卒業式から一週間ほど経った週末。
 3学期の終業も目前のある午前。志摩子の家に一通の手紙がとどく。
 移り気な春の、落ち着きない木漏れ日の下でひっくり返した封筒の裏にあったのは、見まごうはずもない大切な人の名前。送り出したばかりのお姉さまの、簡素で美しい三文字。
『わたしをみつけて』
 とだけ書かれた便箋と、一角にカードらしい長方形のマークの描かれたリリアン敷地の簡単な地図が同封されていた。
 一月前のバレンタイン。新聞部の主催したバレンタイン企画で、リリアンにて行われた薔薇のつぼみ三人のカード探しのイベント。志摩子のカードを見つけたのはロサ・カニーナこと蟹名静さまだったけれど、どうやらお姉さまは、ホワイトデーにかこつけて同じゲームを逆のかたちで志摩子に仕掛けることを思いついたらしい。
 明けた日曜、まさに14日のホワイトデー。忘れ物をとりに来たことにしてリリアンを訪れた志摩子は、折から強く吹き付ける春の風の埃っぽさに目をしばたたかせながら、およそ半日をかけ、手がかりの地図を握りしめてリリアンの塀のうちを、西へ東へ、上へ下へ、伸び上がったり覗き込んだりしてかけずり廻ったのだった。
『わたしをみつけて』
 お姉さまのなつかしい、思い切りよく引いた線で書かれたその文句が、ともすれば投げ遣りにも言い切られたその先の言葉が、あるいは記されていたかもしれないカード。
 ――志摩子は、見つけることができなかったのだ。



「 ホ ワ イ ト ・ デ ー の 悪 戯 」



『志摩子、おいで』
 卒業の日、そう志摩子を招いて肩に手を置きカメラのフレームに収まったお姉さまの。聖さまの手のぬくもりは、いまだ新鮮に志摩子の皮膚の上に残っている。
 笑いながら公孫樹の並木道の曲線に切り取られていったお姉さまの、停滞ない足取りも、その背中も、なにもかもまだくっきりと、目を開けていてもたやすく、ポケットにしまった写真を取り出すように思い出せる。たぶん寸分の間違えも色あせもなく。
 なぜか学校にいるときにはあまり思い出さない。校門を出てバスに揺られているといつの間にか考えている。家にもどり、制服を脱ぎながら思い出す。夕食を口にはこびながら、お風呂で湯をつかいながら、布団にもぐりこんだ暗闇にも、あまりに自然にその光景がさまよいだしてくる。この一週間ほど、ずっとそうだった。
 そのたびに切なくなるかといえばそうでもない。実のところ、去り行くお姉さまの背を見つめながら志摩子は、この先何度もこの光景を思い返して涙を流す自分の姿を空想していたのであるが。卒業式の前には何度となく時と場合もわきまえず盛り上がってきた熱いものも、それを押さえつけた努力も、すべて風化したプロセスのように、今の志摩子にとっては手の届かない遠くへいってしまったように思えるのだった。まるでお姉さまが、立ち去るついでに志摩子の感情の一部をはぎ取って持っていってしまったかのように。
(どうしてなの)
 よくないことだ、と思いつつ、無理に泣いてみようとして、お姉さまの思い出を力任せに発掘してみようともした。けれどうまくいかない。志摩子が焦って手を伸ばせば伸ばすほど、記憶の方が自分から遠ざかる。意思に力を入れて思い出を固定しようとすればするほど、逆に輪郭がぼやけてゆく。まるで志摩子自身のように、かたくなでゆとりのない姿勢で、背中をむけてしまう。そうやって無為に心の距離でくるしんでいる間にも、卒業式のお姉さまの笑顔だけはますます鮮明になって、他の感情すべてに目隠しをするように、志摩子の前で通せんぼし続けるのだった。
 もっとも。
 月曜の朝、いつものようにマリア像の前で手をあわせながら思い返したその聖さまの笑顔は、なんだかちょっと小悪魔的に意地悪く脚色されている気がして、思わず志摩子は足を止めて空を仰ぎ、ちょっとだけうらめしくため息をついたものだった。
 つまり、ゲームに失敗したからには、罰ゲームがつきもの。



