午前中はなんとか持ちこたえていた空が、午後の授業が終わるころに決壊した。海の底のような雲から篠つく雨音を聞きながら、ずいぶんと空も我慢していたんだなあ、うっかりそんなことを思った途端にこみあげてきた生理的欲求に、彼女はあわてて廊下の端っこ、階段の手前のドアをこじあけて中に飛び込んだ。
(この状況ではとっても不適切な想像だったわ)
 はじめて足を踏み入れるトイレは、床のタイルを除いた壁も天井も黒っぽい板張りのせいか、明かりがついているのに暗かった。三つ並んだ個室の真ん中に入り、彼女は便座に腰を下ろした。
(なんだかちょっと怖いかも)
 身動きを止めて、井戸の底にいるような気分で蛍光灯を見上げていると、遠い校舎のあちこちから、居残っている生徒の声か足音が、雨の音とも混じり合い、船の伝声管をつたうように集められ、黒土のような個室の壁からぷかりぷかりと浮き上がってくる。その音は混ぜすぎた絵の具のように原型もなく不気味に濁り、彼女の背筋を脅かす。早く早く、と焦る気持ちは滑車に乗ったハムスターのように空回りする。それでも肉体の要求がほどけてゆるやかになるにつれ、だんだんとその回転も落ち着いていく。
(お茶、飲みすぎちゃったのかな)
 所属する部活の放課後の活動は、最後にはいつもちょっとしたお茶会で締めになる。今日は高等部の先輩たちが遊びに来ていて、大人っぽいその目つきを前にして、「トイレ」と口にできなかったのが痛かった。
 カタリ。
 ペーパーに手を伸ばしたとき、これまでと違うはっきりした音がした。床のきしみとも思えるその響きに続いて、漠然と広がっているばかりだった個室の外の空気が、生き物の毛並みのようにさっくり動いたように思えた。
(誰もいなかったはずよね・・・)
 個室のドアはすべて開かれていたはずだったが、あわてていたこともあり、彼女は確信をもてなかった。
 身支度をしている最中にもう一度、遠くで振られた大きな旗から届いた風のように、なにかの気配がトイレの中を通り過ぎていくのを彼女は感じた。それは、絵本に出てくる魔女の森、その夜空を笑いながら飛び交う半透明の悪霊たちの姿を思い起こさせた。
(早く出よう)
 今すぐにでも飛び出したい焦りをこらえて、水を流そうと彼女が便座後ろのレバーに手をかけたとき。
 だしぬけに、油の中をゆっくり上がってきた泡が破裂するように、前触れもなく生まれた音が彼女の頭から浴びせかけられた。老女の笑い声のような、鳥のはばたきのようなそれはもう一度鳴り響き、混乱と恐怖にしゃがみ込んだ彼女の、しばし息をひそめた静寂の後で、奇妙な声が、頭をかかえた腕すらもすり抜けて、耳の中に響き渡ったのである。
 それは、鼓膜に直接結びつくような、平坦な声だった。
『・・・ベニバラ キバラ シロバラ。どれに、する?』




