』
 ようやく耳に戻すと、すっかりバレている。受話器を握って、コンパクトにまとまったバッティング・フォームを試したりしていたからかもしれない。
「無理だって。わかっているんでしょ?いい?この私が、何もできなかったんだよ?」
 深呼吸して、わざと、一字一句ゆっくり告げると、電話の向こうはぱたりと静まり、耳障りなノイズが急にふくらんで押し寄せる。
 からっぽの貝殻に耳をくっつけたみたいだ。
 と思ったのも束の間、また激しい調子でやりだした受話器を電話の傍に立てかけて、私は壁にもたれかかった。こちらから電話をしてやったというのに、気の利かない。しかもこの電話、吃驚するほど高いのだ。一分につき……確か、9ドル50セントかかる、と事前に言ってあるというのに。 
 ぎしり、と天井がきしんで床がかすかに、気にしなければわからないくらいに傾ぐ。広い多目的ルームには私のほかに誰もいない、それはそうだろう、今は真夜中なのだ。電話の向こうは……と習慣で計算しかけ、最後の時差調整が終わっていることを思い出す。
 明かりを絞ったフロアには背の低いソファーが並び、天井からいくつか下がったモニターには、ややピンボケした白い壁面と、その外側の暗闇にきらきら、明かりを受けた水がしぶきを散らすのが映っている。私は今、大きな客船に乗っているのだ。映像は船の外についたカメラがリアルタイムに映しているもので、夜深いこの時間の海も船も、じっと見ていると、少し怖い。
 湖畔に佇む中世のお城のような豪華客船。乗り込むときにはこれが本当に動くのかと思ったけれど、いったん海に出ればイルカみたいに軽快に走り、昨日の昼すぎ、船は日本最南端の島を通過した。あさってには神戸、その翌日には横浜に寄航、今回の私たちの旅はそこで終わる。




    Voyagers





「また、例のおぼっちゃん?」
 キャビンに戻ると、ドアの向こうは暗闇で、声の飛んできた方向がちょっとわからなくなる。パッと、テーブルの傍の明かりがついて、影が揺れた。
「そう。今実家にいるでしょ、どうしても電話口に出てくるのよね。船の電話は高いからやめてって言ってるのに」
「ふふ。いいじゃない。でもそうね。その子、隣に居候すればよかったのにね」
「令ちゃんのところに?さすがにね」
 久しぶりだ。強く、強くそれを実感する。令ちゃん、なんて名前を口にしたのは。
 赤茶色の夕焼けのような光の中、私をしばらく見つめていた彼女は腰掛けたベッドの隣に手招きをして、ベッドサイドに置きっ放しだった赤ワインをグラスに注いだ。
「はい、由乃」
 差し出されたワインは苦くて、喉をくすぐって、私はなぜか「夕焼け小焼けの」と歌い出したくなる。
「私、後悔してるわけじゃないからね、江利子」
「わかってるわよ、そんなこと」
 彼女は物憂げに、パジャマの腕をまわして、私の耳たぶをつまんで撫でた。なめらかでだぶだぶなサテン生地の袖が、私の頭にのしかかる。オレンジに塗られたネイルの指をそっと払いのけると、江利子の目に小悪魔っぽい喜びが、果実が熟れるみたいにぱあっと広がった。



