〜「走れ瞳子」後編〜






 さすがに途中で置いていかれてしまったから、瞳子がM駅に着いたときには、祐巳さまが乗っていたであろうバスは、駅前のロータリーに並んだバスの車列にまぎれていて、追いかけていた車体を見分けることはできなかった。おそらくはもう、行き先の表示とかも変わってしまっているのだろう。
 交番にほど近い歩道に自転車を立てかけて、瞳子は駅舎の階段を駆け上がった。といっても電車に乗ってはいけない。祥子さまに聞いたのだったか、確か祐巳さまは、この駅の南口から出ている別のバスに乗るのである。
 駅の改札を横目で見ながら、ごった返す人波をかきわけて進む。時計を見ると、「バクダン」の時計の針がそろうまで、あと15分強といったところ。
(でも。きっと何も起きませんわよね)
 あらためて、つまらないことをしていると思う。祐巳さまが抱えていったんだから、あれはきっと、祐巳さまの持って帰るべきものだったんだろう。
 お菓子の入っていそうな箱が入っていたから、こっそりネコババして、見つからないように先に帰った・・・なんてこと、いくら祐巳さまだってするはずもないだろうし。
 駅の南口に出たところで、あらためて引き返そうかと思う。たぶんもう祐巳さまは、次のバスに乗ってしまったことだろう。そうなるともう、どっちに行っていいのかわからない。
 駅に入っているテナントのショーウィンドーに写る自分の姿は、それはひどいものだった。髪のロールはすっかり緩くなって肩の辺りにだらしなくかかり、セーラーカラーはぐしゃぐしゃ、スカートは汗を吸ってべったり。上履きもその上の三つ折りソックスから、自転車に乗っていてついたのだろう、すすのような黒い点がそこかしこについて、ぶちのようになっている。
 バス停はいくつかあるけれど、ちょうど停まっているバスはなく、祐巳さまはおろか、リリアンの生徒らしい姿も見当たらない。
 けれどもう、不思議と怒りは湧いてこなかった。疲れているのもあるだろうけれど、乾いた達成感のようなものが、水をもとめて瞳子の中であえいでいる。地面とひとつになったような平べったい感覚の中で、それは顔をあげて息継ぎをした。
 見つけてほしい。今の、私を。
 電光のように、午前中に会った祐巳さまの笑顔が浮かんだ。しびれかかった足に力をこめて、瞳子は急ぎ足でバス停をめぐった。おそらくはこの中のひとつが、祐巳さまの家に向かうルートを走るはずだった。山百合会に手伝いに入るときに渡されたメンバーの名簿をおぼろげに必死に思い出す。どうにか町名まで思い出して、それらしい行き先がないか、バス停に書かれた運行ルート表を斜めに読んで、すばやく次へ。
 不安ながらもどうにか見つけて、というより無理やり絞り込んで、そのバスがどの道に入っていくのか、並んでいるお客さんに教えてもらい、瞳子は表の通りに飛び出した。
 ちょっと走って、歩道橋を渡り、バスの走る側に降りて、次のバス停をめざす。胸の中でどろどろと不安が渦巻いた。ここから先はあてずっぽう。祐巳さまの乗るバスのルートがここで間違いなかったとしても、祐巳さまがどのバス停で降りたのかはわからない。
 とりあえず、後ろからバスが来たら、停まってもらおう。よくわからないけど、一生懸命手を振ったりすればなんとかなるんじゃないだろうか。そんなこと、もちろん恥ずかしいけれど。もしかして、ほんとにもしかしたら、命にかかわるかもしれないことなんだし。
 そこまで考えて、M駅の北口にあった交番を思い出して、瞳子は後悔した。おまわりさんに言って大ごとになったら、それが勘違いだったとしても、自分だけじゃなくて、祐巳さまにまで迷惑がかかるかもしれない。けれど、人の生きるか死ぬかのことなら、そんなことどうだっていいことじゃないだろうか。
 ――嘘つき。
 嘘つき、瞳子。
(嘘じゃ、ございませんわ!)