 三 色 怪 談




「それは、色にちなんだ、トイレの有名な怪談じゃないんですか」
「有名?なの?乃梨子ちゃん」
 
 祐巳の話し終えるのを待ち、真っ先に口を開いた乃梨子に、全員がさあっと注目する。
「あれ。どなたもご存知ないんですか」
 本当に意外だというふうに、すっきりした前髪の下の目を丸くした乃梨子が、えへん、と咳払いしたのは祐巳には可愛く思えたのだった。
 三学期が始まった翌週の放課後、薔薇の館には二年生と一年生のメンバーだけが集まっていた。
「トイレの個室に入ると、声が聞こえてくるんですよ。『赤、青、黄色、どれがいい?』って。『どれが好き』だったかな。赤と青だけとか、赤と紫とか、色もいくつかあるみたいです」
「で?それに答えると、どうなるわけ?」
 祐巳が話しているときには退屈そうに肘をついた手で頬肉を引き伸ばしていた由乃が、おもむろに身を乗り出してくる。
「『赤』って答えると血まみれで殺されて、『青』って答えると血を抜かれて真っ青になる。黄色は・・・ええと、なんだったかな」
「血まみ・・・」
 鮮やかな色彩を思い浮かべてしまい、知らず祐巳の背中はぞくりと震えた。
「『赤い紙 白い紙』って聞いてくるパターンがもともとだと思います。赤だの白だの手がどこからともなく出てきて中に入っている子の身体に触る、っていう話も聞いたことがありますね」
「て、手・・・」
「祐巳さんたら。自分の始めた怪談でしょうに。いちいち怖がってどうするのよ」
 由乃が呆れ顔で祐巳を振り返った。
「別に、怖がらせようとして話したわけじゃないもん」
 口をとがらせた祐巳に笑いかけて、由乃は顔の前に来たお下げの髪を指ではじいてつぶやく、どうせイタズラか作り話よ、くだらない。
「ええ。中学のときにクラスでこういう話、盛り上がったんですけど、別に誰が見たとか怖い目にあったとかじゃなくて。先生に聞いたら古い怪談で、何年かおきに流行したりするみたいなんですよ」
 笑顔で祐巳に頷いてみせる乃梨子の隣で、すっときれいな背筋が伸びた。
「お水、流したのかしらね」
 ぽつりと、白いテーブルクロスの真ん中に志摩子の言葉は、誰も拾いに行かないグラウンドのボールのように転がっている。気がつけば窓から差し込む西日はかなり傾いている、冬の日暮れは早い。――テーブルの上を低空飛行した祐巳の視線が遠慮がちに到着すると、「え、ほらトイレの話ね、お水を流す前に声が聞こえたんでしょう?」とふんわり巻き髪の白薔薇さまは急におろおろし始める。
「そ、それで、祐巳さま。それは中等部の話なんですよね。いったい誰からお聞きになられたんですか?」
 乃梨子ちゃん、さすがはできた妹、ナイスなフォロー。祐巳が内心快哉を叫んでいると、ほ、と安心したように息をついて席を立ちかけた志摩子が、中腰のままぴたりと止まる。
「もしかして、菜々さん?」
「え、菜々?」
 先ほどとは雲泥の駿足で志摩子の発言をすくいあげた由乃は、勢いにのって「菜々なの?」と祐巳に念を押した。ああ、と乃梨子が口を半開きにした。
「確か、クリスマス・パーティーのときに由乃さまが連れてきた方ですよね。じゃあ、その菜々さんが、その被害者なんですか、トイレの・・・」
「失礼ね乃梨子ちゃん。菜々はトイレの水くらいちゃんと流せるわよ」
「いや、そういうことではなくて」
 思わず吹き出してしまい、由乃と乃梨子にそろって睨まれ首をすくめた祐巳の後ろを、ポットをさげた志摩子がくすくす笑いながら通る。
「そうじゃなくってね。そういう相談を、菜々さんが受けたらしいのよ。『お化け』の声を聞いたっていう子の実のお姉さんがね、菜々さんと同じクラスなんだって。それで、教室で人がいっぱいいるときにそんな話をしちゃったものだから、クラスメートが盛り上がっちゃって。菜々さんにね、ぜひ何とかしてもらおう、ってそんな話に」
「なんでまた、菜々なわけ」
 椅子から立った由乃はテーブルに手をついて、祐巳に尖った目つきを投げた。
「剣道やってるからって。平気でしょ?って」
「また安直な・・・。菜々、それを引き受けたっていうの?」
 一度縦に振った首を、「ん?」と祐巳は傾げた。そうとも言い切れなかった。
「それで、どうしたものでしょうって聞かれたのよ。でも私もわかんなくって、それでね、とりあえず今日の放課後、そのあやしい声が聞こえたのと同じ時間に、菜々さん行ってみるって。そのトイレに」 
「祐巳さん!どうしてそれを先に言わないの!」
 つつつっとテーブルを回り込んできた由乃に両肩をがっしり掴まれて、祐巳は目を白黒させた。「それって何時?」と、祐巳をつかまえたまま由乃は壁の時計に叫んだ。
「五時すぎだったかな」
「もう三十分もないじゃない!」
 乱暴に解放された祐巳が志摩子や乃梨子と顔を見合わせていると、由乃はもうテーブルの上を片付けてコートを手にしている。
「行くの?」
 志摩子が静かに訊く。
「ええ、ごめん祐巳さん、たぶん私今日はもうここには戻らないから」
 三つ編みの後姿はすでにビスケット風の扉の前だ。祐巳はあわてて「え、由乃さん、信じてないんじゃなかったの」と追いすがった。
「もちろん信じてないわよ。でもこれはチャンスなのよ?もしも菜々が、ちょっとでも怖がっているのなら、『お化けなんていないわよ』って頼もしい先輩ぶりをアピールできるってものじゃないの!」
「アピール・・・」
「とにかく、もう行くわ!」
 行くわ、のあたりは廊下から聞こえた。開けっ放しのビスケット扉から、踏みしめられた階段と、押しのけられた館のドアが悲鳴をあげ、ぽかりと落ち着いた静けさの中で、祐巳は再び志摩子と目を合わせて力なく微笑んだのだった。
(由乃さん。私の予想って、あんまり当たらないんだけどね)
 扉を閉めに行った乃梨子が、開いた戸口の前に立ち、火打石を擦る真似をしている。