 人に尋ねられる機会が増えて、簡単に説明しようとして、いつも上手くいかない。
 もう5年前になる。私の通っていたリリアン女学園高等部には、スールという制度があった。上級生が、下級生にロザリオを渡し特別な「姉妹」の関係を結ぶ制度。私の「姉」は支倉令、ずっと一緒に大きくなってきた幼馴染、従妹でもある。で、江利子はその令ちゃんの「姉」。だから、学年は私の二つ上になる。
「姉」をてっぺんに据えたこの三角形はときどき、嫁姑の関係に似る。令ちゃんをはさんで、私は江利子と張り合った。むきになっていたのは私だけかと思っていたけれど、江利子もまたそれを意識していたらしい、とは後で本人に聞いたこと。
「嫉妬してたわよ?」
 なんて言うけれど、実を言えば私はそれを半分も信じていない。
 とにかく、変わり者なのだ。女子高、しかもカトリックの学校の学園長室で、男性に告白した生徒なんてリリアンはおろか、日本中過去に遡って探しても彼女以外いないんじゃないだろうか。しかもその文句ときたら「結婚してください」なのだから。
 大学に進んで、まだちょくちょく私にちょっかいを出してきていた江利子だったけれど、沖に出て速度を上げる船のように、会うたびその女っぷりは色濃くなり、確実に大人に近づく彼女の足取りをアピールしていた。仰天の告白をした相手と、江利子の仲は続いていたし、とまらない時の中で私は、段々と彼女とも疎遠になっていくのだろうなと、ぼんやり、どこか諦めのように納得していた。
 山辺先生。それが、江利子が恋した相手。男子校の講師をしていて、だから先生と、彼を知る、リリアン時代の友人達とはいまだにそう呼んでしまう。恐竜が好きで、その化石を掘るのが夢で、いつも無精ひげに、穏やかな目つきをした男性。
 彼に、死に別れた奥さんとの間に娘が一人居たということを、私はだいぶ後になってから聞いた。それを知ったときには山辺先生と江利子は日本にいなかったのだ。唐突に講師をやめた山辺先生は娘を連れてアフリカに旅立ち、その出発の翌日には、江利子は大学に休学届けを出して、二人の後を追いかけたのだ。
 父や兄たちと大喧嘩をしたまま、逃げるように成田へ向かう江利子からただ一人連絡を受けて、私は空港で彼女を見送った。出発ゲートに向かう江利子の頬は見たことがない緊張に覆われ、その背中が見えなくなったとき、何故だか私は泣いてしまったのだった。
 それは、横合いからいきなり投げかけられた未知の大きなうねりみたいなもので、私はその波間に、親しんだなつかしいすべてを見失うかもしれないという予感を、そのときは覚悟したのだ。
 それから半年ほど経ち、山辺先生と娘が帰国しても、江利子は戻ってこなかった。どこにいるのか、何をしているのか、少なくとも私の周りで知るものはおらず、さらに一年近くが過ぎた。
 桜の咲き誇る季節に江利子は帰国して、私はまた一人、それを出迎えた。
 それからしばらくして、山辺先生は結婚した。私の「姉」、令ちゃんと。
 ほら、やっぱり上手く説明できてない。



