「お姉さまと一緒」





 後をつけているわけではない。たまたま、進む方向が同じだけだ。

 真美はそう自分に言い聞かせた。ポケットの中の右手にはしっかりとメモ帳を握りしめていたものの。
 垂れ込めた雲に閉じ込められた夏の熱気が、K駅前の通りには充満していた。夏休み最後の週末明けの平日ということで、惜しむように繰り出した学生とおぼしき若者が右往左往する繁華街は、ひどく歩きにくい。にもかかわらず規則正しく前を行くターゲットを見失わないよう、真美はジグザグに道の上を走った。
 駅ビルにつづく階段へ足を踏み入れたベリーショートヘアの長身の姿は、支倉令さま。徒歩通学の圏内に住んでいるはずの彼女の姿を、新聞部の雑用を済ませ乗り込んだバスの中で見かけたものだから、バスを降りた後も真美は彼女に張り付いているのである。
 いくら新聞部とはいえ、事前にそれとなく掴んだ情報があるのならまだしも、しかも学外で、尾行めいたことをするのは・・・などと言えば現部長の三奈子さまなどには「何を甘いことを」と言われてしまうだろうが、正直真美にも抵抗がなかったわけではない。しかし支倉令さまはなんといっても当代山百合会の黄薔薇さま。話題性には文句のつけようもないし、何より今の真美にはどうしても記事を仕立てなければならない事情があったのである。
 駅ビル三階のスポーツ用品店に立ち寄った令さまは、ついでジーンズショップに入って、ものの5分ほどで包みを手に出てきた。たぶん以前穿いていたものと同じものを買ったのではないだろうか。
 しかしジーンズを買ったことくらいでは記事にしても仕方ない。買い物だけが目的だったのか、と真美がやや落胆しつつ目で追っていると、令さまは今度はエスカレーター前の大きなショーウィンドーの前に立ち止まった。
(え?)
 近づいてみると間違いない。そこは、女性用水着を着たマネキンがこれでもかと脚を踏ん張っているエリアだった。それも、カッティングや飾りの入ったビキニの大胆なもの。時節柄割引き札のついたりしているそれを、令さまはどこか緊張感ない横顔でぼぅっと見入っている。お互い制服だからあまり近づけないけれど、真美にはその背中がうっすらと笑っているようにも思えた。
(まさか令さま)
 ああいうのを着たいんだろうか。いや、着ているんだろうか、普段。「ミスター・リリアン」と呼ばれて見た目も男の子のような令さまが、うっとりと水着に見入るなんて。これはそれなりに中身のあるネタになるかもしれない、そう思いつつ、慎重に引っ張り出したメモ帳を真美が膝の上で開いたとき、
「!!」
 いきなり肩の上に暖かな感触をおぼえ、真美は声もなく飛び上がった。
 知らない男が、真美の肩口に手をかけて覗き込んでいた。令さまより頭一つも大きいだろうごつごつした体の、Tシャツからはみ出た手も足も毛深くて、そのくせ顔だけのっぺりとして髭もない丸坊主だから、なんだか年齢の程がわからない。そもそも、息遣いの感じられそうに近づいたその距離に、真美の頭の中が真っ白になる。
「き・・・きゃ・・・」
 押さえきれず声を出して、ほとんど腹ばいで真美は逃げ出した。真美の反応をぼんやり見送ったその男が、無表情のまま手を伸ばして一歩、二歩と近づいて来ようとするのを、
「・・・な、なに、近寄らないで!」
 手を振り回して立ち上がろうとするのに、脚に力がまったく入らない。さらに何か言いたげに近づいた男の視線が、真美を通り越してその後ろに向かうのを、嫌な夢のようにスローモーな意識で真美は見送っていた。
「うちの生徒に、何をしているの?」
