-2- 「ところで可南子ちゃん、何の用でここに来たの。お家はこのあたりじゃないんでしょ?」 私がそう判断したのは、可南子ちゃんが定期で電車に乗らなかったからだ。鞄の握りを持ち直した可南子ちゃんは、なぜそう思ったのか分かりかねたらしく、しばらく私の目を見ていた。 「・・・ええ。買い物に」 愛想のない彼女に庇を下ろす背の低い家々は、黒壁でどこか古めかしい。駅から通り二つは離れて細くなった道は、車の通りもほとんどなかった。 どこか遠くで、お寺か何かの鐘がからから鳴り、続いてどおんどおんと二度、音だけの花火がはじけた。一旦、ほの暗い空のてっぺんに登った音は、ゆるやかに空気をふるわせて花びらのように広がっていく。 「志摩子さん、このあたりに住んでるんだっけな」 「白薔薇さまがですか?」 独り言のつもりだったのに、可南子ちゃんは振り向いた。 「駅からバスに乗るって聞いたことがあったから、もっと遠いところなのかもしれないんだけど。お家がお寺なのよね」 「知りませんでした」 噴き出した私を、可南子ちゃんは前かがみになって不思議そうに見た。 「いや、だってさ。志摩子さんのお家が寺、って、マリア祭のときにみんなの前で言ったんだよ。あれって一年生歓迎の会じゃない、それとも可南子ちゃん、当日休んでたの?」 「・・・思い出しました」 む、と眉根をよせてふくれっ面をした可南子ちゃんを、遠慮なく私はファインダーのフレームに収めてシャッターを押す。 「可南子ちゃんって、ホントに祐巳さんのことしか興味なかったんだね」 「そんなこと、ありません」 「祐巳さんのお家は知ってるの?」 「・・・場所くらいは」 「さすがに家の前まで行ったことはないんだね」 言い過ぎたかとちらり後悔したものの、可南子ちゃんは気にした様子もなく、道に張り出した小枝を軽く手で払った。 「そうですね。近くまで行ったことはありましたけれど・・・」 ずいぶん昔のことを語るような口ぶりだった。線は強いけれど整った顔立ちは淡々としていて、それは彼女の言う「あの写真の顔」ではないことは明らかだ。 私が、可南子ちゃんと面と向かってそれなりに話すのは、人生で二度目だ。一度目は、学食のパンをおごるおごらないで、祐巳さんと押し合いへし合いやっているとことに居合わせて間に入ったとき。 『もう一度、私の写真を撮ってください』 可南子ちゃんに言われたことがよみがえる。学食で仲裁したとき、ちょうど「あの写真」を撮っている頃で、可南子ちゃんが「ストーカー」を実行しつつあった時期にあたるわけだ。祐巳さんからパンの代金を受け取ろうしなかった頑なな可南子ちゃんはだから、「同じ顔」をしていたのかもしれない。 それから三月近く経つ。その間、学内で可南子ちゃんを見なかったわけではないし、祐巳さんたちからも名前を何度も聞いた。それでも、彼女の時間と私の時間は重なることはなく、近いところを並走することもなかった。もう一度、可南子ちゃんの時間に接したのが――私は、現像液で浸した写真の中に浮かんできた彼女の笑顔を思い出す。 「ツーショット写真」だ。 『可南子ちゃん、お父さんと仲直りしたんだよ』 もう一度、祐巳さんの言葉を思い出す。可南子ちゃんが苦しんでいたとして、その一言がすべての彼女の苦しみが終わったことを意味するのかはわからない。けれど、知らない時間を飛び越えて今また私の前に現れた可南子ちゃんは、明らかに何か変わって見えたから。 『「あの写真」と同じ顔をした私を』 しかし可南子ちゃんはそう要求した。前を行く可南子ちゃんの背中のくぼみに目を落として思う、それは言わば、浦島太郎の玉手箱を開けるようなものではないのだろうか。 「着きました」 立ち止まった可南子ちゃんが手のひらを広げた先は、一見ただの年代ものの民家があるだけだった。縦置きされた黒い大きな看板と、大きなガラス戸の向こうに見えるショーケースに、ようやくそこがお店らしいとわかる。 「和菓子屋さん?」 薄暗い店内のショーケースを透かし見て、私は判断した。 「ええ」 「なんだろう。羊羹みたいなのが並んでるけど」 「ここの芋羊羹が、お母さんの好物なんです」 からからと戸を引いて、可南子ちゃんは店に入っていく。 赤黒く乾いた道に取り残されて、私はしばし呆然としていた。可南子ちゃんのお母さん、という居て当然の存在にはじめて気がついたような驚きがあった。