「そういえば、山辺さんが令にプロポーズした言葉、聞いてる?」
 二人用とはいえ船室、その狭さもなんのそのとテーブルで大胆に足を組んだ江利子が、にやにやとワイングラスをちらつかせる。
「そういえば、知らない。興味なかった」
 ちょっと腹が立ち、睨みつけてやる。江利子は満足そうに私を見おろして微笑み、ふっくらした下唇をぺろりと舐めた。
「どうせまた、キミはなんとかーって恐竜に似てるね、ってやったんじゃないの?」
 それはかつて、山辺先生が江利子に贈った言葉で、わざと私は持ち出したのだ。それがくさびような言葉だと、今でも江利子のどこかに残っている言葉だと、私にはわかっていたから。江利子はそれで恋に落ちたんだ、と。
 そんな二人だった、と思う。曖昧になってしまうのは、別れた理由を、いまだに聞いていないから。
 怒ったかな、とそろそろ見上げると、スタンドの黄色い明かりを受けて、江利子の顔は恐竜というよりピラミッドの壁画の横向きの人物みたいに、くっきり影を切り取っている。私と江利子は実際に、エジプトの博物館でその壁画を見たのだ。
 日本に帰ってしばらくして、江利子は大学を休んだまま、今度は突然一冊の画集を出した。ヨーロッパらしいどこかの港町や山村が、独特な青の使い方で描かれたそれは、それなりに話題になったものの、あまり売れなかったらしい。
 で、年の明けたお正月。大学の仲間と、スキーから帰ってきた私を、M駅の前で江利子が待ち構えていたのだ。
「由乃ちゃん。ちょっと、付き合ってほしいんだけど」
 髪をかなり短くした彼女の印象はずいぶん変わっていて、馴染みがなくて、ようやく落ち着いた気がしたときには、私と江利子はアメリカに向かう飛行機の上に居た。
「どうして」
 とは、両親はじめリリアンからの親友、祐巳にも、帰国してから聞かれたけど、私はうまく答えられなかった。雪の降るM駅前のロータリーで私を見つめた、江利子の瞳にカチンと来て、「負けるもんか」と思った、強いてあげればそういうことだ。
 江利子の「付き合って」は「ちょっと」どころではなくなんと4ヶ月に及んで、アメリカからドイツ・フランス・イタリア、地中海を渡ってアフリカ北海岸まで、ほとんど離れず私たちは旅した。お金はいったいどうしていたのか、すべて江利子が負担し、その代わりにと、私には一つの条件を言い渡されていた。江利子の望む場所で、望むポーズで、絵のモデルになること。大勢の人が行きかう交差点の手前だろうが、じめじめした夜のダウンタウンだろうが、風の吹きすさぶ砂漠の真ん中だろうが。江利子が命ずるなら私に拒否権はなく、ちょっとでも不満を言おうものなら「モデル代を払っていると思ってちょうだい」。
 それで、帰ってきて出した二冊目の画集、絵本に近いもので、私に似た少女はややデフォルメされて、「真珠の砂漠」を探す女イタチ、という奇妙な設定をくっつけられ、常にページのどこかで澄ましていた。それが今度は、けっこう売れたのだ。
 ふたたびの江利子の強引な誘いで、わざわざヨーロッパに飛び、シチリアから日本に戻るこの船旅は、その「打ち上げ」で「ご褒美」なのである。
 出航して三日目、はじめてのフォーマルのドレスコードでのディナー、アペリティフのグラスを掲げて江利子は、厳かに宣言した。
「日本に着いたら私、みんなの前で由乃、あなたにプロポーズするから」
「馬鹿じゃないの」
 周りのテーブルの半分近くは目と髪の色が違う人ばかり、どうせ分かるまいと、私は遠慮なく言い返したのだった。