 カードを見つけられず消沈して帰宅した志摩子に、留守中に着いたとかで、母が小さな包みを差し出したのである。
 まるで志摩子の結果を見越していたかのようなその中身には、「指令書」と大書きされた二枚の手紙と、小箱がひとつ。
『万が一』とそこだけわざわざ赤ペンで書かれた字は、確かに聖さまのもの。――カードを発見できなかった場合、すみやかに以下の二つの罰ゲームを実施すること。
 そして今、放課後の校舎に一人たたずんで、志摩子は罰ゲームの相手を待ち受けている。いや迷ったあげく、気がついたら来ていた、という方が近い。
 幸いというか、ただでさえ3年生の抜けた校内は閑散として、まばらに部活に向かう生徒が通るばかりで人目はほとんどなさそうだった。
『強制はしない。けど、戦果を期待してる』
(お姉さまったら・・・)
「指令書」の最後に書かれていた文句を思い出し、志摩子はまたため息をついた。すべて任せる、ということなのだ。やるかやらないか、すべて志摩子次第とした上で「期待」する、という。志摩子にとって、これ以上なく断りにくいように追い込んでくるのは、さすがお姉さまというところか。たぶん実際に「罰ゲーム」が行われたかどうかなんて、確かめる気もないのではないか。それでも――志摩子は指をかたく握り締めた。お別れの日、笑って消えていったあの背中の、お姉さまの高等部最後の「お願い」だというのなら、私は――。
 渡り廊下に向かってひらいた扉から夕日が差し込んでいる。もうすぐ来るはずだ。
”指令その1:支倉令を転ばせるべし”



