〜「ホワイト・デーの悪戯」その2〜

 



 目だけこちらに向けた令さまが身振りで「行っていいよ」と手をひらひらさせてくれたから、志摩子は頭を軽くさげてその場をあとにした。だいぶ行って振り返ると、由乃さんが令さまの喉もとに食いつきそうなほど近づいている。
 令さまにはつくづく悪かったと思ったが、志摩子にはまだやらねばならないことがあったから。「罰ゲーム」はもうひとつあるのである。
 しかし、今度の「指令」は――
「はあ・・・」
 薔薇の館に向かって中庭を横切りながら、志摩子はポケットにしまっていたものを取り出し、昨日の晩以来何度目かの途方にくれた。お姉さまからの「罰ゲーム」指令の紙とともに包みに入っていた小箱の中身。それは・・・。
”指令その2:小笠原祥子に「首輪」をつけるべし”


 
 いっそ薔薇の館にいらっしゃらなければ。何か用事があってもう帰られていてくれれば――。そう願いながらのろのろと階段をのぼり、ビスケット扉を引いた動作に極力音を立てないようにしたのは、万が一本人が中にいても、気づかれずに引き返す可能性を残しておきたいという志摩子なりのあがきだったのだが。
「――ごきげんよう」
「・・・・・」
 扉を開けた瞬間正面から祥子さまの美顔とかちあい、あわてて挨拶をした志摩子は、自分の目論見がたやすく打ち砕かれた事実をつきつけられてしばし呆然としたのだった。
(駄目だ。できるわけがない)
 よりにもよって、プライドの塊のような、あまつさえ洒落の通じない相手に、プティ・スールである祐巳さんでもない私が、首輪をつけるなんて――しかも言葉だけの意味ではなく実物を、である。もっとも、祐巳さんにしてもできるわけがないことなのだろうけれど。
 見渡した二階の部屋には祥子さま以外の姿はなく、といっても三年生が卒業した今、令さまと由乃さんに会った以上あとは祐巳さんだけなのだが――令さまの時同様チャンスと言えなくもなかったが、どちらにせよ登れない山を見上げていることには変わりないのではないか。
「なにボーっとしてるの。扉を閉めなさい」
 つんとしたその声を聞くまでもなく、祥子さまは機嫌が悪そうだった。志摩子の挨拶に答えなかったばかりか、紅茶のカップを口にはこぶ目つきもぴりぴりして尖り、額のあたりに見えない電気を走らせているような感じは、まさにこの一年の間志摩子が何度も出会ってきたヒステリー寸前の兆候。
 これは、試さずとも絶対無理。お手上げですお姉さま――志摩子はポケットの中で握りしめていた首輪から音を立てないようそっと指をはなし、天井を仰いだ。考えてみれば令さまに対する作戦も失敗したのだし、祥子さまに対する罰ゲームの義務も端から消滅しているのではないだろうか。そこまで考えたところで、志摩子はテーブルの向こうから見つめる祥子さまの目に気がついた。
「志摩子」
 志摩子の胡乱なたくらみを見通すかのように、その声は冷え冷えとしていた。
「は、はい」
「こっちに来なさい。・・・いえ、いらっしゃい」
 なぜか言い直した祥子さまにむけてテーブルを廻りこんでいく。その志摩子の姿を、ずっと上目遣いに祥子さまが目で追っているのが歩きながらわかったから、志摩子はいたたまれない気持ちになった。いったいこの方は何をそんなに怒っているのだろう。怒りの矛先は私なのだろうか。なまじ後ろめたいことがあるから、志摩子の心は祥子さまの迫力の前でただ青くなって縮こまるばかりである。
「ほら、ここに座って」
 志摩子が目の前まで来ると、祥子さまはわざわざ立ち上がって隣の椅子を引き、志摩子にそこに座るよう促した。慇懃すぎるその振る舞いに、かえっておそるおそる腰をかけると、祥子さまはもう志摩子を見ていない。自分の席にもどり、さっきまでと同じ姿勢で、そのくせ落ち着きなく目をそわそわさせ、指先でテーブルをなぞったりしている。
「――志摩子」
「はい」
「いよいよ私たち、薔薇さまと呼ばれるのよね」
「はい・・・」
「それで。いままでお姉さま方がいてくださったから、いろいろ取り持っていただいたけれど。これからは私もあなたも、もっとお互いのことを知りあわなければいけないと思うのよ」
 口をすらすらと動かしながらも、相変わらず祥子さまは志摩子を見ない。テーブルをなぞる指の動きだけがだんだんせわしなくなっていく。