 江利子と話しながらうとうとまどろんで、目が覚めると部屋はまた暗くて、私はシャワーをつかう。打たせ湯のように背中から浴びながら、壁についた水滴を指でなぞり、無理して画数の多い漢字を書こうとする。
露、麟、それから饗、覇。
「何やってるの、由乃」
 一緒にお風呂に入ると、この無意識な癖は、令ちゃんによく笑われた。あまりに長く一緒にいた彼女の声は、思い出してもそんなに、セピア色じゃなかった。
 彼女は、私自身だった。今振り返るとわかる。家が隣、親同士の行き来もあり、学校も同じ。加えて体の弱かった私に、もともとが世話好きな彼女。友人だとか「姉」だとか、いや家族よりも身近に、同じ肉体と精神を代わる代わる取り替えて使う、一人の女であるように、いつの間にか振舞っていた。傷つけて流れる血すら、どちらのものかわからないくらいに。
 それではいけないと、一時期は思っていた。それぞれ身を離して、別々の人間だとお互いわかるべきだと。自立した一個の大人として、生きていくために。
 でも、本当にいけないことなのだろうか。
 狭いバス・ルームは、星空を見上げる井戸の底のように思えて、私はお湯を止め、裸の胸を抱き、矢継ぎ早に押し寄せる、なつかしい思いをひたすら、やり過ごそうとする。
 私にだけずっと向けられてきた、か細くやさしい微笑み。しばらくぶりにそれに出会ったのは、令ちゃんの結婚式のとき。進展は本当に、急だった。大学が別になってやや疎遠になっていた私は、江利子を通して、令ちゃんと山辺先生が会っていることを知り、それも二度目に聞いたときには、二人は婚約していたのだから。ただあっけにとられていた私は、江利子の起こした波が、数ヶ月遅れてようやく届いて、寄せて返すのに足を取られたように感じたものだった。
 でも、その何がいけないのだろうか。いけないことなんかない。白い装いをした令ちゃんに、私は笑って、「おめでとう」と言えたのだから。
 シャワーを出て、濡れ髪のままベッドに腰を下ろすと、背中から回り込んできた腕が私を深く抱き、引き寄せる。逆らわず、江利子の匂いに顔を埋めた。
 江利子に半ばさらわれるように海外に出て、しばらくは喧嘩ばかり、それも私が一方的にまくしたて、江利子は笑うばかりだった。二言目には「日本に帰る」と叫び、でも私は帰らなかった。真冬のフランス、港町のカレーで、江利子は同じセーターを着せた私をスケッチブック10冊分も描き、描くたびどんどん無口になり、無表情になった。しまいに部屋から出なくなり、私は文句も何も封印して毎日、買出しから料理洗濯とこなした。お風呂だって、一緒じゃないと入ろうとしないのだ。
 海に雹が降った日、いきなり江利子はさばさばした顔で起き出してきて、10代のころシンボルにしていたヘアバンドなんてはめて歩き回り、てきぱきと掃除した部屋をコーヒーの香りで満たし、窓際に私を呼んで、背中から抱きしめた。
「よかった。私たぶん、ずっとあなたのことが好きでいられるわ」
 びっくりして、思わず振り向きざま頬を叩いてしまい、「試したんですか」と訊いた私の、気づかずこぼしていた涙を、江利子は指先でていねいに拭った。それから今度は前から、私をすっぽりと抱いて、ささやいた。
「お願い、由乃。ずっと私の傍にいて」



   ***



「ごきげんよう、お姉さま。

 ご無沙汰しております。
 今回のご旅行、今度こそお見送りをと思ったのに、果たせませんでした。
 残念です……。江利子さまには、いつも出し抜かれてばかり。
 こういう機会を逃すと、お姉さまってまた何ヶ月も会えなくなりそうで。
 でも、今回は大丈夫ですよね?すぐに帰ってきてくださるんですよね。
 ご帰国、お待ちしています。早く会いたいです。 
                                     菜々」

