〜「お姉さまと一緒」後編






 たとえば学校の勉強ひとつとっても、真美にとってお姉さまである三奈子さまに「これは絶対勝てないだろう」と思えるものはそう多くはない。もちろん同じ学年ではないのだから、厳密に比べようもないのだけれど、そもそも真美は不断の努力を怠らず、割と全方位にまんべんなく準備をしておかないと気の済まないタイプだったから。一対一で「用意どん」とやったら、負けず嫌いな三奈子さまの頑張りは相当だろうけれど、その負けず嫌いについても、真美自身そこそこの自信はあるつもりだった。
 その真美をして、三奈子さまに対して完全お手上げになるものの一つが、お料理。――以前クラスメートに話したらひどく驚かれ、真美にとっても大いに意外だったのだが、三奈子さまはお料理が大層お上手なのである。
 小さい頃お母さまが留守がちだったことによるらしい。ただ取り合わせがおかしい。ビーフシチューに魚の塩焼きとか、平気で出してくる。それにくらべたら今日のお好み焼きにうどんという組み合わせは、ずいぶんまともな気がするけれど。――表層でそんなことを考え、味の深いうどんの汁をすすりながらも、真美の目は先程の机の上に注がれっぱなしだった。
 あれからすぐ料理のお盆を持って三奈子さまが入ってきたから、さかのぼって読むことはできなかったけれど、やはり、あれは。男性とのお付き合いの最終段階を示しているのでは。
 知識としてはあるはずなのに、いざビジョンを浮かべてみようとすると、暗く深い川を横たえたように、その向こう側が見えてこない。
(でも、じゃあお姉さまは)
 越えて行ってしまったのだろうか、その川を、あっさりと。どこの、誰と?この夏休みの、いつかの日に。模試やら何かでずっと忙しいようなことを言っていたのに、そのいつか。
(ひょっとして)
 このごろ妙にお洒落をしていたのも。香りをつけたりしていたのも、あるいはそのせいなんだろうか。
「真美?どうしたのよ、じっと見たりして」
「い、いえ、なんでも・・・」
 声が自然と尻すぼみになってしまう。なんだかすっかりと、気圧されたままだ。
 三奈子さまはというと、自分も食べながら、真美のお好み焼きを切り分けたりして、始終ご機嫌な様子。正直、今やなんでも話す気になっている真美に、昼間のことなど何も聞いてこないで、夏期講習の行き帰りに見つけたお店の話など、真美の遅れ気味な相槌もかまわずに連発している。まして「リリアンかわら版」の「リ」の字も出てこない雰囲気に、気を使われているのか、と半ば自虐的に気後れしつつも、真美が自分からその話題を持ち出そうとすると、
「ちょっと、待っていてね」
 と、お盆を手にして出て行ってしまう。
 すぐさまとって返してきた三奈子さまの手には小洒落たグラスが二つ握られている。
「新しいデザートをね。試していたのよね」
  グラスの真ん中にこんもりと盛られたうすいオレンジ色のムースの上に、クラッシュしたゼリーが載って、さらに透明な液体がムースの半分くらいの高さまで注がれている。グラスから立ち昇る香りに、真美は気づいた。
「これ、お酒ですね」
「ちょっとだけね。別にいいでしょう」
「いいですけど。お好み焼きとうどんの後に出てくるものとは思えませんが」
「まあ、可愛くないわね」
 ・・・それで、あっけなく酔っ払った三奈子さまが、ベッドとテーブルの隙間に体を突っ込んで、すやすや寝息を立てている。
 酔っ払った、という過程も実際にはほとんどなかった。デザートを平らげるとすごい勢いで真っ赤になる三奈子さまの様子に、真美はひやりとしながら、
「お姉さま、お酒弱いんじゃ・・・」
「そうよ」
 早くも腰の座らない按配で、ぺたりとお尻を床に押し付けた三奈子さまの目は、とろりと潤みきっている。
「しかも、けっこう強いお酒なんじゃないですか、これ」
「そうよ。・・・なによ真美、あなた平気そうじゃないの」
「言いませんでしたか?うちの家系はみんな、お酒強いらしくって」
「な、なにぃ〜、謀ったなぁ〜」