 でも、正確じゃない。もうずっと、そんなあなたに、私は閉じ込められている。
 灰色の道の上で、ふつふつとひとりでに、瞳子の中で会話がはじまった。それはもう、この夏の前から、何度も何度も繰り返してきたこと。
 腕時計を見る。「バクダン」の正午まで、あと10分あまり。



 あと7分。
 二つ目のバス停を見つけ、名前を確認して、また走り出す。
 わずかの間に、どうせ思い過ごし、何も起きはしない、という楽観と、ホントにそうだったらもう時間が、という絶望がかわるがわるに押し寄せて、ただでさえ苦しい呼吸を圧迫して、うっとおしい。長いスカートの端はもはやずしりと重く、足を前に運ぶたびに鉄板みたく膝やすねにぶちあたる。何度も何度も、大きなはさみでスカートの下半分を切り捨てる空想を瞳子は描いた。
 傾いた秋の、紫色の夕暮れが、町の頭の上に落ちてきている。こんもりと漂う生暖かい空気が、ねっとりと上半身にからみついて、ただ忙しく動かす足のあたりだけ、せわしない空気がつめたく肌の上を過ぎ去っていく。車の光と音だけが氾濫する道の上を、瞳子はひたすら走りつづけた。アスファルトの盛り上がりに膝をとられる。白ちゃけたコンクリートに打ちつけられる踵が痛い。丸まった落ち葉、転がった空き缶、細かい砂、ガラスの破片。そんなものがいちいち目にとまり、夢のように過ぎていく。体の疲ればかり現実的で、あとはなんだか、自分の体のありかすらわからなくなってくる。全力疾走してるつもりだけど、それも感覚にすぎなくて、人から見ればフラフラ、ヨタヨタなのかもしれない。
 3つ目のバス停が見えてきた。ずっと大きな通りにそってあることが救い。そうはいっても、先に降りてしまっただろう祐巳さまを、どうやってつかまえればいいのか。家に入られたら、それこそ偶然表札でも見なければわからないだろうし。
 そもそも、そのときにはたぶん「バクダン」の時間は過ぎているわけで。そうなったら、もう祐巳さまに会う理由なんてなくなるのだ。理由なんて。
 そうなのだ。理由なくて私は、祐巳さまに会うことすらできないのだ。
 胸にうかんだその事実に、突然後ろから胸に風穴をあけられたような衝撃がはしり、じわじわと情けない気持ちになってくる。体の力がそれこそ風船のように抜けていくのを、どうすることもできない。息がつまりそうになる。足が止まりそうになる。とてつもなく重い錘をつけられたみたいに、間延びする体と心を、さりとて道の上に置き去りにすることもできない。
 いつから、こうなってしまったんだろう。ひどい言葉をかけたり、つめたい態度をとったり、でもそんな攻め方が、祐巳さまに確かに届いていたのは、ほんとに一瞬だったような気がする。祥子さまの別荘地でのこと、細川可南子を受け入れてしまったこと。いちいち思いがけなくて、無視できないやりかた。瞳子に否応なく屈辱感をあたえる存在。
 だから、嫌いだったのだ。ずっと嫌いで、今だってきっと嫌い。
 いつから、こうなって。それはきっと、瞳子の側だけの問題で、「関係」とかいうものじゃなくって、祐巳さまはきっと、私に出会っても、何も変わってはいないんだ。
 すごい勢いで熱いものがこみあげてきたのを、全力で押し戻して、時計を見る。もう3分を切った。走れ、瞳子。すべてに目隠しする気持ちで、太ももを励まし励まし、夕日の照り返すまぶしい道に目を眩ませて、前進する。3つ目のバス停の名前を眺めながら過ぎる。とにかく時間まで、私は走るべきなんだ。
 不意に、日が翳った。轟音をたてて、瞳子の脇をバスが過ぎる。
 すぐ背後のバス停には停まらなかったらしい。あせって見上げたけれど、もうバスの側面は見えなくて、逆光になった車体の後ろからでは、乗客の顔なんてさっぱりわからない。
「ゆ・・・」
 ガードレールから身を乗り出して叫んだけれど、思っていたよりも乾ききっていた喉からは、ひゅうひゅう風のような音が漏れるばかり。バスはしだいに遠くなっていく。
 瞳子はガードレールから手を離した。背を伸ばし、胸をはり、大きく息を吸い込んで、バスの後ろをねめつける。
「祐巳、さまぁぁっ!!」
 瞬間、舞台の上の感覚が戻っていた。
