夜街道









 目覚めて見上げた天井は、怠惰な晩夏の日差しにさらされて、黄色くただれて、よそよそしい。
 毛布に埋まって、おかしな具合に引きつった手足を感じながら、夢でも見ていたかと蓉子は思う。目覚めの境に、潮が引くように、大勢の足音のような轟音をたてて遠のいていったものの後味が、確かにある。額に手をやると、ぬるい汗がしっとりと髪の生え際にこびりついている。
 目を動かさず、時計の秒針の音を聞く。男は、いない。今朝方出て行く背中を見た記憶は、幻ではなかったらしい。
 息を吐いて、準備体操でもするように、蓉子は体を伸ばした。目を閉じて、起きぬけの刺激に満ち溢れる目の奥の火花を、落ち着かせようと試みる。まぶたを通して、赤い血の光が、魚のようにのたうつ。プロミネンス、という単語がふと浮かぶ。
 プロミネンス。・・・紅炎、だったろうか。
 プロビデンス・・・は、「神の摂理」。
 昼をすぎたぬるい空気を食い破るように身を起こして、寝乱れたシーツや掛け布団を乱暴に押しのける。半分だけひいたカーテンの向こうの空は青くて、弱気な夏の終わりらしくもない、切ないような透明感で広がっている。妙にすっきりした頭で、それでも眠りの世界から地続きになった感覚を抱えて、蓉子はしばらく、起き上がった姿勢のままでおとなしくしてしまう。
 背中の汗が、ゆっくりゆっくり、部屋の空気に蒸発していく感覚。
 ベッドサイドの時計を見て、男の現在を思う。常日頃聞いている話を信じるなら、昼食後の無意味な会議の時間。何も生まれない、「滅亡の大予言を持ち寄ったような話し合い」、10年上の男は、とても楽しそうにそう形容した。
 ベッドの中から、蓉子が今朝見上げたのも、同じ笑顔だった気がする。優しい男。ただひたすらに優しいだけの、それが無くなれば何も残らない男。
 けれど男の優しさを残さずむさぼったのは、間違いなく自分だったと、今は思う。



 ベッドからリビングチェアーに移動するだけで、都会の昼はあっさり暮れた。明かりをつけないで、冷めた紅茶のカップを手にして見ていると、高層の窓の正面には、沈んだばかりの日の光を受けて、深海魚のような細長い雲が地平にわだかまっている。
 男はまだ帰らない。けれど背広や鞄、男のお気に入りのものたちが、その帰宅を一心に待ちわびている息遣いが、部屋の暗がりのあちこちにわだかまって、蓉子を注視する気配。自然、背中が丸まっていく。
 胸の前に抱えた、あらわな腿はつめたく冷えて、締め切った部屋の風の動きが、敏感に伝わる。
 フクロコウジ。
 唐突に浮かんだ言葉を、袋小路、と頭の中で変換して、蓉子は唇で笑った。間違っている、と思う。何がとは判じられないけれど、これは、違う。
 ジ・・・ジュナン。受難。
 ためしに続けたしりとりが、すぐに終わってしまったことに満足して、蓉子のどこかに灯が灯る。もう少し続けてみようか。

 ジ・・・常軌。
 キ・・・衣擦れ。
 レ・・・練習問題。
 
 そういえば、去年まで通っていた私学の高等部で、下級生をしりとりをしてからかったことがあった、そう連想して、制服を着た自分の姿を思い出して、心に湧き上がった懐かしい思いが蓉子は満たしていく。生徒会長を務めていたこと。学校独自の慣習として、「妹」と呼ばれる後輩たちに囲まれていた日々。
 そしてただ一人、ロザリオを渡すという儀式で、特別の「妹」となった相手のことを。蓉子のことをただ一人、「お姉さま」と呼ぶことを許された彼女の名は、祥子といった。小笠原、祥子。
 かたくなで融通の利かない性格の、誰よりも美しい少女。そう、私は「お姉さま」なんて呼ばれていたのだ。

 イ・・・意地っ張り。
 リ・・・リチウム。
 ム・・・無法者。
 ノ・・・ノモス。
 西瓜。
 官能。

 蓉子は、そっと立って、窓際に進んだ。レースのカーテンを脇に引き、うすく開けた窓からおずおずと入り込んでくる温度の違う風を、下腹部のあたりに感じる。数日雨の恵みにありついていない下界は、乾いている。
 
 卯月。
 虚勢・・・去勢?