 などといいながら、ぽかぽかと叩いてくるものだから、これはいよいよ本格的にまずい、と思った真美はあわてて立ち上がった。
「お姉さま、お水持ってきますから」
「うー、あんた酔わせていろいろ聞き出してやろうと思ってたのに・・・」
 それじゃ謀ったのはあなたの方じゃないですか、と思いながらコップを片手に真美が戻ってくると、三奈子さまはすっかりつぶれていたのである。
「お姉さま」
 立ったまま戸口に立って、大きな声を出してみても、ぴくりとも動かない。
「何をしに、連れてきたんですか・・・」
 肩に乗っていたものがすっかり下りたようで、力が抜けたように真美は座り込んでしまった。時計を見ると10時すぎ。帰っちゃおうかな、ちらとそう思ったものの、なんだか疲れてしまったし、真美がシャワーを浴びている間にお姉さまがどこかに吊るしてくれたんだろう、制服も見当たらない。
 まだ起きておられるだろう三奈子さまのお父さまに尋ねてみてもよかったけど、ぶかぶかのパジャマ姿で男の人の前に立つのはやはり、抵抗があった。
 もう一度三奈子さまを呼んでみて、反応のないのを確かめる。コップの水を一口飲んで、真美は立ち上がって机のところへ向かった。例のノートをとり、ぱらぱらめくってみる。
 ・・・大体、真美の予想した内容のとおりだった。日付によれば、夏休みが始まってすぐ、夏期講習先の予備校にて、別の高校から来ていた「彼」に声をかけられたらしい。
「電撃的な出会いだった」二人は、日を置かずに週に何度も会っていたらしい。会って一週間ですでに「彼」の家で一緒に勉強したり。予備校の帰りに連れ立って出かけたり。そのくせ予備校内ではろくに目も合わせないとか・・・。間の詰まった日付から、うかがえる濃密ぶり。細かな紆余曲折はあれども、日々高まる気持ちのつづられた日付の最後が、二日前の週末。真美が最初に釘付けになった、「熱情」の流れる末尾の部分。
 真美は、ノートを閉じた。上に載っているものが崩れないよう用心しいしい押し込む。
 振り返ったお姉さまは、変わらない姿勢でいて、ノースリ−ブの二の腕が寒そうだったから、真美は窓際に行って、冷房の設定温度を二度上げた。ちゃんとベッドに寝かしてあげようか、と思ったものの、真美の非力では自分より体格の優るお姉さまの体を押し上げるのは不可能と気づく。
 天井の明かりをひとつ落として、テーブルをそっとずらし、真美は三奈子さまの体のすぐ隣に、膝を抱えて座り込んだ。
 見下ろした三奈子さまの頬には、まだお酒の照りが色濃く残っていて、顔をかざしてみれば、冷房の均一な空気の中に、立ち昇る肌の熱と匂いが感じられそうだった。部屋着らしい袖なしのワンピースから出た手も足もゆるみきって、地上に出た木の根のように、何かを吸い上げるような姿勢でカーペットにへばりついている。腕の付け根、首をひいた喉元、膝の裏など、押し込められ折りたたんだ肉のかたちが、真美の見たことのない現実感でもってそこに盛り上がってくる。考えてみれば、こんな風にじっとお姉さまの体をくまなく観察したことはなかったな、と真美は思った。
 そぅっと頬杖をついて、三奈子さまの隣に体を横たえてみる。とたんに平面的に見えていたお姉さまの体が小山のように立ち上がってきた。ワンピースの腰を押し上げるボリュームとか、膝の部分の思わぬ豊かな造形とか、さらに頭を下ろして視点をさげてみると、思わぬ陰影の濃さが、真美の視界にのしかかってくる。
 これは、私と同じ性別。私と同じ体。でも、違う。今は、違うんだ。
 それで何が、変わってしまったんだろう。
 通り過ぎた違和感は、嫌悪ではなくて、真美は目を閉じた。昼間に真美を驚かせた男の姿をちらりと考える。お姉さまの相手があんなのだとは思わないけれど。なんとなく、「タクヤ君」取材の際に見た「甲之進さん」のような姿を勝手に考えていた。名も知れぬちょっとごつごつした腕が、お姉さまの肩に置かれている。指が、お姉さまと手をつないでいる。そんな光景を、繰り返し考えてみる。
 ぞくりと走った感覚は、やはり色の強い違和感であって、ただひたすらに強い隔たりを真美に感じさせただけだった。疎外感とも、さみしさとも似ていた。