 凛とした声が聞こえて、真美は即座に我に返った。今度は心地よく肩にかかった手の先には、いつになく厳しい目つきの令さまが、校内でのロサ・フェティダの威厳をそのままに、真美をかばうように男の前に立ちふさがったのだった。



 高等部二年の夏休み。真美にとっては、特別な決意をもってのぞむべきものだった。
 秋に大会やコンクールを控えたいくつかの部を除き、夏休みを前にしたあたりでほとんどの部は部長職の引継ぎを行う。新聞部とて例外ではない。梅雨に入る前あたりからすでに、真美は現部長であるお姉さまから、何度も言い渡されていた。実質小言にも近い、心積もりを求めるようなことを、くどくどと。
 部長のプティ・スールだから次の部長に選ばれた、ということではむろんない。なろうとする者がいなかったのもあるが、客観的に考えても、新聞部発行の「リリアンかわら版」に、他部員の原稿の手直しを含めて毎回一番関わっているのは真美であることは疑う余地もなく、ただ冷静な判断として、二年になったら自分が部長になるのだろうな、という予想というより断定が真美の中にはあったのだった。そもそも三年生まで含めて、今の部員の中で真美に先んじて取材したり記事を書いたりしてくる者がいないのは、やはりリリアンのおっとりした校風によるものなのか。ただひとりを除いて。
「正式な引継ぎは二学期になってからだから。まだまだあなたに一線を譲ったわけではないわよ、真美」
 真美のお姉さまであり、現部長の築山三奈子さまは鼻を鳴らしてそう言ったものだった。
 現在の新聞部で、真美に一切の判断を仰がず動くのは彼女だけ。部長なのだから当たり前なのだけど、仮に真美と立場が逆だったとしても、三奈子さまは今と変わらず行動するのではないだろうか。閃きか直感のように思いついたことに、やや強引ともいえる手段を駆使して取材をかけ、ともすれば主観ともとれる記事を仕立てあげたりする。一年間そんなお姉さまについて活動して、もちろんいろんなことを真美は学んだけれど、尻拭いのようなことをやらされたのも事実だ。特に山百合会――薔薇さまの周辺でおきたことにについて、三奈子さまの創作めいた記事についたクレームに対し、謝罪記事を担当する羽目になったのだ。まあ、他になり手のいない三奈子さまのフォロー役を買って出ていたことも、真美の部長職への道をより堅固にしたのは間違いないのだが。
 とにかく、新しく入った一年生部員もいきなり真美に指示を仰いでくるような現況で突入した夏休み。それが明けて出す「リリアンかわら版」は部長としての真美のこれからの力量を試される機会となるわけで、真美自身その腹積もりでなみなみならぬ決意をもって迎えたのであるが。
(それ、なのに)
 風でちぎれたのか、まだ青いポプラの葉が真美の足元にへばりついている。
 K駅前からちょっと歩いたところにある大きな公園。すでに日の傾きかけたベンチに、炎のような夏の西日が雲の隙間からちらちら降りかかるのもかまわず、真美は座り込んでいた。
 すっかりぬるくなった手の中のスポーツ・ドリンクの缶は、令さまが買ってくれたもの。
 駅ビルにて。真美をかばって立った令さまの剣幕を知ってか、真美を驚かせた男は急に表情豊かになり、照れくさそうにつるつるの頭をかきながら、真美の方をうかがって、
「な、何してるのか、と思っただけだから」
 とだけ言って、そそくさと立ち去ってしまった。
「大丈夫?」
 なんだか麻痺した思考のうちに、手だけのろのろ動かしてメモ帳をしまおうとしていた真美は、隣の令さまの声に一気に自分を取り戻した。電光のように立ち上がると、令さまはいくぶん緊張を目元を残して、心配そうにしている。