 結論から言えば、祐巳の予想は見事に「当たらな」かった。ただしそれは、祐巳が想像していた内容とは大きく食い違うものだった。
 次の日の朝、登校した祐巳がまだ人影まばらな教室で会った由乃は、まるで病弱だったころに逆戻りしたような白い頬で、祐巳に告げたのだ。
「本物だった」
 と、一言だけ。



 有馬菜々。
 黄薔薇のつぼみの由乃が、ひょんな事から関わりになり、今は中等部の彼女が進級したら妹に、と望んでいる相手。
 すっきり出した額の下に、どこか神秘的な、夜の湖のような目つきをたたえた少女。先週の夕方、M駅前のバス・ターミナルで、祐巳は彼女に快活に声をかけられたのである。
 クリスマス・パーティーのときのことなどちょっと話してから、新宿に出るからと菜々が改札に向かう短い間に、トイレの怪談の相談をされ、祐巳は返答に窮したのだった。
「高等部には、そんな話はないんですか?」
「あったところで、ね。山百合会には何もできないよ。もしも騒ぎが大きくなったりしたら、皆を落ち着かせようと何かコメントを出したりするかもしれないけれど」
「ふうん。いざお化け退治だ、なんてことにはならないんですね」
「ないない。ゴーストバスターズじゃあるまいし」
 ちょうどテレビで、「懐かしい」と連発する父親と一緒にその映画を見たばかりで、山百合会の面々が、おかしな箱を背負って気勢を上げるさまを想像してしまい、祐巳は噴き出しそうになる。ことに、祐巳のお姉さまである小笠原祥子、気高い彼女がなんとも凛々しい表情で掃除機のホースのようなものを振り回す姿は、とても威力があった。
 思わずほころんだ頬を指で押し戻したりしていると、駅の階段を先に立った菜々が、祐巳をまじまじと振り返り、あははっ、とあどけない声をたてて一番上まで駆け上がる。
「あ。ヘンな顔してた?私」
「あ、はい」菜々はあっさり認めた。「祐巳さま、面白い人ですね」
「よく言われるかも」
 券売機の前に立つ菜々の横顔はまだ笑っている。切符を手にふりかえり、改札へ歩きかけ――彼女は、爆弾発言をしたのだった。
「祐巳さまの妹になったなら、きっと楽しいでしょうね」
 思わず足を止めてしまった祐巳に、夕方の人いきれから身をかわしながら、菜々は不思議そうにした。
「祐巳さま?」
「そそそそそそ。ぜぜぜぜぜ」
「袖擦りあうも他生の縁だぜ?」
「ち、ちがうちがう」
「わかってます祐巳さま。失言でした」
「ううん」
 思わずかたく閉じたまぶたの下で、割れた窓ガラスに映る空のようにある光景がきらめいて消える。祐巳にはわかっていた。
(私を励まそうとしてくれたんだよね、菜々ちゃん)
 ありがとう、でもね。
「お願いだからそんなこと、由乃さんの前で言わないでね?」
 我ながら小心者だと思いつつ念を押した祐巳に、由乃さま?と菜々は首をかしげたものの、そのまま自動改札を抜け、ぺこりと会釈をして人なみにまぎれた。
 高架になった駅の通路を通り抜ける祐巳は自然と急ぎ足になる。菜々に問われて浮かんだ記憶が、雑踏の中で聞こえるはずもない足音になって、祐巳の内部でこだましていた。
 差し出したロザリオ。冷たい笑みを浮かべる縦ロールの少女、その遠ざかる背中。クリスマスイブに姉妹の申し出を断られてから、いまだに祐巳は彼女に、何のアプローチもできずにいたのだった。