「私もあなたも・・・。あまり人づきあいのいいタイプとは思えないし。こう言ってはなんだけど。面倒くさいタイプだと思うのよね。・・・その、お互いに」
「はあ」
 いい加減な返事をしたところで志摩子は気づいた。祥子さまの周囲から、ピリピリした怒りのオーラみたいなものがいつの間にか消えうせている。それどころか、
「ごめんなさい。――気にさわったかしら」
 いきなり志摩子の目を見て気遣わしげに首をかしげたその有様は、とても柔軟で美しかったから、これはひょっとしていけるかもしれない。志摩子は唐突に決意を固めたのだった。
「あ、あなたお茶もまだだったわね。淹れてあげるわ」
 祥子さまが立ち上がりかけるのを、
「あ、あの。祥子さま」
 呼び止めた自分の声に、もはや後にはひけないと、志摩子は膝に置いた手をかたく握り締めた。
「なに?」
「何も言わず。何も聞かないで、私のすることを許してくださいますか?」
 座りなおした祥子さまの瞳に、一瞬するどい光が走ったのを見て、志摩子は飛び上がりそうになって、なんとか椅子の背もたれに背を押し付ける。
 志摩子を凝視していた祥子さまが不意に視線をはずし、はぁっと息をついた。
「・・・・・これから?」
「は、はい」
「いいわ。・・・黙っているから、怒らないから。好きにしてごらんなさい」
 言い放して前を向く。志摩子は椅子から立ち上がった。
 本人に漠然とでも了解をとったことで、罰ゲームの趣旨からははずれているのかもしれない。そもそもこんなことに何の意味があるのか。お姉さまの「指令」に悪戯以外の目的が込められているのかどうかも分からない。けれど、今無防備に背中をむけてくれた祥子さまにむけて、なんだか甘えなければいけないような、不思議な義務感が湧き上がってくる。志摩子は祥子さまの背中に寄り添うように立ち、しっとりと豊かで重い髪の束を手のひらに掬い上げた。
「・・・!」
 首筋に、髪をたくしあげた志摩子の小指がかすった際、祥子さまはかすかに身じろぎをしたものの、宣言どおり何も言わなかった。空いた右手で、志摩子はポケットから首輪を取り出す。
 りんっ
 鈴が鳴って、祥子さまが驚いたように横目で首輪を見た。穴があきそうなほどまじまじと志摩子の手の中のそれを眺め、やがてあきらめたかのように背筋を伸ばした。
 斜めうしろから見る祥子さまは少しだけ紅潮した頬と引き締めた口元に感情を匂わせて、静かだった。志摩子はそれで、なんだか自分の気持ちがひどく落ち着いていくのを感じた。
「ごめんなさい、祥子さま」
 そっと祥子さまの髪をおろし、指の腹で撫でつけて形を整える。
「・・・もういいの?」
「ええ。ありがとうございました」
 お姉さまにはきちんと「できませんでした」って告げればいい。むしろ屈託なくそう思い、頭を軽くさげて離れようとした志摩子の袖を、いきなり祥子さまが無言で捕まえてきた。驚く志摩子の手から首輪をもぎ取り、しばし目の前にかざして睨みつけている。
「あの。――祥子さま?」
 やはり気にさわったのか、と再び志摩子は思ったのだが。まるで仇を見るように首輪をねめつけていた祥子さまが、意を決したようにベルトを外し、甚だ乱暴な動きでそれを自分の首に巻きつけたものだから、
「!!」
 今度こそ、志摩子は仰天した。自分の見ているものが信じられなくて、ぐらぐらする気持ちに耐えかねて背もたれにしがみついた志摩子を、何か訴えかけるようにせわしなく見上げた祥子さまは、きちんと留めていない首輪がずれるのもかまわず、立っている志摩子のお腹のあたりに顔の右側を押し付けてきた。
「!あ、あああの」
 さらに動揺した目の端にあるものがうつって、志摩子は冷水を浴びせかけられたような気がした。大慌てに意識が立ち戻ってくる。
「祥子さま」
 我ながら情けない声しか出なかった。必死の思いで見下ろしてみても、祥子さまはかたく瞼を閉じている。怒っているようなしかめ面を上下させて、祥子さまが志摩子のお腹に赤くなった頬をこすりつけたのと、
「・・・お、お姉さま?」
 開いたビスケット扉の向こうで、取りおとした鞄に目もくれず棒立ちになった祐巳さんの声が聞こえたのは、ほとんど同時だったのである。

その3へ

SSトップへ

SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送