「あ、はい。大丈夫です、助かりました」
「そう。よかった」
 本当に柔和な笑顔で令さまは笑ってくれたから、ふかい色の安心が心に降りてきて、真美は脆くも涙を見せてしまいそうになった。あわてて唇を引き締める。
「新聞部の人だよね。山口――真美さん、だったっけ?」
(しまった)
 離れて落ちていた真美の鞄をひろって差し出した令さまの言葉に、真美は再度唇を噛んだ。面識はあると思っていたけれど、フル・ネームで呼ばれるとそれだけで自分の総てを相手に握られている気になる。たぶん尾行めいたことをしていたこともバレてしまったのだろう。自分の顔に泥が塗りつけてあるような、いたたまれない気恥ずかしさのようなものが湧き上がってくる。
「どうしたの?顔色悪いよ、本当に大丈夫?」
「あ、大丈夫です、黄薔薇さま。もう失礼しますから」
 黄薔薇さまに送られたりしたら、それこそ自分がスクープのネタになりかねない。丁重に断った真美を、それでも令さまは改札の前までついてきてくれて、駅の売店で缶ジュースも一本持たせてくれたのだった。
「なんか。気になる顔してるからさ」
 そう言って踵を返した彼女の背中を見送って、真美はなんだか電車に乗る気になれず、ふらふらと駅ビルを出たところで、ふと気づいたのが、
(令さま、私がこそこそ後をつけてたこと、何も言わなかったな)
 気づいたはずなのに。――そこまで考えて、真美は本格的にげんなりしてしまったのだ。
 次期新聞部部長ともあろうものが。なんというざまなのだろう。
 真美が実質指揮して作成中の「リリアンかわら版・新学期特大号」の編集は、行き詰っていた。書くことがないわけではない。夏休み中も精力的に動き回ってくれた部員たちの集めてきた細かいネタは豊富にある。けれど、休み中の部活動報告や海外旅行へ行ったクラスメートのコラムとかで、だんだら模様の誌面をつくることが当初のコンセプトだったわけではない。やはり全校の生徒の多くが期待するのは山百合会の麗しい顔ぶれ達の避暑の動向であり、それを全面的に任されたのは真美であったから。
 それなのに。事前に得た情報に勇んで出かけた高原の避暑地にて、仏閣めぐりをする白薔薇姉妹は見失うし、紅薔薇姉妹の滞在しているはずの小笠原家の別荘は見つけられないし。偶然出会った写真部の武嶋蔦子さんからもめぼしい情報は得られず、ただ行き帰りの電車賃で自腹がきりきり痛んだのみ。
 その痛手を引きずりつつ、今度は白薔薇のつぼみ、二条乃梨子ちゃんがボーイフレンドだという「タクヤ君」と会う、というのを取材すべく出かけていき、待ち合わせ場所にてお姉さまである藤堂志摩子さんを見つけるという僥倖に出会えたものの、「タクヤ君」にすっかり自分の素性がバレてしまい、そもそも当の「タクヤ君」に関して自分の期待していた「ボーイフレンド」像とかけ離れていた事実に、記事としてとりあげる熱意が挫折してしまった。
『まだまだね、真美』
「タクヤ君」ネタを思い出したところで、ネタの提供者であるところの三奈子さまの顔が浮かんで、真美はうんざりと足を伸ばした。今一番会いたくない顔。
『お姉さまの力を借りなくとも私は一人で記事くらい書けます』
 この前お姉さまに呼び出されたとき、真美はそう言って啖呵をきったのだった。
(それなのに・・・)
 今日の失態。取材対象に見つかってしまったのも、それに助けられてしまったのも、真美としては悔しかったが、何よりも、
(どうして、あんなに動揺してしまったわけ?)
