祥子お姉さまのことも、演劇も、最初から好きで、ずっと好き。
 ねだって買ってもらった空色のキャミソールも、7つまで家で飼っていたボーダー・コリーも、一目で気に入って、それからも嫌いになることなんてなくって。
 何かを好きになること。それ以外の形なんて、ありえないと思っていた。



「走れ瞳子」




「あ。瞳子ちゃんだー」
 三時間目の終わった休み時間、教室移動のために西校舎の階段を登っていると、踊り場のところで下りてきた祐巳さまとばったり会った。
「・・・ええ。ですけれど。何か御用でも?」
 向日葵のように微笑みかけてきた祐巳さまに、クラスメートの香澄さんが傍にいた手前もあって、ついつい突っ剣呑な返答をしてしまう。
「ううん、なんでもないけど。・・・あれ、瞳子ちゃん寝不足?」
 いきなり顔を近づけて覗き込むものだから、瞳子はぐいっと頭を反らしてしまった。
「よくわかりましたね」
「だって、目の端が赤くなってるよ。テレビのはしごしたとか?――ふわ」
 言いながら目の前で口に手を当てて大あくびしたものだから、瞳子の背中で香澄さんがくつくつと笑った。
 自分のことではないのに、顔が赤くなってくる。
「それは祐巳さまのことでは?まだ時差ボケ、残ってらっしゃるんじゃありませんこと?」
「そうなんだよねー。修学旅行中に取り溜めたテレビ番組とかあってさ、昨日一気にそれ見ちゃって、もう眠くって今日は」
 ・・・やはり、ご自身の話でしたのね。
 だいたい、そういうのは時差ボケとは言わないでしょうに。
「せいぜい、居眠りなんかなさらないように。ごきげんよう」
 視線をはずして、階段を早足で上る。
「はーい」
 遅れてやってきた間延びした返答に、思わず階段の手すりから身を乗り出すと、階下の暗がりで、待ち構えていたかのような祐巳さまがこちらを見上げて笑っていた。



 放課後、薔薇の館へ向かう。
 祐巳さまの指摘は、今回にかぎりあたっていた。昨日の晩は、毎週見ているベタベタな恋愛ドラマの他に、お父さまに付き合って二時間ものの刑事ドラマまで見てしまい、寝不足というより疲れ目。中途半端な役者の演技に、「そうじゃない、こう、ですわ!」とテレビを見ながらの「演技指導」を入れるのは、初等部で演劇をはじめた頃からの楽しみで、そのために瞳子はテレビっ子になったようなものだけど。高等部に入った頃からは自粛していた「指導」も、昨夜は面白がってはやし立てるお父さまに調子にのって、ひさしぶりにやり過ぎてしまい、今日のこの有様。
 ――刑事役の若い方の。あのひどすぎる演技がいけないのですわ。
 薔薇の館には、まだ誰も来ていないようだった。
 秋の日差しのたっぷり降り注いでいる階段に足をのせようとして、一階の物置き部屋の扉がうすく開いていることに気づいた。
 扉を押してみると、開け放った最後のところで、何かにひっかかったように扉が止まり、床をこするような音がした。
 覗きこんでみると、口をあけたままのダンボール箱がぽつんとひとつ。
(こんなもの、ありまして・・・?)
 先週、二年生が修学旅行でいないうちに、乃梨子さんと細川可南子と一緒に、瞳子は薔薇の館の掃除をすませたばかり。一階のこの部屋も、来たる学園祭での資材搬入のため、元からあったものを壁際に片付けて、ひろく場所をつくっておいたはずだった。
 折りたたまれたダンボールの口をあけてみる。クッキーが入っているような四角い缶と、それより少し小さめの長細い缶、二つの金属の箱によりかかるように、こちこちと音を立てている、
(時計?ですわね)
丸い時計の背中は、壊れでもしているのか、青と白のコードがとびだして、缶の隙間に消えている。音がするとおり、文字盤の針は動いていたけれど、瞳子が自分の時計でたしかめるまでもなく、その指した時刻は大幅にずれていた。教室を出るときに4時少し前だったはずなのに、この時計はあと45分ほどで正午を指そうとしている。
 なんだろう。この形、箱と一緒くたになったこういうの、なにか見たことがあるような・・・。
 瞬間、はたと思い当たった瞳子の思考の中で、その単語だけが遅れてゆっくりと浮上してくる。まさか、まさか、これは。
「バクダン?」