 面をつけずに軽い筋トレだけこなして、早々に剣道場をあとにした令は、渡り廊下を早足でぬけて校舎に入った。開け放した扉を閉めようかどうしようかと一瞬迷い、そのままにして歩きだそうとしたとき、背中に軽い――ほんとに羽の触れるような軽い衝撃を感じた。
「どーん」
 効果音まで聞こえ・・・いや、違う。聞き覚えのある声だった。振り向いた令は、にこにこときまり悪そうに笑う志摩子の笑顔と出会って、少なからず驚いた。
「し、志摩子。どうしたのさ」
「え。え?なにが、ですか?」
 とりあえずごまかしながら、志摩子は自分の目算が大幅に甘かったことを悔やむ。意を決して全体重でぶつかっていったつもりだったのだけれど、令さまの体はぴくりともしなかったのだから。
 令さまは明らかに不審な顔で、志摩子にやや顔を近づけてくる。
「なにが、って・・・。志摩子、今私にぶつからなかった?」
「あ、そ、そうですね・・・。ごめんなさい、ちょっとうっかりしてて」
 作戦変更。大樹は根元を攻めるべし。
 昨晩夜っぴて考えた作戦の別パターンをすみやかに思い出す。ますます訝しげな令さまにそっぽを向いて、志摩子は窓の外を指差した。
「あ、令さま。あんなところに由乃さんが」
「え?由乃?」
「し、失礼しますっ!」
 今度は、全身全霊をこめて、令さまの足首のあたりに向けて右足を振りぬく。
 ぽて。
 とも音はせず、窓の外を見ていた令さまがこれっぽっちも痛そうな顔をせず、揺らぎもしない姿勢の上から志摩子を見下ろした。
「・・・志摩子?」
「あ、あはははは・・・」
 あわてて足をひっこめて、無理に笑いながら志摩子は令さまの側面に回りこんだ。落ち着け、私。とにかく「背中の一部でも床につければよし」とお姉さまの指令にはあったのだから。作戦その3だ。
「いったいどうしたの、志摩子?なんだからしくないよ、今日」
「あ、あの令さま。『ひざ』って10回言ってみてくださいませんか」
「なんで?――ひざひざひざひざひざひざひざひざひざひざ」
「それでは、これは?」
 言いながら体を令さまの背後にもぐりこませ、令の膝の裏側に自分の膝を押しこもうとする。
「膝、だけど?」
 するりとかわされた。さすがその名も高きミスター・リリアン。今や押しも押されぬ黄薔薇さま。じゃない、そもそも膝に意識を集中させてどうするのだ。自分の迂闊さに志摩子は地団太を踏む思いだった。
「志摩子」
 さすがに令さまが真面目な顔をしたから、思わず志摩子も体をかたくして一歩後ずさった。
「いったいどうしたの」
「あ、あの・・・・」
 思ったより優しい声だったから、志摩子はいっそ正直に話して協力してもらおうか、などと考えたのだったが、肩にかけたスポーツバッグを下ろそうとしてかがみこんだ令さまの視線が一瞬はずれたものだから、
「お覚悟っ」
 今度こそ力いっぱい助走をかけて突っ込んで、――あまりの抵抗感のなさに、またかわされたんだ、と志摩子が認識するよりも早く。
 勢いを殺しきれなかった志摩子は、半ば前転するような形で床に倒れこんだ。目の奥で火花が散る。
「し、志摩子!?」
 痛みより恥ずかしさで即座に顔を起こした志摩子の目の前に、勢いよく令さまがかがみこんでくる。先ほどまでとうって変わってあわてた様子の目には、心配そうな色が一杯に浮かんでいた。
「大丈夫、ごめんね?私が思わずよけちゃったから・・・。怪我、してない?痛いところは?」
 ――ああ、やっぱりこの方は優しい人なのだ。いつも由乃さんと二人一組のように考えていて、きちんと見つめたことのない上級生。そして4月になれば、学年は違えどともに山百合会をしょっていかねばならない薔薇さまのひとりとして。整った顔立ちの奥からにじみ出てくる感情は、志摩子の思っていたよりも穏やかで繊細なものに裏打ちされたものなのだろう。おずおずと心を満たした新鮮な感動を噛みしめて、つづいて志摩子は申し訳ない気持ちになる。
「あ、あの・・・令さま」
「・・・」
 不意に黙りこんだ令さまが、きゅっと唇を引き締めるのを見ていた志摩子は、
「きゃあっ?」
 いきなり抱きかかえられて、短く悲鳴をあげた。
 右手を膝の裏に、左手で背中を支えて。いわゆる「お姫さま抱っこ」をされてるんだ、と志摩子が気づいたときには既に令は大きな歩幅で歩き出していた。
「れ、令さま!?あの、あの・・・」
「ほ、保健室に!ね。つれていってあげるから」
「い、いいえあの。大丈夫です私、どこも痛くないですから」
 見上げた令さまの頬は志摩子に劣らず赤くなっていたけれど、志摩子の側にそれをゆっくり見ている余裕もなく。
 廊下に人影はなかったけど、保健室のある校舎はここから中庭をはさんだ反対側で、かなり遠い。誰にも見られずにたどりつくことなんて不可能だろうし、特に――
「令ちゃ・・・お姉さま?」
 よりにもよって。この状況をもっとも見られたくない相手の声は、階上から降ってきた。 
 階段の上に現れた由乃さんは、怒るというより訝しげに志摩子たちの方を見下ろしていたけれど、すぐさま二段飛ばしで駆け下りてくる健脚ぶりに、志摩子はどうにも狼狽して、令さまの袖を引いたのだが、
「令さま。大丈夫ですから、下ろしてください」
 けれど、明らかに後ろめたい顔で固まった令さまは、それでも近づいてくる由乃さんに目を向けたまま、志摩子の声は聞こえていない様子。志摩子は本格的に焦った。
「令さま、ね、下ろして・・・」
「志摩子さん。怪我したの?」
 言いながら由乃さんは、令さまの顔しか見ていない。なんとかもがいて令さまの腕をすべり下りた志摩子に並んで由乃さんが令さまの前に立った。令さまはといえば、ひきつった笑いをうかべて「やあ、由乃」なんてかすれた声を出している。
「どういうことなのかしら、お姉さま?説明していただける?」
 腕を組んだ由乃さんは、そのお姉さまよりも大きく見えた。

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