 目を閉じていても、近いところにある三奈子さまの膝から伝わる熱が、あたたかい。



 ふと目がさめた。
 寝付いたときとほぼ同じアングルで、お姉さまの顔が傍にあった。明かりを消したはずなのに、目鼻がくっきり見えるから、顔を上げてみると、カーテンの開いた窓から、隣家のものか、白い光が入り込んできている。時計を見ると、三時すぎだった。
 結局三奈子さまをベッドに寝かしつけるのは断念して、かといって自分がベッドに居座る気にもなれず、布団も一組しかないもので、しょうがなく真美は三奈子さまの隣で、同じ毛布にくるまることにしたのだった。
 もうお父さまも寝たのだろう。ドアの外から感じる部屋の広がりの中からは、何の気配も伝わってこない。耳を床に押し当てるように横たわると、体温でぬるくやわらいだカーペットの感触の向こうから、水の流れるような低い轟音が、かすかに聞こえてくる。
 仰向けになって、入ってきた明かりで奇妙な模様のできた天井を見ながら、「リリアンかわら版・新学期特大号」のことを考える。数日来いくつか迷っていたことがすんなり落ち着いてくれて、納得した決意に結びついていくのを、真美は驚きながら感じた。このところの焦りや不安はなんだったのだろう。というより、答えは最初から出ていたのではないだろうか。
 縮こまっていた手足を伸ばすと、右手が軽く三奈子さまの髪に触れる。はっとして顔を向けたが、起きた気配はなかった。手を戻すと、お姉さまの匂いがついてきて、真美の鼻先をかすめていく。
「お姉さま」
 小さく呼んでみた。どこか遠い夜の地平を、車が走り抜けて、タイヤが地面をこすりあげていく。
 三奈子さまは起きない。
「お姉ちゃん」
 戯れに、からかうように呼んでみる。三奈子さまといえば、わずかに顔をしかめたきり。
 真美はなんだか愉快になった。確かに三奈子さまなのに、お姉さまなのに、一枚ヴェールを剥いだかのように、おとなしく従順で、真美の敵愾心を刺激しない、素肌の女の子が、すぐそこに横たわっていた。抵抗なくその中に入り込んで、何の齟齬も感じずにするりと出てこられそうな気安さがそこにはあった。
 もう、大丈夫。ようやくと、いつもの私だ。
 不思議と誇らしい気持ちが沸き起こってくる。窓の外にはおびただしい人間たちの世界があって、ひとつひとつ夜の暗がりのうちに妖しくうごめいている感じ。男とか女とか、老いてゆくこと、死んでいくこと。あらゆる夜の気配が音をたててしじまにさざめくのを、こちらの岸に立って見つめている気持ち。到底一人の力では支えきれず受け止められない大いなるものの存在を確かに知覚しながら、足を踏ん張って、そこから逃げ出さないことで、きっと安らかに立ち向かっていけるだろうという、予感めいたもの。おそるべき未来に、ただそれだけを携えているだけで、自分自身に恥をかかせずにすむだろう、そんな手形のような、約束のような自信が、真美を暖かく満たしつつあった。
 はるか遠い昔、ただ夜の暗さだけを恐れて、父母の布団にもぐりこんだり、お話をせがんだりした、そんなずっと昔。あらためて、その磐石の恐怖と、小さくて儚かった自分は、すっかり遠くなってしまったのかもしれない。むしろ懐かしくて、その喪失をいとおしむ気持ちで、真美はそぅっと、毛布の上から自分の体を抱いた。
 ただ恐ろしいものは。この過ぎ去っていく時間そのものだけなのかもしれない。
 と、目を下ろしていた三奈子さまの顔で、唐突に目が開いた。やや斜めに、切れ上がった瞼の稜線の下で、瞳が真美に向かって動く。
「真美?」
「お姉さま。安心してください。私は応援しますから」
 起きぬけの靄のかかった顔つきで、お姉さまは目をこすりながら、「何がよ」と言った。
「男性とのお付き合いのこと。誰にも言いませんから、節度ある振る舞いをなさってくださいね」
「はぁ?あなた、何を――」
 言いかけた三奈子さまの体を電光のように何かが走り抜けて、文字通り飛び上がる勢いで、三奈子さまは毛布を跳ね上げ、その場で正座する。