 数秒走り続けたバスが、身じろぎするように路肩に寄るのが見えた。



 タラップから降りてきた祐巳さまは、一度振り向いてバスの中に頭をさげると、ぽん、と路上に飛び降りてきた。
「・・・瞳子ちゃん、なの?」
「バクダン」の箱をかかえたシルエットが首をかしげる。瞳子はもう時計を見なかった。
「祐巳さま、それを早く!爆発します!」
「え・・・」
 瞳子は突進した。下からすくいあげるように祐巳さまの手からダンボール箱をもぎとり、そのまま走って、歩道の左手のコンビニエンス・ストアの駐車場に放り投げた。
 乾いた金属音が響いて、倒れなかった段ボールの箱が、お尻をこすって半回転して止まる。
「祐巳さま、こっち!」
「え、なに、なんなの?」
 ぼぉっと突っ立った祐巳さまの手をつかんで、電柱の影に走りこむ。左手をかざして見た時計は、今まさに「バクダン」の時計が正午を指したことを示していた。
 ゆっくりと針が一周する。何も起こらない。けれど、そもそも時刻のずれは一度見ただけだから、見間違っているかもしれないし、そもそも箱の中の時計が正確だったのかもわからない。体を固めたまま、瞳子は文字盤だけを見ていた。
 さらに一周、二周。そしてもう一周しかけたところで、腕を掴まれたまま、瞳子の迫力に押されてじっと黙っていた祐巳さまが、おずおずと口を開いた。
「あ、あのさ、瞳子ちゃん?いったいどうしたの、説明してくれないかな?」
「・・・・・」
 やっぱり。
 頭の中がすぅっと冷めていく感覚。まじまじとこちらに向けられた祐巳さまと目をあわせることもできない。あれほど信じていなかったはずの「バクダン」のことを、最後のタイミングでは疑いもしていなかった、自分の心の不思議さを覗き込んで、目をそらそうと躍起になってみるけれど、もちろん祐巳さまは納得してくれない。
「ね、瞳子ちゃん」
「な、なんでもありませんわ!」
「でも、バクハツとかって、言ったよ。なんのこと?」
「バッ・・・。箱の中身が、その・・・・」
「箱?」
 するりと、祐巳さまが歩道に出て行く。それでもまだ一抹の不安のあった瞳子があわてて後を追うと、祐巳さまはもう例の箱の傍に立ってこちらを見ていた。
「これのこと?」
「時計とか・・・入っていましたよね」
「うん、これ」
 無造作に手を突っ込んだ祐巳さまが、箱から時計を引っ張りだした。時計だけ。つまり、どこにもつながっていない。背中からはみ出したコードがみっともなく垂れ下がっているだけ。
「これが?」
「あの・・・それと、お菓子の缶が」
「ああ、こっちね」
 またも無造作に、祐巳さまの手が缶を取り出す。
「これね、覚えてるでしょ、この前江利子さまが差し入れてくださったお菓子の入ってたやつね。なんか物入れに使えそうだったから、令さまに聞いたら持って行っていいって言うから」
 言われてみてはじめて、その缶に見覚えのあることに気がつく。
「じゃあ、その時計も」
「うん。薔薇の館にね、この前まであったやつ。気がつかなかった?夏休みの間にね、吊るしてたフックごと落っこちちゃって、壊れてたの。捨てるつもりだったんだけど、なんかね、勿体なくって。先代の薔薇さまのいた時代からずっとあそこにあった時計だからさあ・・・・」
 今度こそ本当に、舞台の幕がおろされた気がした。失敗だらけの恥ずかしいステージから、どうやって下りればいいのだろう。針の先みたいな、居心地のわるいところで、前も後ろもなくなって、瞳子はやっとのことで、くるりと背を向けた。
「瞳子ちゃん」
 どうしたことか、セリフも出てこない。どろりと濁った液体を体中に詰め込んだみたいに、手足に疲れが満ちてくる。
「瞳子ちゃんたら、ねえ?」
「なんでもありませんたら」
「なんでもなくないよ。――こんなになって、瞳子ちゃん。私のため、だったんでしょう」
 とっくに気付いていたことだけど、祐巳さまの言葉にあらためてぼろぼろの自分の格好が恥ずかしくなって、でも逃げ出すつもりもなくて、歩道にむかってよろめいた瞳子の手を、今度は祐巳さまがつかまえてくる。
 大事な服を畳み込むように、ゆっくりと瞳子は祐巳さまに引き寄せられた。