 男性に対して物怖じする性格だったつもりはない。いくら女子高育ちとはいえ、でないと新聞部なんてやってられないはず。確かに声のかけづらい相手というのは存在するけれど、真美にとってのそれが男性一般だった覚えはない。
(なのに)
 なかば本能的に。ただうろたえた自分が信じられず、ひいては自分にまつわるすべての物事が信じられない思いで、今さらながら赤面し、そんな自分に更に落ち込んでいく。
 夏休みもあと数日で終わり。オレンジ色の濃密な夕日に汗をにじませて、こんなところにじっとしている暇なんてない。
 わかっているのに。まるでピンで留められたかのように、真美はベンチから動けなかった。



「真美?」
 背後からかけられた声の主が誰であるのか、振り返らなくても真美にはわかった。どのくらい座っていたのか、顔をあげて見た西の空と森の間に太陽はすでになく、再び押し寄せた薄い雲が、赤黒く陰湿に襞を光らせて、夏の夜の訪れを告げようとしている。
 返事をしないのを訝って、乾いた地面を遠まわしに回りこんできた築山三奈子さまが、真美の顔を確認してするすると近寄ってくる。
「やっぱり真美じゃない。どうしたのよ」
「黄薔薇さまから、電話でも来ましたか」
「そうよ。よくわかるわね」
 声を聞いたときに、それは真美にも推測できていた。夏休みの間都心の予備校通いで忙しいはずの三奈子さまが、こんなところに偶然あらわれるはずもなかった。
「夏期講習から帰ってきたところで、電話があって。――令さん、何も詳しいことは仰らなかったけど。ここ、いい?」
「ええ、どうぞ」
 隣に座るのに、確認をとるような人でもなかろうに。お尻をずらしつつ真美はそう思った。腰を下ろしたお姉さまの表情は見えない。ただ真美が目をそちらに向けられずにいただけなのだが。
 何かあったとき、まずはその姉なり妹なりに相談すべし。リリアン独特のスール制度から来る令さまの気配りが、真美には恨めしかった。
「いったい何があったのよ」
「何でもありませんよ。取材していただけです」
「何でもって・・・髪だってこんなに、乱れてるじゃない」
 いきなり横から手が伸びてきて、真美の額で分けた前髪に触ろうとするのに、思わず首をそむけてしまう。やや眉をひそめた三奈子さまがすっと手を引いたあとに、うっすらと柑橘系の香りが漂った。今日のお姉さまは、細いシグナルカラーのボーダーの入ったワンピースを腰のところでベルトで引き締め、下にはジーンズを穿いている。この夏、三奈子さまが会うたびにお洒落をしているのは、やはり受験勉強のストレス解消なのだろうか。そこまで考えて、ふと真美が気づいたのが、
「私がここにいるって、どうしてわかったんですか?」
 この公園で真美が呆けていることまで、令さまは知らなかっただろう。
「令さまから連絡もらって、真美の家に電話してみたら、まだ帰ってないって。それが、5時頃ね」
「はい」
「あとは、もう、勘よ勘。ま、新聞部部長の面目躍如ってところね」
 誇らしげに言った三奈子さまの横顔に疲れは見てとれなかったけれど、真美の左手首の時計は7時をまわっていた。ひょっとして結構な時間、真美のことを探し回ってくれていたのかもしれない。うろうろと、暑苦しい街の中をあてもなく右へ左へするお姉さまの姿を、真美は思い浮かべていた。
『記事はね。なにはなくとも外へ出て自分の足で探すの。向こうから情報が飛び込んでくるのを待っているだけじゃ、らちがあかないわ』
 新聞部に入った頃に、当の三奈子さまに言われたことを真美はぼんやり思い出した。確かに、と思いつつ、それだけでは非効率なんじゃ、と感じたことまで。
 あらためて先刻までの後悔がふつふつとよみがえってくる。さっさと帰ればよかったのに、何をこんなところにじっとしていたのやら。この人にまでこんな心配をかけて。――心の奥底にあるニュアンスは微妙に異なっている気はしたが、真美はそう思い込むことにした。勢いよく椅子から立ち上がって、元気な声を出す。