 爆弾。
 思いついて、思わず口に出してしまったとたん、瞳子は自分の短絡さにうんざりしてしまった。それでも、誰かに箱の中身の確認でも、と館を飛び出したのは、やはり万に一つもと気になっていたからなのか、それとも昨日の刑事ドラマの影響なのか。
 わかっている、バクダンなんてありえないこと。ただドラマの中で、地下駐車場に仕掛けられたものがちょうどあんな形だったから、万に一つのそのまた上の用心を重ねているだけ。自分に言い聞かせて、椿組の教室まで戻る道すがら、お目当ての乃梨子さんにも、細川可南子にも行き会わず、所在なく瞳子は、校舎をぐるりと廻る。
(細川可南子。いつも何かと目に入ってきてうっとおしいのに)その大きな背中も、いざ探して会えないと、なんだか少し寂しいような気もしてくる。
 職員室の前でしばし立ったまま、誰か馴染みの先生にでも相談を、とまで考えたけれど、薔薇の館に生徒以外の人間を入れるのは、正式な山百合会メンバーではない自分のするべきことではないように思えた。そもそも、リリアンの中で「バクダン」なんて、考えれば考えるほど馬鹿馬鹿しい考えのような気がして。
(もういいわ。とにかく、戻ってみましょう)
 そろそろ誰か、来ているかもしれないし。
 中庭につながる校舎の、一階に下りる階段にさしかかったところで、踊り場の窓から、昇降口につながる細い道を、やや早足で歩く見慣れた姿が目に入った。
「祐巳さま」
 思わず声に出して呼びかけて、知らずほっとする気持ちを覚えて、瞳子はきまり悪くなる。でもとりあえず、祐巳さまはあれでもつぼみなのだから、それとなく訊ねる相手としてはふさわしい。そう考えて、急いで階段を下りようとしたところで、瞳子は祐巳さまが腕をまわして抱えているものに気付いた。
(どうして。祐巳さまがあれを持っているの)
「バクダン」の箱。
「祐巳さまっ」
 さっきより大きな声が出て、それが踊り場に反響するのもかまわず、瞳子は階下に下りた。廊下を小走りに走って、中庭につづく扉から外に出る。薔薇の館を尻目に、祐巳さまの歩いていった花壇の間の道に出ようとしたところで、
「あれ?瞳子どうしたの、帰るの?」
 背中からのん気な声が聞こえた。薔薇の館の扉に手をかけて、乃梨子さんがこちらを見ている。
「の、乃梨子さん、は、早く呼んでくださいな」
「はあ?どうかしたの?」
「ですからっ!万が一ということもあるのですからっ!」
「だから、誰を呼ぶわけ?落ち着いて話してくれないと、わからないよ」
「バクダンを処理する人とか!バクダンのコードを切る人、ですわっ!」
 まるでスローモーションのように、イライラするほどゆっくりと、あっけにとられた表情から、乃梨子さんは少しずつ顔を伏せて、上目遣いに気まずそうな笑みを浮かべていった。その乃梨子さんの表情を待たず、急速に落ち着いてきた瞳子は、いたたまれない気持ちになってくる。
 乃梨子さんが、やっと口を開いた。
「あのさ、瞳子。――志摩子さんじゃ、ダメ?」
「もう、いいですわ!」
 むしろ逃げるように走り出した。後ろで乃梨子さんが何か叫んでいたけれど聞き取れない。小道を一気に走り抜けて、昇降口に裏から飛び込む。靴箱のところにいたシスターが眉をひそめて何か言いかけるのを、スピードをあげて飛び出すと、ずっと向こう、マリア様の前から伸びる並木道に、祐巳さまの背中が見えた。