「いかないで、瞳子ちゃん。お願いだから。話を聞かせて、ね?」
 ほぼ真下に垂れた瞳子の視界の中で、祐巳さまの腕はこわごわと、でもためらわずに瞳子の肘に触れ、肩にふれて、頭の横に、花を挿すみたいに、そっと添えられた。
 瞼を閉じると、張り詰めた体が少しだけ柔らかくなる。通りを車が走りぬける音が、妙にはっきりと聞こえた。
「ありがとう」
 耳のすぐ傍で声がした。祐巳さまに包まれた右手から、祐巳さまの鼓動が伝わってくる。



「祐巳ちゃん?」
 声がして、顔をあげると、部屋の薄く開いた扉のところに、お母さんが立っていた。
「ご飯できたけど、いらない・・・かしら、まだ」
 祐巳の背後に、ちらっと視線を移して、遠慮深く笑いかけてくる。ベッドに腰をかけた祐巳は、そうっと肩越しにふりかえった。祐巳の黄色いパジャマを着た瞳子ちゃんは、うつむいてベッドの真ん中に座っている。祐巳のシャツの裾をじっと掴んで、掴んだあたりに目を落としたまま、小さく首を振った。
 顔をもどして、祐巳はかすかに苦笑してみせた。
「・・・うん、いいのよ、ゆっくりで」
 閉まった扉の向こうで、かすかに祐麒の声も聞こえた。気になって様子だけうかがっていたのだろう。
 祐巳はもう一度振り向いた。膝を崩して座り込んだ瞳子ちゃんの、背からずり落ちたタオルケットを掛けなおしてあげる。まだ濡れている瞳子ちゃんの、シャンプーの香りが髪から漂った。
 とりあえず家に連れて行こうと、手をひいて歩く道すがら、一言も口を聞かず、俯きっぱなしの瞳子ちゃんに、祐巳は事情を聞きだすことを早々にあきらめた。気分が悪かったりするわけじゃないらしいと気付いたせいもあるけれど、とにかく体中のものを使い切ってからっぽになったような瞳子ちゃんを、さらに逆さまにしてまで何か引き出そうとしてはいけないような気がしたのである。
 黙ったまま家について、とりあえずシャワーを使わせているところに、乃梨子ちゃんから電話がかかってきた。
『祐巳さまがどうか、とか言っていたからひょっとして、と思いましたが。荷物を預かってますので』
 祐巳の話をざっと聞いて、乃梨子ちゃんは「ああ」と小さく笑った。
「何か知ってる?乃梨子ちゃん」
『いいえ。でも何か勘違いしてるみたいでしたから。何事もなかったのなら、よかったんじゃないでしょうか』
「うん」
『お姉さまと紅薔薇さまには事情を説明して、早く帰らせてもらいましたけど。細かいことは誰にも言っていないし、気にしないよう、本人には言っておいてやってください』
 やさしい乃梨子ちゃんの言葉をうけて、祐巳も、瞳子ちゃんに訳をたずねる気持ちを、放棄する気持ちになったのである。
 シャワーから出た瞳子ちゃんに、乃梨子ちゃんの話を伝えて、ついでお泊りの許可をもらうために、お家に電話をさせた。お父さんが早く帰ってくれば、車を出して送ってもらうこともできるけれど、このところの帰宅時間を考えると、難しいと思ったから。お酒なんて飲んで帰ってきたら、論外だし。
 瞳子ちゃんはあいかわらず何も言わず、うつむき加減だったけれど、祐巳の指示にはすべておとなしく従った。不機嫌なのかと思ったけれど、電話でははきはき喋っていたし、着替えようと部屋に上がる祐巳にあわてたようについてきた仕草からも、いつものツンツンした感じは少しもなくって。
 とりあえず祐巳の方は、安心していていいのだと思えた。瞳子ちゃんに何があったのか、きっとそのうちに話してくれるだろう。
 ふと気づくと、うつむいたままの瞳子ちゃんの頭がぐらぐら揺れている。
「ちょっと寝ようか」
 そう言って、電気を小さくしようと立ち上がりかけたけれど、瞳子ちゃんの指はしっかりと祐巳のシャツを握り締めたまま。苦笑しながら、先に横になって、瞳子ちゃんのパジャマの袖を引くと、やっぱり何の抵抗もなく、祐巳の隣にころりと倒れた。
 半開きになった瞳が、ぼんやりと祐巳のお腹のあたりを見ている。本当に、こんな瞳子ちゃんを見るのははじめてだった。顔にかかった髪をかきあげてあげると、かすかにぴくりとしたけれど、少しも嫌がる様子はない。
 きっと、こんなときもある。