「まさか、見たの、あれを、真美!」
「お、落ち着いてください、って、お姉さま」
 がくがくと肩を掴まれ揺すられながら、真美はなんとか首を傾けて、机の方にねじ向ける。
「あ、あの、申し訳ありません、覗き見のようなことをしちゃって。でもほんとに私誰にも言いませんし、決していけないことだとも、あ、ちょっとは思いますけど。でもお姉さま幸せそうだし、うまくいけばいいな、って・・・」
 そこまで真美が言ったところで、がっくりと肩を落とした三奈子さまが、続いてあげた顔は、なんとも表現しにくい、複雑な、それでも笑顔だった。
「――なのよ」
「え?」
 聞き取れずに聞き返すと、お姉さまはまたお酒の入ったような赤い顔をした。
「小説なのよ、あれは。私の書いた」
「――え?まさか」
「本当なのよ」
「でも」
「あなた、細かいところまで読まなかったのね。おかしいと思わなかったの?」
 立ち上がった三奈子さまが、例のノートを片手に戻ってくる。開いたページに目をこらして、「ここと、ここ、それに、ここ」と指をさしてまわった。
「あ・・・・」
 真美にもわかった。
 それは、三奈子さまのお相手を指す「彼」の具体的名前の記された部分。どういうわけか、日付ごとに分けられた部分で、またページの変わるごとに、その名前がころころ変わるのだ。
 最初は「憲次」なのに次のページでは「道春」。その次の日付では「透」。さらにページが進むと「仁志」といったように。
 後ろの方の日付では名前そのものがあまり出てこず、真美がちゃんと読んだのもそのあたりだったから、見逃してしまったらしい。
「男の子の名前がね。なかなかこれといったものに決まらなくって。次々試していたの。この日記形式にしてもね、いずれしっかり小説の形にしようと思っていたのよね・・・」
「え、あの、その・・・そうなんですか」
 我にかえって赤くなった真美だったけれども、お姉さまも劣らず耳まで赤くしてうつむいてしまったから、底のない恥ずかしさから真美は救出されるとともに、それが小説であることを確信できたのだった。
 それは、三奈子さまの願望やらなにやらをぎゅうぎゅうに詰め込んだ、日記以上にプライベートな代物だったらしい、と。
「お姉さま、ごめんなさい」
 ほとんど土下座みたいに頭をさげながら、真美はお姉さまに謝ったことなんてこれまであったっけ、などと頭の片隅で考えたのだった。



 つまりは、お姉さまは、
「だって。本当につまらなかったのよ。毎日毎日、暑い中出かけていって、講習だ模試だって。・・・なまじ有名どころを選んじゃったからかもだけど、みんな血相変えているし、肩ばっかり凝るしね。出会いなんてあり得ないわ、あんなのじゃ・・・うんざりしてたのよ」
 どうしても、その発散がしたかったらしい。というより、なんだかそんな追い詰められた環境にいることによって逆に、
「妄想がね、こうむくむくと、湧いてくるのよね」
 ということらしい。
 あらためてそのドリーム小説の書かれたノートを点検すると、最初の方は予備校での講義の内容が書かれていた。少し進むとその行間に、なんだか小説の構想やら登場人物の設定のようなものがちらほら現われはじめる。ちなみに、日付部分はまったくあてにならないらしく、
「二晩で書いちゃったわよ」
 と、けろりと言った口調は、ご馳走を食べ終えた子供のように満足そうだった。
「じゃあお姉さま。男性とお付き合いしたことはまだ、ないんですね」
「さあ、それはどうかしらね」
 少なくともあなたには負けないわよ、と胸を張った三奈子さまの顔がなんともおかしくて、夜が白みかけるころ、女二人で心いくまで笑い転げたのだった。
 夜が明けて、まだ早い時間、三奈子さまのお父さまも起きだして来ないダイニングで、三奈子さまは真美にトーストを焼いてくれながら、
「今日は、登校するのよね?」
 片眉をあげて、悪戯っぽく訊ねてきた顔に、真美はむらむらと闘志が湧き出てくるのを感じた。
「ええ。一旦帰ってから。今日をいれてあと3日しかないですからね」
「そうね。私も昨日が最後の模試だったから、後で部室に顔を出しますからね。覚悟なさい、真美」