 船のお尻の形にぐるりと半円をえがく、広い後部デッキは、羽毛のような朝霧にすっぽり包まれている。
 船尾のあたりにまばらに立つ人は、たっぷり水で濡らした紙に落とした墨一滴のよう。私は一段高いデッキで手すりにもたれ、出航前に滞在したホテルに届いた絵葉書を、パーカーの胸に、そっとしまった。
 有馬菜々は、私の二つ離れたプティ・スール、下の「妹」。面と向かっては決して甘えた顔を見せない子なのに、手紙だと「会いたい」とストレートだし、顔文字を使ってきたりもする。江利子に対して、露骨に対抗心を見せるようになったのも、私がこういう生活をするようになってから。
 スールって可愛い、面白い。世界の片隅で、その一風変わった繋がりを、私は今さらいとおしむ。たぶん、その土壌は令ちゃんが作ってくれたのだろう。その繋がりの中には間違いなく江利子も居るはずなのに、彼女だけはじたばた足掻いて、おだやかなその懐かしさの中に、一向に納まろうとしない。
 海に吹き出した風にのせて、私はしばらく気兼ねなく、笑いをこぼす。
 霧が晴れだして、あちこちのキャビンから、それでもまだ早起きといえる客たちがそぞろにデッキに現れ始める。スリッパやサンダルの、気楽な足音。挨拶をしながら、私は船の前側へ歩く。彼ら彼女らの年齢は、総じて私たちより高い。
「金持ちの年寄りの道楽旅行が大半よ、たぶんね」
 乗船前に江利子は私に言った。
「若い女二人でどうして、なんて。奇異な目で見られる時間はたっぷりあるわよ。なんせ船旅ですもの」
 夜のダンス・パーティーで、私をリードする江利子の腕の中で、つくづくその意味がよくわかったものだ。愉快になって二人、必要以上に手足を振り出して踊り、最後は拍手までもらった。
 船の進行方向の左手に、うっすらと島影が見えた。もう日本のどこかのはずだけれど、具体的にはわからない。銅鏡のように凪いだ海に、ぽかりと愛想良く張り付いているそれを、じっと見る視線があると思ったら江利子だ。プールのあるデッキに上がる階段の手前に折りたたみ椅子を出して陣取り、開いたスケッチブックに両手を乗せたまま、サンダル履きの素足をだらしなく投げ出している。近づいていくと、ひどく投げ遣りな目つきが私を通り過ぎる。でもそれが彼女の、むしろ努力して発している愛想だと、今の私にはわかっている。
 隣にしゃがみ込むと、スケッチブックにはただ一本、まっすぐに横線が引かれ、江利子の指はくるくる、鉛筆を回していた。遠い島影はやや左にずれて、船がわずかに右に進路を変えたことがわかる。
 旅ももう終わりだ。
「大学でちょろっと絵を勉強したばかりの、ただの小娘が、まぐれで売れただけなんだから。お金は、ぱーっと使っちゃった方がいいのよ」
 江利子はそう言って、私を誘ったのだ。日本に帰ったらどうする、なんて話は道中一度も出てはいない。いや、一つのことを除いては。
 黙ったままの江利子が、肩に手をかけて、引き寄せる指に、私は頬よせた。



「由乃へのプロポーズ。何て言ったらいいかしらね。ねえ、何がいい?どんな言葉だったら嬉しい?」
「本気なの?」
「当たり前じゃない」
「それで別に、どうにかなるものじゃないでしょ」
「わかってないわね。そんなことどうでもいいの。着いてすぐのパーティーには、ごく親しいあたりしか呼んでいないわ。蓉子や聖の前で宣言することに、意味があるんじゃない」
 高等部時代に、一緒に生徒会長を務めた「薔薇さま」の名前を出して、江利子は遠い目つきでうっすら笑った。
「また、驚かしたいだけなんじゃないの?」
 いつかの学園長室を私は思い出す。江利子は答えず、立って折りたたみ椅子をちょっと動かし、「ほら」と私を海に向かって腰掛けさせた。
「久しぶりに、お下げにしようか」
 いつもそうしていた中高のころより、短くなった私の髪を、後ろで中腰になった江利子は手際よく分けてまとめていく。
「山辺さんね。『僕のお嫁さんになってください』よ。令へのプロポーズ」
 首筋にかかる江利子の息は、楽しそうだった。
「なに、それ。すごく普通……」
「まあ、プロポーズだから。どんなのだと思っていたのよ」
「一生君を発掘したい、とか言ったのかと思ってた」
 しばらく、体を折り曲げて笑い転げる江利子を、通りがかる乗客たちが気遣わしげに見ていた。江利子の立ち直りがもうちょっと遅かったら、勘違いして医療スタッフを呼ばれていたかもしれない。
 無言になった江利子は再び作業に没頭し、髪から伝わる感触にちょっと眠くなりながら、私は海を見ていた。さっきの島影はもう見えず、水平線に接するあたりから、空はだんだん青みを増してきている。
「令はね」ぼうっと汽笛が鳴り、江利子はしばし口をつぐんだ。「私と居る山辺さんを見て、ずっと面白くなかったらしいの。嫉妬してたのね」
「うん。知ってる」
「あの子は、基本的に異性に対して夢を持ちすぎていたのよ。女子高育ちを、地で行ってた。いまどき、ありえないくらいにね。逆にいえば、それだけ怖がっていた。つまり山辺さんと会ったとき、すでに平常心ではなかったのよね」
「じゃあ、なに。だからふらりと魔が差した、とでも言うの?」
「そう言えなくもないわ」
「なによ、それ」
「いいじゃない。きっかけなんて、なんでもいいわ。あの子は山辺さんにも、娘さんにも、こだわりなく愛されてるし、いろいろあったけど、皆には祝福されているでしょう?」
 ちょっとだけ饒舌に感じた。いずれ江利子の気持ちの本当のところは、また聞けるだろう、私はそう納得することにする。私と違い、面倒くさい女だから。
「谷中のぼっちゃん以外にはね」
「ああ、昨日の電話ね」
『僕は、ぜったい令さんを振り向かせてみせるんだ!』そう電話で叫んだ谷中の「ぼっちゃん」は、令ちゃんのお父さんと親交のある家の息子だ。10歳のとき心臓の手術をする「元気付け」に令ちゃんとお見合いして以来、ぞっこん。大学の二年に上がる際家を出た私の後釜を狙うように、実家に直談判して、居候の地位を獲得し、そこから中学へ通っている。表向きは隣の支倉道場で剣道を学ぶためだが、結婚したあともたまに道場へ顔を出す令ちゃんが目当てだということは、当の令ちゃんまでも知っていること。本人は私にしかバレていないと思っているのだが。
 くすくす笑いながら、「出来たわ」と江利子が私の肩を叩いた。両手で握ったお下げはちょっとほつれていたけれど、海風のせいかもしれない。
 