彼女のお父さんが浮気をして家を出た反対側に確実に立っていたはずのお母さんの存在に。 いや。実際、はじめて気がついたのだ。そして、思っていたよりも人間は、他人のことには興味がないものなのだ。 そして私は写真を撮るだけだ。 『嫌らしいわ』 また昨夜の、母の顔を思い出す。彼女は確かに私の親だ。私を怒らせる言葉を熟知している。 細い紙包みを持って可南子ちゃんが店から出てきた。戸を閉める後姿を撮られたのに気づいたのか、可南子ちゃんは上目遣いに私を、それから前髪をつたってさらに上を見た。 「いいかげん、写真を撮るには暗くなってきたんじゃないですか」 「そうだね・・・」 可南子ちゃんが来た道を戻り始める。と、またさっきの音だけの花火がとどろいて、近くの葉陰からいっせいに鳥が飛び立った。 なんでしょう、と顔を見合わせてから、可南子ちゃんは手の紙包みを、鞄にしまい始めた。 「お母さんの好物なんだ」 繰り返しになる私の質問に、可南子ちゃんは頷いて、鞄の留め金をパチンと閉じた。 「最近仕事が忙しいみたいで。日曜日もぐったりしてるんですけど、これがあると機嫌もよくなるから・・・」 「ふうん」 彼女の素直さに水を注したくなくて、私は無愛想に答えた。 頭が麻痺したように、想像することも出来なかった。夫が外に女性をつくり、子供までできて出ていった後に残されたお母さんの気持ち。そして一緒に暮らす可南子ちゃん、その二人の生活。 何も具体的な映像がわかない。 「でも、近頃お母さん、前よりずっと優しくなったんですよ」 私の方は見ずに、可南子ちゃんは歩いていく。その背中をファインダーに収めながら、私はシャッターを切ることが出来なかった。 地平線の小高い山が、空の風穴みたいにびっしりと影で埋まり、雲の筋目が見分けがつかないほど暗くなってきたから、二人とも早足になったけれども、駅の明かりが見えたところで見た時計の文字盤は、まだ五時前だった。可南子ちゃんにお願いをして、もう少しだけ時間をもらうことにする。 「ごめんね」 私が言うと、可南子ちゃんはちょっと吃驚したように目を見開いていた。 コンクリで固められた底を、細い水がちろちろ流れる小川に沿って、人気のない遊歩道が伸びている。駅前の商店街の隙間から見つけていたそこを可南子ちゃんを先に立たせ、離れた道の上からしゃがんで撮ってみたり、スローシャッターで追いかけてみたり、いろいろする。カメラを向けられることに可南子ちゃんもだいぶ慣れたようで、忙しく駆けずり回る私を目で追うこともなく堂々と歩いて、時折くすりと笑う。 「なんだか、小動物っぽい動きですね」 「ん?それは可愛いってことかしら」 「というより、大きな獲物が死ぬのを待っている意地の悪い生き物みたいです」 「おや、言ってくれるじゃないの」 「そんなにフィルム使って、勿体無いですよ。つまらない、私の写真ばかり」 「じゃあ何かサービスしてくれる?」 「靴下くらいなら脱ぎますよ」 「あはは、今のはリリアン生にはふさわしくない発言だわ」 だんだんと、口の筋肉にも遠慮がなくなってくる。 葉のほとんど落ちた桜の並木は冴え冴えとして、落ち葉を包む夕方の濃淡の境目が刻々となくなっていく。高感度のフィルムを使っているわけでなし、どれだけまともな写真になってくるかわからないが、そんなことはどうでもよかった。ファインダーを覗き、レンズの絞りを指で押して引いて、シャッターを切る。慣れた一連の動きに、体の一部みたいになったカメラから、気持ちよく潤滑油が逆流してくる。うっとりとして、我を忘れる。 帰りたくなかった。だから私は可南子ちゃんを引きとめたのだ。 駅からのお定まりの道を歩いてたどりつく暗い玄関。途中で一度ひっかかる引き戸、父の活けた花の強い匂いの漂う上がり口、いつも足裏で湿って感じられる板張りの暗い廊下。もう何度出会ってきたかわからないそれらと出会う連続を、ふと遠ざけたくなったのだ。 水音がする。水路にかかる橋の上の街灯は、すでにまばゆいばかりに輝いていた。橋の下の暗がりは一段低くなって広がって、貧弱な流れからは想像もつかないほど豊かな水溜りができあがっている。 「寒くなってきましたね」 街灯の明かりの下を影をひいて、可南子ちゃんが私を見た。 「そうね。さすがにね」 昼間暖かい日だったから、二人ともコートは着ていない。かすかに息を白くしながら可南子ちゃんは、それでも鷹揚に影の下を進む。 