「ご心配をおかけしました。本当に何でもないですから、帰りましょう、お姉さま」
「何でもないことはないでしょうに」
 言いながら、それでも三奈子さまは立ち上がった。真美としては、男に驚いて尻餅をついたなんて、むろん言えるわけがない。
「もうすっかり遅いですし」
「あらあら。誰のせいで遅くなったと思っているのかしらね。あなたはそれについて、責任をとって説明をする義務がある」
「とにかく。今日もこれから家で推敲作業をしなくちゃいけないんですから」
「ふうん。家に持ち込んで作業ねえ。それほどまでに、『新学期特大号』は行き詰っている、というわけなのね」
 お姉さまだって、いつもそうしてたじゃないですか。――挑発だとわかっていながら、真美はかっとなるのを押さえきれなかった。
「『新学期特大号』は、ご心配しなくともきっちり仕上げてみせます」
「心配なんてしてないわよ。夏休みも残り少ないのだし、今さら私が心配してどうなる時期ではないでしょう。まさかこの期に及んで、メインの記事が決まっていない、なんてことはないでしょうし」
 知っていて言っているんだ、この人は。去年の同じ時期に、例えではなく半泣きになりながら記事をかき集めていた三奈子さまのフォローをしてまわったことを、真美は覚えていた。だから、分かるんだと。
「もちろん、もう大体のところは」
「本当?ハッタリじゃないわよね」
「お姉さまの専売特許でしょう、それは」
「言ってくれるじゃないの」
 見透かされていると知りながら、真美は一歩も引きたくなかった。どうしてこの人の前ではこうなってしまうのだろう。特殊な姉妹だとは常々思っているけれど。
 紅薔薇さまの妹、クラスメートの祐巳さんの姿が思い浮かんだ。お姉さまを大事に思って、真っ直ぐに支えようといつもひたむきなその目つきが、間違っても真美に備わりそうもないのは、真美自身の問題なのかどうか。
「ともかく、帰ります」
「いいけれど。・・・今日あなたは私の家に泊まることになっているのよ」
「へ?」
 さらりと三奈子さまが付け加えたことに、真美は目をむいた。むしろ気だるげに歩きだすお姉さまの背中を追って、あわてて公園の出口に向かう。
「何を・・・」
「だって、真美のお家にはもうそう連絡しちゃったし」
「な、何勝手なことしてるんですか!?第一制服だし、着替えとかも」
「そんなの、なんとかなるわよ」
「それに、編集作業が残っていますし」
「あら。もうあらかた出来上がっているのでしょう?」
 街灯を背ににんまりと笑った三奈子さまに、真美は(やられた)と思った。唇を噛んだのは本日何度目だろう。
「記事の中身のこととか、全体の進捗状況とか。たっぷり説明していただきたいものだわね」
「・・・・」
「部長命令よ。――肩書きだけは、まだ私のものなんですからね」
 反論しかけたところで大通りに出た。ひっきりなしに行き過ぎる車の轟音の中で声を出しかねているうちに、なんとなく観念した気分になる。三奈子さまの背中を睨みあげるだけで我慢して、思ったより涼しい夜気の中を歩く。
 


 M駅の改札を出て南に歩き、鉄道の喧騒の届かなくなるあたりに、大学か何かの敷地の前を走る通りに面して、三奈子さまのお宅がある。打ち出しのコンクリに覆われた、三階建てのマンションの二階。
 実のところ真美は、ここに来るのははじめてではない。『リリアンかわら版』に載せる記事の執筆に間に合わないと、悲鳴をあげて泣きついてくる三奈子さまに招聘されたことも、これまでの新聞部生活で一度や二度ではなかったからだ。真美の両親も、直接はあまり会わないにせよ、三奈子さまの両親とはすっかり馴染みになっている。
 スライド式の扉を引きあけて入ると、薄暗い玄関も奥の廊下も暗く静まり返っている。
「今日は母がね、いないのよ。旅行中」
「そうなんですか」
 三奈子さまに二つくらい輪をかけてにぎやかで話し好きなお母さま。それこそ灯の消えたような静けさの中で、控えめなボリュームでTVの音声が聞こえてくる。