「望むところです」
 準備を整えて玄関に向かう間、お姉さまは台所で洗いものをしていたが、真美が靴をはき終えたところで、キッチンに通じるドアから顔だけ出して、「もう行くの?」と聞いた。
「ええ、お邪魔しました、お姉さま」
 ・・・家に帰りついたのは、出勤するお父さんと入れ違いの時刻だった。すぐに制服を取り替えて、髪を整えたりしながら、クラス名簿を開いて由乃さんに電話して、黄薔薇さまが今日登校するかどうか確認する。山百合会も新聞部同様、いやそれ以上にさまざまの予定が押しているらしく、今日も全員が出席する予定だという。
 登校した真美は、まっすぐ薔薇の館へ向かった。
 真っ先に来ていた志摩子さんと乃梨子ちゃんにお願いして館の中で待つうち、由乃さんと一緒にやってきた令さまに昨日の礼を言う。鷹揚に頷いたきりだった令さまが、荷物を置いた由乃さんがお手洗いに出た際に、真美にそっと目配せをした。
「昨日の。あれは内緒にしておいてね」
 小声で言った令様は、ひどく苦笑していた。
「昨日の・・・水着ですか」
「そう。この前由乃と海に行ったんだけどさ。まあ、今度行くことがあれば、着せてみたいなー、なんてね」
「ああ・・・由乃さんのでしたか」
 令さまはまた照れくさそうに笑って、おかげで真美は内心の緊張をだいぶほぐすことができた。薔薇の館に単身乗り込んだのは、何を隠そう真美にもはじめてのことだったから。
 ほどなく由乃さんが戻ってきて、時をおかず紅薔薇の姉妹、祥子さまと祐巳さんが連れ立って階段を上がってきた。全員がそろったところで、懸命に拝み倒して一時間だけインタビューに時間を割いてもらうことに成功する。
「こちらも予定は押せ押せなんですけどね」
 思ったとおり、祥子さまは最後までいい顔をしてくれなかったけれど、真美が正直にこれまでの取材失敗ぶりを語って、
「すべて、私の力不足でした。我がままですけれど、他の部員に迷惑をかけたくないんです」
 率直に言うと、横から祐巳さんがとりなしてくれたせいもあってか、表情をやわらげて、
「これからの新聞部は、一味違いそうね」
 やんわりと、微笑みかけてくれた。
 もともとこの夏休みに「富士山へ行った」「別荘に行った」「仏閣めぐりをした」などと、言わば見出しの部分はわかっていたから、後は向こうにまかせて、言いたいところだけ、書いてもいいことだけ言ってもらう。そもそもそれぞれの過ごし方について、山百合会のメンツ同士でも細かいところまで話してはいなかったらしく、由乃さんの話に祐巳さんが突っ込んだり、志摩子さんの話を乃梨子ちゃんが補足してくれたり、約束の一時間を過ぎるほど話が盛り上がって、記事にするに十分すぎるほどのメモで真美は手帳を埋めることができた。祥子さまと祐巳さんに関しては、別荘地での体験になにか共通の隠しごとがあるらしく、顔を見合わせて黙ってしまうことがあったけれど、どうやら悪い体験ではなかったことは、二人の表情から見てとれたから、かわら版に載せたところで後々問題になるようなことはなさそうだった。黄薔薇と白薔薇の姉妹からは、現地での写真もいくつか入手する約束も取りつけることができた。
 二杯目のお茶を入れてくれようという乃梨子ちゃんを制して、真美はもう一度全員に頭をさげて、ビスケット扉を出た。真美の出て行ったあとでも、それぞれの体験での話は盛り上がっているらしく、珍しく志摩子さんの大きな笑い声まで、階下まで届いてくる。そのまま留まるか、外へ出て壁に張り付けば、今より突っ込んだ話が聞けるかもしれない。そう思ったけれど、真美は立ち止まらなかった。
 戸口から出た空は澄んで、畑の畝のように並んだ雲からは、どこか涼しげな風が吹いていた。足早に校舎に入り、真美はクラブハウスの、新聞部部室の、自分の机をめざして、ひたすらに急いだ。
 吹奏楽部がそれぞれの楽器を試し吹きする音色が遠く流れてくる。グラウンドからは陸上部の掛け声。
 真美は、早く記事が書きたくてしょうがなかった。