「君のことを、崇拝していたいだけだ」と男は言った。だから、蓉子は同情する気になったのだ。30になろうかという男が、19の小娘を前にして、うなだれる首筋に、しなびた頬に、世話をやいてみようと思ったのだ。
 言葉どおり、男は蓉子に指一本触れようともせずに、夏のひと月は過ぎた。いつからかあきらめて、甘える自分を蓉子は野放しにしていた。これも世界には違いないと、言い聞かせていた。
 近頃では男は、そんな蓉子の未熟に、目を細めている。
「人間なんてみんな、犯罪者みたいなものだからね」
 昨日、食事をしながら蓉子を見た男の声を、蓉子は忘れることができないでいる。

 イソップ物語。
 リュックサック。
 CHRISTCHURCH。
 中毒。
 口紅。
 二卵性双生児。

 夜から切り離されて吹き込む風には、かすかに匂いがあった。陽だまりのような、すぐに忘れてしまうような、薄い香り。
 
 自嘲。
 歌あわせ。
 セ・・・聖。佐藤、聖。

 それは友の名。高等部の三年をともに過ごした、記憶にもまだあたらしい、するどい目つきと心を携えた、親友の名前だった。 「聖」というその名を口にするのが、蓉子は好きだった。声に出すたび、自分のどこかが少しだけ綺麗になる気がして、あまりその名にありがたみを感じていなさそうな彼女にお構いなく、いったい何度、呼んだことだろう。
 彼女は何をしているのだろう。会わなくなってから聖がどう変わったか、なんてことじゃなくて、今のこの瞬間の彼女が、どこで何をしているのか、それが見えないことがつらかった。知りたかった。それは泣きたいほどの渇望だった。



 時計が9時をまわるのを確かめ、手早く食器を洗い、ベッドを整える。顔を洗って、適当に肌をつくり、バッグの中身を何度も確認して、玄関に立ち、それでも蓉子は、靴をはき終えてからも首を伸ばして、忘れたものがないか、部屋を眺めまわした。
 白々としたマンションの廊下に出て、鍵をかけ、その鍵を郵便入れに押し込む。もうここには戻らない。
 車のほとんどいない駐車所に出て、夜の闇を突っ切りながら、一度だけ振り仰いだマンションは足元だけを黄金色にライトアップされて、巨大な墓標のように、夜の空に溶け込んでいた。
 駅へつづく住宅街の通りは、青い道の上に家々の光を反射させて、真っ直ぐに伸びている。蓉子の足取りをとらえて、通りがかった家の、防犯用の自動照明がぽっと点灯する。蓉子は思い出した。
 高2の初夏、蓉子に「妹」ができてすぐの頃だった。まだぎこちなく「お姉さま」と呼ぶ小笠原祥子を連れ出して、初めて姉妹でお出かけをした帰り。
 思ったより遅くなって、急ぎ足で小道をゆく二人を、同じように自動の明かりが、立て続けに二人を照らして、点々とついては消える光の輪に、先を歩く祥子が不意に立ち止まって、はしゃいだ声をあげた。
「これ、家の裏門にもついてましたわ」
 祥子の家は格式ある名家だから、そのくらい当然だろうと、先を促そうとした蓉子に、光の真ん中でくるり、と回った祥子が逆光で笑った。
「素敵ですわね。こうやって通りかかる人の足元を照らしてくださるなんて」
 さらにくるりと、一回りしてみせる彼女に、蓉子はしばし冗談かと思い、すぐに自分の考えを訂正する。祥子は、本当に知らないのだ。通りかかる者に明かりの向けられる、別の意図に気づいていないのだ。
 蓉子の様子に、怪訝な表情に変わりつつあった祥子に、歩み寄って腕をとり、自分より背の高い彼女を俯かせるようにして、抱き寄せた。
「いいのよ、祥子。ばかね、ばかね」
「な、なんですの。お姉さまでも許しませんわよ」
 腕の中の妹からは、花の香りがした。

 前かがみで腕を振り、ほとんど走るようにして、蓉子は道を急いだ。痛烈な量感で背中を押す気持ちが、少しでも薄れないうちにと、自分を蹴飛ばすようなイメージを、何度も何度も思い浮かべた。
 守ると決めたものは、確かにあった。あのとき、そう決めたのだ。
 夜を増す空は果ての無い暗闇をかかえ、膨大な質感でのしかかってきたけれど、苦しくなってきた息を吐きながら、蓉子には、さらに遠い星の明かりが、くっきりと見えるような気がした。
 遠慮するかのように静まり返った街の輪郭に、足音だけが響いている。






<了>

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