 なにもかも、落ち着いていない。じっとしていない。私の気持ちも、まわりの人たちも、まだまだ、何かがきっちりはまり込むには、遠いんだろう。高等部時代の友人たちはどうだろう、やっぱり恋や、勉強、細々とした浮き沈みの中にいるんじゃないだろうか。そんなごちゃごちゃした日本に帰るのが、今は楽しみで、仕方がない、私と江利子。二人でどんなことをしてやろう、どんなことができるんだろう。
 その日の夕暮れは、いつもより遅くて、夕食のあと私だけキャビンに戻り、堅苦しいドレスを脱いでデッキに出てきても、空の端っこはまだオレンジ色に輝いていた。そろそろ紀伊半島あたりに接近しているはずだったが、水平線の際までタールのように黒い海に、陸地らしい影は見えなかった。
 船の最上階にあたるオープンデッキに行くと、チャイナ風のロングドレス姿の江利子が、西洋人の老夫婦と小さな声で会話していて、私が隣に行くと、二言三言何か言っていきなり抱きすくめ、額にキスをした。老夫婦は旦那さんの方がカッカと笑い、奥さんの肩に手をまわし、二人は慇懃すぎる会釈を私にして去っていく。
「なんて紹介したのよ」
 夜風に混じる、江利子の香水の匂い。詰め寄った私にぐいと胸を寄せ、江利子はノースリーブの腕でゆっくり前髪をかきあげた。
「愛人」
「ばか。ばか江利子」
「嘘よ。婚約者だって言ったの」
 手すりに背を預けて反り返り、見上げた群青の空には船の煙突がずんぐりと、巨大な鶏頭の花のようにそそり立ち、急に怖くなった私は、一旦は押しのけた江利子の腕にしがみつく。ふふ、と笑って江利子は、もう一度キスを、私のお下げに落とした。
 うつむいて見た、手すりの柱と柱の間は、今や船の明かりが満開で、暗い宇宙の中の星雲のようだった。
「泣いてるの?」
「そんなことないわよ」
 きっと胸を張った私の腰に、江利子は腕を回して抱きかかえるようにした。
「あなたは泣き虫だから。弱いし意地っ張りだし、私くらいしか貰ってくれるのは居ないわよ?」
「ふん、島津由乃を甘く見ないで欲しいわね。日本に帰ったら男の子をとっかえひっかえ、浮気してやるんだから」
 大きく深呼吸。と、ゆるやかな音楽と、低い男性の声のアナウンスがスピーカーから流れ出した。
「あ、そうか。日本に着く前の最後のダンス・パーティーだったわね、今夜」
 忘れてたね、と私が打とうとした相槌を待たず、江利子はもう歩き出している。
「何してるの由乃。ほらさっさとキャビンに戻るわよ」
「えー、またドレスに着替えるの、面倒くさいよ……」
「せっかくなのに、勿体無いでしょう。大体、フォーマルの夜にさっさと着替えているだけでマナー違反なのよ。ほら早く早く」
 江利子が階段に消えるところで、私も弾かれるように追いかけた。見えなくなった背中は沈んだ太陽みたいに輝かしくて頼もしくて、切なくて。絶対に声には出せないことを、唇で告げてしまう。
 それなのに、ちゃっかりと踊り場に待っていた江利子と目が合ってしまい、早足でその脇を抜けた私の後ろで、今度は江利子がつぶやく。「嬉しいわ」
「私。これから先もきっと、何かあるたびに、いちいち比べると思う。江利子と令ちゃんを。令ちゃんならこうだった、もっと優しかった、みたいに。それはきっと、ずっと続くと思う、よ」
 競争するみたいに、肩をぶつけながら急いで、私は江利子の方を見ないように、乱雑に言葉をまきちらす。
「別にいいわ。だって、私たちの間にはずっと令が居たじゃない。あの気のいい子を、わざわざ追い出さなくてもいいでしょ」
 いつもどおり、大儀そうな横顔で答えた江利子が、ドレスのスリットもお構いなく大股に足をはこぶ。ゆるやかに湾曲するボートデッキには松明のような明かりがゆらゆらして、賑やかにさんざめく船上の夜が、あちこちで出番を待っている。