 午後になって、部室にふらりと現れたお姉さまは、あらかた書き終えた真美の記事をざっと読んで、なあんだ、という顔をした。
「面白くないわね。そつなく出来上がってるけど、なんかこう、もの足りないわ」
 真美は、それを賛辞と受け取って、反論しないことにした。真美と一緒にいた二年生部員の香子さんが、書きものの手を休めて立ち上がった。
「三奈子さま。何か飲み物でも買ってきましょうか?これからミルクホールに行ってきますから、ついでに」
「あ、そう?悪いわね」
 二人きりになった後も、眉をよせて記事を眺めていた三奈子さまが、口の端を持ち上げて真美を見た。
「残念ね。せっかく代案は用意していたんだけどな」
 三奈子さまが鞄から取り出したもの。『特番・薔薇様の華麗なる系譜』と題されたそれは、過去10代にわたるそれぞれの色の薔薇さまたちにまつわる話がまとめられたものだった。「かわら版」表裏一枚だけでは入りきらないだろうボリュームで、ちゃんとそれぞれの写真の貼り付けられた下には、ちょっと歴史人物紹介みたいな文句が並んでいて、いささかドラマティックに演出された文章ではあるけれど、読んでいてとても面白いものだった。新聞部にある資料だけではとても知りえないようなものまで記されていて、パソコンで作成したと思しき文面に、三奈子さまのパソコンに保存されているであろう情報が、プライバシーぎりぎりのものであることが予想できた。
「これ・・・」
「なに?」
「いいじゃないですか。記事のストックとして、部で保管させてくださいよ」
「駄目。部長をやめても私は部員なんですからね。自分が困ったときのために用意しておくのよ。別に小説だけ書いていた訳じゃないんですからね」
「・・・お姉さま、受験大丈夫なんですか」
「それが問題なのよねー」
 ううむ、と腕を組んで、それでも、得意そうに笑った三奈子さまは、真美の手から自分の記事を取り戻そうとはしなかった。
「にしても本当残念ね。真美、あなたの泣きべそでも見られるかと思ってやってきたのに」
「いざとなったら、お姉さまのあの妄想小説でも載せちゃおうか、なんて思っていたんですけどね」
 あの、を強調した真美の言葉に、とたんに笑顔の消えた三奈子さまが、大慌てで突撃してきて、真美の口を手でふさいだ。写真部との境の壁に向かって何度も顎をしゃくる。
「・・・大丈夫ですよ。今日蔦子さん来てませんから」
「それ、早く言いなさいよ」
 椅子にへたりこんだお姉さまが、唐突ににんまりとした表情になったのに、真美は訳も分からず緊張した。
「な、なんですか」
「私は知っているのよ」
 ふっふっふ、とどこかの名探偵のように顎に指をあてて笑った三奈子さまは空いた一方の手の指をくるくる空中で回しながら、真美の目を見た。
「『お姉ちゃん』・・・だっけ?」
 今度は真美がお姉さまに突進する番だった。
「き、聞いていたんですかっ」
「あらら。蔦子さんはいないんでしょ?」
「寝てると思ったのに・・・」
「と言うところを見ると、あれは私の夢ではなかったのねえ」
 またものせられてしまった、と思いつつ、それほど悔しい思いはしなかった。他の誰だって、こうも簡単に真美につけ入ってくる人はいない。私だけがお姉さまを見ているわけじゃないのだ、そんな認識が、ゆったりと心の中に下りてくるのがわかる。
 おそらく香子さんだろう、階段を上ってくる足音が部室に居ても聞こえるのは、たぶん夏休みの間だけ。新学期が始まれば、マリアさまに護られた乙女たちの集うこの学園にも、馴染み深い、ちょっと懐かしいにぎやかさがもどってくるはずだった。
 だから、この心地いい切なさは、きっと今だけのもの。――椅子の背もたれに寄りかかり、真美の見上げた天井には、夏の分厚い木々の葉にさえぎられた日の光が、美しい獣の毛並みのような、くっきりとしたモザイク模様をつくっていた。
「ね、真美。もう一度呼んでくれない、『お姉ちゃん』って」
「絶っ対、嫌です」





<了>

 



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