「うるさいなっ!!」 けれど指先からクッションが離れたとき、福沢祐麒はもう後悔していた。中途半端にコントロールを離れたクッションは、それでもそれなりの勢いで、祐麒の机の上のものをなぎ倒して止まった。シャーペンやらボールペンやらが床に落ちて、耳障りな音を立てて跳ねまわり、――急に静かになる。 祐麒はおそるおそる目をあげた。目に力を入れて、机の横を視界に入れる。 祐巳が立っている。優しい姉。口元でかたく握りしめた手のむこうには、先ほどまでの笑顔は微塵もない。 それでも、怒りや悲しみよりも驚きの色をその表情に見てとって、祐麒はなぜか猛烈に焦った。不条理に攻撃されたにもかかわらず、理解しようとしてくれてる、俺のことを――。この子が、祐麒が、どうして、って。 何か言わなくちゃ。 「ゆ、祐・・・。・・・・・あ、のさ」 声をかけたとたん。祐巳の瞳にぐぐっと盛り上がった涙の粒に、祐麒は激しく動転した。 くるりと背をむけ、祐巳が部屋を出て行く。 「祐巳!」 やっと呼べた名前にも、姉は振り返らなかった。彼女の部屋のドアが閉じる音。 階下から何か異変を感じたのか、「どうかしたの?」と母が呼びかけてくる。 「なんでもないよ」 祐麒より先に祐巳の答えが聞こえてきたから。努めているだろう穏やかなその声に、祐麒は更に追い込まれた気がした。 汗のにじんだ拳を固く握り、何度も自分の腿に叩きつける。 (なにやってるんだ、俺は・・・) 傷つけてしまった。大好きな姉を。 ―フシテナガレル― 「・・・おはよう」 「おはよう。珍しいわね、祐麒が祐巳ちゃんより遅いなんて」 翌朝の食卓。味噌汁の椀を持ちながら、祐巳はちゃんと祐麒の声にちゃんと顔を向けてくれた。だから祐麒には、それが不自然な努力だ、ということがわかってしまったのだが。 「やあね、お母さん。わたしが早いからって、言ってくれてもいいのに」 言いながら祐巳が立ち上がる。 「あら?もう行くの?」 「うん。ちょっと急ぐから、今日は」 「なんだ祐巳ちゃん。送っていこうか?」 新聞から顔を上げて父が言う。 「ううん、ありがとう、でもいいよ」 その返事はもう洗面所から聞こえる。祐麒は座りかけた椅子からまたすぐに立ち上がった。 「あら?祐麒も?」 「ああごめん。俺も急ぐんだった。思い出したよ」 訝しげな両親の視線を振り切って玄関に向かうと、もう祐巳は靴を履き終えていた。 「あのさ。昨日ごめん。ほんとに」 先に立って歩く祐巳の背中に、祐麒は力を込めて言葉を送った。祐巳は振り返らない。 「ガッコでいろいろあってさ。ちょっとイライラしちゃって。・・・ほんとごめん」 だから。日曜に「お姉さま」とお出かけする予定について、にこにこと喜色満面で話しかけてきた祐巳に、どちらを選んでもハッピーになれそうな質問を屈託なくぶつけてくるその姿に、我慢ならなくなって。 「うん。そんなことじゃないかな、って思ってたよ」 不意に祐巳の声が聞こえた。信号で足を止めてこちらを見ている。やや硬い笑顔だったけれど、祐麒は少し安心した。 「この前、花寺の文化祭を手伝った時ね」 「うん」 横に並んだ祐麒に寄り添って、祐巳が口を開いた。 「祐麒が生徒会長だって知ったのもそのときだったけど。本当に大変そうだったからさ。やっぱり男の子って元気だし、まとめていくのって、なにかとあるんだろうなって」 「まあ・・・ね」 花寺の文化祭の時の騒動は、まだ二人の記憶に新しい。事を起こした推理小説同好会・・・というよりそのOBの柏木さんの顔を立てて表沙汰にはしていないが、祐巳を巻き込んでけっこうな騒ぎになったのだ。 「だから、気にしなくていいよ。わたしだって来年、山百合会をしょって立たなくならなくなったら、どうしようって、たまにね・・・」 信号が変わった。