    ○



「とにかく、嫌な声なのよ!」
 気色ばんだ声をあげた由乃は、ようやくいつもの血色を取り戻しつつあるように見えた。
 一日中、血の気を失ったようになっている由乃から、結局祐巳は細かな話を聞くチャンスが持てず――それは授業の内容が立て続けてハードだったからで、だから他のクラスメート、ことに新聞部の真美や写真部の蔦子といった、聞きたがり知りたがりの面々に先手をとられずに済んだのは幸いだったのだが――何があったのか聞けたのは放課後、薔薇の館で皆集合したときだった。令の提案で中等部から来てもらった菜々を隣に、由乃は前日とはうってかわった沈んだ調子でぼそぼそと喋るので、紅薔薇さま祥子には何度も聞き直される始末だった。
 偶然、高等部との連絡通路のところに菜々がいたおかげで何の苦労もなく合流できた由乃は、そのまま例のトイレに案内されて、個室に入ろうとした菜々を押しとどめて自分が入ったのだという。
「でも、お化けなんて信じてないでしょう。それに昨日は晴れていて、5時前は日も落ちていなかったし、怖くもなかったんだけど。だから扉越しにね、菜々と他愛もないこと話して。時間が過ぎたらそのまま帰ろうと思っていたんだけど」
「声がしたのって、聞いていた時間よりずっと早かったですよね」
 菜々が補足を入れ、それでまた思い出したのか由乃は苦い顔をしたのだった。顔の前で指を組んだ祥子が「それで、なんて聞こえたの?」と促す。
「祐巳さんに聞いていたのよりちょっと長かったかも。ええと」
 言いかけて由乃は、いらなくなった手元の書類を裏返し、さらさらと書き付けた。

  三色の薔薇 どれにする
  紅薔薇 黄薔薇 白薔薇
  さあ 選べ

「たぶん、これであってると思う・・・よね、菜々」
 出されたカップに口もとを埋めながら由乃の手元を覗き込んだ菜々が小さくあごを引く。ふう、と由乃は大きくため息をついた。
「おかげで、もう・・・腰が抜けたようになっちゃって。菜々の手をひいてトイレから出るだけで精一杯だったわ」
「ええ。私も本当に驚いて。個室のドアを開けてトイレットペーパーまみれになった由乃さまを引っ張って外に出るだけしか出来ませんでした」
 がく、と由乃がついていた肘をすべらせ、令の隣の志摩子が「トイレットペーパーまみれは大変ね」とはたと手のひらをあわせた。
 にらみつけた上級生の目もどこ吹く風で菜々は紅茶を飲んでいる。たぶん悪気はないんだろうなあ・・・と祐巳が目線を横にずらすと、「退屈だったから先を折ったりしてたら、驚かされたんで引っ張っちゃったのよ!」と赤くふくれた達磨さんは勝手に答えてくれた。
「いたずらでしょう。事前にその話を聞いていた誰かのね。そうに決まっているわ。中学生の考えそうなことよ」
 紅薔薇さまは気だるく髪をかき上げ、続いて黄薔薇さまが、
「本当にトイレの中には誰もいなかったの?ちゃんと確認した?」
 と訊く。由乃と菜々はそろって頷いた。
「なにしろ、トイレの前には菜々のクラスの子が何人か、頼みもしないのに固めていたし」
「その子達に、声がしたことは話したの?」
 白薔薇さまがたずね、由乃はかぶりを振った。
「ううん。菜々と二人で、なんとか取り繕った」
「そう。それはよかったわ。山百合会の人間が関わったというだけでも十分騒ぎになるのだし」
 祥子がつぶやき、しばし沈黙がテーブルの上に流れる。祐巳にも、どうやって口火を切っていいのかわからない自分に照らして、皆のだんまりが無理もないように思えた。真面目にとるべきか否か、そこから迷ってしまうのだ。
「もう放っておけばいいわ。いたずらなら、無闇に反応しなければそのうち飽きて消えるでしょう」
 軽いため息とともに祥子は立ち上がって流しに向かい、「でも」と言いかけた由乃もそのまま口ごもる。あわてて立っていった祐巳に洗いかけたカップを任せて、祥子はテーブルに向き直った。
「由乃ちゃんや菜々ちゃんが嘘をついてるなんて思わないけれど。実際、これ以上どうしようもないでしょう。万が一何かあっても中等部の先生たちにお任せするしかないわ。山百合会は高等部の生徒会なのよ、できることはない、そうでしょう?」
 またもゴーストバスターズを思い浮かべた祐巳は、祥子の後ろで笑いをかみ殺す。由乃の反応は聞こえなかった。そのまま、しばらくゆるやかな雰囲気で雑談が散らばり、やがて夕暮れの光より部屋の明かりの方が強くなったころ。
 薔薇さまたちからやや離れて、祐巳が由乃や菜々とまとまっているところへやってきた乃梨子が、腰をかがめてささやいた。
「ひとつ、お聞きしたいのですが」