 廊下に面した扉を細くあけて、三奈子さまは体をすべらせるように入っていった。見覚えのあるダイニングの向こうのリビングから、声だけが聞こえてくる。
「お父さん、真美が来ているから」
「ん?おお、そうか。いらっしゃーい」
 コンピューター関連の会社にお勤めと聞いている三奈子さまのお父さまの声が聞こえて、真美は扉の隙間から顔だけ突っ込んで「お邪魔しています」と声をかける。
 引き出しを開けたり閉めたりするあわただしい気配に混じって、お姉さまの声が聞こえてくる。
「はい・・・はい、・・・申しわけありませんが・・・」
 どうやら電話しているらしい、と真美が気づいたときにはもう、両手に何か衣類の入ったビニール袋をさげて、てきぱきした足取りで三奈子さまがやってきた。室内に差し向けている真美の顔に口を寄せて、
「私の部屋、わかるわよね?」小声で言う。
「はい」
「まずは暑かったでしょうから、シャワーでもあびなさい。私の服なんでも使っていいから。こっちは下着ね、頂きもので新品だから」
「はあ。すみません」
 答えて、廊下へ引き取ろうとする真美の腕を三奈子さまがつかまえてくる。にこにこしながら、電話の子機を差し出してくるのを、なんとなく受け取ったものの、さっぱり訳がわからない。
「あなたからも、一応一言言っておいてよ」
 にんまり笑ったちょっと小憎らしい表情に、真美は即座に理解した。
「まさか。・・・家に連絡済みだ、って言っていたのは」
「ええ」とさらに小さな声になる。「真っ赤な嘘。でも安心なさい、もうご両親は納得してくださったみたいだから」
 ・・・どうしたことだろう。今日はずっと、お姉さまにやられっ放しのような気がする。
 シャワーをあびると、気づかずに焼けていた肌が水滴を受けてちくちく痛んだ。
 袖もすそも余り気味の薄いブルーのパジャマを着て、三奈子さまの部屋に戻ると、机のスタンドの明かりだけついていて、三奈子さまは居なかった。
 蛍光灯をつけると、6畳そこそこの部屋が急に広く見えて、手持ち無沙汰な気分で、三奈子さまの机に向かって腰をかける。分厚い一枚板からできた横に長い机は、実際椅子を二つ並べても悠々の広さ。ここに来るたびにうらやましくなるほど、それは立派な机だった。片方の端にはコンパクトなコンピューターとプリンターが載り、反対側の奥には参考書や教科書、それにノートといったたぐいのものが今にも崩れそうなほどに積み上げてある。
「まったく」
 三奈子さまは、整理が苦手。いつも手伝いに来ては、その前にかならず30分なり使って片付けから入らねばならない不満を、ことあるごとに真美は三奈子さまにぶつけているものの、一向に改まる様子はない。
 それでも、今日のところは机の上以外、大きな乱れはないようだ。――そう思って、背もたれに体をあずけようとしたとき、真美の目に気になるものが留まった。
 一見してノートのようだったけれど、学校に持っていくものにしては荘重が豪華で、ピンク色の外側には透明なカバーまでかかっている。日記帳かも、と思いながらそれを古語辞典の下から引っ張り出してしまったのは、やはり一日やりこめられたことに対しての、仕返しめいた気持ちが働いたのかもしれなかったが。
 ただその反骨の向かう先が、お姉さまでなければならないのかは、わからない。ぼんやりペンのはさんであるページを開いてみて、やはり日記らしいと閉じかけた手が、一つの単語に引っかかって止まる。
”・・・反響のように引いていく熱情からさめた後は、ひたすら恥ずかしかったけれど、彼は優しく、私の頭の下にひいた腕で私の肩を包んで朝までいてくれた。今日という夏の日を、私は忘れることはないだろう”
 すなわち「熱情」という単語に。
 目に入ってきた文章の末尾の部分をさらりと読んで、真美の頭は瞬間的に沸騰してしまったのだった。
 これって、まさか。 



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