 石畳に落ちた銀杏の葉を踏みしめて、瞳子は自分が上履きのまま来てしまったことに気付いた。あたりは下校する生徒がけっこう歩いている。気恥ずかしさに睨みつけた背中は、演劇で鍛えた瞳子の発声なら、もう届きそうな距離だった。
(これも全部、あなたのせいですわよ、祐巳さま!)
 祐巳さまの、頭の両脇のおさげは楽しげにひょこひょこ揺れていて、持ち主の能天気さをつきつけてくるようだった。息遣いと足取りをしめして上下する肩を目で追っているうち、さっきまで瞳子の思考をストップまでさせていたエネルギーが急速に目減りしてきて、自然足取りの遅くなった瞳子は、祐巳さまと歩調をあわせて歩き出した。
(何をしているんですの、私は・・・)
 こんないいお天気の日に、息をきらして、汗を流して、馬鹿みたいになって、どう考えても思い過ごしなのに、「バクダン」なんて。
 だいたい、祐巳さまに何と言えばよいのか。「バクダンが入っているかもしれないんです」なんて言えるわけがないし、かといって遠まわしにしたところで、革靴も履いていない瞳子の様子に気がついて、問い詰めてくるかもしれない。意外と目ざといところもある人だから。
 そんなことを考えていると、祐巳さまの、見るからに頼りなげな背中から、見えない拒絶をされたような、心細い思いがわきあがってきてしまう。
(いけない)
 とりあえず文句でも言って、調子を取り戻さないと、そう思って、再び足を早めようとした瞳子の目の前で、いきなり祐巳さまが走り出した。
 あっけにとられているすきに、校門からするりと出た祐巳さまの後を追うように、門の前の通りを音をたててバスが行き過ぎる。
(しまった)
 鞄を持っていないように見えたから油断していたけれど、どうやら祐巳さまは、今日は山百合会に顔を出さずに先に帰ってしまうようだ。鞄はおそらく、くだんの箱の中なのではないだろうか。
 息せききって校門から走り出ると、バスに乗り込む生徒の列のしんがりに、タラップを登る祐巳さまの姿が見えた。バスの扉が、空気を吐き出して閉まる。
「祐巳さま!」
 お腹に力を入れて呼びかけた声は、走り出すバスの車体がガタガタ言う音にかき消され、校門付近にいた生徒を数人、振り向かせただけだった。交差点に向かうバスの背中の窓に、一番後ろの席に腰をおろす祐巳さまの姿が見えた。
(まあ、これは、もう・・・しょうがないですわね)
 赤信号で止まったバスに、それでもこれはあきらめるしかないと思いながら、瞳子は何気なく腕の時計を見た。4時をまわっている。薔薇の館で瞳子が「バクダン」の時計を見てから、およそ10分ほど。
 唐突に、ひとつの考えが瞳子の心臓をわしづかみにした。あの「バクダン」の時計が狂っていたのではなくて、ある種のタイマーだったら、どうだろう。正午にあたる、つまり文字盤の一番上のところで時計の針がそろったときに、何か起こるのだとしたら。昨日のドラマでは、そんな設定だった。迫り来るタイムリミットに、汗を一杯流しながら、若い刑事は青と赤のコード、どちらを切るのかで悩むのだ。
 もう一度時計を見る。もしも同じように時を刻んでいるならば、祐巳さまの持っている箱の中の時計が正午を指すのは、・・・あと三十分あまり。
 信号が青に変わり、バスの前に止まった車が動き出す。
(ああ、もうっ!)
 考えがまとまらないまま、直火をあてられたように何もわからなくなって、瞳子は走り出した。この時間の例外なく渋滞気味の車の列に交差点でさえぎられたバスを横目に、信号を渡る。