今の彼女は、たとえどんなに嫌なことがあっても家に帰るだろう、以前の彼女はいざ知らず。かなりの確かさで、私にはそう信じられた。お母さんと喧嘩したとしても、何があっても。 なるほど強いものだ。屈辱感に足をとめて、揺れるその背中が遠ざかるのに、ただひとつの抵抗のようにカメラの黒い先端を向けて、私は声もなく笑った。なんの脈絡もなく、笙子ちゃんの顔が浮かんだからだ。 『生涯の家宝にします』と、私の撮った写真を抱きかかえた、その指先、その声を。 「なるほど」 口をついて出た声に、可南子ちゃんが振り返る。散歩に連れ出した寡黙な犬のように、あごを上げて私を待っている。こわごわと一枚撮って、私はフィルムの残りを確認する。あと5枚、替えのフィルムはもうない。 「蔦子さま、どうかしましたか」 追いついた私は可南子ちゃんに指を振って、眼鏡をはずして軽く息をはきかけた。 「可南子ちゃん、やっぱり明るくなった気がするよ。前みたいな顔しなくなったもの」 「そう・・・でしょうか」 眼鏡を戻して目を上げると、思ったより近いところから、可南子ちゃんが覗き込んでいた。 「うん。残念ながら、ご期待に添えそうもないね。そもそも、どうして撮って欲しかったの、いい思いはしなかったんでしょ、今朝あの写真を見てさ」 「特に理由は、ないんです。なんとなくです」 肘をもう一方の手で包むようにして、可南子ちゃんはちょっと困ったように笑った。 「そっか」 水路の両側にせりだした家々の明かりが次々に灯る。遊歩道の終点にある、逆さになった「コ」の字の形をしたバーを、うさぎ跳びで越えた子供が、一人きりでこちらへ駆けてくる。 すでに夕方というよりは夜の空だ。 『あなた、お母さんのことを馬鹿にしてるんでしょう』 それは母の、取っておきの切り札のような文句で、私の血液はざわついて、彼女の視線を逸らすことができなくなってしまう。そして、そのことを彼女はよく知っている。 整理しようとたまたま部屋中に散らばっていた写真の束について、あれこれまくしたてるのを聞き流しにかかっていた私は、実際やれやれと母に向かい合わざるを得なくなるのだ。 『そんなことないって。どうして私が、お母さんを馬鹿にしなくちゃいけないの』 『そうよ。あなたはいつもそうやって、澄まして、相手のことを全部わかったような顔をしているのだわ。そういう嫌なところだけはお父さんそっくりね』 私の写真を、いつも手放しに褒める父を持ち出すのもまた、彼女の常套手段。わかっていたのに、昨日の私は何故だか抑えられなかった。波打つ苛立たしさに、押し出された。 『嫉妬でもしてるんですか、お母さん?』 わざと慇懃に言ってみせたときの、見たこともない母の目の色に、私はすでに後悔していた。父に比べれば無芸無趣味にみえる母でも、それがどれだけの痛みになったのかはわからない。当てずっぽうよりはましというくらいの、泣き言のような反論だった。それでも確かに、私は言ってはいけないことを言ったのだ。後ろめたい直感だけが残った。 『お母さん、失礼なこと言って御免なさい』 『ええ』 今朝家を出る前の謝罪に応えた母の目つきは、私と後ろの食器棚まで、一緒くたに見つめているようだった。 私は、写真を撮るだけだ。ずいぶん前から、母と議論がすれ違うたびに、私が心の中でつぶやいてきた言葉だ。別に写真に関わることでなくとも、写真をはじめてからずっと、私は理不尽にのしかかってくるものに対して、そうつぶやき、冷笑して、それだけで楽になれた。世界のどこかで絶えず起きている理不尽なニュースにだって、この呪文はきっと有効だ、そう思い込んできたのだ。 ファインダーをのぞき、幾重かのレンズを通して狭まった視界とひきかえに、私は多くのものを得る。気がつかないことに気づく。 そう思っていた。けれど可南子ちゃんの写真をめぐって、足元がぐらぐらする不安感を、私は胸元に突きつけられている。 写真を撮るだけ。――それは、戒めのつもりでもあった。母の言う、『相手のことをすべてわかったような顔』をしないために。それなのにいつのまにか私は、写真を撮るだけでなんでも分かったような気になってはいなかっただろうか。 少なくとも可南子ちゃんは、私の写真を「生涯の宝」などとは言ってくれはしまい。それでも、私は彼女で何かを撮らなければならない。 |
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