祐巳が歩き出す。 でも――投げたのはクッションだったけど。祐巳の体に当たったわけじゃないけれど。 確かにあの瞬間、祐麒は本気で拒絶したのだ。遠ざけようと、傷つけようとしたのだ。 その相手は祐巳でなく誰でもよかったのかもしれないけれど、込められた悪意は確かに本物で、間違いなく祐巳に届いたはず。 だから祐巳は泣いてしまったのだから。 「でも・・・ごめん」 無言で二人バスに乗って、降りるときにつぶやいた言葉を、ちゃんと姉は聞いていたらしい。 「祐麒?・・・なによ、らしくないなあ」 M駅のロータリーをしばらく歩いてから、今度こそからりと祐巳は笑って、祐麒の顔を覗き込んできた。 「・・・いいよ。でも何かあるんなら話してね?あんたって肝心なことは何も話してくれないんだから」 「・・・・ああ」 「たまには、お姉さまらしいことをさせてちょうだい・・・ナンチャッテ」 台詞の最後で冗談めかし、「じゃあね」と祐巳は離れていった。スカートが翻らないくらいに駆け足なところを見ると、どうやら本当に急いでいたらしい。ああ見えてもリリアンでは生徒会メンバー、いろいろするべきことがあるのだろう。二つに縛った髪の束がぴんぴん跳ねるのが見えなくなるまで見送ってから、祐麒はのろのろと歩き出した。 祐巳は俺を許してくれた。 でも俺は、自分を許せない。 先週の金曜だった。悪く言えば軽い、よく言っても軽い性格の小林正念が、いつになく深刻な顔をして放課後の生徒会室に現れたのは。 「ジュリエッタが」 犬の名前だった。とはいっても、小林の飼っている犬ではない。 ひょうきんでお調子者の小林だが、動物好きで、しかも意外にもその愛情はとても純粋で「洒落の通じない」ものだった。彼自信そのことに気づかれまいとしてなるべく普段の調子で話そうとするのだが、祐麒から見てもとても誤魔化しきれていない。 ジュリエッタは毛のふかふかした、大きなレトリバー。女の子。大きなお屋敷の玄関先にいつも寝そべっている。飼い主の老婦人同様、年をとっているが、小林の姿をみるといつもゆっくりと体を起こし、頷くように頭を揺らす。小林がそばに行って頭を撫でるまで、そうしている。 「なんつーか、気品があるっていうの?んで、目がすっげーやさしいんだわ。もーあの目を見るだけで、なにがあっても癒されちゃうのよねん」 なんて、『のろけ話』を何度聞かされたことか。おかげで、通学コースが違う祐麒は全く会ったことにもかかわらず、「ジュリエッタちゃん」のことが綿密にイメージできるようになっていた。 そのジュリエッタが、交通事故にあったのだ。いや、事故などではない。 ある雨の早朝。大きな物音に驚いて外に出た飼い主の目に、玄関先でぐったりと横たわった愛犬の姿が飛び込んできた。 あたりには、くっきりとしたタイヤの跡。この場所は車道から引っ込んでいるから、わざわざバイクか何かで悪意をもって乗り上げてきたことになる。 うずくまるジュリエッタの傍には、意味のわからない悪口雑言の書かれたノートの切れ端が落ちていたという。高架線の柱の落書きのような、何の因果もないものだった。 ジュリエッタは、前足の骨にひびが入っていたけれど、さいわい命には別状はなかった。小林は動物病院にまで駆けつけて、それだけの事情を聞いてきたのだ。 「誰がなんで、あんな非道いことを・・・」 怒りに震える小林にかける言葉に苦労した祐麒だったが、とりあえず今度お見舞いにいこう、というアリスの一言をきっかけに、皆して必死に慰めた甲斐もあって、帰るころには小林も明るい顔になっていたのだ。 けれど事態は、それで終わらなかった。 |
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