 夕暮れの中庭、花壇の間の細い石畳を、縦一列になって抜けていく。メンバーは祐巳に由乃、乃梨子に菜々。
『その、お化けの声に、返事をしてみたんですか?』
 乃梨子はこう尋ね、由乃と菜々は首を振った。昨日の放課後はそれで終わり、けれども夜になって祐巳の家に電話がかかる。もぐりこんだばかりのベッドから電話口に引っ張り出された祐巳に、昼間の憔悴ぶりも嘘のように由乃は、生き生きとはずんだ声を投げつけてきたのだった。
『やってやろうじゃないの。今連絡したら、菜々も行ってくれるって』
 いつ番号を聞きだしたのか、電話をかけたのははじめてだったのか、受話器から聞こえる声は高ぶっていた。リベンジよ、と息巻くのに、あんなに怖がっていたのにとは眠気もあって言い返せなかった祐巳の目の前で今、お下げをぴょこぴょこ跳ねさせた由乃が、先頭の菜々の背を追いかけていく。由乃さん、結局のところは菜々ちゃんと一緒にいたかっただけなんじゃないだろうか?
(でもいいな、由乃さん)
 祐巳はうらやましくなる。由乃の走り方はまっすぐで、それは出会って以来変わらない、彼女の印象だ。どうしても比べると、祐巳には自分がいつもジグザグに走ってばかりいるように思えてしまう。
「お化け」に返事をするのが果たしてリベンジになるのかは疑問だったが、昼休みに三年生を除くメンバーが薔薇の館に集まると、由乃はさっそく志摩子を口説きにかかった。怪談のことを知る乃梨子を「貸して」というのに、白薔薇さまとして志摩子は一旦断ったものの、「もう一度つぼみらしく振舞わせて欲しいのよ」との由乃の言に、ころころと笑い出した。
「いいわ、乃梨子。ついていってあげて頂戴」
「でも、志摩子さん・・・私、そんな」
「本音を言えば、ちょっと行ってみたいのでしょう、乃梨子?」
 ちょうど、弁当箱から箸でつまみあげていた煮つけのじゃが芋をぽろりと落とし、乃梨子はそれまでの静観ぶりが見せかけだったことを露呈したのである。
 そうなると残りは祐巳。自分のお姉さまが「放っておきなさい」と言ったこともあり、放課後ぎりぎりまで渋ったのだが、
「なら、私たちだけでも行くから」
 と由乃に突き放されて、なんとなく寂しくなり、という後から思えば出所のわからない理由で祐巳も従うことにしたのだった。
「留守番しているわ。祥子さまたちは今日は来ないと思うけれど、もし来たら説明しておくから」
 子供の見送りをする母親のように微笑みながら、祐巳に最後の後押しをした志摩子は、しかし急に表情を変え、声色まで変えて、菜々を加えて薔薇の館に勢ぞろいした「ゴーストバスターズ」を見渡したのだった。
「でも、危ないと思ったらすぐ戻ってきて。お寺の娘として言うけれど、本物かどうかとは別に、そういうことって、あんまり馬鹿にできないのよ」
 そのときの志摩子の眼差しを思い出し、いまさら祐巳は怖くなったものの、それでも注意の半分は別のところに向いているのだった。
「なるべく、人目につかないようにした方がいいんですよね」
 との菜々のアイデアで、あまり人通りのない新温室の裏手から大回りに、高等部の敷地のふちをなぞり、クラブハウスの横合いからふたたび校舎に潜り込む。つめたい外気から解放され、大きく息を吐いて祐巳が見た窓の向こうでは、青紫色の光が校舎の半ばまでを染めている。
 新学期になって以来、自分の教室を離れて生徒の行き来する場所に出ると、祐巳はどうしても瞳子の姿を意識してしまうのだ。探すというよりおそれにも似ていた。偶然会ったらどんな顔をしよう、なんて声をかけよう。始業式から約一週間、いまだに彼女の後姿すら見ていない。
(瞳子ちゃん、学校には来ているはずなんだけど)そうでなければ、後ろからついてくる友達思いのクラスメートが黙っているわけがない。そして乃梨子の沈黙は、自分への信頼のあかしであることは痛いほど祐巳にはわかっていた。
 妹になって欲しい。自分のその気持ちはもう、確かめた。脈ありと乃梨子にも背を押された。それなのにぐずぐずときっかけにこだわっている。もしバッタリと顔をあわせ、瞳子の側から強い感情、言葉をぶつけられれば反射的に自分の弱腰な心もバネのようにはねかえることができるかもしれない。一学期の、あの雨の季節のときのように。そんなことばかりぐるぐる期待している。
(情けないなあ)
 いかんいかん、と顔をあげたところで、由乃の背中が急停止して、肩から垂れた白いカラーの布地に、祐巳は鼻の先っぽをめりこませてしまう。なにやってるの、と振り向いた由乃の前で、少々がたついているのだろう、渡り廊下に出る木の扉を菜々が両手でぐいぐい引っ張っていた。






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