 うっすらと、あの雨の日を思い出す。祥子さまに置いていかれたようで、何もかも空っぽになって、雨にうたれるしかなくて。全体重で聖さまに甘えた日のこと。今の瞳子ちゃんが、そんな状況なのかどうかわからないけれど、自分というものが全部抜け落ちて丸裸になるときは、きっと誰にでも訪れるんじゃないだろうか。そんなときは、甘えてもいいし、きっと甘やかしてもいいんだ。そう思う。
 瞳子ちゃんは私に寄りかかってくれた。そのことが単純に祐巳には嬉しかった。
 小さい寝息が聞こえてくる。お腹に当たるかすかな息の感触を確かめていると、なんとなく祐巳も眠くなってきた。
 プライドの高い瞳子ちゃん。明日には戻ってきてくれるかな。
 気に入らないことや、道理にあわないこと、歯に衣着せずびしびし指摘してくれる、頼もしい下級生。思えば、祐巳にはないそんな部分を見せつけられて、たきつけられて、間違わずに済んだこともいくつかあったような気もする。頑固で、しぶとくて、ふてぶてしくて、それでも憎めない、どこか不器用なかたくなさ。積み上げた煉瓦のようなその隙間に、いつの間にか、やわらかく溶け込んでいきたい気持ちの生まれていたことに、祐巳はたった今気づいていた。
(ま、いつもだったらね。はねつけられるんだろうけど)
 今日はほんと、どうしたことなのだろう。瞳子ちゃんは、私を追ってきてくれた。M駅でお母さんの用事を済ませ、それで少し遅れてバスに乗らなければ、ぼんやりと聞こえたような声にバスの窓から外を見なければ、瞳子ちゃんには会えなかった。そんな偶然よりなにより、こんな瞳子ちゃんの姿を見られたことの方がよほど貴重な気がして、毛布の上から、祐巳は瞳子ちゃんの背中をそっと撫でた。
(でも、きっと、明日までのことなんだろうけれど)
 こんなにしおらしいのは。
 食事が始まったらしい階下からは、お母さんと祐麒の話す声が、波の音のように、さらさらと流れてくる。

 明日までは持たなかった。
 夜半に目がさめて、祐巳と夜食のテーブルにつく頃には、瞳子ちゃんはすっかり復活していて、まだ起きていた祐麒と二人して、校内と家庭内での祐巳の、どちらかといえば恥ずかしいエピソードをかわるがわる持ち出して、大いに盛り上がってくれたのである。



 祐巳さまと二人、涼しい朝を歩く。
 今朝方もう一度乃梨子さんからかかってきた電話に出て、申し合わせて早めにリリアンで合流することにした。電話してる間寝ぼけまなこだった祐巳さまには、お礼を言って先に出ようとした瞳子だったが、その前に祐巳さまのお母さまに朝食に引き止められ、お父さまにも話しかけられ、起きてきた祐麒さんとも話している間に、すっかり祐巳さまは準備をととのえていて、逃げ出すことができなかったのである。
 馴染みのクリーニング屋さんがいるとかで、祐巳さまのお母さまが無理を言ってくれたらしく、瞳子の制服は綺麗になっていた。靴も靴下も借り物。家の道具がないと巻けない髪も垂らしたままで、そのせいなのか、昨夜おそくに取り戻したいつもの気持ちが思い出せないでいる。また祐巳さまの目を見られない。
 斜め後ろから見た祐巳さまの頬はあからさまに緩んでいる。
「・・・別にいいですわよ。お笑いになっても」
「あ?ううん。そんなんじゃないよ。ただ・・・・」
 言いながら振り向いた祐巳さまと目が合って、頬も何も、一気に紅潮するのがわかる。この弱みにいつまで振り回されることになるのか、半ばやけになって、
「いいですのよほんとに。瞳子の醜態を、どなたにお話になったところで、気にしませんわ」
と言ってみたところ、それを聞いた祐巳さまは、むしろ余裕をもってにやりと笑ったから、瞳子はますます動揺した。
「な、なんですの」
「何言ってるの。瞳子ちゃんと私の二人の秘密にするに決まってるじゃない」
 そして、思わせぶりに晴れた空を見上げた祐巳さまは、いくぶん小憎らしい笑みをうかべて、瞳子に向き直って口を開いたのだった。
「一生忘れてあげないから、ね」




<了>

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