 あわよくば次のバス停に先回りできれば、と思っていたけれど、いくら道が渋滞気味でもそこは車と人の足、走っては止まりをちょくちょく繰り返しながらも、バスは次第に遠のいていく。
 リリアンの生徒専用のバスではないけれど、この時間、M駅に向かってバスに乗り込んでくる一般の客がほとんどいないことは、瞳子もよく知っていることだった。つまり、M駅までほとんどどのバス停にも止まらずノンストップの訳で、追いつくのはほぼ絶望的だろう。
 今ならまだ、引き返せる。
 鞄も何も、リリアンに、薔薇の館に置きっぱなしで来てしまった。そろそろ集まっているだろう他のメンバーたちは、どう思っていることだろうか。そして、そもそも私は、何をしているのか。
 それでも足が止まらなかった。もう少し行ってみよう、という興味のような、好奇心に似た気持ちが瞳子の背中をひたむきに押していた。 
 夕方ということで、けっこうな人が出歩いている歩道を、かきわけて、かいくぐり、体を斜めにしたり、横にしたり。ステップを踏んで、置いてあるものを飛び越え、瞳子は走った。顔の両脇で縦に巻いた髪が、頬骨のあたりにばしばしと跳ね返る。この長いスカートでこんなに早く走ったことはなかったな、とぼんやりと思う。きっとプリーツも乱れまくり、みっともないことだろう。リリアンの生徒がこんな、なんて話題にならなければいいけれど。現に、瞳子の剣幕に驚いてか、たまにすれ違う人の視線が背中に感じられて、それすらも振り切って、急ぐ。
 変わり始めた交差点の信号に、一段と猛ダッシュをかけた瞳子の目前に、いきなり自転車がすべりこんできて、、のしかかるようにぶつかりかけた瞳子は、なんとか寸前で身をひねったものの、勢いあまって、止まった自転車のハンドルに手をかけてなんとか身を支える。
「ご、ごめんなさい・・・」
 自転車から降りた人のよさそうな中年の男性が、おどおどと頭を下げるのに、荒く息をついて返事もできないでいると、信号はもう変わってしまっている。
 祐巳さまの乗ったバスは、かろうじて通りの向こうに影のようにしがみついている。そもそもそれがバスなのかどうかもわからないような距離。握ったままのハンドルの感触に、瞳子は我にかえった。
「あ、あの、これ貸してくださいませんか」
 頭をさげた男性の後頭部にむかって、ほとんど反射的に口走っていた。
「は、あの・・・?」
「お願いします、どうしても、急ぐんですの!」
 怪訝そうに瞳子を見上げていた男性は、汗にまみれた瞳子の顔に気圧されたのか、「え、ええ・・・・」とあいまいに言葉を濁した。それを了解と受け取ることにして、瞳子はスカートを押さえて自転車をまたいだ。
 ちょうど信号が変わり、所在無く立ち尽くす男性に対して、「M駅までですから!」と言い置いて走り出す。ごつごつした自転車の外見のとおりペダルは重く、ほとんどサドルから立ち上がって、瞳子は体重をかけてこいだ。
 運良く、バス停に停まっていたらしく、さっきより少し近づいたバスの窓に、祐巳さまの姿が小さく見えた。話しかけられでもしたのか、横を向いている。表情までは見えなかったけど、なんだかいつもの能天気な笑顔が浮かんできて、忘れていた怒りが頭をもたげてくる。
 だから、なんで、私は。こんなに頑張っているんだろう。
 重いペダルに跳ね返されて、行き場を失った苛立ちが胸の中で跳ね回る。
 出会ったときには、さして何の感想も抱けなかった、祐巳さまというひと。それが、あこがれていた祥子お姉さまの、心の底からの関心を一心にひきつけていることに気づいたとき、はじめて憎らしくなった。祥子さまの妹になったのは別にいいのだけれど、なんだか一番だと思っていた人の上に、無遠慮に割り込まれたみたいで、それだけ自分のいる位置が下がったような気がして。
 それほどまで思われているのに、祥子さまを信じられない祐巳さま。梅雨の日に、そんな祐巳さまの態度に腹が立って、正面から噛みついたこともある。祐巳さまの側が悪かったとは思わないのだけど、あきらかに後ろめたいことが行われているわけじゃないのに、祥子さまを見つめる祐巳さまの瞳に非難めいた色が動くのが我慢ならなかった。不条理だと思った。どこか正義感に近い、そのときの自分の感情をそんな風に思い出す。
(それに。――どうしてこんなに、こぎにくいんですのっ!)
 こちらの方角からのイライラも増すばかり。去年の夏休みに乗って以来、自転車に乗るのは実に一年ぶりだから、こんなにふらついて走りにくいのかと思ったけれど、よく見ればこの自転車、後ろに荷台のようなものがついていて、しかも液体が入っているらしく、ペダルをこぐたびパチャパチャ音がして、余計に揺れるような気がするのだ。なんだか少しずつこぼれてもいるようで、すれ違う人の中で敏感に振り返る人がいることにも、瞳子は気付きはじめていたけれど、もうどうしようもない。
 ハンドルのところに、ラッパのようなものがくくりつけられているのに気付いて、吹いてみようかと思ったけれど、瞳子の細腕では、がっしりしたハンドルは両手で押さえるのが精一杯で、とても手を離したりできそうになかった。
 また少しずつ遠くなっていくバスの窓で、相変わらず祐巳さまは瞳子に気がつかない。そこで怒るのも道理にあわないと思ったけど、せいぜい非難をこめて、睨みつけて、またペダルを一下ろし。
(それでも。今が一番憎たらしいですわ、祐巳さま)

後編へ

SSトップへ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送