    ***

 

 客船ターミナルの窓の向こうでは、私たちの乗ってきた船が大きな体で桟橋に寄りかかっている。明日の出港までしばしの間、ふたたびお城のフリをしていようという魂胆なのだろう。
 垣間見えるは横浜の空、すっきり晴れて、秋のように高く……私は、離れている間に梅雨に突入したはずの日本の実感を得られず、ちょっと焦る。船旅に鈍った足も、どこかふわふわ、落ち着かない。
 それでも、手荷物の入ったトランクに体重をあずけ、携帯で話している江利子は、ストライブのシャツの襟もだらりとして、私以上に間延びした風情。なんとかしてこちらだけでもと、虚勢を張りたくなる。どっちにしても今夜には、昔の仲間たちと顔をあわせるのだ。二人とも、しゃっきりしないといけない。
「また、パパと兄貴たちがカンカンだわ。週末には怒られにいかないと」
 電話をしまった江利子が、指でバッテンを作って力なく笑う。
「一緒に行こうか?」
「何言ってるの。由乃はちゃんと、由乃のご両親に叱られてきなさい」
 そうだった。今度の旅では事前に許可をとったものの、電話だったから会っていないし、特にお父さんは言いたいことも溜まっていることだろう。
 せっかく奮い立たせた気分がまた落ち込みかけて、私はぶるぶる首を振る。いけないいけない。
「それじゃ、参りましょうか?黄薔薇さま」
 高等部時代の呼び方をして、手を差し出すと、途端にスイッチが入ったように江利子の目が光り、口角がピン!と切れ上がった。
「ええ。行きましょうか、由乃ちゃん」
 私の手を握り返した指は力も熱もみなぎっている。つられて、左手のトランクも軽くなる。人のごった返す細長いコンコースを、光る床に靴を鳴らしながら、私たちはまっすぐ進んでいった。









<了>



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